第40話 また三個から
『王国暦九二七年。北辺三州を襲った大冷害は、四十年前の悪夢を容易に呼び覚ます規模であった。カルネ、イサル、ベルダの麦は春の遅霜により根こそぎ壊滅し、大地は黒く死に絶えた。しかし、特筆すべきは被害の規模ではない。この年、北辺三州において、飢餓による死者はただの一人も出なかったのである。これは神の奇跡ではない。四十年前に蒔かれ、血と泥に塗れながら育てられた「制度」という名の種が、大地に深く根を張っていたからに他ならない』
――北辺採種院記録係、修道士テオによる年代記より。
かつて、飢えの恐怖に駆られた村人たちが暴動を起こしかけたトゥーリ村の広場は、今、驚くほど静かで秩序立った空気に包まれていた。
北辺採種院の検査責任者であるニアは、白髪の混じり始めた髪を布でまとめ、広場の中央に備え付けられた巨大な黒板を見上げていた。
そこには、村の地下にある分散貯蔵穴から引き上げられたヤーゴ芋と灰芋の在庫量が、一の位まで正確に記されている。
「カルネ州北部、備蓄状況の確認完了。各戸への配給、予定通り開始します」
若い書記官の報告に、ニアは深く頷いた。
「ええ。第一備蓄の『北豊』は通常配給に。冷害で成長が遅れている区画には、第三倉庫の『早駆け』をすぐに回して。在来種の『灰芋』と『セリカ』由来の交配種は、もしもの時のためにまだ手をつけないで頂戴」
ニアの指示を受け、役人や村人たちが淀みなく動いていく。
特定の英雄が声を張り上げたり、領主が強権を発動したりする必要はどこにもなかった。三十年の歳月をかけて練り上げられた北辺採種院の規則に従い、村々は自律的に在庫を公開し、用途別に品種を切り分け、最も合理的な配給と作付けを行っている。
高地にある採種圃場も、一箇所が崩れても全滅を防ぐための分散倉庫も、今や農民たちにとって息をするのと同じくらい当たり前の風景として機能していた。
「……見事なものね。私たちの出番なんて、もうどこにもないわ」
背後からかけられた声に、ニアは振り返って破顔した。
そこに立っていたのは、すっかり白髪になったセリカと、杖をついたユアン、そして目尻に深い皺を刻んだミラだった。
かつて最前線で泥にまみれ、血を吐くような決断を下してきた三人は、広場の隅のベンチに腰を下ろし、日向ぼっこをするように若者たちの働きを眺めていた。
「セリカ様、ユアン様、ミラ様。お加減はいかがですか?」
「年寄り扱いするな、ニア。俺はまだ鍬を振れるぞ」
六十の半ばを越えたユアンが強がって見せるが、その手はすっかり節くれ立ち、震えを隠せなくなっていた。
「いいから座ってなさいな、技術責任者。あなたが畑で転んだら、私がまた予算から治療費を捻出しなきゃならないんだから」
セリカがユアンの背中を軽く叩く。彼女の鋭い眼光は健在だったが、その表情にはかつてのような張り詰めた悲壮感はなく、穏やかな達成感が満ちていた。
北辺三州で餓死者ゼロ。
その報告を聞いた時、三人はそれを手を取り合って喜ぶようなことはしなかった。
「奇跡じゃないわ」と、ミラが静かに笑って言った。「三十年あまり前、四日分の灰芋が足りなくて死んだ人たちがいた。その失敗を隠さずに、ただルールにして残した。今動いているのは、その記憶の成果よ」
「ああ。俺たちがいなくなっても、仕組みが腹を満たす。……これでやっと、技術が完成した」
ユアンが目を細め、広場の黒板を見つめた。
個人の知識や情熱ではなく、誰でも再現できる制度。それが、彼らが人生を懸けてこの北辺に残した最高の傑作だった。
しかし、自然という怪物は、人間が防壁を完成させたと思ったその瞬間に、別の形をして襲いかかってくる。
餓死者ゼロという勝利の余韻が冷めやらぬ夏の終わり。
南方から、彼らが一度も見たことのない新しい病が北辺へ侵入した。
「葉枯れ病……とでも呼ぶべきでしょうか」
数日後、ニアは病原に侵された畑の真ん中に立ち、絶望的な報告をまとめようとしていた。
