第35話 七番しか植えなかった村
王国暦八九七年の秋は、前触れもなく、不意に冷たい風とともに訪れた。
トゥーリ村の広場に、一台の荷車が転がり込むように入ってきた。荷車を引く男は泥にまみれ、息も絶え絶えに地面に倒れ込んだ。
昨年の秋、意気揚々と七番の種芋を大量に買っていった隣の州境の村、ファルサ村の村長だった。
「助けてくれ……ユアン! セリカ様! お願いだ!」
ファルサ村長は、広場に駆けつけたユアンとセリカの足元にすがりつき、大の大人が声を上げて泣き崩れた。
「村が……また、飢え死にする……!」
馬車を飛ばしてファルサ村の畑へと視察に向かったユアンたちは、そこに広がる惨状を前に言葉を失った。
見渡す限りの広大な畑が、真っ黒に枯れ上がっていたのだ。
ユアンは馬車から飛び降り、一番手前の畝に駆け寄った。枯れ果てた葉と茎は、間違いなく『七番』のものだった。彼は鍬を借りて、力一杯土を掘り返した。
しかし、土の中から出てきたのは、昨年彼らが見たような大人の両手に余る巨大な芋ではなかった。小指の先や、せいぜいビー玉ほどの大きさしかない、未成熟な小芋がいくつか転がり出ただけだった。
「……地下が、太っていない」
ユアンは小芋を手に取り、苦渋の表情を浮かべた。
「今年の秋は、霜が降りるのが例年より半月ほど早かった。七番は確かに大粒で味が良くて収量も多い。だが、その分『生育期間が長い』という弱点があるんだ」
ユアンは、真っ黒に焼けた葉の残骸を指差した。
「芋は、葉に太陽の光を浴びて地下に養分を溜め込む。だが七番は、その地下が十分に太り切る前に、早い霜に葉を焼かれてしまった。葉が死ねば、そこから先の成長は完全に止まる」
ユアンの言葉に、ファルサ村長はがっくりと膝をついた。
「俺が……馬鹿だった……」
村長は泥だらけの土を両手で掴み、嗚咽を漏らした。
「あんたの言う通りだった。あの時、あの小っこい『十九番』も一緒に植えていれば、霜が来る前に早く収穫できていたはずだ。あの不味い『灰芋』だって、寒さには強かったはずなのに……。俺は、でかくて美味い七番に目が眩んで、忠告を無視して畑を七番だけで埋め尽くしちまった……!」
後悔の言葉が、冷たい秋風に虚しく吸い込まれていく。
もし十九番や灰芋を分けて植えていれば、七番が全滅したとしても、村を養うだけの最低限の食料は確保できていたはずなのだ。単一品種への依存。それは、たった一度の天候の気まぐれによって、村の命運を完全に断ち切るという最も脆い農業の姿だった。
ユアンは鍬を置き、立ち上がった。
自分の警告が当たったという満足感など、欠片もなかった。あるのは、過去の自分を見ているような痛烈な苦さだけだ。前世の自分が、農家の声に負けて病気の種芋を出荷してしまった時のように、人間の欲と農業の現実のズレが、またしても悲劇を生んでしまった。
「……セリカ」
ユアンは振り返り、帳簿を抱えたまま黙り込んでいるセリカを見た。
「見捨てるわけにはいかない」
「分かっているわ」
セリカは静かに頷き、ファルサ村長に向き直った。
「トゥーリ村の備蓄から、あなた方の村が冬を越すための『十九番』と『灰芋』を回します。すぐに荷車の手配を」
「ああ……! ありがとうございます、セリカ様……!」
村長は何度も地面に額をこすりつけた。
だが、セリカの目は決して彼を許してはいなかった。そして、隣に立つユアンも、その決断がトゥーリ村にとってどれほど重い代償を払うものかを理解していた。
トゥーリ村へ戻った夜。
教会の礼拝堂で、セリカは帳簿の数字を赤いインクで大きく修正していた。
「ファルサ村へ救援として出す芋の量は、決して余剰食料じゃない」
セリカの羽ペンの音が、静かな堂内に冷たく響く。
