第32話 二つの罪
十九番の収穫によって最悪の餓死の連鎖を断ち切り、トゥーリ村の広場にようやく安堵の空気が戻り始めた初秋。
その村の静寂を打ち破るように、数十騎の武装した騎兵と、領主の紋章を掲げた重厚な馬車が村の広場へと乗り込んできた。
村人たちが道をあけ、ひれ伏す中、馬車から降り立ったのは、カルネ州を統べる絶対的な権力者、カルネ辺境伯その人であった。
彼は村長や助祭の出迎えを片手で制すると、真っ直ぐに教会の礼拝堂へと向かった。
「関係者以外は外へ出よ。裁定を行う」
辺境伯の重々しい声により、礼拝堂は臨時の法廷へと姿を変えた。
堂内には、祭壇の前に置かれた机を挟んで辺境伯が座り、その前にユアン、セリカ、テオ、そして武装した騎士に両脇を固められた穀物商ギルド代表のハルギス・ヴェインが立たされていた。
辺境伯は冷徹な眼差しで面々を見渡すと、懐から二通の羊皮紙の命令書を取り出し、机の上に伏せて置いた。
「さて、ハルギス・ヴェイン」
「は、はい! 辺境伯閣下、わざわざこのような辺境の村までお越しいただき……」
「言葉を飾るな。お前の商会がこの北辺で犯した罪についての話だ」
辺境伯は、セリカから提出されていた報告書を広げた。
「王国暦八九〇年。お前はヤーゴ芋の独占権を狙い、この村に麦の投資話を持ちかけた。その際、お前が自ら提出し、領の公文書としても保管されている契約書の写しがこれだ。……セリカ、読み上げよ」
「はい」
セリカが、五年前の契約書の一部を淡々と読み上げる。
「『万が一の違約に備え、ハルギス商会が所有するイサル州境の第四穀倉の麦、八十二トンを担保として設定する』……以上です」
ハルギスの顔がわずかに引きつった。
「それがどうしたと言うのです? その契約は結局、ユアン・ケルドの強情によって結ばれなかったではありませんか」
「問題はそこではない」と辺境伯が遮る。
「今年の春。遅霜によって北辺の麦が全滅し、この村の食料が尽きかけた際、お前は村人に『第四穀倉は春から空だ』と申告し、南から高い麦を買うように仕向けたな?」
「……い、いかにも。事実、空でしたからな」
「五年前の契約から、第四穀倉がお前の管理下にあり、大量の麦を扱う施設だったことは確認できる。問題は、今年の春に『空』だったという申告が真実かどうかだ」
辺境伯の厳しい追及に、ハルギスは額に汗を浮かべた。
「そ、それは……誤解です! 五年前は確かに八十二トンの麦がありました。ですが、その後の商売で、今年の春より前には売り払ってしまい……」
「ほう。春には売り払っていたと。では、これを見ろ」
辺境伯は、机の上の書類の束から、一枚の薄い通行札を抜き出してハルギスの目の前に叩きつけた。
「これは、遅霜の被害が報告された直後の数日間に、カルネ州の南の関所を通過したお前の商会の穀物車の記録だ。荷車の轍の深さから、過積載に近い重量の穀物が積まれていたことが関所の役人によって確認されている。……積荷の出所は、第四穀倉だ」
ハルギスの顔から、完全に血の気が引いた。
言い逃れのできない、決定的な物証だった。
ハルギスは、北辺の麦が全滅したことを知るや否や、第四穀倉に備蓄されていた八十二トンの麦を、飢える領民のために解放するどころか、さらに高く売れる南の州へとこっそり流出させていたのだ。そして、飢餓に苦しむトゥーリ村には「空だ」と嘘をつき、足元を見て価格を吊り上げようとしたのである。
「詐欺、備蓄食料の隠匿、および領内危機時における不正流出。……どれをとっても、言い逃れはできんぞ」
辺境伯の宣告は絶対だった。
「ハルギス・ヴェイン。貴様の商会の北辺における営業権をすべて剥奪する。さらに、第四穀倉を含むすべての倉庫を領主権限で接収し、村々が結ばされていた不当な前貸し契約についても全面的に再審査を行う。……連れて行け」
騎士たちに両腕を掴まれ、ハルギスは「お待ちください! 閣下!」と見苦しい悲鳴を上げながら礼拝堂から引きずり出されていった。
彼が農民を縛るために作り上げた緻密な契約書が、最終的に彼自身の首を絞める虚偽の証拠となったのだ。
堂内には、重苦しい空気が一掃されたような、確かな爽快感が広がった。ユアンも思わず拳を握りしめ、長年の脅威が排除されたことに安堵の息を漏らした。
