第26話 七十日を買う
トゥーリ村の教会の冷たい石の床には、かき集められた豆、蕪、雑穀の袋と、選別されたヤーゴ芋の木箱、そして各戸から申告された灰芋の保管リストが並べられていた。
村人たちが固唾を飲んで見守る中、代官代理のセリカは分厚い帳簿を開き、インク壺に羽ペンを浸した。彼女の周りにはピンと張り詰めた空気が漂い、誰も口を開くことすらためらわれる。
二百一。
それが、現在トゥーリ村で暮らす人間の総数だった。老人から赤子まで、この二百一の胃袋を満たし、麦が全滅したこの絶望的な春から次の収穫までを生き延びさせなければならない。
「……集計が終わったわ」
セリカが羽ペンを置き、静まり返った礼拝堂に凛とした声を響かせた。
「これから、私が読み上げる数字をよく聞きなさい。一切の希望的観測を排した、この村の命の限界を示す数字よ」
村人たちの喉がゴクリと鳴る。
セリカは帳簿のページをめくり、容赦のない現実を告げた。
「まず、各戸からかき集めた豆、蕪、雑穀などの残存穀物。これを標準的な配給量である一人一日約一・五キログラムとして計算した場合、持つのは『二十三日』」
どよめきが起きた。一ヶ月も持たない。
「静かに!」セリカが一喝する。「次に、地下貯蔵穴から無事に引き上げられ、安全規則に従って食用に回すヤーゴ芋の量。これが『三十二日』分」
ユアンが唇を噛む。二十四トンあったはずの芋が、五トンもの損耗を出した結果だ。
「そして、オルド村長たち各農家が貯蔵穴に保管しているという在来種、灰芋の申告予測量。これが『十八日』分よ」
セリカはそこで言葉を区切り、村人たちを、そしてユアンを真っ直ぐに見据えた。
「二十三日、三十二日、十八日。……すべてを合計して、今の村の食料が尽きるまでの日数は、『七十三日』。これが私たちの残された時間のすべてよ」
七十三日。
約二ヶ月半。それがどれほど短い時間であるか、長く厳しい農作業を経験してきた彼らには痛いほどに分かっていた。
「七十三日……たったの七十三日で、次の作物が穫れるって言うのかよ」
荷車引きのペルが、足の傷を押さえながら絶望的な声で呻いた。
「無理だ。今から豆や蕪の種を蒔いたって、育つまでに早くても三ヶ月以上はかかる。麦ならもっとだ。七十三日目には、村中の食料が完全に空っぽになる。俺たちは……餓死するのを待つしかねえんだ」
村人たちの間に、パニックに近い悲鳴や嗚咽が広がり始める。エダは二人の子どもを抱きしめて泣き崩れ、水車小屋のオランは虚ろな目で宙を見つめていた。
「……ユアン」
セリカが、隣に立つユアンに声をかけた。彼女の瞳には、村人たちのようなパニックはない。ただ、実務家としての強烈な問いが込められていた。
「行政の計算はここまでよ。あとは技術責任者であるあなたが、この『七十三日』という時間で、命をつなぐ答えを出せるかどうかだわ」
ユアンは無言で、手にしたボロボロの木の皮の帳簿をめくっていた。
彼が開いていたのは、四年前の春から書き溜め続けてきた『十九番』の区画の栽培記録だった。
小粒だが、他のどの品種よりも早く花を咲かせ、一番最初に地上部を枯らした早生の芋。
(発芽からの日数、葉の展開速度、塊茎の肥大開始時期……)
ユアンは木炭で書かれた数字の羅列を、血眼になって追った。前世で何度も見てきた生育日数のグラフと、目の前の記録が重なり合う。
もし、十九番を今すぐ畑に植え付けたとして、どれだけの日数で収穫にたどり着けるか。
村人たちの命が、自分の弾き出す数字にかかっている。
前世の傷が、ユアンの胸を締め付けた。不確実な判断で農家に損害を出したあの時、彼は責任を負うことから逃げた。自然相手の農業に「絶対」はない。もし自分の予測が外れれば、ここにいる二百一人は本当に全滅する。
