第15話 名前を付けるな
夏の日差しがトゥーリ村の黒い土を焦がし始める頃、村はずれの新しい試験圃場では、四百二十七株のヤーゴ芋の苗たちが旺盛に葉を広げていた。
春の選抜をくぐり抜けた精鋭たちとはいえ、真正種子から育った株は、驚くほど個性がバラバラだった。茎が太く真っ直ぐに上へ伸びるもの、地面を這うように蔓を広げるもの、葉の緑が濃いもの、薄いもの。一つとして同じ顔をしている株はない。
ユアンは汗を拭いながら、一列ずつ畝を見て回り、手にした木皮の帳簿に生育状況を書き込んでいた。
「おっ、いいぞ『大葉』。お前は一番勢いがあるな。こっちの『早起き』はもう花芽がつきそうじゃないか。『縮れ毛』は……少し水が足りないか」
水桶から柄杓で水をやりながら、ユアンは親しげに株へ声をかけていた。毎日泥まみれになって世話をしていると、それぞれの株の個性が手に取るように分かり、自然と特徴を捉えた仮名で呼ぶようになっていたのだ。
「ちょっと、何よその『大葉』とか『早起き』って」
背後から、氷をぶつけるような硬い声が降ってきた。
振り返ると、いつものように濃紺の外套を着たセリカが、日傘代わりのつばの広い帽子を被って立っていた。彼女の目線は、ユアンが声をかけていた株の根元に刺さる木札――『7』と墨で書かれた札に冷たく注がれている。
「ああ、こいつらの仮名だよ。番号だけじゃ味気ないし、咄嗟にどの株か分かりにくいからな。特徴で呼んだ方が……」
「今すぐやめなさい。そのふざけた仮名、帳簿にも書いているんじゃないでしょうね」
セリカはユアンの手から木皮の帳簿をひったくると、眉間に深いしわを刻んだ。
「……消しなさい。すべて番号へ書き直すのよ」
「おいおい、固いこと言うなよ。俺は毎日こいつらを見てるんだ。名前を付けた方が管理もしやすい」
「いいこと、ユアン」
セリカは帳簿をユアンの胸に押し付け、一歩距離を詰めた。
「名前なんて付けてしまえば、それに愛着という魂が宿るわ。私たちは秋に、この四百二十七株の中から、本当に北辺の土に合う数株だけを残して、残りの四百以上をすべて捨てなければならないのよ」
その冷徹な言葉に、ユアンははっとした。
「秋になって、もしその『大葉』とやらの地下に一つも芋が実っていなかった時、あなたは情に流されずにその株を根こそぎ引き抜いて火に投げ込めるの? 愛着による選抜の歪みは、技術にとって致命的なミスを生むわ。これは遊びじゃない、命の懸かった選抜試験なの。情なんて、この畑には一番不必要なものよ」
ぐうの音も出ない正論だった。
前世の種苗会社でも、試験圃場の担当者が特定の系統に肩入れし、客観的なデータを曇らせてしまう事例は何度も見てきた。ユアンは自分が、孤独な農作業の慰めとして、無意識のうちに作物をペットのように扱いかけていたことに気づいた。
「……分かった。俺が悪かった。すべて番号で管理する」
ユアンが素直に折れると、セリカはふんと鼻を鳴らした。
「分かればいいのよ。第一、番号だけで特徴が掴めないなんて、あなたの記憶力が足りないだけじゃない」
「無茶を言うな。四百以上の株だぞ? 毎日変化するんだ、番号の羅列だけじゃ頭に入りきらない」
ユアンが抗議すると、セリカは日よけの帽子のつばを指先で軽く押し上げ、滑らかな口調で言い放った。
「七番は最も大柄で、葉が大きく横に広がる。十九番は全体的に小ぶりだけれど、茎が少し赤みを帯びていて、発芽から花芽をつけるまでの日数が一番短い。四十四番は成長が遅く、葉の表面が厚くてゴワゴワしている。百二番は……」
「おい、ちょっと待て」
立て板に水のように四百二十七株の特徴を暗唱し始めたセリカを、ユアンは呆然として止めた。
「お前、土も触ってないのに、全部の特徴と番号を頭の中で結びつけてるのか?」
「当たり前よ」セリカはさも当然のように涼しい顔をした。「私は代官代理よ。自分の承認した帳簿に並ぶ数字の裏付けを、すべて把握していないでどうするの。数字はただの記号じゃないわ。現場の事実そのものよ」
その徹底した実務家としての姿に、ユアンは思わず舌を巻いた。
数字にしか興味がない冷血な女だと思っていたが、彼女は彼女なりに、この途方もない試験事業の全貌をその細い肩に背負おうとしているのだ。
