第17話 七年後に一緒になる
秋風が木枯らしへと変わり、トゥーリ村に再び長く冷たい冬が近づいていた。
封鎖を解かれた古い倉庫の中、ユアンとセリカは薄暗いカンテラの灯りを頼りに、木箱に納められた四十個の種芋と向き合っていた。
七番、十九番、四十四番。
四千三百粒の真正種子から生き残った、北辺の土と気候に適応した三系統の精鋭たちである。これさえあれば、いつか必ず村を飢えから救うことができる。ユアンの胸には、技術者としての確かな達成感が満ちていた。
だが、その熱気は、隣で木板の帳簿に羽ペンを走らせるセリカの冷徹な声によって、急速に冷まされていくことになった。
「いいこと、ユアン。あなたはこの四十個の芋が、明日からすぐに村人の腹を満たす魔法の石だとでも思っているの?」
「そんなことは思っていない。これを来年の春に植えて、増やしていくんだ」
「そうね。問題は、その『増やす』という作業にどれだけの時間が必要かということよ」
セリカは帳簿の空白ページに、数字の列を書き出し始めた。
「一つの種芋から、秋に何個の芋が穫れるかしら?」
「……うまく育てば、十個程度にはなる。それが一般的な増殖率だ」
ユアンは前世の種苗会社で扱っていた馬鈴薯の増殖率を思い出しながら答えた。
「じゃあ、単純計算するわよ」
セリカのペンが、カツカツと音を立てて木板を叩く。
「来年、この四十個を植えて、秋に四百個になる。再来年、その四百個を植えて四千個。さらにその次の年には四万個……。村の人口は二百一名。一人が一日に食べる量を考えれば、村全体を一日養うだけでも膨大な数の芋が必要になるわ。それが冬を越すための数十日分ともなれば、何万、何十万という桁になる」
セリカは帳簿から顔を上げ、厳しい視線をユアンに向けた。
「もちろん、これは机上の空論よ。実際には土の中で腐るものもあるし、ネズミに食われるもの、病気で駄目になるものも出る。貯蔵中の損耗も考えれば、計算通りに十倍ずつ増えていくわけがない」
ユアンは息を呑んだ。増殖率と損耗率。前世ではエクセルの表計算で一瞬にして弾き出していた数字が、今、血肉を持った現実の壁として立ちはだかっている。
「腐敗や病気のリスクを差し引いて、最も現実的な増殖計画を立てた場合……」
セリカは最後に出した答えを、冷酷に突きつけた。
「秋の畑で告げた『七年』の中身が、これよ」
「七年……」
ユアンの口から、掠れた声が漏れた。
長すぎる。
七年といえば、昨日まで嘔吐に苦しんでいたニアが、大人の娘になるほどの歳月だ。
「しかも、ただ待てばいいという話ではないわ」
セリカはさらに追い打ちをかけた。
「この七年間、増え続ける芋を、村人たちは『絶対に食べてはいけない』のよ。秋に四百個穫れても、四千個穫れても、それはすべて次の年の春に植えるための『種』として残さなければならない。一つつまみ食いすれば、その分だけ未来の収穫が何十個、何百個と減ることになるんだから」
それは、想像を絶する過酷な計画だった。
目の前に美味そうな芋が山積みになっているのに、自分たちは薄い豆の汁で飢えを凌ぎ、ひたすらそれを土に埋め続けなければならないのだ。極限まで腹を空かせた人間に、そんな苦行が耐えられるだろうか。
「……やるしかない」
沈黙の後、ユアンは両手で顔を覆い、振り絞るように言った。
「七年かかろうが、十年かかろうが、増やすしかないんだ。今これを食ってしまえば、明日からの村はまた、麦が全滅するたびに餓死者を出す元の生活に逆戻りする。……七年間、絶対にこの種芋を食わせずに守り抜く」
「ええ、その通りよ。感情で種を食べてしまえば、すべてが水の泡になるわ」
セリカも力強く頷いた。
