第30話 十八日ではなかった
トゥーリ村に春の陽光が降り注いでも、ミラ・オルドの心は重く沈んでいた。
遅霜で麦が全滅し、緊急で植え付けた『十九番』のヤーゴ芋が収穫できる七十三日目まで、村にあるすべての食料を切り詰めて命を繋がなければならない。その配給計画において、ミラが管理を任されている村の在来種『灰芋』は、十八日分の胃袋を満たす計算になっていた。
「次、行くわよ。次はエダの家の穴ね」
ミラは泥だらけの腕で額の汗を拭い、帳簿を抱えたセリカを促した。
灰芋はヤーゴ芋のように一箇所の巨大な地下室ではなく、各農家の裏庭や畑の隅にある小さな穴に分散して貯蔵されている。その数、村全体で二十七戸。ミラは今朝から、その穴を一つずつ開けて回り、春を越した灰芋の無事を確認し、正確な量を計量し続けていた。
当初、ミラには確かな自信があった。
低収量で水っぽく、皮が厚い不味い芋。よそ者であるユアンは最初、この芋を鼻で笑った。だが、どんな過酷な冬でも凍らず、腐らずに春まで命を繋ぐ強さを持っているのが、代々この北辺の土で受け継がれてきた灰芋なのだ。その誇りが、ミラを支えていた。
しかし、いざ封土を取り除き、麦藁のクッションを退けて穴の底を覗き込んだ時、その自信は少しずつ崩れ去っていった。
「……駄目だわ。底に水が溜まっている」
エダの家の貯蔵穴を覗き込んだミラは、絶望的な声を漏らした。
今年の春は、雪解けが異常に早かった。その雪解け水が地下に浸透し、いくつかの貯蔵穴の底を水浸しにしていたのだ。水に浸かった灰芋はぶよぶよにふやけ、ツンとした腐敗臭を放っている。
「上の段の芋はどう?」
セリカが顔をしかめながら尋ねる。
「上の方は水に浸かっていないけど……今度は凍結の跡があるわ。冬の間に一度完全に凍って、そのまま溶けたんだわ。中身がスカスカになっている」
ミラは変色した灰芋を掴み出し、力なく地面に放った。
二十七戸の穴をすべて開けて回る作業は、夕暮れ時までかかった。完全に無事だった穴もあったが、浸水や凍結、それに伴う腐敗が広がっていた穴も決して少なくなかった。泥まみれになりながら、食べられるものと駄目になったものを必死により分けるミラの指先は、冷たい泥で赤く腫れ上がっていた。
夜。教会の礼拝堂に、ユアン、セリカ、ミラの三人が集まった。
カンテラの薄暗い灯りの下で、セリカが今日一日かけて計量した灰芋の総量を、配給の日数へと換算していく。羽ペンの音が、静まり返った堂内に冷酷に響いた。
「……計算が出たわ」
セリカが羽ペンを置き、重苦しい声で告げた。
「当初の配給計画では、灰芋は村全体を『十八日』養う予測だった。でも、今日確認できた食べられる状態の灰芋をかき集めても……持つのは『十四日』分。四日分が足りないわ」
十四日。
その数字を聞いた瞬間、ミラは血の気が引くのを感じた。
たかが四日。だが、命の限界を数えながら生きている二百一人の村人にとって、その四日は永遠にも等しい長さだ。ヤーゴ芋の十九番が土の中で育ち切る前に、完全に食料が底をつく。餓死者が出る。
「……ごめんなさい」
ミラは両手で顔を覆い、震える声で謝罪した。
「私の見通しが甘かったのよ。灰芋は強いから、いつもの冬と同じように土の中で耐えてくれるって、そう思い込んでいた。雪解け水の浸水をもっと早く疑っていれば……」
自分が誇りとしていた在来種が、村の命綱を断ち切ってしまった。その責任と苦悩が、ミラの胸を激しく締め上げる。彼女は顔を上げられなかった。ユアンから「だから不味い低収量品種は駄目なんだ」と責められることを覚悟していた。
だが、頭上から降ってきたのは、静かで落ち着いた声だった。
「謝るな、ミラ。お前のせいじゃない」
ミラが恐る恐る顔を上げると、ユアンがセリカの帳簿を引き寄せていた。
彼は木炭の欠片を握り、十四日という数字の横に、力強い筆跡で文字を書き込んでいく。
「いいか。予測から四日分減ったんじゃない。あの異常な寒さと雪解けの中で、灰芋が『十四日分も生き残ってくれた』んだ。もしお前たちが代々この灰芋を守ってこなければ、今頃俺たちは、十四日も早く全員が餓死していたんだぞ」
ユアンは帳簿をセリカに戻し、ミラを真っ直ぐに見据えた。
