第29話 別の穴
夜明け前の青白い光の中、トゥーリ村の畑は残酷な静寂に包まれていた。
急激な放射冷却によって降りた霜は、昨日、村人たちが総出で植え付けたばかりの『十九番』の畝を容赦なく白く染め上げていた。
「……駄目だ。浅く植えすぎた場所の種芋が、凍害を受けてる」
ユアンは凍りついた土を素手で掘り返し、顔を歪めた。
早く熱を吸収させて発芽を促すため、あえて浅く植えるよう指示したことが裏目に出た。冷気に直接当てられた種芋のいくつかは、細胞が破壊されてぶよぶよと水気を帯び、すでに腐敗の兆候を見せ始めている。
すべてが死んだわけではない。深く埋まっていたものは無事だ。だが、配給が尽きる七十三日目までに二百一人の胃袋を満たすためには、昨日植えた八トンの種芋一つ残らずが完璧に育つ必要があった。
「欠損した場所に植え直すための予備は……」
背後に立つセリカが、木板の帳簿を見つめたまま唇を噛んだ。
「ないわ。緊急作付け用の八トンは、昨日すべて使い切った。残っているのは、来年のために残さなければならない原種だけよ」
原種に手をつければ、来年以降の村の農業は完全に破綻する。だが補植できなければ、七十三日後に確実に餓死者が出る。
ユアンが絶望的な二択の前に立ち尽くしていたその時、村の方からミラが血相を変えて走ってきた。
「ユアン! セリカ! 大変よ、ガーヴ爺さんが……!」
ミラの悲鳴に近い声に、二人は顔を見合わせた。
ガーヴの粗末な小屋の土間には、重く、肺の奥から泥を絞り出すような咳が響き続けていた。
ムシムシとした湿気を持った咳ではない。冷たい刃物が胸の奥で固まったような、乾いて痛々しい音だ。
「高地の採種畑を一人で見回りに行って……雪解けのぬかるみで足を滑らせて、一晩中冷たい泥の中に倒れていたみたいなの。今朝、ヨルトが見つけて運んできたんだけど……」
ミラが毛布をかけながら、涙声で説明した。
長く続く栄養不足と老齢。それに加えての一晩の冷え込みは、ガーヴの体を完全に限界へと追い込んでいた。額には触れられないほどの高熱が浮かび、呼吸は浅く不規則だ。
十五歳になる孫娘のニアが、祖父のしわくちゃの手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼしている。
「ガーヴ爺さん……」
ユアンが枕元に膝をつくと、ガーヴはうっすらと目を開けた。
「ユアン……か」
「喋るな。今、薪を余分に焚いて部屋を暖めるから」
「いい……俺の体は、俺が一番よく分かってる」
ガーヴは弱々しく首を振り、ユアンの腕を力のない指で掴んだ。
「それより、外が騒がしかったな。……霜か?」
ユアンは言葉に詰まったが、この土と共に生きてきた老農の目を誤魔化すことはできないと悟り、短く頷いた。
「浅く植えた種芋がやられた。補植するための芋が、もう一つもない」
それを聞いたガーヴは、ヒュー、と喉の奥で笛のような音を立てて息を吐き、微かに笑った。
「まったく、お前さんは頭が良すぎるんだ。……数字ばかり見て、土の声を聞かねえから、そういうことになる」
「爺さん?」
「……裏の森の入り口だ。大きな切り株の陰に、古い穴がある。そこを掘ってみろ」
ガーヴの途切れ途切れの言葉に、ユアンとセリカは顔を見合わせた。
ユアンとミラは、ガーヴに言われた通り、村の裏手にある日陰の森の入り口へと向かった。
大きな切り株の裏側には、落ち葉と枯れ枝で巧妙にカモフラージュされた、小さな木の蓋があった。蓋を開けると、人が一人かろうじて入れる程度の、浅い横穴が現れた。
「ここは……」
ユアンがカンテラを掲げて穴の中を覗き込むと、そこには四つの木箱がひっそりと安置されていた。
箱の中には、土のついた小粒のヤーゴ芋がぎっしりと詰まっている。
「十九番だ……」
ユアンは芋を手に取り、驚愕に目を見開いた。
表面には腐敗の兆候もなければ、あの忌まわしい白い芽も伸びていない。冬の間、村の中央の巨大な貯蔵穴に保管されていた芋の多くが、熱と湿気で五トンも駄目になってしまったというのに、この穴に置かれた芋は、秋に収穫された直後と変わらないほど完璧な健全さを保っていた。
「風だ」
背後から覗き込んだミラが、穴の中を通り抜ける冷たい空気に気づいて言った。
「ここは日陰だし、森から川へ向かって常に冷たい風が抜け落ちていく場所よ。だから土の中の温度が上がらなくて、芋がずっと眠ったままだったんだわ」
そこへ、遅れてやってきたセリカが帳簿を開きながら到着した。
「……待って。その十九番の木箱、秋の収穫記録には存在しないわ」
