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異世界で芋を植えたら、葉しか茂らなかった。~元・種芋屋の俺が三個の芋から飢えない北辺を作るまで~  作者: 他力本願寺


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第22話 泥靴は研究費か

その対策が村の畑で本格的に実行へ移される少し前、王国暦八九四年の春。


 雪解け水を含んでぬかるんだ急斜面を、三人の人影が息を切らしながら登っていた。


「ああっ、もう……っ!」


 鋭い苛立ちの声とともに、セリカの右足が足首までズブズブと黒い泥の中に沈み込んだ。


 彼女が履いているのは、代官代理としての執務にふさわしい、上質な革で仕立てられた細身の長靴である。それが今や泥にまみれ、本来の美しい艶は見る影もなかった。足を引っこ抜こうとするたびに、泥がべちゃりと跳ね上がり、濃紺の外套の裾まで汚していく。


「大丈夫か、セリカ。手を貸そうか」


 前を歩いていたユアンが振り返って手を差し伸べるが、セリカはそれをピシャリとはたき落とした。


「結構よ。農作業の視察も職務のうちだわ。それより、こんな石ころだらけの急斜面を登った先に、本当に目ぼしい土地があるの?」


 セリカが恨めしそうに見上げる先には、木々がまばらになり、ゴツゴツとした岩肌が露出した荒涼たる高地が広がっていた。


「もう少しだ。頑張ってくだせえ、代官様」


 先頭を歩くガーヴが、時折ゴホゴホと重い咳をこぼしながら杖をついて登っていく。老いた彼にとってもしんどい道のりのはずだが、その足取りには迷いがない。


「昔、村で山羊を数頭飼っていた頃に使っていた放牧地の跡地でさあ。石が多くて土が浅いから、麦も蕪もまともに育たねえ。だからずっと放ったらかしにしてあったんだが……お前さんの探している条件には合うと思ってな」


 やがて、三人は斜面を登り切り、ぽっかりと開けた平坦な土地に出た。


 ガーヴの言う通り、足元には無数の石が転がり、雑草すらまばらにしか生えていない。吹き抜ける風は冷たく、村のある低地よりも明らかに気温が低いことが肌で感じられた。


 ユアンは斜面の端に立ち、眼下に広がるトゥーリ村の畑を見下ろした。ここからなら、村のどの畑からも遠く離れている。


「……風が強いな。おまけに冷たい」


 ユアンは風の匂いを嗅ぎ、周囲の枯れ草の裏側をいくつかめくって確かめた。


「虫がいない」


「そりゃそうさ」とガーヴが笑う。「こんな風の吹きさらしで、おまけに美味い草も生えてねえような場所だ。虫だって生きていけねえよ」


「完璧だ」


 ユアンは振り返り、興奮した面持ちでセリカを見た。


「ここを使う。この高地を、種芋を育てるための『採種専用地』にするんだ」


「ちょっと待ちなさい」セリカが泥だらけの長靴を気にしながら眉をひそめた。「こんな石だらけの痩せた土地で芋が大きく育つはずないでしょう? 収量が見込めない場所に労働力を割くなんて、非効率的だわ」


「食べるための芋ならな。だが、種芋なら話は別だ」


 ユアンはしゃがみ込み、ゴツゴツした土を掴んだ。


「昨日も話した通り、病気の原因である『弱り』を運ぶのは、葉裏にたかる小さな虫だ。つまり、虫が飛んでこない環境で育てれば、病気は移らない。この高地なら、下の村の畑から虫が風に乗って上がってくることもないし、気温が低いから虫自体が繁殖しにくい」


 前世の種苗業界では常識とされていた『隔離採種』の概念である。


 健全な種芋を作るためには、何よりも病害虫から物理的に距離を置くことが最優先される。大きく育たなくても構わない。無菌室のような役割を果たせる環境こそが、今の彼らには喉から手が出るほど必要だった。


「なるほど。収量ではなく、純度と健康さを優先する特区というわけね」


 セリカは行政官としての頭を切り替え、手元の帳簿を開いた。


「理解はしたわ。でも、土が浅くて冷たいなら、春先の定植に問題が出るわよ。発芽する前に種芋が凍りついてしまうかもしれない」


「そこは、魔法を使う」


 ユアンの口から出た言葉に、セリカのペンがピタリと止まった。


「……本気で言っているの? 以前にも言ったはずよ。魔法使いを街から呼べば、一人一日で銀貨三十枚。たった二反の面積の温度を調整するだけで、それだけの金が飛んでいくのよ。村の全農地はもちろん、この高地全体を魔法で管理する予算なんて、どこにも……」


