第37話 セリカという芋
王国暦八九七年の冬。雪に閉ざされたトゥーリ村の教会の一室は、新設された『北辺採種院』の仮の執務室として、暖炉の火が赤々と燃えていた。
大きな机の上には、テオが書き写した真新しい公文書の束と、春に向けて選別された種芋の標本がいくつか並べられている。
「さて、来春からカルネ州の認定農家へ原種を配るにあたって、いつまでも『七番』だの『十九番』だのという仮の番号で呼ぶわけにはいきません」
テオがインク壺の蓋を開け、羽ペンを構えて言った。
「公式な公文書と台帳に記載するための、正式な品種名が必要です」
机を囲んでいたユアン、セリカ、ミラの三人は顔を見合わせた。
「主力である七番は、とにかく収量が多くて大粒だ。北辺の腹を満たす象徴になる。……『北豊』というのはどうだ?」
ユアンの提案に、ミラが頷いた。
「いいわね。農家にも豊作の縁起物として好まれそう」
「では、七番は『北豊』と記録します。次は、十九番ですが」
「あいつは小粒だが、何より成長が早くて霜から逃げ切れるのが身上だ。緊急時に村を救う早生品種だから……『早駆け(はやがけ)』はどうだろう」
「実情を的確に表しているわね。異存はないわ」
セリカが、会計監査者としての新しい帳簿に『北豊』と『早駆け』の文字を書き込んだ。テオの公文書にも同じ名が記される。
「よし。これで市場に出回る主力と、飢饉対策の緊急品種の名前は決まりましたね。……あとは」
テオの視線が、机の端にぽつんと置かれた、表面がゴツゴツとした不格好な芋に向けられた。
四十四番。
「ああ、それはいい」
ユアンが手で軽く制した。
「四十四番は収量も極端に低く、皮が厚くて食味も悪い。市場に出しても誰も喜んで買わないから、名前を付けて普及させる必要はない。俺とミラで、育種の親や病害時の保険として院の畑に残しておくだけだから、今まで通り四十四番のままでいいさ」
「なるほど。では、命名は以上というこ……」
「待ってくれ」
テオが書類をまとめようとした時、ユアンが不自然なほど大きな声を出した。
彼は少し落ち着きのない様子で視線を泳がせ、それから意を決したように、隣で帳簿をつけているセリカへ向き直った。
「……七番の『北豊』という名前なんだが、やっぱり取り消したい」
「は? 今さら何を言っているの?」
セリカが怪訝そうに眉をひそめる。
ユアンは耳の裏まで赤くしながら、一番大きく形の良い七番の芋を手に取り、セリカの前に差し出した。
「俺は、この北辺を救う最高の傑作に、お前の名前を付けたい。……『セリカ』という名前にしたいんだ」
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響いた。
テオが目を丸くし、ミラが「ぷっ」と吹き出しそうになるのを両手で必死に押さえている。
それは、芋の栽培しか頭にない不器用な技術者なりの、精一杯の好意の表明だった。自分が人生を懸けて生み出した最も価値のあるものに、最も大切な女性の名を冠したい。その不器用すぎる求愛に、セリカは数秒間呆然とユアンを見つめていた。
やがて、彼女は深く、深くため息をついた。
「……お断りよ」
「えっ」
「私を馬鹿にしているの? そんな丸々と太った、甘くて美味しいだけの芋に私の名前を付けるなんて、冗談じゃないわ」
セリカはユアンの手から七番を冷たく奪い取ると、それを机の端に退けた。
そして代わりに、彼女が手に取ったのは――命名すら不要だと言われた、あの不格好な四十四番だった。
「もし、どうしても私の名前を芋に残すというのなら……こっちになさい」
「四十四番に……? でもそいつは、不味いし、収量も低くて……」
「ええ、知っているわ。皮が厚くて食味が悪くて、食卓に出せば誰もが顔をしかめる不味い芋」
セリカは、そのゴツゴツとした四十四番を両手で大切そうに包み込んだ。
「でも、こいつは病気が蔓延した夏でも、他の系統より病徴がずっと少なく生き残った。不味くて収量が低い代わりに、あの病気の中でも土にしがみつき、次の世代へと確実に性質を渡す『強さ』を持っている」
セリカは顔を上げ、ユアンを真っ直ぐに見据えた。
「私の仕事も、これと同じよ」
その声には、代官代理としての地位を失ってもなお消えない、強烈な誇りが宿っていた。
「私が書く帳簿も、私が作る厳しい規則も、決して甘くて美味しいものではないわ。誰の空腹も直接は満たさないし、村人たちからは疎まれ、嫌われる。食卓で称賛されることなんて絶対にない。……でも、飢饉や病気という致命的な危機が来た時、最後に村の命を繋ぎ止めるのは、その不味くて厳しい『制度』なのよ」
セリカの言葉に、ユアンは胸を強く打たれた。
彼女は、技術の華やかな成功の裏側で、常に憎まれ役を引き受け、泥をかぶりながら村の土台を支え続けてきたのだ。その生き様は、まさに病害の防壁としてひっそりと畑に残される四十四番そのものだった。
「だから、四十四番を『セリカ』と名付けなさい。この北辺の農業が続く限り、決して食卓の主役にはなれなくても、畑の片隅でしぶとく生き残って未来の保険になり続ける。……それが、私という人間よ」
セリカが四十四番を机の中央に置く。
ユアンは、その無骨な芋と、誇り高き元・代官代理の顔を交互に見つめ、やがて静かに笑った。
「……ああ。お前以上に、この芋にふさわしい名前はない」
ユアンは一歩踏み出し、セリカの目を見つめ返した。
「俺はこれからも、この北辺の畑で芋を殖やし続ける。どんな天候でも、どんな病気が来ても、技術と制度の両輪で絶対に人間を餓死させない村を作る。……だから、俺の隣で、ずっとその厳しい帳簿を書き続けてくれないか」
それは、共に命の責任を背負い続けることへの、明確な誓いだった。
「これからの畑と、そして俺の生活のすべてを、お前と共有したい」
セリカの頬が、暖炉の火のせいだけではなく、わずかに赤く染まった。
彼女は少しだけ視線を逸らし、手元の真新しい帳簿の表紙を撫でた。
「……技術責任者と会計監査者が生活を共にすることは、採種院の強固な統治構造を築く上で、極めて合理的な判断と言えるわね」
セリカは努めて事務的な口調を装いながら、だがその口元には、隠しきれない柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「悪くない契約よ、ユアン・ケルド。あなたのその提案、承認してあげる。……ただし、父上である辺境伯閣下への面倒な婚姻の手続きは、採種院の職務と両立する形で、完璧に整えてもらうからね」
「ああ、約束する」
その夜。
テオの記録帳の『品種登録台帳』のページには、三つの新しい名前が並んで書き込まれた。
食卓を彩る主力『北豊』。飢餓から逃げる早生『早駆け』。
そして、その台帳の最後。
育種用原種の欄には、ユアンの不器用な筆跡で書かれた木札とともに、病気に耐え抜く強き芋の正式名称が記された。
『セリカ』
机の上に置かれたその不格好で強靭な芋の横には、新しい二人分の人生が書き込まれるのを待つ、空白の帳簿が静かに重ねられていた。




