第24話 麦を運ぶ結婚
王国暦八九四年の秋、トゥーリ村に作られた巨大な地下貯蔵穴の前に立つと、セリカ・カルネは深く息を吸い込んだ。
ひんやりとした土の匂いと、微かに甘い植物の香りが混ざり合った独特の空気が、足元の暗がりから立ち昇ってくる。
この年、父親であるカルネ辺境伯から引き出した予算の多くを注ぎ込んで建設したこの貯蔵設備は、今、本来の役割を果たそうとしていた。
「セリカ、足元に気をつけて降りてくれ。まだ土が完全に固まりきっていない場所もある」
カンテラを手にしたユアンの声が、下から響いてきた。
セリカは外套の裾を軽く持ち上げ、慎重に階段を下りていく。目が暗さに慣れてくると、彼女はその光景に息を呑んだ。
広大な地下空間の床に、薄黄色のヤーゴ芋が文字通り山となって積み上げられている。その総重量、実に二十四トン。四千三百の種子から始まり、退化の危機を高地採種で乗り越え、ついに村の全農地を使って得られた圧倒的な質量がそこにあった。
「……見事なものね」
「ああ。だが、ここからが本当の勝負だ。土から掘り出した瞬間から、芋は死に向かって進み始める。これをいかに眠らせたまま春まで持たせるか……」
ユアンの目は、収穫の喜びに浸る農民のそれではなく、冷徹な管理者のそれに切り替わっていた。
彼はカンテラの灯りを頼りに、壁面に設けられた通気口の木板を微調整していく。
「冷たすぎる外気は凍結を招くが、締め切れば呼吸による熱と湿気で腐敗が一気に進む。それに光だ。わずかでも光が差し込めば、皮が緑化して毒を持つ。温度、換気、遮光。この三つを絶えず調整し続けなければならない」
ユアンはそう言いながら、山のようになっている芋を、あらかじめ木枠で区切られた場所へと手際よく分けていく。
「これは一番大きくて形の良い食用候補。こっちは来年植えるための種用候補。そして一番奥の、一番冷暗な場所には、高地で採れた原種を隔離して置く」
その細かく厳密な作業の手順を、セリカはただ静かに観察していた。
彼の中にどれほどの知識が詰まっているのかは分からない。しかし、これだけの量の作物を目の前にしても一切の慢心を見せず、最悪の事態を想定して淡々とリスクを切り分けていくその手つきには、行政官である彼女から見ても感嘆すべき合理性があった。
セリカは手元の帳簿を開き、羽ペンを走らせた。
『王国暦八九四年秋。ヤーゴ芋二十四トンの収穫および貯蔵を確認』
インクが紙に染み込んでいくのを見つめながら、セリカの胸には確かな達成感が広がっていた。自分の承認した計画が、そして自分が保証人となった男の技術が、ついにこの北辺の地に実を結んだのだ。
これで、村は救われる。誰もがそう信じて疑わなかった。
しかし、季節が秋から厳しい冬へと移り変わろうとしていたある日、カルネ辺境伯の居城に呼び戻されたセリカは、執務室で父から一枚の釣書を渡された。
「……縁談、ですか」
セリカは釣書に目を落としたまま、感情を抑えた声で尋ねた。
相手は、南方の豊かな穀倉地帯を地盤とする、有力な穀運商家の次男だった。
「そうだ。単なる政略結婚ではない。お前も知っての通り、我が領の麦の流通はハルギス商会に大きく依存している。あ奴らが喉元を握っている限り、領民の食料事情は常に商人の機嫌次第だ」
辺境伯は重々しい声で続けた。
「この南方の穀運商家と縁付けば、ハルギスを介さない、北辺への強固な麦の輸送路が新たに安定して手に入る。……セリカよ。お前が熱心に進めている芋の事業は評価するが、領全体を支えるにはまだ時間がかかる。領主として、確実な麦の道筋を確保しておく必要があるのだ」
セリカは釣書の紙の質感を指先でなぞりながら、脳内で素早く数字を弾き出した。
ハルギス商会への支払いの削減分、新たな輸送路によってもたらされる麦の量、それによって救われる領民の数。そして、自分の自由という対価。
天秤にかけるまでもない。行政官としての彼女の理性は、この縁談がもたらす圧倒的な利益と合理性を、瞬時に理解していた。
「……分かりました。お受けいたします」
セリカは短く答え、深く一礼して執務室を後にした。
彼女の決断に、迷いや感傷が入り込む余地はなかった。数字に出ない苦痛を判断から切り離すことは、彼女の得意とするところである。領民の命という最大の利益の前では、個人の感情など誤差の範囲でしかなかった。
数日後、トゥーリ村の地下貯蔵穴。
吐く息が白くなるほどの冷気の中、セリカはユアンにその縁談の件を告げた。