「全体を温める必要はない!」


 ユアンは食い気味に反論した。


「絶対に病気から守り抜かなきゃならない『原種母株』と、春先に種芋の目を覚まさせるための小さな『発芽床』の区画だけだ。それなら二反もいらない、ほんの数坪の面積をピンポイントで温めてもらうだけで済む。残りの成長は、北辺の太陽とこの高地の風に任せる」


 魔法を、すべての問題を解決する万能の杖としてではなく、極めて限定的で効果の高い工程にだけ投資する。それは実務家としてのシビアな取捨選択だった。


 セリカは帳簿の数字を睨みつけ、脳内で素早く計算を走らせた。


 公費を投入する以上、失敗すれば代官代理である彼女自身の責任問題になる。しかし、病気で種芋が十一万個まで激減した昨年の悲劇を繰り返せば、いずれにせよ村は破滅する。


「……数坪の面積で、数日間の限定雇用ね」


 セリカは顔を上げ、きっぱりと言い放った。


「分かったわ。ギリギリの予算で通してみせる。その代わり、この高地から一株たりとも病気を出さないこと。それが条件よ」


「ああ、約束する。恩に着るよ、セリカ」


 ユアンが安堵の笑みを浮かべると、セリカはふんと鼻を鳴らし、再び自分の足元を見た。


「それにしても、ひどい泥ね。せっかく街の職人に作らせたお気に入りの靴だったのに」


 彼女は泥まみれになった革の長靴をトントンと地面に打ち付け、恨めしそうにユアンを睨んだ。


「いいこと、ユアン。この靴の損耗分は、必要経費としてしっかり研究費に計上させてもらうからね」


 冗談めかした口調ではあったが、その目は本気だった。


 ユアンは思わず吹き出した。


「おいおい、泥靴の代金まで公費で落とすのかよ。悪徳役人だな」


「何とでも言いなさい。私は現場に足を運んだ代償を正当に要求しているだけよ。文句があるなら、秋にこの高地で、靴代の百倍の価値がある種芋を収穫してみせることね」


「分かった、分かった。豊作になったら、新品の靴を三足くらいプレゼントしてやるよ」


 冷たい風が吹き抜ける荒涼とした高地で、二人の間には、過酷な事業を共有する者同士の、確かな親愛の情が流れていた。ガーヴがその様子を見て、目を細めながらまた小さく咳き込んだ。


 そして、季節は夏を越え、再び秋を迎えた。


 澄み切った青空の下、高地の採種専用畑に、ユアン、セリカ、ミラ、ガーヴの四人が集まっていた。


 足元には、春に発芽床で丁寧に目を覚まさせ、魔法で霜から守り抜いた『原種母株』たちが並んでいる。下の村の畑とは違い、虫の飛来は皆無に等しかった。


 ユアンは期待と緊張を胸に、一株の根元に鍬を入れた。


 土が崩れ、中から薄黄色のヤーゴ芋がゴロゴロと姿を現す。


「おお……」


 ミラが感嘆の声を漏らした。


 村の畑で穫れたものに比べると、確かにサイズは一回り小さい。しかし、その表面には病気の兆候である黒ずみやひび割れが一切なく、つるんとしていて、見事なまでに健全な張りを持っていた。


「虫がいないだけで、これほど綺麗に育つなんて……」


 ミラが手に取って土を払うと、ヤーゴ芋は秋の日差しを受けて美しく輝いた。


 ユアンは次々と株を掘り返し、出てきた芋を慎重に調べていった。どの株にも目立った病徴は見られず、この年は退化の兆しを大きく抑えられていた。


「成功だ」


 ユアンは泥だらけの顔に会心の笑みを浮かべた。


「この高地採種の仕組みがあれば、病気の広がりを抑えながら、健全な母株から採った種芋を毎年村の畑へ供給できる。増やすほどに弱くなる流れを、ここで食い止められる」


 セリカが帳簿に『健全種芋、収穫完了』と力強く書き込み、ふうと息を吐いた。


「やれやれ。これで私の靴代も無駄にならずに済んだわね」


 彼女の足元には、すっかり泥がこびりついて癖のついた、あの時の長靴があった。もはやお嬢様の履く靴ではなく、立派な農政官の靴になっていた。


 ガーヴが木箱を用意し、ユアンとミラが健全な種芋を一つ一つ、我が子のように丁寧に並べていく。


 最初の健全種芋がぎっしりと詰まった木箱が、高地の冷たい風の中で蓋をされた。


 これでもう、後戻りすることはない。


 ユアンたちは重い木箱を担ぎ上げ、石だらけの斜面を村へと下り始めた。その足取りは、春にこの坂を登った時とは比べ物にならないほど、力強く、希望に満ちていた。

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