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異世界で芋を植えたら、葉しか茂らなかった。~元・種芋屋の俺が三個の芋から飢えない北辺を作るまで~  作者: 他力本願寺


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第39話 最初の不合格

王国暦八九八年の秋。


 トゥーリ村の広場に新たに建てられた『北辺採種院』の集荷場には、朝から何台もの重そうな荷車が列を作っていた。


 荷台に積まれているのは、カルネ州内の厳しい基準をクリアした「認定農家」たちが育て上げた、来年の春に北辺三州へと配られるための種芋の木箱である。


 その木箱の蓋を一つ一つ開け、鋭い目つきで中身を検品しているのは、かつて緑化した廃棄芋を食べて生死の境を彷徨った少女、ニアだった。


 十八歳になった彼女の腰には、祖父であるガーヴから託された、すり減った木の数え棒の束が結びつけられていた。


「よし、この箱は合格。大きさも揃ってるし、皮の張りもいい」


 ニアは手にした小刀で無作為に選んだ芋の表面を軽くこすり、病気や凍傷がないことを確かめると、木箱の側面に『合格』を示す青い色札を打ち付けた。


「へへっ、ありがとよニアちゃん。うちの『北豊』は自慢の出来だからな」


 認定農家の男が安堵の笑みを浮かべ、青い札のついた木箱を三州へ向かう大型の輸送馬車へと運んでいく。


 ニアは額の汗を拭い、次の農家の荷車へ向かった。


 大飢饉を乗り越え、セリカの持参金で作られたこの採種院の制度は、少しずつだが確実に動き始めていた。病気のない純粋な種芋だけを流通させるため、ここでの検査は絶対の関門だった。


 ニアは次の木箱の蓋を開けた。


 一番上に並んでいるのは、立派に育った『早駆け』だった。しかし、ニアが土の底の方まで手を入れてゴソゴソとかき回した時、彼女の指先が、わずかに柔らかく、不自然に萎びた感触を捉えた。


「……ん?」


 ニアは底の方から数個の芋を掴み出し、太陽の光にかざした。


 表面には黒ずんだ斑点があり、触るとぶよぶよとしていて、微かに酸っぱい匂いがした。腐敗の初期症状だ。さらに、その隣にあった小さな芋は、夏の間に病気で葉が縮れた『病徴株』から採れた特有の、いびつな形をしていた。


「おじさん、これ……」


 ニアがその芋を突きつけると、荷車を引いてきた中年の農家は、一瞬だけ気まずそうに目を泳がせた後、へらへらと笑ってごまかそうとした。


「あー、いや、そりゃあ一番下の土に触れてたやつだから、ちょっと傷んじまっただけさ。他の上の方のやつは全部綺麗だろう? 少しくらい混ざってたって、問題ないって」


「でも、これは病気の芋だよ。それに腐りかけてる。こんなの、来年の春まで持たないし、植えたら他の芋にも病気が移っちゃう」


「わかってる、わかってるよ。でもな、ニアちゃん」


 男は声をひそめ、ニアに懇願するように言った。


「もうすぐイサル州へ出発する馬車の時間が来ちまうんだ。この箱をはねられたら、俺の割り当てのノルマに届かなくなって、認定農家の資格を取り消されちまう。俺の家にも、食わせなきゃならねえ子どもがいるんだ。頼む、この一箱くらい、見逃してくれよ」


 男の言葉に、ニアは息を呑んだ。


 飢えの恐ろしさは、ニアも痛いほど知っている。ノルマを達成できなければ、このおじさんの家族が冬にひもじい思いをするかもしれない。上の芋は確かに綺麗だ。この数個の悪い芋だけをこっそり捨てて、合格にしてあげれば角は立たない。


