第2話 食うな、埋める
遅霜の朝から、幾日かが過ぎた。春だというのに、トゥーリ村の空気は重く沈んだままだ。晩春の遅霜によって全滅した麦畑は、今や赤茶けた荒れ地と化している。生き延びるために、各農家はなけなしの豆や蕪の種を蒔き始めていたが、それらが収穫できるまでの食料はどう計算しても足りなかった。
ケルド家の薄暗い土間で、ユアンは息を詰め、木箱の中を見つめていた。
木箱の底に転がるのは、行商人から銅貨をはたいて買った三個のヤーゴ芋だ。
ユアンの指が、最も大きな芋の表面に触れる。
(……張りがない。皺が寄り始めている)
指先から伝わる感触に、ユアンは奥歯を噛み締めた。前世の記憶――種苗会社での品質管理の経験が、この芋たちが限界を迎えつつあることを告げていた。
一つは皮の端がわずかに黒ずみ、指で押すと嫌な柔らかさがある。腐敗の初期症状だ。残り二つも、くぼみから親指大の白い芽を必死に伸ばしているが、このまま放置すれば自らの養分を食いつぶして干からびてしまうだろう。
「もう、限界だ」
ユアンが呟いたその時、背後から荒々しい足音が近づいてきた。
「その通りだ、もう限界だ」
兄のダンだった。頬はこけ、目は飢えと苛立ちで落ちくぼんでいる。ダンの視線は、木箱の中の芋に釘付けになっていた。
「なあユアン。それ、一つだけでも煮て食おうぜ。親父も俺も、昨日の朝から薄い豆の汁しか飲んでねえ。それを食えば、今日一日だけでも腹の虫が黙るんだ」
「駄目だ」
ユアンは木箱を自分の体で隠すようにして庇った。
「食えば一日で終わる。だが、これを土に埋めて増やせば、来年は腹一杯食えるかもしれないんだぞ」
「来年だぁ!?」
ダンがユアンの胸ぐらを掴み上げた。
「明日の飯もねえのに来年の話をしてどうする! お前がそれを抱え込んでる間に、俺たちが餓死したらどう責任取るつもりだ!」
ダンの怒声はもっともだった。人の空腹を前にして、将来の増殖率を語るのは、満たされた者の傲慢かもしれない。前世でも、病気の疑いがある種芋の出荷を止められず、農家に損害を出した。その時の光景がフラッシュバックする。
だが、ここで引き下がれば、北辺は一生飢えから抜け出せない。
「……俺が責任を持つ。だから、絶対に食わせない」
ユアンはダンの手を振り払うと、三個の芋を慎重に袋へ移し、立ち上がった。
「今日、植える。親父、裏の畑の畝を一つ、俺に使わせてくれ」
土間から外へ出たユアンは、鍬を手にした父ロブの前に立ち塞がった。
しかし、ロブの答えは冷酷なものだった。
「駄目だ」
「親父、少しでいいんだ。一畝、いや半畝でも……」
「お前の道楽に使う土は、うちには一寸たりとも残ってない」
ロブは疲れ切った目でユアンを見返した。
「麦が死んだ今、うちの畑には余さず蕪と豆を植える。そうしなければ冬を越せない。得体の知れない南の芋を植えて、もし芽が出なかったらどうする? その分の土が完全に無駄になるんだぞ」
「芽は出かかっている! それに……」
「駄目だと言ったら駄目だ! それ以上言うなら、その芋を今すぐ叩き潰すぞ!」
ロブの強い拒絶に、ユアンは唇を噛んだ。
(理屈では通らない。前世なら対照データや収量予測のグラフを見せれば済んだが、今の俺には何の信用もない)
「だったら、俺の畑の隅っこを使え」
しゃがれた声が響き、ユアンは振り返った。
立っていたのは、隣人の老農ガーヴだった。六十八歳になる彼は、少し背を丸め、時折空咳をしながらこちらへ歩いてきた。
「ガーヴ爺さん……」
「お前の親父の言うことは正しい。命の懸かった畑で博打は打てねえ。だがな、俺の畑の端、石壁の際には、何も植えちゃいねえんだ」
