第13話 地の毒
トゥーリ村に春が訪れ、雪解け水が土を潤しても、村人たちの腹が満たされるわけではなかった。
むしろ、備蓄が底を突き始めるこの時期こそが、北辺の農民にとって最も過酷な「春の飢え」の季節である。大人たちは畑を耕すための体力を少しでも温存しようと口数を減らし、子どもたちは空腹を紛らわせるために、まだ芽吹いたばかりの野草や木の根を探して村はずれを歩き回っていた。
老農ガーヴの孫娘であるニアも、そんな子どもたちの一人だった。
九歳になる彼女の細い体は、冬の間の粗食ですっかり軽くなっていた。目を離せばふらりと倒れてしまいそうな足取りで、彼女はケルド家が使っている古い倉庫の脇を通りかかった。
「……あ」
ニアの足が止まった。
倉庫の壁と地面の隙間に、ぽつんと転がっているものがあった。
土まみれの、小さな芋の欠片。ユアンが冬の間に種芋の選別作業をした際、傷んでいたり、形が悪かったりして「使い物にならない」と判断し、無造作に外へ放り投げた廃棄芋の一つだった。
春の日差しを浴びて、その芋の表面は不気味な緑色に変色し、くぼみからは白く太い芽がにょきりと伸びている。大人であれば、その毒々しい色と不格好な芽を見て食べるのを躊躇うだろう。
だが、限界まで飢えていたニアには、それがただの「食べ物」にしか見えなかった。
周囲に大人の姿がないことを確認すると、ニアはその緑色の小芋を小さな両手で拾い上げ、胸に抱え込んで家へと駆け出した。
昼下がり、ユアンが実験用の畑で土の湿り気を確かめていると、村の中心の方から悲鳴のような声が上がった。
「誰か! 誰か来てくれ! ニアが……ニアが!」
ガーヴの切羽詰まった声だった。
ユアンは鍬を放り出し、声のするガーヴの家へと走った。土間に飛び込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
「ニア! しっかりしろ!」
ガーヴが半狂乱になって孫娘の背中をさすっている。ニアは土間にうずくまり、激しく嘔吐していた。すでに胃の中は空っぽのはずなのに、黄色い胃液を吐き出し続け、小さな体は痙攣するように震えている。顔面は蒼白を通り越して土気色になり、額には脂汗がびっしりと浮いていた。
「お腹が……痛い……熱いよぉ……」
ニアがかすれた声で呻く。
「どうしたんだ、何があった!」
駆けつけたユアンが問うと、ガーヴは涙声で答えた。
「分からねえ! 外から帰ってきたと思ったら、急に腹を抱えて……。何か変なもんでも拾い食いしたのか……!」
ユアンの視線が、土間の隅に転がっているものに釘付けになった。
かまどの灰の近くに、黒焦げになった小さな皮の残骸が落ちている。
ユアンはそれに駆け寄り、手に取って鼻を近づけた。微かに残る、ヤーゴ芋特有の匂い。そして、皮の端に見える、鮮やかな緑色。
その瞬間、ユアンの全身の血の気が引いた。背筋を強烈な悪寒が駆け抜ける。
(緑化した皮……それに、芽の跡だ)
前世の知識が、警鐘を鳴らすように脳内で暴れ回った。
馬鈴薯――この世界で言うヤーゴ芋は、日光に当たると皮が緑色に変色する。そしてその緑色の部分や、伸びた芽の周辺には、ソラニンやチャコニンといった天然の毒素が大量に生成される。
専門業者であったユアンにとって、それは常識中の常識だった。大人が大量に食べても重篤な中毒症状を引き起こし、最悪の場合は死に至る。ましてや、栄養失調状態にある九歳の子どもが口にすればどうなるか。
「……俺だ」
ユアンは震える声で呟いた。
「俺が、倉庫の脇に捨てた廃棄芋だ……。日光に当たって緑色になった芋には、強い毒ができる。芽にもだ。それを、ニアは……」
自分は危険性を知っていた。知っていたからこそ、種芋には選ばず「廃棄」したのだ。だが、飢えた村にそれを無防備に転がしておけばどうなるか、全く想像力が及んでいなかった。技術の選抜に夢中になるあまり、最も基本的な「安全管理」を怠ったのだ。
自分の傲慢な過失が、この小さな命を奪おうとしている。その恐ろしい事実が、ユアンの胸を鋭い刃で抉った。
「地の毒だ」
騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちをかき分け、教会のバルド助祭が土間に足を踏み入れた。
神経質そうな顔つきの彼は、嘔吐を繰り返すニアと、真っ青な顔で立ち尽くすユアンを交互に見据え、冷酷な声で断罪した。