セリカの顔が険しくなる。
「中央貯蔵穴の在庫リストと照らし合わせても、数が合わない。ガーヴ殿は、秋の収穫の時に意図的にこの四箱の十九番を隠し、公式の帳簿に載せずに自分の穴へ持ち込んだのね。これは明確な規則違反、横領よ」
「横領……? そんな、おじいちゃんが村の芋を盗むなんて!」
ミラが反論しようとしたが、ユアンは押し黙ったまま、完璧な状態の十九番を見つめていた。
技術責任者として、彼が一番恐れていたのは管理の破綻だ。中央の貯蔵穴で全量を一括管理し、温度と換気を毎日記録する。それが最も合理的で安全な方法だと信じていた。その自分の設計を、一介の農民が無断で破っていたことに対する怒りが、一瞬だけ胸をよぎる。
だが、その怒りは、前世の知識という冷水によってすぐに洗い流された。
(……違う。俺の設計が間違っていたんだ)
ユアンは拳を固く握りしめた。
二十四トンの芋を一箇所に集める。それは確かに管理の効率は良いが、もしその一つの穴の環境が崩れれば、全滅するという致命的なリスクを孕んでいる。
「リスク分散だ」
ユアンは絞り出すように言った。
「……俺の知る技術の原則に『すべての卵を一つの籠に盛るな』という言葉がある。ガーヴ爺さんは、長年の農民の勘で、俺の中央集権的な貯蔵計画の脆さを感じ取っていたんだ。もしあの大穴が駄目になった時のために、わざと環境の違うこの涼しい日陰の穴に、最も早く実る十九番の母株だけを『保険』として分けておいたんだ」
数字の効率しか見ていなかったユアンの傲慢さを、土と風を知る老農の経験が静かに補っていた。
ガーヴが規則を破っていなければ、今頃、霜でやられた畑を前に、村は本当に終わりを迎えていたのだ。
「……規則違反だとしても、この結果を前にしては罰することはできないわね」
セリカも帳簿を閉じ、小さく息を吐いた。彼女もまた、行政の手続きが必ずしも命を救うわけではないという現実を、苦い思いとともに噛み締めていた。
「運ぶぞ。これなら、霜でやられた区画を完全に埋め合わせることができる!」
その日のうちに、発見された健康な十九番の種芋は、霜害を受けた畑へと丁寧に補植された。
枯れかけた畝に再び希望の種が埋められ、七十三日計画は首の皮一枚でどうにか繋ぎ止められた。
しかし、農業の危機を乗り越えた村に、安堵の時間は訪れなかった。
補植が終わってから数日後。
ガーヴの熱はいよいよ下がることなく、彼の呼吸は次第に浅く、かすかなものになっていった。長く続く栄養不足と寒さが、彼の老体を容赦なく削り切ってしまったのだ。
小屋にはユアン、セリカ、ミラ、そしてニアが集まっていた。
「おじいちゃん……死なないで……」
ニアがガーヴの冷たくなった手を両手で包み込み、声を上げて泣いている。
ガーヴは霞む目でニアを見つめ、微かに震える手を伸ばして、枕元に置いてあった小さな木の束を掴んだ。
それは、彼が春の播種や秋の収穫の際、数の計算ができない代わりに、株の数を把握するために使っていた手作りの「数え棒」だった。
「……ニア」
「おじいちゃん……」
「お前は、若い。これからは……俺みたいに風や影だけじゃなく、ちゃんと……数え方を覚えろ」
ガーヴは数え棒の束を、ニアの小さな手のひらに押し付けた。
「ユアンや……代官様が作る、新しい畑の数を……お前が、数えるんだ。間違えずに、な」
「うん……うん、数えるよ。私、ちゃんと数えるから……!」
ニアの涙が数え棒を濡らす。
ガーヴはゆっくりと視線を動かし、ユアンを見た。
「ユアン……。北辺の土は、冷てえぞ。だが……」
その先の言葉は、かすかな空気の漏れる音に変わり、そして二度と紡がれることはなかった。
老農のしわくちゃの手が、ニアの手から滑り落ちる。
小屋の中に、少女の泣き声だけが悲痛に響き渡った。
ユアンは唇を噛み締め、ガーヴの安らかな顔を見つめた。自分の知識の至らなさが、また一つ、尊い命を奪う一因となってしまった悔しさと喪失感が、胸の奥で黒い渦を巻いている。
数日後。
ガーヴの遺体は、彼が一番愛した石壁の試験畑の近く、風の通る丘に埋葬された。
葬儀を終えたユアンが、静まり返った十九番の畑を歩いていると、黒い土の表面に微かな変化があることに気づいた。
霜でやられ、ガーヴが残してくれた種芋を補植した区画。
その土が小さく盛り上がり、ひび割れ、中から力強い緑色の新しい芽が、春の太陽に向かって顔を出していた。
それは、ガーヴの経験が残した命が、確実に未来へと根を張り始めた証だった。




