第25話 第四穀倉は空だった
王国暦八九五年の晩春。
トゥーリ村を覆った異常な冷気は、太陽が高く昇るにつれて徐々に引いていった。だが、それがもたらした絶望が溶けることはなかった。
見渡す限りの麦畑は、霜の刃によって徹底的に蹂躙されていた。青々としていた茎は黒ずんで力なく折れ曲がり、風が吹くたびに乾いた音を立てて砕けていく。村人たちは自分たちの畑の前にへたり込み、天を仰いで声にならない嗚咽を漏らしていた。
この春の遅霜による麦の広域壊滅は、トゥーリ村だけでなく、カルネ州をはじめとする北辺三州全体を襲った未曾有の災厄だった。
だが、絶望して立ち止まる時間は、誰にも残されていなかった。
「泣いている暇はないわ! 各戸に残っている豆や蕪、雑穀をすべて数え上げなさい! 隠し立ては許さないわよ!」
村の広場で、セリカの鋭い声が響き渡った。彼女は代官代理としての冷徹な顔を貼り付け、次々と村の男たちに指示を飛ばしていた。
自身の縁談によって得られるはずの「安定した麦の輸送路」は、この霜によってむしろ重要性を増していた。だが、その私的な将来に思いを馳せる余裕など、今の彼女にはない。行政官として、まずは領民が今持っている命の猶予を数字として把握しなければならなかった。
「ユアン! 地下貯蔵穴の再点検を! 秋に収穫したヤーゴ芋がどれだけ無事に残っているか、正確な数字を出して!」
「分かっている!」
ユアンはカンテラと帳簿をひっつかみ、ダンやガーヴたちを伴って地下貯蔵穴への階段を駆け下りた。
ひんやりとした土の匂いが漂う地下空間。
秋には二十四トンもの巨大な山を形成していたヤーゴ芋の備蓄。それが、この村を飢餓から救う最後の防壁となるはずだった。
だが、カンテラの灯りが奥を照らし出した瞬間、ユアンの顔が強張った。
「……ひどいな」
ダンが思わず鼻を覆った。貯蔵穴の奥から、ツンとした酸っぱい悪臭と、カビの匂いが漂ってきている。
二十四トンの山は、秋の姿を保ってはいなかった。
外気に近い壁際の芋は冬の間に凍結し、春の訪れとともに融解してドロドロの泥のようになって崩れていた。また、山の中央部では、芋自身の呼吸によって発生した熱と湿気がこもり、白や緑のカビに覆われた腐敗芋が周囲を巻き込んでどす黒い塊と化している。
さらに、暖かさに勘違いした芋からは長く不気味な白い芽が伸びきり、養分を吸い尽くされてシワシワにしなびたもの、あるいはネズミに齧られて無惨な姿になったものが無数に転がっていた。
「早くしろ! 生きている芋を腐った芋から引き離すんだ!」
ユアンの怒号で、作業が始まった。
彼らは泥と悪臭にまみれながら、無事な芋と駄目になった芋を仕分け、重量を測り直していった。前世で何度も見てきた貯蔵損耗の現実。だが、自分たちの命が直結している今、その数字の目減りは肉を削がれるような痛みだった。
数時間後、泥だらけになったユアンが地上へ上がり、セリカの前に立った。
「……どうだったの。秋には二十四トンあったはずよ」
「腐敗、萌芽、しなび、凍結……完全に駄目になった分だけで、約五トンだ」
ユアンは血を吐くような思いで数字を告げた。
「使えるのは、約十九トン。これが今の俺たちの全財産だ」
周囲で聞いていた村人たちから、悲鳴のような声が上がった。二十四トンという巨大な数字を心の拠り所にしていた彼らにとって、五トンもの食料が消え失せた事実は、あまりにも重い宣告だった。
「悲観しないで! まだ十九トン残っているのよ!」
セリカが村人たちを叱咤し、ユアンに向き直った。
「その十九トンの内訳はどうするの?」
「用途ごとに完全に切り分ける。食うためのもの、緊急で植え付けるための種用、そして原種保存用だ」
ユアンは背後の貯蔵穴を振り返り、大声を上げた。
「バルド助祭! ニア! 頼む!」
ユアンの呼びかけに、教会のバルド助祭と、成長したニアが木札を抱えて進み出た。
かつてヤーゴ芋を「地の毒」と忌み嫌っていたバルドは、今や村人たちを前にして、手にした小刀で芋の芽を実演するようにえぐって見せていた。
「よいか、皆の衆! この緑色になった皮と、芽の根元には悪魔の毒が潜んでいる! 食べる前には必ず皮を厚く剥き、芽は深くえぐり取るのだ! これを怠れば、神の罰ならぬ地の毒がその身を滅ぼすぞ!」