「あなたが畑で芋を増やす技術責任者なら、私はこの帳簿と規則で、芋を人間の欲から守る防壁になるわ。公費が入らない個人の事業だとしても、私が代官代理としての権限と知恵を絞って、何が何でも七年間、この芋の数を守り切ってみせる」
「ああ、頼む。お前のその融通の利かない厳格さが、今は一番の頼りだ」
ユアンが言うと、セリカは少しだけ誇らしげに胸を張った。
「任せなさい。七年後、必ず形にしましょう。この村の、すべての畑を芋で埋め尽くすのよ」
「ああ。七年後に必ず、一緒にな」
「あらあら、お熱いことだねえ」
不意に、倉庫の入り口からからかうような声が飛んできた。
二人が驚いて振り返ると、薄汚れたショールを羽織った村の女、エダが立っていた。彼女の足元には、痩せ細った二人の子どもが、不安げにユアンたちを見つめている。
「エダ……? どうしたんだ、こんなところで」
「通りかかっただけさ。それにしても、代官代理様とうちのユアンがねえ。七年後に一緒になる約束かい? 若いってのはいいもんだ」
エダがニヤニヤと笑いながら言うと、セリカの顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「い、一緒になるって、違います! そういう意味じゃなくて……!」
「隠さなくてもいいさ。村のみんなも、夕方になると二人で畑に隠れてるって噂してるよ。まあ、身分違いの恋だろうけど、七年も待てるなら本物だね」
「ですから! これは芋の増殖計画の話で、恋愛感情なんて微塵も……!」
普段の冷静沈着な監査官の姿はどこへやら、セリカは帳簿を振り回して必死に弁明している。
一方のユアンは、最初エダが何を言っているのか全く理解できず、ぽかんとしていた。だが、セリカの慌てふためく様子と「一緒になる」という言葉の意味を頭の中で反芻し、ようやく合点がいった。
(……あ。七年後に一緒に『なる』って、そういう……結婚とか、そういう意味に聞こえたのか)
途端に、ユアンの顔にもカッと熱が集まった。
改めて隣のセリカを見ると、怒りで(あるいは羞恥で)肩を怒らせているものの、その横顔は年相応の娘のそれだった。泥まみれになりながら黒布を押さえ、村の未来のために数字と格闘する相棒。その存在を「女」として意識したことはなかったはずなのに、急に視線のやり場に困ってしまう。
「とにかく! これは真面目な農業の話です! 変な噂を立てないでちょうだい!」
セリカが半ば怒鳴るように言って倉庫の扉を閉めようとすると、エダは肩をすくめて「はいはい」と背を向けた。
エダの姿が遠ざかっていくのを見送りながら、ユアンの顔から次第に熱が引いていった。
エダの足元にいた子どもたちの、落ちくぼんだ目。エダ自身の、骨張った手首と薄い胸元。
彼らは今、この瞬間も強烈な飢えに苛まれているのだ。冬を越すための食料が圧倒的に足りないこの村で、彼らのような弱者は常に死の恐怖と隣り合わせに生きている。
倉庫の中に戻った二人の間には、先ほどの軽い冗談の空気は完全に消え去っていた。
そこにあるのは、圧倒的な「現実の重さ」だった。
「……七年後、か」
ユアンは木箱の中に並んだ四十個の種芋を見下ろした。
計画通りに進めば、七年後にはこの村の誰もが腹一杯に芋を食えるようになるだろう。だが、今、ユアンの腹の虫が情けなく鳴った。
今夜のケルド家の食卓に並ぶのは、おそらく塩を少し入れただけの薄い豆の煮汁と、ひとかけらの蕪だけだ。それはエダの家でも、ガーヴの家でも同じだろう。
遠い未来の輝かしい成果と、今夜足りない夕食。
種を守るということは、今日の空腹をねじ伏せるという血の滲むような意志の継続なのだ。
ユアンは四十個の芋が入った木箱の蓋を、祈るような、あるいは己を戒めるような重々しい手つきで、静かに閉じた。




