第38話 三種類の焼き芋
王国暦八九八年の春。北辺の凍てつく風がようやく緩み、黒い土が顔を出し始めた日の朝。
トゥーリ村の教会でこれから結婚式を挙げようというその日、新郎となる男は地下貯蔵穴の奥底にいた。
「……よし、温度も湿度も安定している。『北豊』の芽出しも順調だ。来週には認定農家へ送り出せるな」
ユアンはカンテラの灯りを頼りに、木箱の中の種芋の並びを一つ一つ点検していた。指先にはいつものように泥がこびりついている。
「ちょっと、ユアン! あなた、こんな日にまで何をやっているのよ!」
頭上から降ってきた鋭い声に、ユアンはびくっと肩を揺らして振り返った。
階段を下りてきたのはミラだった。今日は特別な日だからと、普段の作業着ではなく、村で一番上等な亜麻布のワンピースを着込んでいる。
「いや、昨日少し通気口を開けすぎた気がして、念のために確認を……」
「馬鹿じゃないの! 主役が泥だらけでどうするのよ。セリカがもう準備を終えて待っているわ、早く上がりなさい!」
ミラに背中を押され、ユアンは慌てて地上へと這い上がった。
教会での結婚式は、領主の娘の嫁入りとは思えないほど、極めて簡素なものだった。
華やかな楽団も、豪華な食事もない。参列しているのは、ダンやエダたち、大飢饉をともに生き抜いた村の人間たちだけだ。
祭壇の前で待っていたセリカは、白い簡素なドレスを身に纏っていた。カルネ城から持ち出した唯一の晴れ着だったが、飾り気のないその姿は、この村の風景に不思議なほど溶け込んでいた。
司式を務めるのは、教会のバルド助祭である。
「神は、土を耕す者に糧を与え、試練を越える者に絆を与えたもうた」
かつて芋を地の毒と呼んだバルドの顔には、今や厳しい自然と向き合う農民たちへの深い敬意があった。
「健やかなる時も、病める時も。豊作の秋も、飢餓の春も。汝ら、互いを支え、この地に根を張ることを誓うか」
「誓います」
ユアンとセリカは、静かに、しかしはっきりとした声で言葉を重ねた。
証人として祭壇の脇に立つミラとテオが、温かい拍手を送る。村人たちからも歓声が上がり、簡素な式は、確かな祝福の熱気に包まれた。
式の後は、教会の前の広場でささやかな祝宴が開かれた。
広場の中央には大きな焚き火が組まれ、薪がパチパチとはぜている。
「ユアン、セリカお姉ちゃん! 持ってきたよ!」
そこへ、少し背の伸びたニアが、小さな木箱を両手で抱えるようにして運んできた。まるで大切な宝物を運ぶような、慎重な足取りだった。
木箱の中に入っていたのは、秋に収穫し、冬を越して厳重に保存されていた三種類の芋だった。
「ありがとう、ニア」
ユアンは箱を受け取ると、村人たちが囲む焚き火の灰の中に、その芋を放り込んでいった。
やがて、焦げた皮の表面から、堪らなく甘い匂いが広場に漂い始める。
「さあ、焼けたわよ」
セリカが木の枝で灰の中から熱々の芋を転がし出した。
「まずは、これね」
ユアンが拾い上げたのは、大人の拳二つ分はあろうかという巨大な芋――『七番』、いや、今は『北豊』と呼ばれる芋だ。
半分に割ると、黄金色に輝くホクホクとした果肉から、湯気とともに濃厚な甘い香りが立ち昇った。村人たちに切り分けて配ると、誰もが顔をほころばせ、満面の笑みで頬張った。
「やっぱり、北豊は最高だな! 腹の底から力が湧いてくる!」
ダンが熱さに舌鼓を打ちながら叫ぶ。まさに、北辺の食卓を支える最強の主力品種の味だった。
「次は、こっちだ」
ユアンが次に割ったのは、北豊に比べればふたまわりほど小さい『十九番』――『早駆け』だった。
北豊ほどの甘みやホクホク感はなく、少し水気を含んでいる。だが、その素朴な味を噛み締める村人たちの表情は、先ほどとは違った。
「……この味を食うと、あの時のことを思い出すねえ」
エダが、しみじみと呟いた。
麦が全滅し、配給が尽きかけたあの七十三日目。死の淵で彼らの命を繋ぎ止めた、泥だらけの最初の収穫の味。早駆けの味は、彼らにとって生存の記憶そのものだった。
「そして、最後はこれよ」
ミラが自慢げに灰の中から取り出したのは、表面がゴツゴツして皮の厚い、在来種の『灰芋』だ。
ユアンも一口囓ったが、やはりボソボソとしていて水っぽく、決しておいしいとは言えなかった。