 情が、ニアの心を揺さぶった。


 彼女は思わず振り返り、少し離れた場所で検品作業を見守っているユアンの姿を探した。


 ユアンは腕を組み、静かにこちらを見ていた。だが、助け舟を出そうとはしなかった。ただ無言で、ニアの目を真っ直ぐに見つめ返しているだけだった。


『お前が検査責任者だ。お前が決めろ』


 ユアンの視線が、そう語っていた。


 ニアは、腰に結びつけられたガーヴの数え棒をぎゅっと握りしめた。


 あの冬。冷たい土の中で、息を引き取る直前のおじいちゃんが、この棒を託してくれた時の手の冷たさを思い出す。


 四日分の配給が足りず、大人の椀が水のように薄くなったこと。そのせいで体力が尽き、死んでしまったオランやヨルトたちの顔。


 たった数個の病気の芋を見逃すことが、来年の春、どこかの村の畑を全滅させ、あの飢餓を再び呼び起こすのだ。


「……駄目です」


 ニアは震える声を抑え込み、はっきりと言い放った。


「この木箱には、病気の芋が混ざっています。一つでも混ざっていれば、箱全体の芋が冬の間に腐る危険があります。この箱は、不合格です」


 ニアは青い札を懐にしまい、代わりに容赦のない『赤』の不合格札を、男の木箱にガチャンと打ち付けた。


「なっ……!」


 男の顔が怒りに真っ赤に染まった。


「ふざけるな、若い小娘のくせに! 俺がどれだけ苦労して育てたと思ってんだ! 上の芋は無事だろうが! この赤い札を外しやがれ!」


 男がニアに掴みかかろうとした瞬間、横から冷たく通る声が響いた。


「そこまでになさい」


 帳簿を抱えたセリカだった。彼女は会計監査者としての威厳を以て、男の前に立ち塞がった。


「採種院の検査責任者の決定は絶対よ。彼女が不合格と判断した箱を流通させることは、いかなる理由があっても認めないわ。そして、粗悪な芋を意図的に隠して提出したあなたの認定農家としての資格は、規則に基づき、来年度から停止させてもらうわ」


「そ、そんな……! 代官様、どうかお慈悲を……!」


「私はもう代官ではないわ。ただの会計監査者よ。だからこそ、情ではなく規則に従って正確に数字を弾くだけ」


 セリカの冷徹な宣告に、男はその場にへたり込んだ。


「でも、この一箱が減っちまったら、イサル州へ送る約束の量に届かなくなるぞ……!」


 別の農家が不安そうに声を上げた。出荷期限は目前に迫っている。


「その分なら、うちの予備を回す」


 群衆の後ろから、ダンが自分の荷車を引いて進み出てきた。


「うちの北豊は、ニアの厳しい検査を全部通った完璧な種芋だ。規定の品質は、何が何でも守らなきゃならねえ。それが、あの冬を生き残った俺たちの責任だろうが」


 ダンの力強い言葉に、他の農家たちも次々と頷き、自分の予備の芋を持ち寄って不足分を補い始めた。


 情に流されて一人の農家を救うのではなく、厳格な規則を守ることで、未来の数千人の命を救う。その採種院の理念が、村人たち自身の行動によって具現化されていた。


 その光景を見届けたテオが、記録台帳に羽ペンを走らせる。


『王国暦八九八年、秋。イサル州向け認定種芋の検品において、一箱に病徴株由来の混入を発見。検査責任者ニアの判断により、当該箱を全量不合格とし廃棄。不足分は他農家の基準適合品にて補填』


 成功だけを書かない。どうしてその芋がはねられたのか、誰がごまかそうとしたのか、その「失敗と不正の記録」もまた、未来への教訓として正確に書き残されていく。


 やがて、不足分が完全に補填され、すべての木箱に『合格』の青い札が打ち付けられた。


「積み込み、完了しました!」


 御者の合図とともに、鞭が鳴る。


 重厚な車輪が軋む音を立て、完璧に検査された最初の認定種芋の馬車が、イサル州やベルダ州といった北辺の村々へ向けて、ゆっくりと広場を出発していった。


 ニアはホッと息をつき、腰の数え棒を撫でながらその馬車を見送っていた。


 その彼女の頭を、大きな手がポンと撫でた。


 ユアンだった。


「よくやったな、ニア。立派な検査責任者だ」


「ユアン……。私、間違ってなかった?」


「ああ。満点だ」


 ユアンは馬車の背中を見つめながら、静かに目を細めた。


 今日、彼は検査の基準を教えはしたが、最後の判断には一切口を出さなかった。自分が手を出さずとも、ニアという新しい世代が自らの意志で正しい技術判断を下し、セリカの作った制度がそれを守り、テオの記録がそれを残す。


 一人の天才的な技術者の手から離れ、ついに『制度』として社会に定着した瞬間だった。


 彼らが送り出した青い札の木箱たちは、これから先、北辺のどんな過酷な冬が来ようとも、決して枯れることのない命の種となって、大地に根を張っていくはずだ。

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