第18話 六個を食べた母親
氷のように冷たい雨が、トゥーリ村の黒い土を叩きつけていた。
朝一番、ケルド家の古い倉庫へと見回りに来たユアンは、南京錠が外されているのを見て血の気が引くのを感じた。
扉の隙間から冷風が吹き込んでいる。慌てて中へ飛び込み、青い木札――『種用』の札が打ち付けられた木箱の蓋を跳ね上げた。
そこには、春の四千三百粒から厳選に厳選を重ね、血の滲むような努力で残した四十個の種芋が整然と並べられているはずだった。
だが、箱の中の配列が、不自然に崩れている。
ユアンは息を止め、指先で一つ一つ数え直した。
「……三十四」
足りない。何度数え直しても、三十四個しかない。
最も大きく育ち、来年の主力となるはずだった七番の芋が、六個、忽然と姿を消していたのだ。
ネズミなどの獣の仕業ではない。箱の底には泥のついた足跡の欠片が落ちていた。人間の足跡だ。
「……エダだ」
ユアンは低く唸った。昨日の夕暮れ、この倉庫の前にふらりと現れたエダの姿が鮮明に蘇る。彼女の足元にいた、落ちくぼんだ目をした二人の子どもたち。彼らの飢えた視線は、確かにこの倉庫の奥へ向けられていた。
ユアンは三十四個の芋が入った箱を再び厳重に施錠すると、雨の中を飛び出した。
ぬかるみに足を取られながら、村はずれにあるエダの家へと向かう。粗末な板葺きの小屋からは、微かに薪が燃える匂いと、そして甘く香ばしい匂いが漂っていた。
ユアンは躊躇うことなく、閉まりの悪い木の扉を乱暴に開け放った。
「エダ! あんた、何てことを……!」
怒鳴り込んだユアンの目に飛び込んできたのは、土間のかまどの前でしゃがみ込む親子の姿だった。
エダの二人の子どもが、まだ湯気を立てている黄色い芋を、小さな両手で夢中になって頬張っている。エダ自身も、熱さに顔をしかめながら、一切れの芋を口に押し込んでいるところだった。
床には、見覚えのある七番の厚い皮の残骸が散らばっていた。
「あ……ユ、ユアン……」
エダは口元に手を当て、凍りついたようにユアンを見た。子どもたちはユアンのただならぬ剣幕に怯え、半分食べかけの芋を胸に抱え込んで震えている。
ユアンの怒りが、理性という堤防を決壊させた。
「吐き出せ! 今すぐそれを吐き出せ!」
ユアンはエダに詰め寄り、彼女の肩を激しく揺さぶった。
「あんたが今食った六個の芋が、どんな価値を持っていたか分かっているのか!? あれはただの食い物じゃない! 来年植えれば六十個に、再来年には六百個になるはずだった未来の種だぞ!」
前世の種苗会社で、増殖計画を根底から覆された時の怒りが、言葉となってほとばしる。
「たった六個だと言うかもしれない。だが、その六個の欠損は、七年後には村の何十人もの命を奪うことと同じなんだ! あんたは今、村の未来を食いつぶしたんだぞ!」
ユアンの激しい詰問に、エダは顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
「……分かってる! 悪いことをしたのは分かってるよ!」
エダは泥だらけの床に膝をつき、ユアンの足元にすがりついた。
「でもね、ユアン……この子たち、昨日の朝から木の根っこしか口にしてないんだ! 夜中に寒さとひもじさで泣き声を上げるこの子たちを見て、七年後の六百個まで待てると思うかい!? 私は……七年後の未来よりも、今日のこの子たちの命が欲しかったんだよ!」
エダの悲痛な叫びが、雨音に混じって小屋の中に響き渡った。
「ユアン、やめなさい」
背後から、強い力で肩を引かれた。いつの間にか、ミラが立っていた。彼女の顔には、ユアンへの明確な怒りがあった。
「ミラ、こいつは村の共有財産である種を……!」
「泥棒は悪いことよ。それは分かってるわ」
ミラはエダの子どもたちを背中へ庇うようにして、ユアンの前に立ち塞がった。
「でも、ユアン。あなたの言う六十個だの六百個だのという数字は、お腹を空かせた母親には何の意味も持たないのよ。あなたは未来の数字しか見ていない。でも、エダたちにとっては、今ここにある『今日の空腹』が全てなの」