「相変わらず、不味いな」
ユアンが正直に言うと、ミラはふふんと胸を張った。
「不味くて結構。でも、この不味い芋が、冬の凍れる土の中で最後まで腐らずに生き残ったのよ。これが北辺の強さの味よ」
三つの芋。それぞれが全く異なる味と食感を持ち、全く異なる役割でこの村の命を支えている。
その時、ニアが木箱の底に残っていた最後の一個を指差した。
「ねえ、ユアン。これは焼かないの?」
それは、四十四番だった。
「ああ。そいつは焼かないよ」
ユアンはそのゴツゴツとした不恰好な芋――『セリカ』を手に取り、丁寧に灰を払った。
「こいつは不味いし、量も穫れない。だけど、あの病気が広がった畑でも生き残った強さを持ってる。だから、食卓には出さず、明日の育種畑に残しておくんだ。……未来のための、保険だからな」
ユアンが隣に座るセリカを見ると、彼女は「当然よ」と言わんばかりに小さく肩をすくめ、自分の手元にある配給記録の帳簿を軽く叩いてみせた。
その夜。
宴が終わり、静まり返ったケルド家の小さな部屋で、二人はようやく夫婦として水入らずの時間を得た。
暖炉のわずかな火明かりの中、セリカはユアンの肩に静かに頭を預けていた。
代官代理という重責を背負い、常に数字と法を盾にして張り詰めていた彼女の肩の力が、今は完全に抜けている。
「……不思議なものね」
セリカが、ユアンの泥が染み付いた無骨な手を取り、自分の白い指と絡めながら呟いた。
「城で豪華な食事をしていた頃より、今日のあの不味い灰芋を食べている時の方が、ずっと満たされている気がしたわ」
「俺も同じだ。前世で、失敗から逃げて都会で生きていた時より……ここで、明日も芋が病気になるかもしれない恐怖と戦いながら生きている今の方が、ずっと生きているって実感がある」
ユアンは、セリカの肩を優しく抱き寄せた。
彼らがこれまでに払った代償は大きかった。ガーヴやオランをはじめとする十一人の命は失われ、セリカは地位を失い、持参金の半分を採種院へ投じた。
だが、その喪失を帳簿の数字として冷たく切り捨てるのではなく、痛みとして抱えながら、二度と同じ死者を出さないための制度を作った。
その責任の重さが、今の彼らの静かな幸福の土台となっていた。
「これからも、厳しい冬が何度も来るわよ」
セリカがユアンの胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「望むところだ。最高の技術と、最高の会計監査者が揃っているんだ。どんな飢饉が来ても、必ず乗り越えてみせるさ」
ユアンはセリカの髪にそっと口づけを落とした。
窓の外では、春を告げる夜風が、雪解けの土の匂いを運んできていた。
翌朝。
少し冷えるがよく晴れた朝の空の下、ユアンとセリカは二人並んで村の畑を歩いていた。
向かったのは、村の端にある石壁の畑だ。
かつて、ユアンが村で孤立していた時にガーヴが貸してくれた、痩せた土地。
石壁の横には、古い農具の乾燥棚が残されていた。そしてそこには、風雨にさらされてボロボロになった、分厚い黒布が掛けっ放しになっていた。
かつて。ガーヴが毎夕この黒布を下ろしていたことで、意図せず長い暗期が作られ、ヤーゴ芋が初めて北辺で十一個の塊茎を結んだ。
すべての始まりだった。
「……もう、これの役目も終わりだな」
ユアンは乾燥棚に手をかけ、セリカと目配せをした。
彼らは今や、三系統の北辺適応品種を見つけ出し、暗期を無理に作らなくても収穫できる技術を手に入れた。この黒布を使った実験の段階は、完全に過去のものとなったのだ。
「手伝うわ」
セリカが黒布の反対側の端を掴む。
二人は息を合わせ、乾燥棚から黒布をゆっくりと外し、土の上で丁寧に四角く畳んでいった。
長い間、雨や雪を吸い込んで重くなった布は、彼らが重ねてきた苦闘の年月そのもののような手触りがした。
「ご苦労様。そして、ありがとう」
ユアンが小さく呟き、畳み終えた黒布を脇に抱える。
二人は、これから種が蒔かれるのを待つ黒い土の広がりを見渡した。
彼らの足元から続く畑は、もう未知の恐怖に怯える場所ではない。確かな技術と制度によって、未来を育むための約束の土地だった。




