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異世界で芋を植えたら、葉しか茂らなかった。~元・種芋屋の俺が三個の芋から飢えない北辺を作るまで~  作者: 他力本願寺


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第28話 越権命令

三つの南京錠が外され、村人全員の目の前で「命の全量」が計量された興奮冷めやらぬ広場に、再び重々しい馬車の車輪の音が響き渡った。


 村人たちの顔から血の気が引く。現れたのは、先日「麦を五倍の値段で売ってやる」と嘯いて去っていったばかりの穀物商ギルド代表、ハルギス・ヴェインだった。


 彼は護衛の傭兵を数人引き連れて馬車から降り立つと、広場の中央に積み上げられたままのヤーゴ芋の山――青い札が立てられた十九番の種芋――を見て、ニヤリと唇を歪めた。


「素晴らしい。これだけの芋が残っていたのなら、わざわざ私が麦を運んでくる必要はありませんでしたな」


「何の用だ、ハルギス。ここはこれから植え付けの作業で忙しいんだ」


 ユアンが警戒心を露わにして前に出ると、ハルギスは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、大げさな動作で広げてみせた。


「何、ただの正当な権利の行使ですよ。お前たちが何度も更新してきた、前貸し麦の返済契約書。麦の不作により返済が滞った場合、担保として畑と『すべての収穫物』を我が商会が没収する。……もちろん、そのヤーゴ芋も立派な収穫物です」


「なっ……!」


 ユアンは絶句した。更新を重ねてきた契約――ハルギスが独占権を要求してきた際に拒否したものとは別の、村全体が春を越すために結ばざるを得なかった古い借金の契約だ。麦が全滅した以上、村は完全に債務不履行の状態にある。


「さあ、その青い札のついた芋をすべて我々の荷車に積んでもらいましょう。それを市場で売って、いくらかでも負債の足しにさせてもらいます」


「ふざけるな!」


 ヨルトが激昂して前に出ようとしたが、傭兵たちが剣の柄に手をかけて威嚇した。


「手を出せば犯罪ですよ。我々は法と契約に従っているだけだ。……それとも、代官代理殿はこの明確な契約を反故にして、農民の暴動を支持なさるおつもりで?」


 ハルギスのねっとりとした視線が、セリカに向けられた。


 セリカは押し黙っていた。


 代官代理として、契約という絶対的な文字の重みを誰よりも理解しているのは彼女だ。法を曲げれば、カルネ辺境伯領の統治そのものが揺らぐ。


「……領主に裁定を仰ぐ時間が必要です。直ちに執行を停止しなさい」


 セリカが苦しげに絞り出した言葉を、ハルギスは鼻で笑った。


「裁定を待つのは構いませんが、その間、担保である芋は我々が厳重に保管させていただきます。村人に勝手に食べられたり、土に埋められたりしては困りますからね」


「それを渡せば、俺たちは全滅するんだぞ!」


 ユアンが叫ぶ。十九番の生育には七十三日が必要だ。今日、今すぐ畑に植え付けなければ、村の備蓄が尽きる日までに収穫が間に合わなくなる。領主の裁定を待って数日、あるいは十日も植え付けが遅れれば、その時点で二百一人の餓死が確定するのだ。


「農民の腹の虫まで、商会が面倒を見る義理はありませんな。さあ、運びなさい」


 ハルギスの合図で、傭兵たちが青い札の芋の山へと歩み寄ろうとする。


 ユアンは鍬を握りしめた。法も契約も知ったことか。ここで芋を奪われるくらいなら、力ずくでも……。


 その時だった。


「その芋に指一本でも触れれば、カルネ辺境伯領への反逆とみなして斬り捨てます」


 氷の刃のような声が、広場を凍りつかせた。


 セリカだった。彼女は自らの護衛騎士たちに目配せをし、傭兵たちを包囲するように展開させた。


「何かの冗談でしょう、代官代理殿」ハルギスが目を丸くする。「私は正当な契約に基づいて……」


「今この瞬間をもって、ハルギス商会との債務契約の執行を無期限で停止します。同時に、村に存在するすべてのヤーゴ芋を、領の危機管理に基づく『非常収用』の対象とし、領主の名において接収、ただちにトゥーリ村の農地へ作付けすることを命じます」


 それは、明らかな『越権命令』だった。


 代官代理にすぎない彼女に、正当な契約を一方的に停止し、商人の私有財産となるはずの担保を強制的に接収する権限などない。平時であれば、間違いなく職権濫用で糾弾される行為だ。


