第27話 扉を開ける
セリカとユアンが『七十三日』の配給計画と技術予測に署名した翌朝。
トゥーリ村を覆う空気は、春の冷気以上に冷え切っていた。数字として突きつけられた「余裕日数がゼロ」という事実は、村人たちの心に鉛のような重圧となってのしかかっていた。
昨晩の熱気は冷め、夜が明けてみれば、現実の飢えが再び彼らの腹を容赦なく締め上げてくる。配給の椀に盛られた豆と雑穀の汁は、胃の腑に落ちた傍から消えてなくなるように心許なかった。
そんなギリギリの精神状態が、一つの黒い噂を村の中に生み出していた。
「おい、退けよユアン。中を見せろって言ってるんだ!」
ケルド家の古い倉庫の前には、血走った目をした数十人の村人たちが押し寄せていた。
先頭に立っているのは、若い農作業員のヨルトだ。彼の頬はこけ、目には飢えによる焦燥がギラギラと燃えている。
「お前たち、代官様と結託して、俺たちには薄い汁ばかり飲ませておいて、この中にたらふく食える芋を隠し持ってるんじゃないだろうな!?」
「そうだ! 春一番に商会から高い麦を買わなかったのも、自分たちだけ生き延びる蓄えがあるからだろ!」
群衆の後ろから、同調する怒声が飛ぶ。
無理もない。極限の飢餓状態にある人間にとって、施錠された扉の奥に食べ物が眠っているという想像は、狂気に近い疑心暗鬼を生む。
だが、ユアンは重い南京錠がかけられた木の扉を背にして、両腕を広げて立ち塞がった。
「馬鹿なことを言うな! ここに隠し食料なんてない! あるのは昨日教会の広場で仕分けした、来年のための種芋と、これから畑に植える十九番の種だけだ!」
「だったら開けろ! 俺たちの目で確かめさせろ!」
ヨルトが一歩踏み出し、ユアンの胸ぐらを掴もうとする。ダンが間に入ってヨルトを突き飛ばしたが、村人たちの殺気は収まるどころか、ますます膨れ上がっていった。
(駄目だ、退くわけにはいかない)
ユアンは奥歯を噛み締めた。
この扉の向こうにあるのは、高地採種で病気から守り抜いた原種や、これからの七十三日を戦い抜くための十九番の種芋たちだ。少しでも傷つけられたり、混乱に乗じて奪われたりすれば、村の未来は完全に閉ざされる。
過去、種芋の病気を見抜けずに農家に損害を出した前世の傷。そして、緑化芋の毒でニアを死にかけさせた過失。技術責任者として、これ以上管理を怠るわけにはいかない。俺が、俺一人で守り抜かなければならないのだ。
そう固く決意したユアンだったが、彼の視線が、群衆の後ろで不安そうに立ち尽くすエダの姿を捉えた瞬間、その思考がピタリと停止した。
痩せ細った二人の子どもの手を強く握りしめるエダ。
かつて、彼女がこの倉庫から六個の七番を盗み出した時の、悲痛な叫び声が耳の奥に蘇った。
『七年後の六百個よりも、今日のこの子たちの命が欲しかったんだよ!』
はっとした。
扉を閉ざして力で守ろうとすればするほど、彼らの飢えと恐怖を煽ることになる。前世の種苗会社でもそうだった。不都合な事実を隠し、専門家だけで情報を抱え込もうとした結果、農家の不信を招き、取り返しのつかない損害を生んだ。
閉じた扉では、永遠に彼らの信頼を得ることはできない。
必要なのは、隠すことではない。すべてをさらし、彼ら自身に重さを実感させることだ。
「……ダン兄貴、退いてくれ」
ユアンは静かに言い、ダンの肩を叩いた。
「ユアン? 何言ってんだ、こいつら暴動を起こしかねねえぞ」
「いいから。……みんな、よく聞いてくれ!」
ユアンは腹の底から声を張り上げ、村人たちを見据えた。
「隠し立ては一切しない。この中にあるものを、今から広場に全部運び出す! ヨルト、お前らも手伝え!」
ユアンはそう言うと、懐から鍵を取り出し、自らの手で重い南京錠をガチャリと開け放った。
数十分後、村の広場の中央には、教会の前に備え付けられていた巨大な大秤が持ち出されていた。
倉庫の中にあったすべての木箱が運び出され、秤にかけられていく。セリカが傍らに立ち、帳簿と照らし合わせながら一つ一つ正確な重量を記録していった。
