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異世界で芋を植えたら、葉しか茂らなかった。~元・種芋屋の俺が三個の芋から飢えない北辺を作るまで~  作者: 他力本願寺


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第19話 第四穀倉の契約

春の冷たい雨が上がり、黒い土がぬかるむトゥーリ村の広場に、重々しい車輪の軋み音が響き渡った。


 立派な飾りのついた四頭立ての馬車と、それに続く数台の荷車。手綱を握る御者たちの他に、荷車を引く人足たちが荒い息を吐きながらぬかるみと格闘している。その中の一人、村でも古株の荷車引きであるペルが、足に負った生傷を引きずりながら、顔を苦痛に歪めていた。


 村人たちが何事かと広場に集まってくる中、馬車から降り立ったのは、仕立ての良い豪奢な外套を着込んだ恰腹の良い男だった。


 穀物商ギルド代表、ハルギス・ヴェイン。村の麦の負債と流通を握る、北辺の商人の顔役である。


「いやはや、道がぬかるんで難儀しましたよ。トゥーリ村の皆様、春の飢えに苦しんでおられると聞き、居ても立ってもいられず馳せ参じた次第です」


 ハルギスはうやうやしく一礼すると、人足たちに命じて荷車に積まれた麻袋の口を解かせた。


 中から現れたのは、黄金色に輝く麦の粒だった。


 どよめきが起こった。昨年の遅霜で麦が全滅し、冬の間の配給を極限まで切り詰めてきた村人たちにとって、それは金銀財宝よりも眩しい輝きを放っていた。エダをはじめ、幼い子どもを抱える親たちの目が、釘付けになる。


 群衆をかき分け、試験圃場から駆けつけたユアンと、代官代理のセリカが広場の中央へと進み出た。


「慈善事業で麦を運んできたわけではないでしょう、ハルギス殿」


 セリカが冷ややかに問うと、ハルギスはニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。


「ご名答。私は商人ですからね。ですが、村を救いたいという気持ちは本物ですよ。……ユアン殿。秋に一度ご提案した話を、より具体的な形で練り直してまいりました」


 ハルギスは懐から、分厚い羊皮紙の束を取り出した。


「村の皆様が次の秋まで生き延びるための『麦の前貸し』。そして、あなたが抱えている有望なヤーゴ芋を増やすための『研究資金』。銀貨にして二百枚を、我が商会から提供いたしましょう」


 村人たちがゴクリと唾を飲む音が聞こえた。銀貨二百枚など、小作農が一生かかっても稼げない大金だ。


「……その代償は?」


 ユアンが低い声で尋ねると、ハルギスは羊皮紙をセリカへ手渡した。


「たいした条件ではありません。そちらの『七番』をはじめとする新種の芋について、今後の増殖権と、他の村や街への販売権を、我がハルギス商会が『完全独占』するという、ただそれだけです」


 羊皮紙を受け取ったセリカが、素早く文字の列を目で追っていく。


「……なるほど。投資の規模は大きいわ。契約書には、もし商会側が資金や麦の提供を怠った場合の違約金と、その担保まで明記されている。『イサル州境にある第四穀倉の麦、八十二トンを担保とする』……。随分と気前の良い担保ね」


 第四穀倉の八十二トン。それはハルギス商会が北辺で握る物流の大きさを証明する数字であり、この契約が法的にどれほど強固に裏打ちされているかを示すものだった。


「おい、ユアン! 受けろよ!」


 若い農作業員のヨルトが、切羽詰まった声で叫んだ。


「あの麦があれば、今日からひもじい思いをせずに済むんだぞ! 芋の権利だか何だか知らねえが、どうせ俺たちには売り先なんてねえんだ。商会に任せちまえばいいじゃねえか!」


「そうだ! 俺たちを餓死させる気か!」


 ヨルトの声に押されるように、村人たちから次々と契約を迫る声が上がる。彼らの目は、荷車に積まれた目先の麦に完全に眩んでいた。


 ハルギスは余裕の表情で、ユアンの決断を待っている。


 だが、ユアンの目は微塵も揺らいでいなかった。


 前世の種苗会社での記憶が、冷水のように彼の頭を冷やしている。


(生産者が販売権と種苗の増殖権を握られることの恐ろしさを、こいつらは分かっていない)