小競り合いのようなやり取りの中に、互いの仕事の癖を認め合う、奇妙な親密さが生まれていた。
「……なら、その暗記力に免じて、少し意見を聞かせてくれ」
ユアンは帳簿の仮名を木炭で黒く塗りつぶし、番号の表記に直しながら、セリカを伴って畝の間を歩き始めた。
「お前が暗唱した通り、十九番の株だ」
ユアンが指差したのは、かつて『早起き』と呼んでいた株だった。他の株がまだ青々と葉を広げることに専念している中で、十九番の株だけはすでに茎の先端に小さな蕾をつけ始めている。
「こいつは全体的に小ぶりだが、とにかく生育スピードが圧倒的だ。もしこの早さで地下に芋を作ってくれるなら、植え付けから収穫までの日数が、他の芋よりもずっと短くて済むかもしれない」
北辺の短すぎる夏。その期間内に確実に実りを迎える「早生」の性質は、天候不順のリスクを避ける上で極めて重要な要素だった。
「なるほど。収穫を急げるなら、飢えた村の胃袋を満たすまでの日数を計算しやすくなるわね」
セリカも帳簿に目を落とし、実用的な観点からうなずいた。
「次だ。こっちの四十四番を見てくれ」
別の畝に移動し、ユアンは少し不格好な株の前にしゃがみ込んだ。
他の株に比べると背丈は低く、葉の表面は皮が厚くてゴワゴワとしており、決して見栄えの良い株ではない。
「この四十四番、成長が遅いし、葉も硬い。だが……これを見てくれ。隣の四十三番の葉の裏だ」
ユアンが隣の株の葉を裏返すと、そこにはアブラムシのような微小な虫が数匹、へばりついていた。葉の表面にも、少し茶色い斑点が出始めている。
「今年は春先の気温が高かったせいか、少し虫が出始めている。斑点が出る株もちらほらある。だが、この四十四番には、今のところ虫が一匹も寄っていないし、葉の斑点も全くないんだ」
「本当ね……。葉が硬いから、虫が食べにくいの?」
「かもしれない。人間が食べて美味い柔らかい葉は、虫にとっても美味いんだろう。不格好で成長が遅い分、外からの攻撃を弾くように自分を硬く守っているように見える」
前世の知識が、ある可能性をユアンの脳裏にちらつかせていた。病気や害虫に対して強い「耐病性」を持つ品種。しかし、一度の観察だけでそれを断定することは危険だ。
「まだ分からない。だが、こいつは少し毛色が違う。注意して観察を続ける必要がある」
ユアンの言葉に、セリカも真剣な顔で「四十四番:葉が健全、虫害少ない」と書き留めた。
そして、最後は七番の株である。
他の株を圧倒するように太い茎を伸ばし、濃緑の大きな葉を広げているその姿は、いかにも豊かな収穫を予感させる生命力に満ちていた。
七番、十九番、四十四番。
四百二十七株の群れの中で、この三つの番号が、ユアンの帳簿の中でひときわ強い存在感を放ち始めていた。
その日の夕刻。
夕暮れの作業を終え、ユアンたちが農具を片付けていると、畑の端からゴホッ、ゴホッという重く、肺の奥から絞り出すような咳が聞こえてきた。
振り返ると、いつものように作業の様子を見守りに来ていた老農ガーヴが、胸を押さえてうずくまっていた。
「ガーヴ爺さん!」
ユアンが駆け寄るより早く、ガーヴは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「しっかりして! ガーヴ殿!」
セリカも駆けつけ、ガーヴの体を支え起こす。老人の体は、冬の間に会った時よりもさらに軽く、枯れ枝のようになっていた。額にはべっとりと脂汗が浮かび、浅く速い呼吸を繰り返している。
「駄目だ、熱がひどい。すぐに家へ運ぶぞ!」
ユアンはガーヴを背負い上げ、村の方へと急いだ。
春の遅霜による麦の全滅から始まった飢え。そして、あの廃棄芋の中毒事故でニアを看病し続けた心労。限界まで減らされた配給食では、高齢のガーヴの体力を維持することはとうてい不可能だったのだ。
農業技術の進歩という希望の裏側で、人間の肉体は静かに、しかし確実に削り取られていた。
ガーヴを背負ったユアンたちの背中が村の奥へと消えていく中。
主を失った夕暮れの試験畑では、夏の風が畝の間を吹き抜けていた。
何事もなかったかのように揺れる緑の葉の波の中で、七番、十九番、四十四番の白い木札だけが、長く伸びた夕日に照らされて、沈黙したまま立ち尽くしていた。




