第21話 葉裏の虫
深い雪に閉ざされた、王国暦八九三年の冬。
ケルド家の薄暗い土間で、ユアンは一枚の羊皮紙を食い入るように見つめていた。
それはセリカが精緻に書き上げた、トゥーリ村の全農地を示す地図だった。ユアンはその地図の上に、昨年の夏、ヤーゴ芋の葉が縮れ、成長が止まってしまった『病株』が発生した場所を、木炭で黒く塗りつぶしていく。
「……ここもだ。ガーヴ爺さんの古い畑の南側。それから、川沿いのくぼ地」
ユアンが黒く塗るたびに、セリカが帳簿の記録と照らし合わせる。
「間違いないわ。秋に収穫量が極端に落ち込んだ区画と完全に一致している」
地図上に浮かび上がった黒い斑点は、無作為に散らばっているわけではなかった。明確な偏りがある。
病株が集中しているのは、川に近い低地、森と隣接する藪沿い、そして何年も休ませずに使い続けている古い畑だった。逆に、少し開けた場所や、風通しの良い斜面の畑では、黒い斑点は少ない。
「土のせいかしら」
セリカが羽ペンの先で地図の低地を指した。
「低地や藪沿いは水はけが悪い。根が腐って弱ったところに、何かの病気が入り込んだとか」
「いや、水はけだけじゃない。それなら古い畑で発生した理由が説明できない」
ユアンは頭を抱えた。
増やすほどに、芋は弱くなる。その「弱り」の正体が分からなければ、春に十一万個の健全な種芋を植え付けたところで、また秋には激減してしまう。目に見えない病原という恐怖が、ユアンの足元を暗い沼のように引きずり込もうとしていた。
「また難しい顔をして。冬の間くらい、少しは休んだらどうなの」
そこへ、吹雪を突いてミラがやってきた。彼女は手編みのショールについた雪を払い落とすと、テーブルの上の地図を覗き込んだ。
「何これ。村の地図?」
「ああ。去年、ヤーゴ芋が病気になった場所を塗っているんだ。何か共通点がないか探しているんだが……」
ミラは地図の黒い斑点を目で追い、ふむ、と顎に手を当てた。
「共通点なら、あるじゃない」
「えっ?」
「ここ、川沿いのくぼ地でしょう? こっちは森の藪沿い。どっちも夏場は風が通らなくて、じめじめと暑い場所よ。そういう所にはね、必ず『あいつら』が湧くのよ」
ミラは当然のような顔で言った。
「あいつらって、何だ?」
「虫よ。ほら、小さくて緑色をしていて、飛べないくせに葉の裏にびっしりたかる気味の悪い虫。あなた、自分の芋の葉の裏を見たことないの?」
ユアンはハッとした。
「夏に病気で葉が縮れた株を引き抜いた時、その虫がたくさんついていたのを覚えているわ。気持ち悪いから急いで火の中に投げ込んだのよ。逆に、葉が綺麗だった四十四番の芋には、その虫はほとんどいなかった」
「……」
「うちの灰芋は、ずっと高地の風通しがいい畑で作っているから、あの虫は滅多につかないわ。でも、風が淀む低地の古い畑だと、すぐに増えるの。昔からそうよ」
ミラの言葉は、長年土に触れ、風を感じてきた農家の揺るぎない生活感覚だった。
ユアンの脳内で、バラバラだった情報が激しい音を立てて結びついていく。
低地。藪沿い。風通しの悪い場所。葉裏にびっしりとたかる小さな虫。
――吸汁害虫。
前世の記憶が、警告を鳴らす。アブラムシのような小さな虫が、病気になった株の汁を吸う。そして、その虫が別の健康な株へと移動して再び汁を吸う時、体内に取り込んだ目に見えない病気の原因である弱りを、健康な株の体内に注ぎ込んでしまうのだ。
顕微鏡もないこの世界で、虫が病気を運んでいると完全に証明することはできない。だが、経験則と地図の記録が、その可能性を極めて濃厚に示していた。
「……移しているんだ」
ユアンは震える声で呟いた。
「移している? 虫が?」セリカが怪訝な顔をする。
「おそらく、その小さな虫が、病気になった株から健康な株へ、目に見えない『弱り』を運んでいる。だから虫の多い低地や藪沿いで、病気が広がったと考えれば辻褄が合う!」
原因不明の恐怖が、輪郭を持った明確な標的へと姿を変えた瞬間だった。
