第7話 十一個
深い霧がトゥーリ村を包み込む、凍てつくような朝だった。
霜が降りて白く化粧された試験畑の前に、ユアンは重い足取りで立っていた。
昨日の夕刻、セリカから下された冷酷な宣告が、耳の奥にこびりついて離れない。公費試験の打ち切りと、最後の一株の処分命令。それは、ユアンの異世界における農業技術者としての存在意義を完全に否定するものだった。
すでにガーヴは畑に来ていて、いつものように乾燥棚から分厚い黒布を巻き上げ、紐で縛っているところだった。
「来たか、ユアン」
ガーヴは白い息を吐きながら、哀れむような目を向けた。
「代官様からお達しがあったそうだな。枯れ草の片付けだろ。俺も手伝ってやるよ」
「……すみません、ガーヴ爺さん。結局、あんたの土地に税をかけさせることになっちまった」
ユアンは力なく謝罪し、霜で湿った鍬の柄を握りしめた。
石壁の際にあるその株は、昨晩の冷気で完全に息の根を止められていた。黄色く変色していた葉は黒く縮れ、茎は崩れ落ちるように地面に這いつくばっている。
これを根こそぎ掘り出し、捨てる。それだけで、春から続いた彼の無謀な挑戦は終わる。
ユアンは鍬を振り上げ、枯れた株の少し横に刃を突き立てた。
ざくり。
霜柱で固まった土が、鈍い音を立ててめくれる。そのまま鍬を手前に引き寄せようとした時、刃先が何か硬いものに当たって止まった。
石の感触ではない。わずかに弾力のある、植物特有の抵抗感。
「え……?」
ユアンは鍬を放り出し、冷たい土の中へ素手を突っ込んだ。
指先が、滑らかで張りのある塊に触れる。泥を払い落とすと、そこには見慣れない薄黄色の肌が隠れていた。
「嘘だろ……」
ユアンは土ごとその塊を抉り出した。
それは、親指の先ほどの大きさしかない、いびつな土塊だった。だが、表面にははっきりと特有のくぼみ――芽目が存在している。
間違いなく、ヤーゴ芋の塊茎だった。
「おい、ユアン? どうした」
しゃがみ込んだまま動かないユアンを不思議に思い、ガーヴが近づいてくる。
「あります……実ってます……!」
ユアンは狂ったように両手で株元の土を掻き出し始めた。
ある。地下茎の先に、鈴なりについている。
一つ、二つ、三つ。
ユアンの声を聞きつけ、朝の畑仕事に向かおうとしていた村人たちが、何事かと石壁の周囲に集まってきた。兄のダンや、ミラの姿もある。
ユアンは壊れ物を扱うような手つきで、土の中から芋を一つ残らず拾い集め、平らな石の上に並べた。
全部で、十一個。
最も大きなものでも子供の拳ほど。残りは親指の先程度の小粒ばかりだった。全部合わせても、大人の一食分にも満たない。実用品としては明らかに規格外の貧弱な収穫だ。
それでも、ダンは目をむいて叫んだ。
「おいおい……マジかよ! 実ったじゃねえか! あの南の芋が、北辺の土で実をつけたんだぞ!」
「本当だ……魔法も使ってねえってのに」
「奇跡だ。神様が哀れんでくださったんだ」
村人たちが口々に騒ぎ始める。彼らにとって、死んだ土から新しい食べ物が生まれたことは、神の御業に等しかった。
ミラも信じられないという顔で、石の上に並んだ十一個の小さな芋を見つめている。
だが、村人たちの熱狂とは対照的に、ユアンの心は恐ろしいほど冷え切っていた。
(奇跡なものか)
ユアンの脳内で、実務家としての理性が猛烈な勢いで回転を始めていた。
(なぜだ? なぜ、この一株だけが実った?)
最初の二株は、完璧な「ゼロ」だった。親芋は同じ行商人から買ったもの。春に植え付けた日も、同じガーヴの痩せ地の土も同じ。肥料もやっていないし、水分の条件にも大した差はない。
いや、むしろこの石壁際は、他の二株が植えられた場所よりも日当たりが悪かったはずだ。日照が足りないなら生育は落ちる。芋が実る理由にはならない。
では、何が違った? この第三の株だけが受けていた、物理的な条件の差は何だ?
