第12話 四千三百の失敗
トゥーリ村に本格的な春が訪れ、雪解け水が小川を満たす頃。
ガーヴの家の裏手、風除けの石壁に囲まれた一角に作られた木枠の苗床には、奇妙な静けさが漂っていた。
そこには、土を捏ねて作られた小さなポットが、足の踏み場もないほどびっしりと並べられている。その数、実に四千三百。ユアンたちが秋に得た青い実から取り出し、冬の間に丁寧に泥を落として保存しておいたヤーゴ芋の真正種子を、一つ残らず播いたものだ。
しかし、その苗床の光景は、豊かな春の芽吹きとは程遠いものだった。
「……ひどい有様だな」
腕を組み、苗床を見下ろしていたダンの口から、深い落胆の溜息が漏れた。
播種から十分な日数が経過しているというのに、四千三百のポットのうち、半分以上が沈黙したままなのだ。発芽の気配すらない黒い土の表面が、虚しく春の日差しを照り返している。
芽を出しているものもあるにはあった。だが、それらも成長の具合はまちまちだった。すでに指ほどの高さに茎を伸ばしているものもあれば、土の表面からかろうじて緑色の頭を覗かせただけのもある。葉の形も、見慣れたヤーゴ芋のそれとは違い、細長かったり、丸っこかったりと不揃いだった。
「仕方ないさ」
ユアンは小さな木のヘラを手に、苗床の間にしゃがみ込んだ。
「親の性質をそのまま受け継ぐ種芋と違って、種から生まれたものは一つ一つ全部違う。北辺の寒さに耐えられなくて土の中で死んだ奴もいれば、元々発芽する力すら持っていなかった奴もいる。人間と同じように、生まれつきの強さや弱さがはっきりと出るんだ」
ユアンはヘラを使い、芽が出なかったポットを容赦なく苗床から弾き出し、背後の廃棄用の籠へと放り投げていった。
乾いた土の音が連続して響く。
「おいおい、ユアン。もうちょっと待ってやれば芽が出るかもしれねえだろ? 四千三百も播いたのに、そんなにポンポン捨てちまっていいのかよ」
ダンの言葉に、ユアンは手を止めずに答えた。
「駄目だ。ここで基準を甘くしたら、後で俺たちが首を絞めることになる」
ユアンの脳内には、前世で培った実務の原則が明確に刻まれていた。
育種選抜において最もやってはならないことは、情に流されて基準を曖昧にすることだ。限られた畑の面積、限られた肥料、そして何より限られた人間の労働力を、見込みのない株に浪費する余裕などない。
「選抜の基準はすでに決めてある」
ユアンは立ち上がり、周囲にいるダンやミラたちに向かって宣言した。
「第一に、今日この段階で発芽していないものはすべて捨てる。発芽速度が遅い株は、それだけで北辺の短い夏を生き抜く力がない証拠だからだ。第二に、芽が出ていても、葉が黄色いもの、縮れているもの、極端に成長が遅いものも弾く。葉が健康でなければ、土の中の芋を育てる養分は作れない」
ユアンは再びしゃがみ込み、今度はせっかく芽を出している株の中から、葉の色が薄いものや、茎がひょろひょろと徒長しているものを引き抜き始めた。
プチッ、プチッという微かな音が響き、か弱き緑の命が次々と泥の上に捨てられていく。
「ちょっと待って!」
たまらずユアンの手を止めたのは、ミラだった。
彼女は泥の上に捨てられた小さな双葉を拾い上げ、痛ましそうな顔でユアンを睨みつけた。
「発芽しなかったものを捨てるのは分かるわ。でも、この子たちはちゃんと芽を出して、生きているじゃない。葉の形が少し歪なだけで捨てるなんて、あんまりだわ」
「生きているだけじゃ駄目なんだ、ミラ」
「駄目なことなんてないわ! 農家が、せっかく芽吹いた作物を自分で引き抜くなんて……」
ミラの言葉には、土地とともに生きる者としての切実な重みがあった。
村は今、極限の飢えの淵にある。妊婦のハンネは青白い顔で寝込みがちになり、水車小屋のオランもすっかり痩せ細ってしまった。一つでも多くの命が、一つでも多くの食べ物に育ってほしいという祈りが、ミラの抵抗の根底にはある。