ガーヴが指差した先には、村のはずれに続く古い石壁があった。そのすぐ脇には、農具を夜露から守るための木組みの乾燥棚が立っている。
「あそこは日当たりが悪くてな。風も淀む。蕪もまともに育たねえ痩せ地だ。それでもいいなら、貸してやるよ」
ガーヴは、数値ではなく「場所」と「風」で畑を記憶する男だった。彼の申し出は、孤立無援のユアンにとって蜘蛛の糸だった。
「借ります。ありがとうございます」
ユアンは深く頭を下げ、ガーヴの畑へと急いだ。
石壁の際までやってきたユアンは、早速土を観察した。確かに土は固く、冷たい。日照時間も他の場所より短いだろう。
「またそんな馬鹿なことをしているのね、ユアン」
背後からかけられた呆れ声に、ユアンはため息をついた。
村長の娘、ミラ・オルド。二十二歳の彼女は、両手で抱えるほどの籠を持ち、険しい顔で立っていた。籠の中には、土にまみれた灰色のごつごつとした芋がいくつも入っている。
「馬鹿なことじゃない。新しい作物の試験だ」
「南の国で育つものが、この寒くて日当たりの悪い北辺で育つわけないじゃない。土地には土地に合ったものがあるのよ」
ミラは籠の中から一つの芋を取り出し、ユアンの目の前に突きつけた。
「この『灰芋』を見なさい。不味いし、水っぽいし、大して穫れない。でも、どんな冷害の年でも確実に育つわ。南の得体の知れない土塊なんかより、こっちを植えるべきよ」
ミラの言葉には、土地の経験に根ざした強い実感があった。
ユアンは灰芋を一瞥した。前世の知識に照らし合わせれば、低収量で食味の劣る品種だ。だが、ミラが言う通り「北辺で安定する」という特性は無視できない。
(在来農法を迷信だと切り捨てるのは簡単だ。だが、比較しなければ本当の価値は分からない)
「……なら、並べて植えよう」
「え?」
「俺のヤーゴ芋と、お前の灰芋だ。同じ畑に植えて、どっちが北辺の土に勝つか試そう。文句はないな?」
ユアンの挑発的な提案に、ミラはむっとした顔で頷いた。
「いいわ。灰芋の強さを思い知るがいいわ」
かくして、ガーヴの痩せ地の一角で、奇妙な植え付けが始まった。
ユアンは三個のヤーゴ芋を、腐敗のリスクを避けるために切り分けず、丸ごと植えることにした。
一つ目は、借りた土地の中では比較的開けた場所へ。
二つ目は、少し湿り気のあるくぼ地へ。
そして三つ目は、石壁と古い乾燥棚のすぐ際、最も条件の悪そうな場所へ。
その隣の畝には、ミラが丁寧に灰芋を植え付けていく。
植え終わると、ユアンは懐から手製の粗末な帳簿――木の皮を綴じたもの――を取り出し、木炭の欠片で書き込み始めた。
『王国暦八八七年 春。ヤーゴ芋三個を定植。対照区として灰芋を設定』
各芋の植え付け位置、おおよその重量、定植時の芽の数を事細かに記録していく。前世で体に染み付いた、試験圃場を作る際の基本動作だった。
「何を書いているの?」とミラが覗き込む。
「記録だ。結果が出た時、なんでそうなったか後から分かるようにするためにな」
ユアンの言葉に、ミラはふんと鼻を鳴らした。
「結果なら見えているわ。秋になれば、あなたの南の芋は土の中で腐っているはずよ」
「どうかな。俺はこいつらの生命力に賭ける」
作業を終え、ユアンは土の被せられた三つの植え穴を見下ろした。
帳簿の右端。そこには「秋の収量」を書き込むための欄が作られている。
今はまだ、その欄には何も書かれていない。空白のままだ。
この三個の芋が、本当に村の空腹を満たすことができるのか。それともミラの言う通り、ただ土の中で腐り果てるのか。
祈るような気持ちで、ユアンは静かに帳簿を閉じた。