青々としていたはずのヤーゴ芋の葉が、末端から黒く変色し、わずか数日で畑全体が焼け焦げたように枯れ落ちていく。虫の関与を疑った四十年前の退化とは、明らかに広がり方が違う。風に追われるように広がるその病魔の進行はあまりにも早く、圧倒的だった。
主力品種である『北豊』も、早生の『早駆け』も、この新しい病の前には全く歯が立たず、次々と黒い残骸に変わっていった。
「おしまいだ……せっかく冷害を乗り切ったのに、今度は芋が全滅しちまう!」
若い農民たちが、頭を抱えて座り込んでいる。
だが、ニアの瞳に絶望の色はなかった。彼女の腰には、祖父ガーヴから受け継ぎ、三十年余り使い込まれて黒光りしている数え棒が揺れている。
ニアは泥だらけの長靴で、真っ黒に枯れ果てた畑の奥へと歩みを進めた。
(おじいちゃん。あの時、おじいちゃんは風と影の違いを見つけた。……私にも、見つけられるよ)
彼女は枯れた葉を一つ一つかき分けながら、広大な畑の中を這うようにして進んだ。
主力品種が全滅していく中、彼女が探していたのは、ユアンとミラが遺してくれた『保険』だった。
「……あった」
ニアは足を止め、その場に膝をついた。
周囲の株がすべて黒く枯れ落ちている中で、たった一箇所だけ、青々とした緑の葉を保ち、力強く土に根を張っている株の集団があった。
それは、食味が悪く収量も低い『セリカ』と、寒さに強い在来種『灰芋』を、ミラが何年もかけて交配し続けた実生系統の区画だった。
人間から見向きもされず、ただ畑の隅で命を繋ぐことだけを命じられていた不恰好な芋たちが、新しい病魔の海の中で、完璧な防波堤となって生き残っていたのだ。
「やっぱり、ミラ様たちの残した四十四番の血は、この病気にも耐えられるんだわ」
ニアは震える手で小刀を抜き、その最も健全な一株の根元に刃を入れた。
土を掘り返すと、中から薄黄色の塊茎が転がり出た。決して大きくはない。いびつで、お世辞にも美味しそうとは言えない芋だ。
しかし、その皮には病気の斑点一つなく、生命力に満ちた確かな張りと重さがあった。
ニアは土を払い、その芋を両手で大切に拾い上げた。
一つ、二つ、三つ。
回収できた、完璧に健全な種芋は、全部で三個だった。
ニアは三個の芋を布に包み、採種院の執務室へと駆け戻った。
机の上には、テオが書き残した分厚い年代記と、セリカが定めた監査規則、そしてユアンが残した栽培技術の記録帳が、壁一面の本棚にぎっしりと収められている。
ニアは机の上に、泥だらけの三個の芋をそっと置いた。
四十年前。
行商人から三個の芋を買ったあの時、ユアンの手元には、何も書かれていない空白の帳簿と、自分の頭の中にある前世の知識しかなかった。
未知の気候、土地の迷信、そして人間の飢え。すべてを手探りで進み、四日分の誤差で十一人の命を失った。
だが、今は違う。
目の前にある三個の芋は、四十年前と同じただの小さな塊かもしれない。
しかし彼らの背後には、失敗を隠さずに書き残した膨大な記録がある。私財を投げ打って作られた、誰もが同じ判断を下せる制度がある。病気に耐えうる多様な品種を残した畑がある。そして何より、あの日の飢えと喪失を忘れず、正しい技術を次の世代へ渡すことができる、ニアたちのような人間が育っている。
ニアは机に向かい、真新しい羊皮紙に羽ペンを滑らせた。
『新病害に対する耐性株を確認。当該株より三個の健全な塊茎を回収。これより、本院の規定に基づき、隔離圃場における一次増殖試験を開始する』
彼女の迷いのない筆跡が、新たな戦いの始まりを告げていた。
もう、誰も奇跡など待ってはいない。
彼らは知っているのだ。この小さな三個の芋と、残された確かな記録さえあれば、何度でも、いつか必ず北辺のすべてを養うだけの収穫にたどり着けることを。
窓の外では、秋の風が吹き抜け、北辺の大地が次の季節へ向けて静かに息づいていた。
凍れる土に根を張る者たちの農事記は、終わらない。
ここからまた、何度でも、三個の芋から始まるのだ。