ユアンの視線が、ガーヴが先ほど巻き上げた乾燥棚の黒布に突き刺さった。
『毎日夕方から朝まで、この株だけは真っ暗な布ん中で眠ってもらってる』
秋口に灰芋を食べた日、ガーヴが何気なく言った言葉が、雷のようにユアンの脳天を貫いた。
日当たりが悪いだけではない。この株は、毎日夕刻になると、人為的に光を完全に遮断されていたのだ。
前世の記憶の奥底から、学生時代に講義で聞いたような曖昧な単語が浮上してくる。
『短日性』。
(確か、昼の短さというより、中断されない『暗い時間』の長さが関わる植物があったはずだ。もしヤーゴもそうなら……)
パズルのピースが、完璧な音を立ててはまった。
南方原産のヤーゴ芋は、北辺の夏特有の長い日照の中では、いつまで経っても「実をつける秋」が来たと認識できなかったのだ。だから生存を優先し、蔓と葉ばかりを伸ばし続けた。
しかし、この石壁際の一株だけは違った。
毎日、夕方早くから翌朝まで、ガーヴの黒布によって分厚い闇に覆われていた。そのおかげで、この株は擬似的に「長い夜」を経験し続け、季節の変化を感じ取って地下に塊茎を作ったのだ。
神の奇跡などではない。明確な条件の差による、必然の産物だった。
「……原因が、分かったかもしれない」
ユアンは土まみれの手で、十一個の芋を包み込むように撫でた。
ミラが不思議そうに首を傾げる。
「原因って? この石壁の場所が良かったってこと?」
「違う。光だ。いや、光が当たらない時間だ」
ユアンは立ち上がり、巻き上げられた黒布を指差した。
「この黒布が、夕方早くから朝まで株を覆っていた。他の二株よりも早く暗くなり、そして長い時間、真っ暗な中にいた。それが、ヤーゴ芋に実をつけさせる引き金になったんだ」
「暗くなる時刻が……? そんなことで芋が実るの?」
「俺にもまだ、完全な理屈は分からない。だが、条件の差はそれしかないんだ」
ユアンの瞳には、昨日までの絶望は微塵も残っていなかった。原因不明の失敗ではなく、仮説の立つ現象に変わったのだ。技術者にとって、これほど興奮することはない。
「これを証明しなければならない。来年、この十一個を使って、同じように暗い時間を作る実験をする」
ユアンの力強い宣言に、ダンが慌てて割って入った。
「おいおい待てよ、ユアン! 実験だか何だか知らねえが、せっかく穫れたんだ。小さいとはいえ、茹でりゃあ今日の腹の足しにはなる。ミラたちの灰芋よりは美味いかもしれねえぞ」
ダンの言葉に、周囲の村人たちも同調するように頷いた。極限の空腹状態にある彼らにとって、目の前にある食料を来年まで残すという選択肢は狂気に等しい。
だが、ユアンは十一個の芋を自身の外套の裾に包み込み、一歩も退かなかった。
「駄目だ。絶対に食わせない」
その声は冷徹で、有無を言わさぬ重さがあった。
「これは、北辺の農業を根底から変えるかもしれない証拠だ。今この十一個を食ってしまえば、俺たちは永遠に飢えの恐怖から逃れられない。この芋は、来年のための種だ」
ユアンは非難の視線を浴びながらも、十一個の芋を抱きかかえたまま家へと歩き出した。
春の三個の芋が、秋に十一個になった。
数は増えたが、大きさは貧弱で、実用には程遠い。だが、確実に「北辺で実らせるための鍵」は手に入れた。
ユアンは家に帰ると、十一個すべてを次年度用の木箱に慎重に納めた。
帳簿の「収量ゼロ」という絶望的な記録の下に、彼は新たな行を書き加えた。
『石壁際の一株より、十一個の小芋を収穫。原因は、黒布による長時間の暗期と推測』
それは、世界でただ一人、彼だけが掴んだ希望の数字だった。