教会の権威を借りたバルドの厳格な指導は、飢えた村人たちに「安全な調理」を徹底させる最強の抑止力となっていた。
その横で、ニアが小さなハンマーを使い、仕分けられた芋の箱に色札を打ち付けていく。
「青い札は、来年のための種だから食べちゃ駄目。何もついていないのが、今日のご飯ね」
かつて緑化した芋を食べて死にかけた少女は、今や誰よりも厳格に、種用と食用の境界線を守る番人となっていた。
過去の失敗から生まれた安全規則が、極限の飢餓という足音の中で、完璧に機能し始めていた。
だが、村の食料集約が急ピッチで進む中、広場に場違いなほど立派な馬車が乗り込んできた。
ハルギス・ヴェインだった。
彼は馬車から降り立つと、絶望に暮れる村の惨状を見渡し、わざとらしくため息をついた。
「おやおや、これは悲惨な。カルネ州だけでなく、イサル州やベルダ州の麦もすべて霜でやられたそうです。まさに地獄ですな」
「何の用だ、ハルギス。あいにくあんたに売るような麦は、一粒も穫れなかったんだがな」
ダンが敵意をむき出しにして言うと、ハルギスはニヤリと笑った。
「いえいえ、麦を買いに来たのではありませんよ。逆に、皆様に麦を『お譲り』しようかと」
その言葉に、村人たちの目の色がわずかに変わった。
「ただし」ハルギスは言葉を区切った。「不作により、麦の価格は春の五倍に跳ね上がっています。もちろん、現金がないのであれば、あの時私が提案したように、ヤーゴ芋の独占権で手を打たせていただいても構いませんが?」
人の弱みにつけ込む、商人としての冷酷な手口だった。
「ふざけるな! 五倍なんて払えるわけないだろう!」
「なら、イサル州境にある第四穀倉から運ばせてはどうだ?」
村長のオルドが進み出た。
「あそこはハルギス商会が管理する一番大きな穀倉のはずだ。あそこに備蓄されている麦を適正な価格で解放すれば、北辺の村々は……」
「おや、村長殿。ご冗談を」
ハルギスは薄笑いを浮かべたまま、大げさに肩をすくめた。
「あいにくですが、その第四穀倉は春から完全に『空』なのですよ。ネズミ一匹食べるものもありません。ですから、我々も南から高い麦を苦労して運んでくるしかないのです」
空だと言うハルギスの言葉に、村人たちは再び絶望の淵に突き落とされた。
だが、そのやり取りを聞いていたセリカの目が、鋭く細められた。
彼女の脳内で、精緻な帳簿の記憶が一瞬にして引き出される。
(第四穀倉が、春から空……?)
あり得ない。セリカの記憶は、一つの明確な矛盾を弾き出していた。
五年前、ハルギスがヤーゴ芋の独占契約を迫ってきた際、彼が自ら提示した契約書。そこに記されていた担保の条件を、セリカは一言一句違わず覚えている。
『第四穀倉の麦、八十二トンを担保とする』
もし春から穀倉が空だったのなら、ハルギスは存在しない麦を担保にして村を支配しようとしていたことになる。あるいは、今この瞬間に麦を隠匿し、価格を吊り上げるために嘘をついているか。どちらにせよ、致命的な契約違反であり、虚偽申告だ。
セリカはハルギスを厳しく追及しようと、一歩前へ出かけた。
だが、彼女は踏み出した足を止めた。
(今は駄目。証拠を固める時間がないし、ハルギスを怒らせて完全に輸送路を断たれれば、村は孤立する)
行政官としての冷徹な計算が、彼女の感情にブレーキをかけた。ハルギスの嘘の尻尾は掴んだ。だが、今最優先すべきは、この村にある食料の総量を確定し、明日からの配給を計算することだ。
「ハルギス殿のお気遣いは感謝いたします。ですが、今のところ我々には商会から麦を買う余裕はございません。お引き取りを」
セリカが事務的に告げると、ハルギスは鼻を鳴らし、「いずれ泣きついてくるでしょう」と捨て台詞を残して馬車で去っていった。
商人が去った後、村の男たちによって、各家からかき集められた豆や蕪の袋が、次々と教会の礼拝堂へと運び込まれていった。
ユアンたちが地下から運び出したヤーゴ芋の木箱も、その横に積まれていく。
ステンドグラスから差し込む夕暮れの光の中、教会の床に並べられたそれが、二百一人の村人が明日から生き延びるための、命のすべてだった。
一見すれば多く見えるかもしれない。だが、数字を扱うセリカとユアンには、それがどれほど心細く、圧倒的に「足りない」量であるかが、痛いほどに分かっていた。




