第8話 畑を早く眠らせる
トゥーリ村に、長く厳しい冬が到来した。
分厚い灰色の雲が空を覆い尽くし、絶え間なく降り続く雪が、すべての畑や家屋を等しく純白の下に埋め隠していく。村人たちは貴重な薪を節約するため、寄り添うようにして薄暗い家の中で息を潜め、春を待っていた。
だが、そんな凍てつく雪原のただ中にあって、一人だけ熱に浮かされたように動き回る男がいた。
「……そこから東へ三歩。いや、少しずれている。もう半歩戻してくれ」
ガーヴから借りた石壁際の痩せ地。膝まで雪に埋まりながら、ユアンは麻縄と木杭を手に、新しい区画の測量を行っていた。
かじかむ手で雪を掻き分け、凍土に強引に杭を打ち込む。吐く息は白く、手足の感覚はとうに失われていたが、ユアンの目は異様なほどの熱を帯びていた。
彼が設計しているのは、来年の春に向けた『対照実験』のための厳密な区画割りだった。
「おいおいユアン、いくら何でも正気の沙汰じゃねえぞ」
水車小屋の老番人オランが、通りがかりに厚手の外套を震わせながら声をかけてきた。オランは最近発熱を繰り返しており、その顔色には冬の寒さ以上の衰弱が見て取れたが、それでも雪の中で杭を打つユアンの姿には呆れ果てているようだった。
「こんな雪ん中で土いじりか? どうせあの南の芋は、秋に空っぽだったじゃねえか。ハルギス商会の連中も村で触れ回ってるぞ。ケルド家の次男坊だけが、実りもしねえ雑草のために税を猶予されるのは不公平だってな。皆、お前のせいで自分たちの税まで重くなるんじゃないかって、気が気じゃねえんだ」
「気にするな、オラン爺さん。春になれば分かる」
ユアンは手を止めず、麻縄をぴんと張った。
村での風当たりが強いことは自覚している。だが、彼の内側では、十一個の小芋を発見したあの朝から、抑えきれない実務家としての血が騒ぎ続けていた。
(ただの偶然じゃない。あの株は、夕方から朝まで黒布に覆われていた。中断されない暗い時間が、実をつける引き金になったんだ)
前世で言うところの、短日性。
もしこの仮説が正しければ、物理的に『畑を早く眠らせる』ことで、南方のヤーゴ芋を北辺の土で強制的に実らせることができる。
ユアンは雪の上に、四つの正方形の区画を設計した。
一つ目は、何も遮るもののない『開放区画』。
二つ目は、石壁の影になる『石壁区画』。
三つ目は、夕方から黒布で完全に覆う『黒布区画』。
そして四つ目は、在来種を植えるための『灰芋区画』である。
同じ種芋から育った株が、光の条件だけでどう変わるのか。それを客観的に証明するための、完璧な比較の舞台だった。
「随分と大掛かりな雪遊びね」
背後から、雪を踏みしめる硬質な足音が聞こえた。
振り返ると、濃紺の外套に身を包んだセリカが、従者を伴って立っていた。雪の照り返しの中でも、彼女の表情は氷のように冷徹だ。
「セリカ……いや、代官代理殿。秋の監査の続きですか?」
「ええ。あなたの試験圃場の猶予期間は本来なら秋で終わっているわ。あの収穫ゼロの記録とともにね。でも、あなたが『例外が見つかった』と強弁するから、わざわざ雪の中を足を運んであげたのよ」
セリカは手袋をした手で、ユアンが提出した新しい申請書と、十一個の小芋が入った小箱を示した。
「この親指ほどの土塊が、あなたの言う希望? こんなものを十一個集めたところで、どうにもならないわ」
「今はそうです。ですが、これは『実らない』と言われていたものが『実った』という事実です。原因は光が当たらない時間……つまり、夜の長さにあると推測しています。俺は来年、この区画を使ってそれを証明する」
ユアンは四つに分けた雪の上の区画を指差した。
「黒布を使って、強制的に夜を長くする区画を作ります。それと何もしていない区画を比べれば、結果ははっきりと数字に出るはずだ」
