第34話 一番よい芋だけ
極限の飢餓を乗り越え、トゥーリ村にようやく穏やかな秋が巡ってきた。
王国暦八九六年の秋。前年の遅霜と飢饉の教訓を活かして分散作付けされたヤーゴ芋たちは、見事な緑の葉を広げ、そして土の奥深くで豊かな塊茎を太らせていた。
中でも、食用主力品種として位置づけられた『七番』の収穫風景は、村人たちに歓喜の声を上げさせるのに十分なものだった。
鍬を入れるたびに、大人の両手に余るほどの巨大な芋がゴロゴロと土の中から転がり出てくる。薄黄色の皮は張りがあり、焚き火に放り込めば、ホクホクとした黄金色の果肉が極上の甘い匂いを漂わせた。
「すげえ……今年の七番は、去年よりもさらにでかいぞ!」
ダンが顔を煤だらけにしながら、焼き上がったばかりの七番を頬張って叫んだ。
飢えの恐怖から解放された村人たちは、この豊満で美味な七番の芋に文字通り熱狂していた。
その豊作の噂は、風に乗って瞬く間に近隣の村々へと広まっていた。
ある日の午後、村の広場に数台の荷車を引いた男たちがやってきた。隣のイサル州境に位置する、ファルサ村の代表者たちだった。彼らもまた春の遅霜で麦を失い、かろうじて森の木の実や獣で食いつないできた者たちだ。
「聞いたぞ、トゥーリ村! あんたのところで、あの『ヤーゴ芋』ってやつが山ほど穫れたってな!」
ファルサ村の村長が、広場に積み上げられた七番の木箱を見て、目を血走らせた。
「頼む、うちの村にもその芋の種を譲ってくれ! 来年こそは、うちの村の連中にも腹一杯飯を食わせてやりてえんだ!」
ファルサ村長は、持参したわずかな銀貨と毛皮の束を差し出し、深々と頭を下げた。
ユアンは、隣に立つセリカとミラと顔を見合わせた。
北辺全体を飢えから救うために、種芋を他の村へ広めていくことは、彼らが当初から思い描いていた目標の一つだった。
「ああ、構わない。来年の春に植えるための種芋なら、十分に用意できる」
ユアンが快諾すると、ファルサ村の男たちは歓声を上げた。
「ありがとうございます! で、どっちの箱を持って行けばいいんですかい?」
「これだ」
ユアンは、三種類の木箱を彼らの前に並べた。
「俺たちの村では、三つの性質の違う芋を組み合わせて育てている。まず、この一番大きくて美味い『七番』。それから、粒は小さいが、夏が短い年でも一番早く確実に実をつける『十九番』。そして最後に、見た目は不格好で成長も遅いが、虫や葉の病気に強い『四十四番』だ。……さらに、うちの村で昔から作っている在来種の『灰芋』も持っていってくれ。こいつは不味いが、寒さに強くて冬の間も腐りにくい」
ユアンは、それぞれの芋の役割を丁寧に説明した。
「いいか。畑をこの七番だけで埋め尽くしちゃ駄目だ。必ず、十九番と四十四番、そして灰芋を分けて植えるんだ。そうすれば、一種類だけに頼るより、何かが生き残って村を救える可能性がずっと高くなる」
それは、過去三年間の血の滲むような失敗と、十一名の死という代償を払って手に入れた、北辺で生き残るための「正解」だった。前世の記憶にもある。一つの品種にすべてを頼り切り、それが未知の病気や天候で全滅した時、そこに残るのは絶望的な飢餓だけなのだ。
だからこそ、ユアンは多様性の重要性を必死に説いた。
しかし、ファルサ村の村長は、ユアンが差し出した十九番や四十四番の箱を怪訝そうに見下ろし、露骨に顔をしかめた。
「……あんた、何を言ってるんだ?」
「えっ?」
「俺たちは、村の連中を腹一杯にさせてやりたいんだ。この小指みたいな十九番だか、石っころみたいな四十四番だかを知らねえが、こんなもんを植えて、もし秋にこれしか穫れなかったらどうする? そんな少しの量じゃ、村中を養えねえだろうが」
ファルサ村長は、大きな七番の箱をポンと叩いた。
「俺たちが欲しいのは、この一番でかくて、一番美味い『七番』だけだ。こいつを畑いっぱいに植えりゃあ、それだけで他の芋の何倍もの飯になるじゃねえか。なんでわざわざ、不味くて小さい芋に畑の土を割かなきゃならねえんだよ」
「だから、七番は確かに穫れるが、育つのが遅いから冷害に弱いんだ! もし秋に早い霜が来たら、地下の芋が太る前に葉が枯れて、収穫できなくなる危険が……」
