第20話 増やすほど弱くなる
王国暦八九三年の夏。
ハルギス商会との独占契約を拒絶し、トゥーリ村の住民たちと『労働と配分の盟約』を結んでから、三年余りの歳月が流れていた。
春の四千三百粒から選び抜いた四十個の種芋は、村人たちの血の滲むような労働と厳格な管理によって順調に増殖を重ねていた。盗難で三十四個に減ったその種は、翌年に三百五十個、その次は三千八百個、そして前年の秋には四万個へと数を増やした。村の畑には麦に代わってヤーゴ芋の畝が少しずつ広がり始め、豊かな緑の葉が夏の風に揺れている。
今年、その四万個の種を植え付けた畑からは、計算上、一気に四十万個の芋が穫れるはずだった。四十万個に達すれば、ついに村の全員が腹一杯に食べても余りある量となる。
七年の壁は、すぐそこまで迫っているように見えた。
だが、夏の盛りに畑を見回っていたユアンの足は、主力品種である『七番』の広大な区画の前で、鉛のように重く止まっていた。
「……おかしい」
ユアンは畝の間にしゃがみ込み、土にまみれた手で一株の葉をそっと撫でた。
前年までは大人の腰ほどの高さまで旺盛に茎を伸ばしていたはずの七番が、今年は膝の高さにも満たない。葉は小さく、奇妙なモザイク状の黄緑色の斑が入り、縁が引きつったように縮れていた。
一株だけの異常ではない。見渡す限り、七番の畑のあちこちで、同じように背丈の低い、縮れた株が点在している。
ユアンは周囲の土に指を突き入れ、湿り気を確かめた。水不足ではない。肥料としてすき込んだ灰や枯れ葉の量も、昨年と全く同じだ。日照にも問題はない。
物理的な栽培条件に、何一つ落ち度はない。
ならば、なぜ株が弱っているのか。
その瞬間、ユアンの脳裏に、前世の忌まわしい記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
『おたくの会社から買った種芋、葉が縮れちまって全然太らねえぞ! どう落とし前つけてくれんだ!』
受話器越しに怒鳴り散らす農家の声。
圃場一面に広がる、縮れて黄色くなった馬鈴薯の葉。
原因は明確だった。種芋の『退化』である。
芋という作物は、親のクローンとして栄養繁殖を繰り返す。そのため、一度でも親株が『ウイルス』に感染してしまうと、その目に見えない病気は種芋の中に深く潜み、次の世代、また次の世代へと蓄積されていく。そしてある年、耐えきれなくなった株が一斉に生育不良を起こし、収量を激減させるのだ。
前世のユアンは、異常の兆候に気づいていながら、確証が持てずに生産者への出荷停止の決断を遅らせ、結果的に複数の農家に甚大な損害を与えた。
不確実な判断に、自分の名で責任を負うことを恐れたからだ。
ユアンの呼吸が浅くなり、額に冷たい汗が滲んだ。
(また、やってしまったのか……?)
前世のような無菌設備も、検査機関もないこの世界で、種芋の完全な健康を保つことなど不可能に近い。増やすことに夢中になるあまり、目に見えない『弱りの蓄積』が種芋の中で進行していることに気づけなかったのだ。
「ユアン、どうした? 顔色が悪いぞ」
草取りの作業に来ていたヨルトが、不思議そうに声をかけてきた。エダも手拭いで汗を拭いながら歩いてくる。
ユアンは立ち上がり、大きく息を吸い込んで、トラウマに縛り付けられそうになる自分を力ずくで奮い立たせた。
前世と同じ轍は踏まない。今ここで迷えば、村は全滅する。
「ヨルト、エダ。他の連中も呼んでくれ。今すぐ、この畑の異常な株を全部抜いて、燃やす」
「……はあ!?」
ヨルトが素っ頓狂な声を上げた。
「燃やすって、お前、正気か!? まだ夏だぞ! 葉っぱが少し丸まってるくらいで、土の中にはちっこくても芋がついてるかもしれないじゃねえか!」
「そうだとも!」エダも血相を変えてユアンに詰め寄った。「小さくたって、煮れば子どもたちの腹の足しになるんだよ! それを燃やすなんて、とんでもない!」