騒ぎを聞きつけ、雨の中をオランやヨルトなど、他の村人たちも集まってきていた。彼らの顔にも、エダへの同情と、ユアンの冷酷な計算への反発がはっきりと浮かんでいた。
「そうだぞユアン。たかが芋六個で、飢えた親子を泥棒扱いかよ」
「俺たちだって、いつそうなるか分からねえギリギリの生活なんだ」
村人たちの声が、ユアンを孤立させていく。
未来の命を救うための技術的正論が、今日の命の悲鳴の前に脆くも崩れ去っていく。
ユアンは拳を固く握りしめた。自分が間違っているとは思わない。しかし、技術という理屈だけで人間の欲や飢えを管理することが、いかに傲慢な考えであったかを、エダの涙が残酷なまでに証明していた。
種芋を守るためには、強固な蔵や鍵だけでは足りない。彼らを少しでも飢えさせないための「仕組み」が不可欠なのだ。
「騒ぎはそこまでよ」
氷のような声が、村人たちのざわめきを一瞬で凍りつかせた。
傘も差さずに現れたセリカが、濡れた帳簿を胸に抱えて立っていた。彼女の鋭い視線が、床に落ちた七番の皮と、泣き崩れるエダを冷酷に射抜く。
「エダ。窃盗は明確な罪よ。本来なら領主の裁きを受けてもらうところだけど、今のこの村から母親の労働力を一人奪うことは、村の首を絞めることに等しいわ」
セリカは帳簿を開き、羽ペンを構えた。
「ユアン。技術責任者として、この欠損をどう補填するか、現実的な代案を出しなさい。あなたが答えを出せないなら、私は法に従って彼女を罰するわ」
セリカの問いかけは、ユアンに逃げ道を許さなかった。彼女は行政官として罰を下す準備をしつつ、ユアンが「制度」という答えに辿り着くのを待っているのだ。
ユアンは深く息を吐き、頭を猛烈に回転させた。
種を守りつつ、飢えを少しでも紛らわせる方法。
「……選抜から漏れた芋があるはずだ」
ユアンの言葉に、ミラがハッとして顔を上げた。
「秋の収穫の時、種用には小さすぎたり、形が悪かったりして弾いた『屑芋』があっただろう。あれは毒はないが、種にはならないからと、別の穴に保管したままだ」
「それを配給に回すと言うの?」セリカが問う。
「いや、ただ配るだけじゃすぐに食い尽くされる。……労働の対価にするんだ」
ユアンは村人たちを見渡し、声を張り上げた。
「春から夏にかけて、来年の作付けのために畑を耕し、土を盛り、雑草を取る。その手伝いをしてくれた者には、その日の労働報酬として、選抜外の小芋を配る。そうすれば、村の労働力も確保できるし、何より『今日働くことで、今日の飯がもらえる』という見返りが生まれる」
村人たちの間に、ざわめきが起きた。ただの空論ではない、今日を生き延びるための具体的な食料の提示。
セリカが帳簿に目を落とし、素早く計算を始める。
「……選抜外の屑芋の在庫なら、春の間の労働報酬としてなら計算が立つわね。悪くない案よ。エダ、あなたは明日から人一倍その労働に参加しなさい。それでこの六個の罪は不問にしてあげる」
「……はい! ありがとうございます、代官様、ユアン……!」
エダが何度も何度も頭を下げる。
だが、セリカのペンは止まらなかった。
彼女は帳簿の「種芋在庫一覧」のページを開き、総数として書かれていた『四十』という数字を二重線で消した。
そして、その横に『三十四』と書き直し、減った六個分の空欄に、くっきりと赤いインクで線を引いた。
「勘違いしないで、ユアン」
セリカは帳簿を閉じ、真っ直ぐに彼を見た。
「罪は不問にしても、事実が消えるわけじゃない。あなたが六百個の未来を失ったという記録は、この赤線として永遠に帳簿に残るわ。私たちが相手にしているのは、美しい技術ではなく、こういう泥臭い人間の現実なのよ」
赤線が引かれた帳簿。
それは、技術という理想が、人間の胃袋という現実とぶつかり合った、決して消えない生々しい傷跡だった。
ユアンは無言で頷き、その赤線の重みを自らの胸に深く刻み込んだ。




