第3話 葉だけが勝つ
北辺の短い夏は、容赦のない日差しとともにやってくる。
トゥーリ村の周囲を囲む森の緑が濃さを増す中、ガーヴから借りた石壁際の痩せ地では、異様な光景が広がっていた。
「おいおい、ユアン。こいつはすげえな……」
水車小屋の老番人オランが、杖をつきながら目を丸くして立ち尽くしている。彼だけではない。畑仕事の行き帰りに通りかかる村人たちが、皆一様に足を止め、ユアンの試験畑を指差しては驚きの声を上げていた。
無理もない。三個のヤーゴ芋から芽吹いた茎は、大人の腰の高さにまで達し、そこから無数の太い蔓を四方八方へと伸ばしていた。手のひらよりも大きな濃緑の葉が幾重にも重なり合い、夏の強い日差しを余すところなく受け止めている。
その旺盛な生命力は、隣の畝に植えられたミラの灰芋を完全に飲み込もうとしていた。灰芋の葉は小ぶりで背も低く、ヤーゴ芋の巨大な緑の影に怯えるように縮こまっている。
「どうだ兄貴。これならいけるかもしれないだろ」
腕組みをして畑を見下ろすユアンの横で、兄のダンがごくりと唾を飲み込んだ。
「ああ……。南の雑草か何かだと思ってたが、ここまで育つたぁな。葉っぱがあんだけ元気なら、土の中の芋もさぞかしデカくなってるんだろうぜ」
ダンの落ちくぼんだ目には、はっきりと「希望」が宿っていた。
ユアンもまた、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。前世の知識が、彼にささやきかけている。光合成――太陽の光を浴びて葉で養分を作り、それを地下の塊茎へと送り込む仕組み。これだけの葉面積があれば、作り出される養分は莫大なものになるはずだ。
(この生育の勢いなら、一個の種芋から十個、いや十五個は穫れるかもしれない。三個から四十五個になれば、来年の作付け面積は一気に広がる!)
飢えの恐怖から解放される道筋が、鮮明な緑色となって目の前に提示されている。ユアンの顔には、この数ヶ月間消えていた自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「どいて。私の灰芋に日が当たらないじゃない」
浮き足立つ兄弟の間を割って入るように、ミラが不機嫌な声を出した。彼女はヤーゴ芋の太い蔓を乱暴に払い除け、自分の灰芋の株元にしゃがみ込む。
「すごい勢いだろう、ミラ。お前の灰芋が負けそうだ」
「上っ面だけはね」
ユアンの軽い挑発を、ミラは冷たくあしらった。彼女は灰芋の周囲の土を指で軽く叩き、それからヤーゴ芋の株元へと鋭い視線を移した。
「ユアン、あなた本当に土の中を見たことがあるの?」
「何だって?」
「灰芋でも蕪でも、土の中で実が大きくなる時は、必ず根元の土が持ち上がってひび割れるのよ。でも、あなたの南の芋の周りは……」
ミラの指摘に、ユアンは足元へ視線を落とした。
ヤーゴ芋の太い茎が突き出ている株元。その周囲の土は、植え付けた春の時のまま、平らで滑らかだった。ひび割れ一つない。
「葉っぱと蔓ばかりが伸びて、肝心の実が入っていないんじゃないの?」
「馬鹿な。これだけ地上部が健康なら、地下だって……」
反論しようとしたユアンの脳裏に、前世で聞いたある農業用語がフラッシュバックした。『蔓ボケ』――窒素過多や気候条件の不一致によって、植物が自身の成長ばかりを優先し、生殖や貯蔵器官への養分移行を行わない現象。
一瞬の不安が胸をよぎるが、ユアンはそれを力ずくで振り払った。
「ヤーゴ芋は南方の作物だ。灰芋よりもずっと深く根を張る性質なのかもしれない。だから地表に変化が出ないだけだ」
「そう。なら、秋に掘り出すのが楽しみね」
ミラは立ち上がり、呆れたように肩をすくめて去っていった。
その日の午後、村の広場に一台の豪奢な馬車が乗り付けてきた。