だが、辺境伯の冷徹な裁定は、まだ半分しか終わっていなかった。
「さて、次は……セリカ」
父の呼びかけに、セリカは背筋を伸ばし、一歩前に出た。
「ここに」
「お前が春に下した『非常収用命令』についてだ」
辺境伯は、机の上に伏せられていた二枚の命令書のうち、一つを表に返した。そこには、代官代理としてのセリカの処分が記されていた。
「お前は、ハルギス商会が正当な債務不履行を理由にヤーゴ芋の引き渡しを求めた際、領主の裁定を待つことなく、独断で契約の停止と芋の強制接収を命じた。これは領主の権限を侵す、明確な『越権行為』である」
「お待ちください、辺境伯閣下!」
たまらず、ユアンが声を上げた。
「あの時、ハルギスに芋を渡していれば、村は確実に全滅していました! セリカの決断があったからこそ、俺たちは芋を植え、飢えをしのぐことができたんです! 彼女は村の恩人だ、処分されるいわれは……!」
「黙れ、技術者」
辺境伯の冷たく重い一瞥に、ユアンは言葉を失った。
「結果が正しかったからといって、法を破って良いことにはならない。一人の役人の勝手な正義感で契約が反故にされるようになれば、いずれ領内の秩序は崩壊し、誰もこの地で商売をしなくなる。それが為政者の理屈だ」
その言葉は、技術という正解だけを追い求めるユアンには冷酷に響いた。だが、行政官であるセリカにとっては、痛いほど理解できる絶対的なルールだった。
「……閣下のおっしゃる通りです」
セリカはユアンを制し、深く頭を下げた。
「結果としてハルギスが罪人であったとしても、私が手続きを踏み越えた事実に変わりはありません。いかなる処分も、謹んでお受けいたします」
「うむ」
辺境伯は頷き、裁定を下した。
「お前が行った非常収用によって得られた芋と、その結果としての村の存続は覆さない。だが、越権の代償として、お前をカルネ州北部代官代理の職から解任する。……直ちに、決裁印を返還せよ」
礼拝堂の空気が凍りついた。
代官代理の解任。それは、セリカがこれまで積み上げてきた行政官としてのキャリアと、帳簿を通して村を守るという誇りを、完全に剥奪されることを意味していた。
セリカは微塵も表情を変えず、首から提げていた銀の鎖を外し、そこに繋がれていた重厚な『決裁印』を両手で持ち、静かに机の上に置いた。
コトン、と鈍い音が響いた。
「それから、もう一つある」
辺境伯は、机に残っていた最後の命令書……いや、封蝋のされた手紙をセリカへ差し出した。
「南方の穀運商家からの、書状だ。……お前との縁談は、正式に破談となった」
「破談……」
ユアンが息を呑む。
「当然の話だ。越権行為で職を追われ、商人から強引に財産を没収するような『法を守らない女』と、商取引を重んじる大店が縁を結ぶはずがない」
辺境伯の声には、娘の将来を案じる父親としての感情は一切含まれていなかった。ただ、計算通りの結果を突きつけるだけの冷徹さがあった。
「以上だ。処分は今日この時より発効する」
辺境伯は立ち上がり、護衛の騎士たちを連れて礼拝堂から去っていった。
あとに残されたのは、悪が裁かれた爽快感よりもはるかに重い、正しい結果を出すために払われた代償の苦さだった。
静まり返った礼拝堂。
ユアンは、黙って立ち尽くすセリカの後ろ姿を見つめていた。
代官の職も、約束されていた裕福な結婚も、彼女はたった一度の「村の命を救うための越権命令」によって失ったのだ。
「……セリカ」
ユアンが絞り出すように声をかけると、セリカはゆっくりと振り返った。
その顔に、涙や後悔は一切なかった。ただ、憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな表情を浮かべていた。
「気安く声をかけないでちょうだい、ただの小作農。私はもう、公費の予算を引っ張ってこれる代官様じゃないのよ」
冗談めかして言う彼女の首元には、いつも光っていた銀の鎖も、決裁印もない。
だが、その手は空っぽではなかった。
決裁印を失った彼女の手には、テオが今日までに書き連ねた、過酷な飢餓の記録が記された『死者名簿』が、しっかりと握りしめられていた。
地位や権限を失っても、記録から目を背けない。
それが、一人の人間として村に残ることを選んだ、セリカ・カルネの覚悟だった。