「今年の秋はこんなに暖かくて豊作だったじゃねえか! そんな起きるかどうかも分からねえ霜の心配をして、わざわざ収穫の少ない芋を作るなんて、腹を空かせた農民には贅沢な話だ!」
ファルサ村長の言葉に、彼の後ろに控えていた男たちも深く頷いた。
それどころか、やり取りを聞いていたトゥーリ村の村人たちの間からも、同調する声が上がり始めた。
「……ファルサの村長の言う通りかもしれねえな」
ダンが頭を掻きながら言った。
「俺たちも、今年の秋は七番の美味さに救われた。来年は十九番や灰芋の畑を減らして、七番をもっとたくさん植えた方が、街の市場でも高く売れるんじゃねえか?」
「そうよ! 灰芋の不味い汁はもうこりごりだわ!」
エダも声を上げる。
ユアンは愕然とした。あれほど飢えの恐怖を共有し、多様性の価値を理解したはずのトゥーリ村の人間でさえ、目の前の「圧倒的な量と美味さ」という豊かさの前では、その記憶を薄れさせようとしている。
「待ちなさい!」
セリカがたまらず前に出た。
「ユアンの言う通りよ! あなたたちは、春の七十三日の恐怖をもう忘れたの!? あの時、灰芋の備蓄が十四日分なかったら、村はどうなっていたか……」
「代官様……いや、元・代官代理様」
ファルサ村長が、セリカを冷ややかに遮った。
「あんたは春の命令違反で、代官の職をクビになったと聞いている。つまり、今のあんたはただの『村の女』だ。俺たちに、何を植えろと命令する権限はねえはずだぜ」
セリカは言葉に詰まり、唇を強く噛み締めた。
彼女は職を失い、今はただの私人だ。かつてのように、帳簿の数字と権力を背景にして、強権的に正しい選択を強制することはもうできない。制度の後ろ盾を失った「正しい理屈」が、いかに無力であるか。セリカはその現実を冷酷に突きつけられていた。
「……ミラ」
ユアンは、黙って事態を見守っていたミラを振り返った。
「灰芋の価値は、お前が一番よく分かっているはずだ。彼らを説得してくれ」
ミラは一つため息をつくと、籠に少しだけ入った灰芋を持って、ファルサ村長の前に進み出た。
「村長さん。確かにこの灰芋は不味いし、量も穫れません。でも、冬の凍れる土の中でも絶対に腐らない強さがあります。どうか、畑の隅っこでもいいから、これを少しだけ……」
「いらねえよ、嬢ちゃん。そんな水っぽい芋を食うために、俺たちは冬を越したんじゃねえんだ」
ファルサ村長はミラの差し出した籠を、手で無造作に払いのけた。
灰芋が数個、乾いた土の上に転がり落ちる。
ミラはそれ以上何も言えず、落ちた灰芋を拾い集め、悲しそうに目を伏せた。
「さあ、取引といこうぜ、ユアン。俺たちは、この七番だけを買う。銀貨と毛皮で、荷車に積めるだけの七番を譲ってくれ」
これ以上言葉を尽くしても、飢餓から脱したばかりで「豊かさ」に飢えている彼らには、ユアンの言う『リスク分散』という概念は、単なる技術者の臆病な抽象論としてしか響かない。
彼らは腹を空かせているのだ。一番良くて、一番大きな芋を欲しがるのは、生き物として当然の欲求だった。
「……分かった。七番を、荷車三台分だ」
ユアンは力なく頷き、取引に応じた。種芋を分けないこと自体は本意ではないが、ファルサ村に作物を渡さないわけにはいかない。
男たちが歓声を上げ、大きく重い七番の木箱を次々と自分たちの荷車に積み込んでいく。
「ユアン、いいの?」セリカが横から囁く。
「止めても無駄だ。俺たちは技術の正解を知っていても、それを他人に『やらせる』力を持っていない。……人間は、自分の腹で痛い目を見ないと、本当の恐怖を理解できないんだ」
ユアンの言葉には、深い無力感が滲んでいた。
成功が、新たな危険を生み出している。
あの大飢饉を乗り越えた最高の傑作である『七番』が、そのあまりの優秀さゆえに、人々から警戒心を奪い、単一品種への依存という最も脆い農業の形へと彼らを誘惑しているのだ。
やがて、銀貨と毛皮を残し、ファルサ村の男たちは意気揚々と自分たちの村へと帰っていった。
ユアンとセリカ、そしてミラは、秋の夕暮れの中でその後ろ姿を黙って見送っていた。
遠ざかっていく三台の荷車。
その荷台には、十九番も、四十四番も、灰芋も載っていない。
ただ、見事なまでに大きく美しい『七番』の箱だけが、山のように高く積まれていた。