降り立ったのは、仕立ての良い外套を着た細身の男だった。麦の流通と前貸しを支配する穀物商ギルド代表、ハルギス・ヴェインの代理人である。
「いやはや、トゥーリ村の皆様。麦が全滅したと聞いて案じておりましたが、随分と長閑なようで」
代理人は、広場に集まった村人たち――父のロブや老農のガーヴも含めて――を見回し、薄ら笑いを浮かべた。
「今日はご機嫌伺いではありません。春にお貸しした麦の返済計画、ならびに今年の税についての事前確認に参りました」
村人たちの間に、重く冷たい沈黙が落ちる。
麦が壊滅した以上、彼らには現金収入がない。春を生き延びるために借りた麦の返済など、到底不可能だった。
「おい、あんた。返済と言っても、無い袖は振れねえぞ。秋の豆や蕪だって、自分たちが冬を越す分でギリギリだ」
ロブが進み出て抗議したが、代理人は手に持った羊皮紙の巻物をパラリと広げた。
「無い袖を振れとは申しません。契約書にもあります通り、収穫物による返済が不可能な場合、皆様の『畑そのもの』を担保として接収させていただきます。我々商会が直接人を入れ、来年から確実に麦を作れるよう管理するまでです」
「畑を取るだと!? そんなことをされたら小作の俺たちは終わりじゃねえか!」
ダンの怒号にも、代理人は涼しい顔を崩さない。彼の視線が、ふと村のはずれにある異様な緑の塊――ユアンの試験畑へと向いた。
「おや? あちらの石壁の際に見えるのは、随分と立派な雑草ですな。あれで我々への借りを返せるのでしょうか?」
代理人の嘲るような言葉に、ユアンは拳を握りしめた。
「あれは雑草じゃない。ヤーゴ芋だ。秋になれば、村の負債を補って余りある収穫になる」
「ほう。それは頼もしい」
代理人はわざとらしく手を叩いた。
「では、楽しみに秋を待ちましょう。もしあの雑草が金にならなければ、あの畑の持ち主であるガーヴ殿の土地はもちろん、言い出しっぺであるケルド家の皆様にも、相応の責任を負っていただきますので。それでは、本日はこれで」
馬車が土埃を上げて去っていく。
残された村人たちの視線が、一斉にユアンへと突き刺さった。それは期待ではなく、もし失敗すれば自分たちも巻き込まれるという恐怖の目だった。
夕闇が迫る頃。
ユアンは一人、試験畑の前に立っていた。
代理人の残した言葉が、耳の奥でべったりと張り付いて離れない。自分の実験が、いつの間にか家族や恩人の土地を天秤にかける事態になっている。
秋まで待てるはずがなかった。
(確認する。ほんの一部だけだ。土の中を見れば、俺が正しいと証明できる)
ユアンは震える手で、三つのうち最も開けた場所に植えた株の元へとしゃがみ込んだ。
腰の小刀を抜き、太い茎から少し離れた場所に刃を突き立てる。
ざくり、と土が崩れる。
湿った土の匂いが鼻を突く。ユアンは小刀を置き、両手を土の中へ突っ込んだ。
指先が、白く細い根の感触を捉える。地下茎だ。この先に、養分をたっぷりと溜め込んだ塊茎――芋がついているはずだ。
ユアンは地下茎を指で辿った。
細い。
そのまま辿り続ける。
ぷつり、と糸が切れるように、地下茎の先端が終わった。
何もない。
「……嘘だろ」
乾いた声が漏れた。
ユアンは半ば狂乱したように、周囲の土を素手で掻き出し始めた。爪の間に泥が入り込み、皮膚が石で擦れて血が滲む。
より深く、より広く。
だが、何度土を掘り返しても、彼の指が触れるのは冷たい泥と、ただの細い根だけだった。
膨らみなど、どこにも存在しなかった。
見上げれば、夕暮れの風に揺れるヤーゴ芋の巨大な葉が、ユアンを見下ろすように青々と茂っている。
地上では、葉だけが見事に勝利を収めていた。
しかし、ユアンが掘り返した巨大な葉の下の土の中は、恐ろしいほどに空っぽだった。