やがて、広場の中心に、薄黄色のヤーゴ芋がうずたかく積み上げられた。昨日の仕分けで確認した、使用可能な十九トンすべてである。
目の前に現れた本物の食料の山に、村人たちからゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。
ユアンはその芋の山の前に立ち、三つの色の違う木札を手にした。かつてニアと一緒に色を塗った、用途を分けるための札だ。
「よく見てくれ。これが、俺たちの命の全量だ」
ユアンはまず、山のほぼ半分を占める塊の前に『白』の札を立てた。
「この約九トン半の芋が、今日から皆の椀に入る『食用』だ。これが、昨日セリカが読み上げた三十二日分の全量だ」
次に、残りの芋のうち、大きな塊の前に『青』の札を立てた。
「こっちの約八トンが、今すぐ畑に植え付ける『十九番の緊急作付け用』だ。これを植えなければ、七十三日後に俺たちは間違いなく餓死する」
最後に、一番小さな塊の前に『赤』の札を立てる。
「そしてこの一トン強が、高地で病気から守り抜いた『原種と母株』だ。これは来年、再来年の村の畑を支えるための土台だ。絶対に食ってはならない」
ユアンは三つの山を指差し、ヨルトの前に進み出た。
「ヨルト。お前の言う通り、ここには食料がある。緊急作付け用の十九番と原種を全部鍋に入れて煮込めば、村の全員が十日以上は腹一杯に食えるだろう。……だが、その後はどうする?」
ヨルトは口を引き結び、目の前の芋の山を見つめた。
数字の羅列で言われるよりも、目の前に質量として提示されたことで、彼らにも突きつけられた現実が痛いほどに理解できた。
今これを食えば、十日後には確実に飢え死にする。
「俺は技術者だ。芋の芽出しや病気の防ぎ方は知っているが、皆の腹を満たす魔法は使えない。俺一人が倉庫に鍵をかけて芋を守ることは、もうやめる」
ユアンは振り返り、オルド村長、ガーヴ、そしてバルド助祭を前に呼んだ。
「今日から、この芋は村全員で管理する。倉庫の鍵は一つじゃない。南京錠を三つ用意して、俺、オルド村長、バルド助祭で一つずつ持つ。三人が立ち会わなければ、絶対に扉は開かない仕組みにする」
教会の権威であるバルドと、村の代表であるオルドを巻き込むことで、横領の疑いを完全に断ち切るのだ。
「それに加えて」
セリカが帳簿から顔を上げ、冷徹な声で宣言した。
「毎日、配給で減っていく食用の在庫と、畑に植え付けて減っていく種用の在庫を、倉庫の前の大きな板に書き出して掲示するわ。村の誰もが、今私たちにあとどれだけの命が残されているのか、一目で分かるようにね」
在庫の完全な可視化と、共同管理。
それは、実務家であるユアンとセリカが導き出した、人間の恐怖と疑心暗鬼を鎮めるための最強の制度だった。
広場は静まり返っていた。
暴動を起こしかけていたヨルトも、エダも、他の村人たちも、広場の中央に分けられた三つの山をただ無言で見つめている。
もはや、技術者であるユアンの孤独な戦いではない。
倉庫の奥の暗闇に隠されていた芋は、今や村人全員の目の前にある秤の上に置かれ、春の眩しい陽光にさらされている。隠し事はなくなり、残されたのは「どう生き延びるか」という絶対的な連帯感だけだった。
「……分かった」
ヨルトが深く息を吐き出し、拳の力を抜いた。
「俺たちが悪かった。隠されていると思うから、怖かったんだ。……明日から、その十九番ってやつの植え付けを手伝う。その代わり、七十三日後に絶対俺たちを腹一杯にさせてくれよ」
「ああ、約束する」
ユアンが力強く頷くと、村人たちからも次々と同意の声が上がった。
重い扉は開かれ、十九トンの芋は再び地下の貯蔵穴へと運び込まれていく。
だが、その扉に新たに取り付けられた三つの南京錠は、もう不信の象徴ではなく、二百一人が共に明日を生きるための、強固な約束の証となっていた。