セリカはユアンの言葉を黙って聞き、手元の申請書と雪の上の区画を交互に見比べた。荒唐無稽な主張だ。だが、四つの区画を用いた比較実験の設計図には、一切の隙がなかった。感情ではなく、論理と数字で結果を導き出そうとするユアンの姿勢に、彼女の実務家としての勘が微かに反応していた。
「……一株が実っただけでは、ただの偶然にすぎないわ。再現できなければ、それは技術とは呼ばない」
セリカは鋭く言い放った。
「試験圃場としての認定は、もう一年だけ延長してあげる。ただし、公費の追加投入は一切認めない。杭も縄も、魔法使いを呼ぶ金も、すべてあなたたちの持ち出しよ。そして秋の収穫時、村を納得させるだけの明確な収量差が出なければ、即時撤退。ガーヴ殿の土地には過去の猶予分も含めて重税を課すわ。それでいいかしら?」
失敗すれば破滅だ。だが、ユアンに迷いはなかった。
「構わない。必ず結果を出す」
「威勢がいいわね。でも、あなたの計画書には一つ大きな欠陥があるわ」
セリカは麻縄を指先で弾いた。
「黒布を下ろす時刻よ。毎日、夕方の決まった時刻に、天候に関わらず必ず布で株を覆う。少しでも隙間から光が入ったり、時間がずれれば、あなたの言う『対照実験』とやらの根拠が崩れるわ。誰がそんな正確な作業を毎日続けるの?」
その指摘に、ユアンは言葉に詰まった。
小作農である彼には、本業の麦畑(今年は蕪や豆だが)の世話がある。毎日欠かさず同じ時刻にこの畑へ来られる保証はなかった。
「俺の腰じゃあ、雪が解けても毎日きちっとは無理だぜ」
いつの間にか顔を出していたガーヴが、腰をさすりながら言った。
その時、ざくざくと雪を蹴立てて歩いてくる影があった。ミラだ。彼女は寒さに鼻を赤くしながらも、腕まくりをするような勢いでユアンの前に立った。
「私がやるわよ」
「ミラ……?」
「勘違いしないで。あなたの南の芋を信じたわけじゃないわ。私はこの『灰芋区画』を任せてもらう。灰芋がどれだけ手間がかからず、北辺の気候に強いか、あなたの目の前で証明してあげるわ。そのついでに、布を被せるくらいは手伝ってあげるって言ってるの」
ミラの申し出は、ユアンにとって渡りに船だった。彼女の土地の経験と観察眼は、実験の大きな助けになる。
「恩に着る、ミラ。灰芋の区画は完全にお前に任せる」
「ええ、せいぜい後悔することね」
二人のやり取りを見て、セリカは小さく息を吐いた。
「労働力の確保はできたようね。いいわ。……ただし、正確な記録が命である以上、私自身も定期的に監査に入るわ。時刻がずれていないか、布が風で飛んでいないか、この目で確認させてもらう」
セリカの言葉に、ユアンは驚いて彼女を見た。代官代理である彼女が、泥にまみれるような現場の確認を自ら行うというのだ。
「あんたも、随分と暇なんだな」
「勘違いしないでちょうだい。猶予を出したのは私よ。その判断が正しかったかどうかを、自分の目で確かめないと気が済まないだけ」
セリカはツンとそっぽを向いたが、その横顔には、村を救うかもしれない新たな可能性に対する静かな熱意が覗いていた。
個人的な執着から始まった狂気の実験は、いつしかセリカ、ミラ、ガーヴを巻き込んだ小規模な共同事業へと姿を変えつつあった。
ハルギス側の嫌がらせや、村人たちの冷たい視線はある。飢えの恐怖も依然として村を覆っている。
だが、ユアンの心の中には、確かな一本の道筋が見えていた。
四人で打ち合わせた分担と手順を確認し、セリカたちが去った後。
ユアンは雪を深く掘り下げ、それぞれの区画の前に手作りの木札を立てた。
真っ白な雪原に、等間隔に並んだ四枚の木札。
そこには『開放』『石壁』『黒布』『灰芋』と、不格好な文字で刻まれている。
畑を早く眠らせ、北辺に南の作物を適応させるための戦い。
分厚い雪の下で凍りついた土が溶け、再び命が芽吹く春の訪れを、四枚の木札は静かに、そして力強く待ち構えていた。