二人の反発はもっともだった。村人たちにとって、畑に生えている作物を自らの手で捨てるなど、命を捨てるに等しい行為だ。
だが、ユアンは首を横に振った。
「これはただの生育不良じゃない。目に見えない病気だ。種芋の中に『弱り』が溜まっていて、それが株全体を蝕んでいるんだ。……今、この病株を残して秋に芋を収穫したとしよう。それを来年の春に『種』として畑に植えれば、病気はさらにひどくなり、畑全体が腐り落ちて全滅する。そうなれば、俺たちの三年間の苦労は完全にゼロに戻るんだぞ!」
「目に見えない病気だと……? そんなの、誰が証明できるんだ!」
ヨルトが食ってかかる。前世の知識を証明する顕微鏡など、ここにはない。
「俺が証明する。だから、俺の責任で抜く!」
ユアンはヨルトの制止を振り切り、最も症状の重い七番の株を両手で掴み、根こそぎ引き抜いた。
ブチブチと根が切れる音とともに、土の中から小さなビー玉ほどの塊茎がいくつか転がり出た。それを拾い集めたいという村人たちの切実な視線を無視し、ユアンはあらかじめ畑の隅で作らせておいた焚き火の中へ、株ごと容赦なく放り込んだ。
青い葉が炎に巻かれ、白く焦げ臭い煙が夏の空に立ち上る。
「ああ……もったいない……」
エダが顔を覆って泣き崩れた。ヨルトも悔しそうに土を蹴り上げている。
自分の決断が、飢えた村人たちをどれほど傷つけているか。ユアンの心はズタズタだったが、それでも作業の手を止めるわけにはいかなかった。
狂ったように病株を抜き、火にくべ続ける。
その過酷な作業の最中、ふとユアンの視線が、主力である七番の隣の区画――『四十四番』の畝に止まった。
葉の表面が厚く、ゴワゴワとしていて、芋自体の食味も悪い四十四番。
だが、驚くべきことに、その四十四番の区画には、七番にあれほど蔓延している葉の縮れや変色が、ほとんど見られなかったのだ。
不格好な葉は太陽に向かって真っ直ぐに開き、茎は短いながらも太く逞しい。
(四十四番だけは、弱っていない……?)
理由は分からない。だが、目の前にある事実として、四十四番はあの目に見えない病気に対して、何か強い抵抗力を持っているように見えた。
ユアンはその光景を強く目に焼き付け、再び七番の病株抜きへと戻っていった。
そして、秋。
冷たい風が吹き抜ける中、収穫を終えた試験圃場の傍らで、代官代理のセリカが厳しい顔つきで帳簿の計算をしていた。
ユアンは泥だらけの姿で、彼女の前に立っている。
「……集計が終わったわ」
セリカが羽ペンを置き、静かに告げた。
「夏に病気だと言って焼き払った株の損失。そして、病気には見えなかったけれど、秋に掘り出してみたら種には到底使えないほど小さかった芋の分を差し引いた、純粋な『健全種芋』の数よ」
セリカの指先が、帳簿の最終行をなぞる。
「約十一万個。重量にして六・六トンよ」
十一万個。
当初の予定では、四十万個の種芋が得られるはずだった。
それが、病気と弱りの蓄積によって、実に予定の四分の一近くまで減ってしまったのだ。これでは、来年村全体に配るという計画は完全に崩壊する。
「……すまない」
ユアンは深く頭を下げた。
「俺の読みが甘かった。種芋を同じ場所で増やし続ければ、必ず弱っていくという当然のリスクに対する備えが足りなかった」
「謝って芋が増えるなら、いくらでも謝りなさい。でも、現実はそうじゃないわ」
セリカは帳簿を閉じ、容赦なく現実を突きつけた。
「四十万個が十一万個になった。これは単なる数字の減少じゃないわ。村人たちが三年間信じてきた『来年こそは腹一杯食える』という希望を、大きく後退させたということよ。このまま病気で減り続ければ、七年の壁どころか、永久に村を救うことはできなくなるわ」
ユアンはうつむいたまま、自分の両手を見た。
順調だと思っていた増殖の階段から突き落とされた恐怖。過去の失敗は、形を変えて再び彼に襲いかかっていた。
増やすほどに、芋は弱くなる。
この呪いのような連鎖を断ち切らなければ、北辺の農業に未来はなかった。