 流通を独占されれば、買い取り価格は商会の言い値になる。いくら村で大量の芋を育てても、利益はすべてハルギスに吸い上げられ、農家は永遠に安価な労働力として酷使される。さらには「翌年植えるための種芋」すら、自分たちの意志で残すことができなくなり、商会から高い金で買い戻さなければならなくなるのだ。


「……お断りだ」


 ユアンの声が、村の喧騒を切り裂いた。


「なっ、なぜだ! この麦が見えねえのか!」


「見えるさ。だが、この契約書にサインをすれば、俺たちは永遠にハルギス商会の小作奴隷になる。村の畑が芋で埋め尽くされても、俺たちの腹が満たされることはなくなるんだ」


 ユアンは村人たちを振り返り、言葉を叩きつけた。


「未来の命綱を、他人の懐に預けてどうする! 俺たちが飢えから抜け出す方法は、誰かに恵んでもらうことじゃない。自分たちの手で育て、自分たちの手で管理することだ!」


「そんなこと言ったって、今日の飯がなきゃ俺たちは畑を耕す力も出ねえんだよ!」


「だったら、その労働力を『権利』に変えるんだ」


 ユアンはセリカの方を向き、手元の帳簿を指差した。


「セリカ。ハルギスの契約書ではなく、村人たちのための盟約書を書いてくれ」


「……どういう内容にするつもり?」


「俺の試験圃場や増殖計画に、土地を貸してくれた家。肥料を出してくれた家。そして、畑の土を盛り、雑草を抜き、労働力を提供してくれた家。その貢献度に応じて、秋に収穫された芋の『配分権』を与えるという盟約だ。……商会に売り渡すのではなく、この村全体を一つの大きな共同農場にする」


 ユアンの代案に、村人たちは顔を見合わせた。


 少し前までなら、「実るかも分からない芋の配分権」など誰も信じなかっただろう。しかし彼らは、ユアンが石壁際で十四個の芋を実らせたのを、そしてエダが労働の対価として屑芋の配給を得て、家族の命を繋いだのをその目で見ている。


 目先の麦の袋を取るか、自分たちの労働で未来の権利を掴み取るか。


「私は、ユアンの案に乗るわ」


 静寂を破ったのは、ミラだった。


「南の商人に頭を下げて麦をもらうより、自分たちの土で育てたものを分け合う方が、よっぽど北辺の農民らしいもの。私の灰芋の世話の合間でよければ、いくらでも労働力を出してあげる」


「俺の土地も、好きに使え。どうせもう半分貸してるようなもんだ」と、ガーヴも空咳をしながら笑った。


「私だって働くよ! ユアンのおかげで、うちの子たちは今日を生きてるんだから!」エダが進み出る。


 その声に背中を押されるように、一人、また一人と、村人たちの顔つきが変わっていった。ハルギスの荷車から目を離し、ユアンとセリカの方へ向き直る。彼らは、自らの尊厳と未来を選んだのだ。


「……後悔しますよ、ケルドの次男坊」


 目論見が外れたハルギスは、チッと舌打ちをして荷車の麦に布を被せ直した。


「餓死者の山の中で、あの時契約していればと泣いてすがる日が必ず来る。……行くぞ」


 ハルギスは御者に命じ、馬車を乱暴に反転させて村を去っていった。


 重い車輪の音が消えた後、広場には何も積まれていない黒い土だけが残された。


 セリカは雨上がりの湿った風の中で、新しい羊皮紙を取り出し、羽ペンで素早く文章を書き連ねた。


「労働と配分の盟約書。草案はできたわ」


 セリカが読み上げるその内容は、無駄がなく、誰がどれだけの働きをすればどれだけの権利を得られるかが明確に記されていた。


「文字が書ける者は署名を。書けない者は、親指で印を押しなさい」


 セリカの言葉に、村人たちが列を作った。


 ユアンが一番最初に名を記し、ガーヴが続き、ミラが続く。


 エダやヨルトは、畑仕事で泥だらけになった親指を羊皮紙に押し当てた。


 次々と押されていく印は、孤立していたユアンの実験が、トゥーリ村という共同体の『事業』へと生まれ変わった証だった。


 全員が押し終わった後、セリカは最後に代官代理としての監査印を押し、その数を数えた。


「署名および拇印、合計六十三名。本盟約の成立を認めるわ」


 羊皮紙の下半分を埋め尽くした、六十三の泥だらけの印。


 それはハルギスが提示した第四穀倉の八十二トンという数字にも勝る、村人たちの強靭な意志の結晶だった。

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