「そもそも、南の国で育つものを北辺の土に無理やり植え付けようとしたのが間違いなのだ。神の定めた理に逆らい、地下に実らないものを魔法や小細工で無理に太らせるから、作物が呪いを帯びる。その芋は、人の命を奪う『地の毒』だ」
「違う! 毒があるのは光に当たった皮と芽の部分だけで……!」
「言い訳をするな!」
バルドの怒声に、ユアンは言葉を詰まらせた。
「現に、罪のない子どもが苦しんでいるではないか! お前のその傲慢な知識とやらが、この村に何をもたらした? 収穫ゼロの絶望と、そしてついには毒だ! これ以上、悪魔の作物をこの村に置くことは許さん!」
バルドの言葉に、周囲の村人たちも同調した。
ただでさえ飢えと寒さで神経がすり減っている彼らにとって、未知の作物への恐怖は容易に怒りへと変わった。
「そうだ! あんな気味の悪い芋、全部燃やしちまえ!」
「俺たちの畑まで毒で汚されたらどうするんだ!」
「ガーヴ爺さんも、あんなよそ者の実験に土地を貸すから……!」
口々に投げつけられる非難の言葉。兄のダンでさえ、顔を青ざめさせて押し黙っている。ミラの灰芋こそが正しかったのだと、誰もが確信したような目だった。
ユアンは反論できなかった。
どれだけ正しい技術論を語ろうと、今目の前で人間を傷つけたという「結果」の前では、すべてが虚しい言い訳にすぎない。
彼はただ、苦しむニアの傍らで、自分の犯した罪の重さに打ちのめされていた。
「そこまでよ」
騒然とする土間に、氷のように冷たい声が響き渡った。
人混みを割って現れたのは、代官代理のセリカだった。彼女は一目で状況を把握すると、すぐさま従者に指示を飛ばした。
「ニアをすぐに私の馬車へ。街の医者のところへ運ぶわ。費用は代官所が持つから、急ぎなさい!」
「せ、セリカ様……!」
ガーヴがすがりつこうとするが、セリカはそれを制し、ユアンの方へと向き直った。
その視線には、かつて彼の実務家としての姿勢を評価した時の熱は微塵もなかった。あるのは、重大な事故を引き起こした責任者に対する、厳格な行政官としての怒りだった。
「ユアン・ケルド。あなたは自分の管理下にある作物に、人間を害する危険性があることを知っていたのね?」
「……はい。緑化した部分と芽には、毒があります」
「それを知りながら、村人が容易に立ち入れる場所に放置した。完全な管理責任の欠如よ」
セリカは帳簿を開き、木炭で力強く何かを書き込んだ。
「人命に関わる事故が起きた以上、これ以上の試験継続は容認できない。本件の正式な裁定が下るまで、あなたの試験圃場および、種芋を保管している倉庫を直ちに封鎖する」
「封鎖……」
「ええ。誰も立ち入ることは許さない。違反すれば、領主への反逆とみなすわ」
セリカの命令は絶対だった。
すぐさま従者たちが動き出し、四百二十七株の苗が植えられた新しい試験畑には立ち入り禁止の縄が張られ、種芋の入った箱が置かれている倉庫の扉には、重い南京錠と封鎖の札が打ち付けられた。
せっかく見出した北辺適応の兆しも、四千三百から選び抜いた精鋭たちも、すべてが扉の向こう側に閉ざされてしまった。
その日の夜。
ユアンは自室の薄暗い灯りの下で、木皮を綴じた記録帳を開いていた。
街へ運ばれたニアは、医者の処置が早かったおかげで一命を取り留めたという知らせが届いていた。だが、彼女が味わった激しい苦痛と、村人たちがユアンに向けた憎悪の目は、決して消えることはない。
ユアンは震える手で木炭を握った。
これまで、発芽率、日照時間、土の温度、葉の枚数……植物の成長記録ばかりを誇らしげに書き連ねてきたページ。
彼はその一番下の余白に、太く、黒い線を引いた。
そして、これまで決して作ろうとしなかった新しい項目を書き加えた。
『人間への被害』。
その横に、「ニア・九歳。緑化芋の誤食による重度の中毒症状。原因・技術責任者の管理怠慢」と記す。
文字を書くたびに、自分の愚かさが胸を突き刺した。
どんなに素晴らしい増殖率も、どんなに優れた耐寒性も、人間の命と安全を守る仕組みが伴わなければ、それはただの凶器でしかない。
四百二十七株の未来を夢見る前に、彼はまず、自分の足元にある「地の毒」と向き合わなければならなかった。封鎖された扉を開ける鍵は、もはや農業技術の中には存在しなかった。