「……そうか。南の穀運商家と」
木箱の点検をしていたユアンの手が、ピタリと止まった。
カンテラの灯りに照らされた彼の横顔には、驚きと、そして微かな動揺が浮かんでいた。だが、それ以上の強い感情の吐露はなかった。
「ええ。父上の言う通り、新しい麦の輸送路が確立されれば、ハルギス商会への依存を減らすことができる。村にとっても、カルネ州全体にとっても、これほど確実な安全保障はないわ」
セリカは、あえて実務的な言葉を並べた。自分がこの結婚の合理性を完全に理解していることを示すために。
ユアンなら、どう言うだろうか。
一緒に泥にまみれ、風に煽られ、長年この事業を共に乗り越えてきた。彼なら、この合理的な決断に対して、何か……別の言葉をかけてくれるのではないか。
そんな、数字に合わない微かな期待が、セリカの胸の奥でチクリと疼いた。
しかし、ユアンはゆっくりと視線を落とし、小さく頷いただけだった。
「……そうだな。俺たちの芋が村中に行き渡るまでには、まだ時間がかかる。それまでの間、確実に麦が手に入るなら、それに越したことはない。立派な決断だと思う」
ユアンは、セリカの結婚という選択に、一切の口を挟まなかった。
技術者として、彼もまたその「確実な麦」の価値を理解してしまったのだ。不確実な芋の増殖に村の命をすべて懸けることの恐ろしさを知っているからこそ、彼は彼女の結婚を否定できなかった。
「そう。分かってくれて嬉しいわ」
セリカは冷たく言い放ち、背を向けた。
これでいい。二人とも、互いの合理性を重んじる実務家なのだ。それでいいはずなのに、冷たい貯蔵穴から地上へと続く階段を登る彼女の足取りは、ひどく重かった。
冬が深まるにつれ、貯蔵穴の中にも冷酷な現実が姿を現し始めた。
どれほどユアンが温度と換気を管理しても、二十四トンという巨大な質量のすべてを完璧な状態で眠らせておくことは不可能だったのだ。
ある日、セリカが監査に訪れると、ユアンは顔をしかめながら、山積みにされた芋の一部を外へ運び出していた。
「どうしたの?」
「……腐敗が始まっている」
ユアンが指差した先には、表面が黒くドロドロに溶け、ツンとした酸っぱい悪臭を放つ芋がいくつも転がっていた。
「一つ腐れば、周りの芋にどんどん移っていく。見つけ次第、容赦なく弾き出すしかない」
それだけではない。壁際の少し温度が高い場所にあった芋からは、季節を間違えて白い芽が伸び始めており、乾燥した空気のせいで皮がしなびてシワシワになっているものもあった。
「二十四トン収穫したからといって、春まで全量が残るわけじゃない。分かってはいたが……自然の損耗は手強い」
ユアンは泥だらけの手で、腐った芋を籠へ投げ入れた。
セリカも黙って帳簿を開いた。秋に記録した『二十四トン』という輝かしい数字が、冬の間に腐敗、萌芽、しなび、さらには入り込んだネズミの害などによって、確実に目減りしていく。
増やすことと同じくらい、それを「残す」ことがいかに困難であるか。二人は沈黙の中で、その重い事実を噛み締めていた。
そして、王国暦八九五年の晩春。
長く厳しい冬が終わりを告げ、北辺の土がようやく黒い顔を出し始めた頃。
セリカはカルネ城で、南方の穀運商家との結納の準備に追われていた。書類の確認、持参金の計算。すべては計画通り、合理的に進んでいた。
あの地下貯蔵穴にある芋たちが目減りしている今、この結婚による麦の輸送路の確保は、ますますその重要性を増しているはずだった。
だが、その日の早朝。
カルネ州の空は、春とは思えないほどの異常な冷え込みに包まれていた。
窓を開けたセリカの肌を、刃物のような冷気が刺す。
(まさか……!)
胸騒ぎを覚え、セリカは寝着の上に外套だけを羽織り、馬を飛ばしてトゥーリ村へと向かった。
村の広場に降り立った彼女の目に飛び込んできたのは、絶望的な光景だった。
順調に青々と育っていたはずの村の麦畑が、一面真っ白なベールに覆われている。
遅霜だ。
セリカはふらつく足取りで、最も近くの畑へと歩み寄った。
そこに立っていたユアンが、無言のまま、凍りついた麦の穂に手を伸ばす。
パキリ。
霜に触れた麦の穂が、乾いた音を立てて砕け散り、黒い土の上へとこぼれ落ちた。
茎も、根も、すべてが冷気に細胞を破壊され、死に絶えていた。
麦が壊滅した。
それは、セリカの進めていた結婚がもたらす「安定した麦の輸送路」の価値を、これまで以上に重いものにすることを意味していた。