「私たちが彼らに渡すのは、来年の春、カルネ州やイサル州の他の村々へ『種芋』として配るために、血の滲むような思いで増やしてきたものよ。それを、食べるための食料として放出する」
セリカは修正を終えた帳簿をユアンに見せた。
「この損失によって、私たちが計画していた北辺三州へのヤーゴ芋の普及計画は、丸一年遅れることになるわ」
一年。それは、来年もまたどこかの村が、麦の不作に怯えながら古い農法で飢えと戦わなければならないことを意味していた。他村の失敗を救うために、自分たちの、そして北辺全体の未来への歩みを後退させなければならない。
ユアンは拳を握りしめ、深く息を吐いた。
「……だが、それでも残さなきゃならない。七番の美味さに溺れず、複数の品種を畑に残すこと。それが生き残るための絶対条件だと、誰の目にも分かる形にしなければ」
「その通りね」
暗がりから、ミラが進み出てきた。
彼女の手には、使い古された大きな木板が握られていた。そこには、表のようなものが木炭で書き込まれていた。
「ユアンがいつも口で言っていることを、私が書き出してみたわ。名付けて『品種の役割表』よ」
ミラは木板を机の上に置いた。
・【七番】 収量が多く味が良い。村の食料の主力。だが霜や病気に弱い。
・【十九番】 収量は中程度で小粒。だが早く育つ。霜から逃げるための緊急用。
・【四十四番】不味くて皮が厚い。だが虫や葉の病気に強い。原種と育種用。
・【灰芋】 収量が少なく、水っぽい。だが寒さに強く腐らない。冬を越すための保険。
「どう? これなら、いくら七番が美味しくても、他の芋を植えないと危ないって一目で分かるでしょう?」
ミラの作った表は、長年北辺の土と向き合ってきた彼女の生活感覚と、ユアンの技術知識が見事に融合したものだった。
「ああ。完璧だ」
ユアンは驚きとともに頷いた。
「これを村の絶対の規則にしよう。どれだけ豊作でも、必ずこの役割表に従って、一定の割合で複数の品種を植え続けるんだ」
「それにね、もう一つ考えていることがあるの」
ミラは木板の余白を指差した。
「灰芋は寒さに強くて冬を越せるけれど、水っぽくて不味い。四十四番は病気に強いけれど、やっぱり皮が厚くて不味い。……じゃあ、その二つの強さを合わせることはできないかしら?」
「合わせる……?」
「ユアンが春に、四千三百粒の『青い実の種』を蒔いて、違う性質の芋を探したじゃない? あれを、灰芋と四十四番で人工的にやれないかってことよ。花の花粉をこすりつけて、新しい種を作って……」
それは、交配実生という本格的な育種への提案だった。
ただユアンの知識を受け入れるだけの村娘ではない。彼女は今や、灰芋という在来種を守る責任者として、外来種との交配によって北辺の新しい未来を自分たちの手で創り出そうとしているのだ。
「……やれるさ」
ユアンは、ミラの提案に力強く頷いた。
「来年の夏、一番強い四十四番の花に、灰芋の花粉をつける。そこからできた種を蒔いて、新しい候補を探すんだ」
翌日。
ファルサ村へ送るための十九番と灰芋が、荷車に積み込まれていった。
地下の貯蔵穴から木箱が運び出された後、ユアンはひんやりとした薄暗い空間に一人立ち尽くしていた。
見つめる先にあるのは、種芋を並べるために精巧に作られた木製の増殖棚だ。
昨日まで十九番と灰芋の箱でぎっしりと埋まっていたその棚には、今、ぽっかりと黒く空いた空間ができていた。
その空洞は、一年という時間の損失の重さを、無言で彼らに突きつけているようだった。
ただ正しい技術を教えるだけでは、人間は救われない。
彼らが次に作らなければならないのは、人間の欲や弱さを縛り、この空洞を二度と作らせないための『制度』だった。