「本気ですか、セリカ様! そんな真似をすれば、我々穀物商ギルドは今後一切、北辺に麦を運びませんぞ! それに、あなた自身の立場も……」


 ハルギスの顔に初めて焦りが浮かんだ。


 ユアンも息を呑んでセリカの横顔を見た。彼女は数字と手続きを何よりも重んじる人間だ。その彼女が、自ら法と規則を破ろうとしている。


 その結果、彼女が何を失うか。


 代官としての地位。辺境伯の娘としての信用。場合によっては、私財の没収。そして……先月決まったばかりの、南方の穀運商家との縁談。ハルギスたち商人のネットワークを通じて「法を守らない危険な女」という悪評が流れれば、商取引を前提とした結婚など一瞬で破談になる。


 セリカは自分が築き上げてきた将来のすべてを、今、この泥だらけの広場で燃やそうとしていた。


「私の立場など、二百一人の命の計算式には入りません」


 セリカは微塵も揺るがなかった。


「テオ!」


「はい、ここに」


 群衆の後ろから、修道士のテオが進み出た。彼は教会の記録係として、常に羊皮紙とインク壺を持ち歩いている。


「ただいまの私の命令を、公式な文書として三通複写しなさい。一つは領主館へ、一つはハルギス商会へ、残る一つはこの村の記録として残す」


「承知いたしました」


 テオは神聖な儀式でも行うかのように、すらすらと命令書を書き上げていく。越権行為であることを重々承知の上で、彼女が下した決断を歴史に刻むために。


「ユアン・ケルド」


 セリカが振り返り、ユアンを真っ直ぐに見つめた。


「私は行政官として、手続きを破るという最大の罪を犯したわ。これで時間が買える。あとは技術責任者であるあなたが、この奪い取った時間で結果を出しなさい。この命令書に、事業責任者として署名できる?」


 セリカの瞳には、一切の後悔も迷いもなかった。


 彼女は自分の人生を天秤にかけ、ユアンの「七十三日で実る」という技術予測の方を重しとして選んだのだ。


「……ああ。俺の命に代えても、必ず実らせてみせる」


 ユアンは羽ペンを受け取り、テオが書き上げた命令書の末尾に、迷いなく署名した。


 それを見たハルギスは、顔を真っ赤にして吐き捨てた。


「……狂っている。領主の娘も、農民も。好きになさるがいい。秋になって芋が実らず、餓死者の山ができた時、我々は一粒の麦も売ってやりませんからな!」


 ハルギスは傭兵たちを引き連れ、逃げるように村から去っていった。


「急ぐぞ! 日が暮れる前に、すべての種芋を畑に埋めるんだ!」


 ユアンの怒号で、村人たちが一斉に動き出した。


 エダも、ヨルトも、ダンも、村の誰もが青い札のついた十九番の芋を大事そうに抱え、耕されたばかりの黒い土の畑へと走る。


「種芋の芽が上を向くように、そして浅く植えろ! 今の時期はまだ土の中が冷たい。浅く植えて太陽の熱を稼ぐんだ!」


 ユアンは前世の知識を総動員し、少しでも早く発芽させるための植え付け技術を大声で指示して回った。


 セリカが越権命令という犠牲を払って稼ぎ出してくれた時間。一日たりとも無駄にはできない。村人たちは泥にまみれ、息を切らしながらも、希望という名の種を次々と土の中へ隠していった。


 夕闇が迫る頃、約八トンの十九番の種芋は、すべてトゥーリ村の広大な畑へと作付けされた。


 二百一人の命を繋ぐための、七十三日間のカウントダウンが始まったのだ。


 その夜。


 深い疲労とともに眠りについた村人たちだったが、深夜、ユアンは寒さで目を覚ました。


 薄い毛布を引き寄せようとして、ふと窓の外を見る。


 雲一つない、星が凍りつくように瞬く夜空。風は完全に止んでいる。


「……放射冷却」


 ユアンの口から、絶望的な呟きが漏れた。


 前世の知識が、この美しくも静かな夜がもたらす致命的な現象を警告していた。地表の熱が空に向かって一気に奪われ、急激に気温が低下する。


 ユアンは慌てて家を飛び出し、昼間、村人たちと総出で十九番を植え付けた畑へと走った。


 夜明け前の青白い光の中、彼が見たものは、残酷な自然の仕打ちだった。


 セリカが自らのすべてを投げ打って守り抜き、村人たちが祈るように植え付けたばかりの黒い土の畝。


 その表面に、薄っすらと、しかし確実に、白い霜が降り始めていた。

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