だが、逃げれば今ここで彼らは死ぬ。
ユアンは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして、目を見開いて叫んだ。
「……いける」
その力強い声に、礼拝堂の喧騒がピタリと止んだ。
「いけるぞ。七十三日あれば、俺たちは生き延びられる」
ユアンは村人たちに向き直り、手に持った帳簿を高く掲げた。
「俺たちが選抜した三系統のうちの一つ、『十九番』という芋がある。こいつは圧倒的に成長が早い。五年にわたって記録を録り続けた結果、こいつは植付け後『七十日目』から、土の中の芋を試し掘りして食うことができる」
「ななじゅうにち……?」ダンが信じられないという顔をした。
「七十日目に、最初の畝を掘れる。そこから一日ごとに収量は増えていく。そして七十三日目からは、村全体を食わせられる。それが五年分の記録が出した答えだ!」
ユアンの宣言に、村人たちの顔に一筋の希望の光が差した。
「本当かよ……! その南の芋なら、間に合うって言うのか!?」
「だが、一つでも計算が狂えば……」
ざわめきの中で、ユアンはセリカを見た。
ユアンの内心には、一つの巨大な懸念があった。十九番の記録は、あくまで過去四年間の「標準的な気温」での話だ。今年はすでに春の遅霜という異常気象が起きている。もし植え付け後にさらなる低温が続けば、生育は数日遅れる危険がある。
農業において、数日の遅れは日常茶飯事だ。だが今の彼らにとって、その「数日」は二百一人の餓死を意味する。
余裕日数は、完全にゼロなのだ。
セリカもまた、ユアンの目からそのリスクを読み取っていた。
「……不確実な部分があるのね?」
セリカが小声で問う。ユアンは頷いた。
「天候次第で、数日ずれる危険はある。だが、誰かが『行ける』と断言して畑に向かわせなければ、村は飢える前に恐怖で崩壊する」
ユアンは懐から小刀を取り出し、自らの指先を少しだけ切った。血が滲む。
「俺は、自分の出す数字に命を懸ける」
ユアンは教会の祭壇に進み出ると、セリカが用意していた緊急作付け計画書の『技術予測』の欄に、自らの血で力強く「ユアン・ケルド」と署名した。
それは、不確実な未来に対する全責任を、一人の技術者として引き受けるという明確な宣言だった。
その血の署名を見た村人たちの間に、言葉にならない震えが走った。小作農の次男坊が、自分たちの命を背負って見せたのだ。
「……立派な覚悟ね」
セリカは静かに言い、羽ペンを取った。
「技術者が命を懸けるなら、行政官もそれに報いるのが筋というものよ」
彼女は計画書の『配給計画』の欄に、流麗な文字で自身の名を署名した。
二人の専門家が、それぞれのリスクを背負って作り上げた一枚の紙。
「これで決定よ」
セリカは署名した計画書を村人たちに高く掲げて見せた。
「私たちは今日から、すべての食料を村の共有財産として管理する。そして、ユアンの指導のもと、全力で十九番を畑に植え付けるわ。七十日目まで、一日たりとも気は抜けない。畑を耕し、土を盛り、自分たちの命を自分たちの手で勝ち取りなさい!」
「おおおおおっ!」
村人たちの間から、決死の咆哮が上がった。
それは恐怖をねじ伏せ、生き延びるための意志の叫びだった。
礼拝堂の熱気の中で、ユアンは祭壇に置かれた計画書を見下ろした。
そこには、食料の在庫日数と、十九番の収穫までの日数が並んで記されている。
残存食料、七十三日。
必要日数、七十三日。
その下にある『余裕日数』の欄には、セリカの冷徹な筆跡で『ゼロ』と書き込まれていた。
彼らは今から、一日の猶予もない薄氷の上を、二百一人全員で渡り切らなければならないのだ。