だが、ユアンは拾い上げられた双葉を指差した。
「ミラ、よく見てみろ。その葉には、少しだが茶色い斑点が出ている。おそらく、病気に対する抵抗力が極端に低い個体だ。そっちの茎が細い株も、風が吹けばすぐに折れるだろう」
ユアンは声を一段落とし、ミラの目を真っ直ぐに見返した。
「俺たちは、この村を飢えから救うための『強い例外』を探しているんだ。ここで弱い株に情けをかけて畑の場所を割けば、本当に強い株が育つための土と太陽を奪うことになる。それに、秋になってから『やっぱりこいつは実をつけなかった』と知る方が、よっぽど残酷で、無駄な労働になるんだぞ」
数字ではなく、今日の労働と明日の結果という現実で語られたユアンの反論に、ミラは唇を噛み締め、手の中の小さな苗を静かに籠の中へ落とした。
「……分かったわ。あなたがそこまで言うなら、私はもう口出ししない。でも、あんまり気分のいい作業じゃないわね」
「気分の良し悪しで仕事をするのは、三流の証拠よ」
二人のやり取りの間に、代官代理のセリカが従者を伴って現れていた。
彼女は片手に分厚い帳簿を抱え、もう片方の手には、先端を尖らせた小さな木の札を大量に持っている。
「ユアンの言う通り、情けは管理を破綻させるわ。限られた予算と土地を使う以上、残すものは厳格な基準をクリアした精鋭でなければならない」
セリカはユアンが選び残した、最も成長が早く、葉が厚く、茎が太い健康な苗の一つを指差した。
「私は、あなたが選んだ苗に一つ一つ『番号』を振っていくわ。今日から、この子たちに仮の名前や愛着のある呼び方をすることは一切禁ずる。すべては一番、二番というただの数字よ。そうすれば、秋に収量が悪かった時、情にほだされずに切り捨てることができるでしょう?」
「番号管理か。ありがたい。俺もその方がやりやすい」
ユアンが頷くと、セリカは即座に作業に取り掛かった。
ユアンが厳しい目で苗を吟味し、「合格」と判断したものだけを別の木箱へと移していく。セリカはその後ろから、移された苗のポットに『一』『二』と墨で書かれた木札を迷いなく突き立て、帳簿にその状態を事細かに記録していった。
発芽速度と葉の健全性。
その二つの初期基準だけで、四千三百という途方もない数だった苗は、瞬く間に削られていった。
作業が終わる頃には、日は高く昇り、ガーヴの家の裏手には、引き抜かれた苗と土の入ったポットの残骸が、小山のように積み上がっていた。
「……終わったな」
ユアンは泥だらけの顔の汗を拭い、木箱に並べられた選りすぐりの苗を見下ろした。
セリカが帳簿の最後の行にペンを走らせ、小さく息を吐く。
「定植基準をクリアした苗、合計四百二十七株。記録完了よ」
四千三百からの、一割にも満たない数。
数による暴力で奇跡を探すというユアンの目論見は、最初の段階で早くも厳しい現実を突きつけられていた。ここからさらに畑へ移し、夏の間の生育日数、病気への強さ、そして何より、秋に地下へ芋を作るかどうかという最も高い壁を越えなければならないのだ。
最終的に残るのは、百か、十か、あるいはまたゼロか。
その日の午後、ユアンたちは選び抜かれた四百二十七株を、石壁際の試験畑から少し離れた、村が提供した新しい実験用の畑へと定植した。
柔らかく耕された黒い土の上に、一定の間隔で小さな緑の葉が並んでいく。
セリカが最後に打ち込んだ番号札には、『四百二十七』という数字が刻まれていた。
一番から四百二十七番まで、等間隔に並んだ白い木札。それはまるで、これから始まる過酷な生存競争の墓標のようにも見えた。
ユアンは泥だらけの手を洗いながら、ずらりと並んだ番号札を見渡した。四千三百の期待は、四百余りの重い現実へと変わった。だが、不思議と落胆はなかった。
ただ一株でもいい。この四百余りの中に、北辺の長い昼に打ち勝ち、地下に豊かな実りをもたらす「例外」が潜んでいることを、彼は静かに祈っていた。