「防げる……。虫が病気を運んでいるのなら、完全に防げないまでも、被害を抑え込む対策は打てる」
ユアンの目には、久しぶりに技術者としての鋭い光が戻っていた。
「対策って、どうするの? 村中の虫を捕まえて潰して回るわけにもいかないわよ」
セリカの実務的な問いに、ユアンは地図の上に新しい線を引きながら答えた。
「まず、畑を分ける。食べるための芋を育てる『食用畑』と、来年の種を残すための『採種畑』を完全に切り離すんだ」
「採種畑?」
「ああ。種用の芋は、ミラが言ったような『虫が少ない場所』……つまり、風通しが良くて他の畑から遠く離れた高地に植える。他の畑の虫が飛んでこないように、隔離するんだ」
ユアンはさらに、具体的な作業の手順を口にした。
「それだけじゃない。少しでも葉の形がおかしかったり、虫が多くたかっている株を見つけたら、芋が育つ前でも容赦なく引き抜いて燃やす。病気の元を畑に残さないためだ。……それから、芋を切ったり蔓を処理する時に使う小刀も、一株ごとに必ず熱湯で洗うか火で炙る」
「刃物を洗う? どうしてそんな手間を……」
「病気は、草の汁を通して移る可能性が高い。病気の株を切った刃物で健康な株を切れば、それだけで人間が病気を広げることになるからだ」
セリカはユアンの言葉を一つ残らず帳簿に書き留めながら、小さく息を吐いた。
「隔離、早期除去、刃物の洗浄……。理屈は通っているわ。でも、それは大変な労働になるわよ。特に収穫の時なんて、どうやって健康な芋だけを見分けるの?」
「秋の収穫を待つんじゃない」
ユアンは真っ直ぐにセリカを見た。
「夏の間に、一番健康で、虫がついていなくて、葉の勢いが良い株を『母株』として選んでおく。そして秋には、その母株だけを他の株とは別の籠に収穫するんだ。そうやって選び抜いた一番強い芋だけを、来年の隔離畑に植える」
それは、気の遠くなるような手間と観察眼を要求される作業だった。何万という株の中から、一つ一つ健康な母株を見極め、印をつけ、混ざらないように管理する。
だが、これをやらなければ、数年後にはヤーゴ芋は完全に退化し、村は再び飢えに呑み込まれる。
「……やるしかないわね」
セリカが帳簿を閉じ、決然と言った。
「私が管理規則を作り、労働の配分を調整するわ。ミラ、あなたも手伝って。その虫を見つける目が必要よ」
「ええ、もちろんよ。灰芋の強さを証明するためにも、ヤーゴ芋が病気で全滅なんてされたら張り合いがないもの」
ミラも力強く頷いた。
季節が巡り、王国暦八九四年の夏。
太陽がジリジリと照りつける中、村の畑では、ユアンたちが考案した新しい対策が実行に移されていた。
「よし、この株は駄目だ。葉の裏に虫がいる。すぐに抜け!」
ユアンの指示で、農作業員のヨルトが躊躇いながらも一株を根こそぎ引き抜き、火にくべる。
傍らでは、ユアンが腰の小刀を、沸かした湯の入ったバケツに浸して念入りに洗い、布で拭いていた。一株の処理を終えるごとに、刃物を洗い、また次の株へ向かう。果てしない反復作業だった。
「ユアン、こっちの畝のこの株、すごく元気よ! 葉っぱも綺麗!」
少し離れた場所から、ミラが声を張り上げた。
ユアンが駆けつけ、彼女の指差す株の葉の裏や茎の根元を注意深く観察する。虫の姿はなく、病気の兆候である斑点や縮れもない。見事なまでに健全な株だった。
「ああ、完璧だ。こいつは『母株』にしよう」
ユアンは懐から、細く切った白い布きれを取り出した。
そして、その健康な母株の太い茎の根元に、他の株と間違えないようにしっかりと布を結びつけた。
「これで一つ。秋には、この白い札がついた株の芋だけを、別の箱に収穫する」
見渡せば、広大な緑の畑のあちこちに、同じように白い布が結びつけられた株が点在していた。
病気に怯え、ただ祈るしかなかった前年とは違う。原因の尻尾を掴み、不完全ながらも自分たちの手で防壁を築き始めている。
夏の風が吹き抜け、青々としたヤーゴ芋の葉とともに、健康な母株に結ばれた白い布が誇らしげに揺れていた。