「灰芋がなければ、十四日すべてが消えていた。この十四日は、間違いなくお前と、この北辺の土地の経験が村を救った結果だ。だから、自分を責めるな」
慰めではない、技術者としての事実の評価。
ユアンのその言葉に、ミラは張り詰めていた糸が切れたように、ポロポロと涙をこぼした。
「……ありがとう、ユアン」
ミラが袖で涙を乱暴に拭うと、セリカが静かに咳払いをした。
「感情の整理がついたなら、現実の話をするわよ。ユアンの言う通り十四日分は確保できた。でも、計画全体で四日分の食料がショートしたという『数字の事実』は変わらない。これをどうやって埋め合わせるかよ」
セリカの指摘は冷酷だが正しい。
「全員の配給を一律で減らして、日数を引き延ばすか?」
ユアンが提案すると、ミラが即座に首を横に振った。
「駄目よ! これ以上減らしたら、弱い人から死んでしまうわ」
ミラの脳裏には、村の顔ぶれが次々と浮かんでいた。緑化芋の中毒から回復したばかりの小さなニア。身重の体で必死に耐えているハンネ。発熱を繰り返してすっかり痩せ細ってしまった水車小屋のオラン。
「子どもや、ハンネみたいな妊婦、それに熱を出している病人たちの分は、これ以上絶対に減らせない。子どもの椀は、今まで通りの量を守らなきゃ駄目」
「同感だ。……なら、減らすのは健康な大人と、体を動かしていない高齢者だ」
ユアンが言い、セリカが即座に計算をやり直す。
「最初の六日間は、急激な体調の悪化を防ぐために、全員にこれまで通りの通常量を配りましょう。そして、残りの灰芋を……最後の十二日間に引き延ばす」
セリカが導き出した答え。それは、最も苦しい十九番の収穫直前の十二日間を、大人の配給を三分の二に減らして耐え抜くという過酷な計画だった。
「一人分から、両手いっぱいずつ芋が減ることになるわ。……耐えられるかしら」
セリカがペンを置き、静かに顔を上げた。
「……はっきり言っておくわ。これは節約じゃない。足りない四日分を、十二日かけて誰かの体から抜き取るということよ」
セリカの声は震えていなかった。震えていないことが、かえって恐ろしかった。
「抜き取った分がどこに出るかは、帳簿には書けないの。熱が下がらない人、傷が塞がらない人、坂で足がもつれる人……そういう形でしか出てこないのよ」
「耐えるしかない。七十日目まで、何が何でも畑を歩けるだけの力を残すんだ」
ユアンの決意に、ミラも深く頷いた。
そして、灰芋の配給期間の七日目。
教会の前に設けられた配給所には、大鍋の前に長い列ができていた。
今日から、ついに減配が始まるのだ。
ミラは自ら大きな柄杓を握り、村人たちが差し出す木椀に、灰芋を煮込んだ汁を注いでいった。
「ニア。はい、しっかり噛んで食べるのよ」
ミラはニアの椀には、底から掬い上げたドロドロの灰芋の塊をたっぷりと落とした。ニアは「ありがとう、ミラお姉ちゃん」と弱々しく笑って受け取る。ハンネやオランの椀にも、昨日までと同じ量が注がれた。
しかし、次に列に並んだヨルトやダンといった、畑で働く健康な大人たちの椀には、明らかに少ない量の汁しか注がれなかった。
「……こりゃあ、水だな」
ヨルトが、椀の底が透けて見えるほど薄い汁を見つめて、引きつった笑いを漏らした。
灰芋の不味さと水っぽさに加え、量が三分の二に減らされた椀。それはもはや食事ではなく、ただ胃袋を温めるだけのお湯に等しかった。
「すまない、ヨルト。でも、これで十二日間耐えて。十九番が実るまで、あと少しだから」
ミラが柄杓を握りしめながら謝ると、ヨルトは首を横に振った。
「謝るなよ。子どもや妊婦の分を削るよりは、俺たちの腹が鳴る方がずっとマシだ。……それに、ミラの家の灰芋がなきゃ、この薄い汁すら飲めなかったんだろ?」
ヨルトはそう言って、薄い灰芋の汁を一気に飲み干した。
ダンも、他の大人たちも、誰も文句を言わなかった。彼らは皆、自分たちの椀から両手いっぱい分ずつ減らされたその「重さ」が、村の弱者たちを生かすための代償であることを理解していたのだ。
ミラは空になった大鍋の底を見つめた。
大人の椀が薄くなる。労働の活力が削り取られていく。
十九番の試し掘りまで、あと十数日。
本当の飢餓の恐怖は、この薄い椀とともに、今まさに始まろうとしていた。




