第1話 帳簿にはゼロと書かれた
『王国暦九二七年の大冷害において、ヴェスリア王国北辺三州だけは一人の餓死者も出さなかった。これを為したのは魔法でも神の奇跡でもなく、ただの土と記録、そして四十年前の失敗である』
後年、修道士テオによって編纂される『北辺農事記』は、そう書き出されている。
記録によれば、北辺を救うことになる作物の最初の収穫日、ただ一人の技術責任者であった男の帳簿には、無情にも「ゼロ」という数字が記されていたという。
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冷たい風が頬を切り裂くような、王国暦八八七年の晩春。
カルネ州北部に位置するトゥーリ村の朝は、重く沈み込んでいた。
ユアン・ケルドは、霜に覆われた麦畑の中にしゃがみ込んでいる。二十六歳になる小作農の次男坊である彼の足元には、無残に変色した麦の苗が広がっていた。
厚手の外套越しでも凍えるような寒さの中、ユアンは土にまみれた手で一本の麦の茎を掴んだ。力を入れるまでもなく、ぱきり、と乾いた音を立てて茎が折れる。本来なら瑞々しいはずの断面は黒ずみ、生命の気配を失っていた。
「駄目だ……」
ひび割れた唇から、白い息とともに呟きが漏れる。
念のため、ユアンは腰の小刀を抜き、凍てついた土を掘り返した。根の張り具合を確認する。細い根は冷気にやられ、茶色く縮れ上がっていた。
遅霜。
北辺の農民が最も恐れる災厄が、昨晩、村を襲ったのだ。
茎、穂の元となる芯、そして根。どこか一つでも生きていれば回復の目処も立つが、全滅だった。この畑だけではない。見渡す限り、トゥーリ村の麦畑は死の毛布を被ったように沈黙している。
昨年の秋、ユアンは村に持ち込まれた種麦の山を見て、一部から鼻を突くような微かな酸っぱい匂いを嗅ぎ取った。表面のわずかな変色と湿り気。前世の記憶――日本の種苗会社で馬鈴薯の種芋部門の営業兼技術補佐として七年間働いていた知識が、それが腐敗の兆候だと告げていた。
ユアンの強い進言により、村は該当する種麦を弾き、腐敗の蔓延を防ぐことができた。村の大人たちは、小作農の次男坊がなぜそんなことを見抜けたのかと首を傾げつつも、彼を見る目を変えた。
だが、そんな知識が今は何の役にも立たない。
病気や種の状態なら見抜けても、天候を変える魔法は使えない。村全体を温めるような大魔法使いを雇う金など、銀貨三十枚の日当すら払えないこの村にあるはずがなかった。
「ユアン、どうだ」
背後から、ひわがれた声がした。父親のロブだ。しわが深く刻まれた顔は、寒さのせいだけでなく、恐怖で青ざめていた。
「……全滅です。茎も根も死んでる。今年、麦は穫れません」
ロブは崩れ落ちるようにその場に座り込み、頭を抱えた。
「ああ……神よ。税はどうする。冬を越す麦はどうするんだ……」
その日の午後、ケルド家の狭い土間には、重苦しい空気が淀んでいた。
薪を節約するため、暖炉の火は小さく絞られている。テーブルを囲むのは、父ロブ、長男のダン、そしてユアンの三人だ。
「口を減らすしかない」
ダンが、絞り出すように言った。
「街へ出て、日雇いの土方でも何でも探す。オレかユアン、あるいは両方で出稼ぎに行かなきゃ、全員が餓死する」
小作農である彼らには、余剰の蓄えなどない。麦が穫れなければ、ハルギス商会のような高利貸しから前借りをし、来年の畑まで担保に取られることになる。
ユアンは黙って木のマグカップを見つめていた。種苗会社で農家へ栽培指導をしていた頃も、不作に泣く農家を見たことはある。だが、現代日本での不作は「減収」であって「餓死」に直結するものではなかった。
今、彼の目の前にあるのは、命の計算だ。
その時、粗末な木の扉が乱暴に叩かれた。
「ごめんくださいよ! 誰かおいでですか!」
場違いに明るく、甲高い声。ダンが怪訝な顔で扉を開けると、そこには厚着をした太った男が立っていた。荷車を引き、寒さに鼻を赤くしている。
「南方の行商人です。いやあ、北辺の春は本当に寒いですね。麦もやられちまったようで、お気の毒に」
男は同情を装いながらも、目は商機を探るようにぎらぎらと光っていた。
「なんだ、あんた。こんな時に売りつけるようなもん、うちにはないぞ」
ダンが追い返そうとしたが、男は荷車に掛けられた布を素早くめくった。
「そう言わずに。麦がないなら、これを食べればいい。南方から持ってきた珍しい作物ですよ。『ヤーゴ芋』って言いましてね、あちらじゃあ豚の餌にするくらい穫れるんだ」
荷車の上に積まれていたのは、ごつごつとした土色の塊だった。
ユアンは立ち上がり、荷車に近づいた。
「ヤーゴ芋……」
男が手に取ったそれは、大人の拳ほどの大きさだった。表面は厚い皮に覆われ、ところどころにくぼみがある。
「南の国じゃ、これを茹でたり焼いたりして食うんです。腹持ちはいいですよ。どうです、村の麦がダメになった今なら、特別に銀貨三枚で一袋……」
「見せてくれ」
ユアンは男の手から、ヤーゴ芋をもぎ取るように受け取った。
ずしりとした重み。土の匂い。
ユアンの指先が、無意識に芋の表面を撫でる。
(皮の張りは失われつつある。貯蔵されてから時間が経っている証拠だ。だが……)
ユアンの目は、芋のくぼみ――芽目に釘付けになった。
土埃にまみれたくぼみの奥から、ごくわずかに、白っぽい突起が顔を覗かせていた。
(芽が動いている……!)
前世の記憶が、鮮烈に蘇る。種芋の状態判断。
これは、ただの食料ではない。
「……兄さん、親父」
ユアンは振り返り、家族を見た。
「これ、買おう。うちにある有り金、全部出してくれ」
「はあ!?」
ダンが素っ頓狂な声を上げた。
「お前、頭がおかしくなったのか!? 銀貨三枚なんて、うちの全財産に等しいんだぞ! こんな得体の知れない土塊に払う金なんかねえ!」
「そうだよユアン。いくら腹が減っても、そんなもの……」
ロブもたしなめるように言うが、ユアンの目は血走っていた。
「違う! 腹を満たすためじゃない」
ユアンは行商人の荷車から、芽の動きが活発な三つのヤーゴ芋を選び出した。大きさ、形、傷の有無。前世で培った実務の目が、無意識のうちに最良の種芋を選び出していた。
「この三個だけでいい。銅貨八枚でどうだ」
「さ、三個ですか? いや、それじゃあ商売に……」
「この村の麦は全滅だ。他を回っても、金を持っている農家なんてないぞ。それとも、荷車いっぱいの芋を腐らせながら峠を越えるか?」
ユアンの静かだが冷たい交渉に、行商人は舌打ちをして銅貨を受け取った。
「へっ、たった三個で腹が膨れるもんか。せいぜい大事に食うんだな」
行商人が去った後、土間には三個のヤーゴ芋が残された。
ダンとロブは、呆れたような、絶望したような目でユアンを見ている。
「……で、それを煮て食うのか。三人で一つずつだな。明日の朝はどうするつもりだ」
ダンの皮肉に、ユアンは首を横に振った。
「食わない」
「は?」
「これは食料じゃない。種だ」
ユアンは三個の芋を、まるで割れ物を扱うように両手で包み込んだ。
「南方の作物が、この寒冷な北辺で育つ保証はない。だが、こいつらは芽を出そうとしている。生きているんだ」
ユアンは家族の顔を真っ直ぐに見据えた。
「この三個を、明日にでも畑に植える」
「正気か、ユアン! 今日の飯もねえってのに、秋まで泥の塊を眺めて暮らすっていうのか!」
ダンの怒声が響く。家族の数日分の食料を買えたはずの金で、食べられない種を買ったのだ。怒るのは当然だった。
前世でのユアンは、病気の疑いがある種芋の出荷を止めきれず、農家に損害を出した過去がある。不確実なものに自分の名前で責任を負うことを、ずっと恐れていた。
だが、麦の全滅を前にして、既存の知識にしがみつくことは死を意味する。
「口減らしの話なら、俺が自分の食い扶持を稼ぐ」
ユアンは静かに、だが決して譲らない声で言った。
「畑の合間に街道の普請でも何でも出て、うちの飯は減らさない。だから、この三個の芋は絶対に食べるな。俺の命の代わりだ」
家族から一食分を奪い取る形で、ユアンは三個の芋を手に取った。
暖炉の薄暗い火に照らされたその土色の塊が、飢えから村を救う希望になるのか、それともただの狂気の沙汰なのか。
答えはまだ、誰にも分からなかった。
ただ、帳簿の最初の行に書き込まれることになったのは、「三個の芋」という事実だけだった。




