宰相は、まず話を聞くことにした
地下室へ続く階段を、ヴァンキッシュは慎重に下りていた。
その後ろには、数人の部下が続いている。
「……」
誰も口を開かなかった。
先ほど報告を受けた内容が、あまりにも現実離れしていたからだ。
召喚された異世界人。
そのうちの一人が、何かを引き起こした。
地下室にいた騎士や魔法士たちが、氷に閉じ込められている。
聞いただけなら、何かの比喩かと思う。
だが。
階段を下りるにつれて、空気が明らかに冷たくなっていく。
「……これは」
部下の一人が、小さく呟いた。
吐息が白い。
地下室へ近づくほど、冷気が強くなっている。
そして。
最後の階段を下りた先。
そこにあった光景を見て、ヴァンキッシュは足を止めた。
「…………」
広間全体が、氷に覆われていた。
床も。
壁も。
柱も。
天井までもが白く染まっている。
その中には――。
騎士たち。
魔法士たち。
先ほどまで人だった者たちが、氷の中に閉じ込められていた。
逃げようとしていた者。
誰かへ手を伸ばしている者。
魔法を使おうとしていた者。
それぞれが、その瞬間の姿のまま動きを失っている。
まるで――。
時そのものを止められたかのようだった。
「……生きているのか?」
部下の一人が震える声で尋ねる。
「分からん」
ヴァンキッシュは答えた。
近づいて確認することすら、今はできない。
不用意に近づけば、自分たちも氷に呑まれる可能性がある。
そして。
この氷を生み出したと思われる存在が――。
広間の中央にいた。
一人の女性。
周囲を氷に囲まれながら、ただ呆然と立ち尽くしている。
「…………」
ヴァンキッシュは、彼女を見つめた。
異世界人。
おそらく、この女性が原因なのだろう。
だが。
目の前の女性は、恐ろしい怪物には見えなかった。
ただ途方に暮れている。
自分の身に何が起こったのかすら、理解できていないように。
それでも。
この光景を作り出した力は、明らかに尋常ではない。
ヴァンキッシュは一度だけ目を閉じた。
そして。
心の中で、女神へ祈る。
(女神よ……どうか、私に判断を誤らせることのないよう、お導きください)
死を覚悟した。
もし、あの女性が再び力を暴走させれば、自分もこの氷の中へ閉じ込められるだろう。
それでも。
ここで何もしないわけにはいかない。
ヴァンキッシュはゆっくりと一歩前へ出た。
「……」
彼女が顔を上げる。
目が合った。
その瞬間。
ヴァンキッシュは、できる限り穏やかな声を選んだ。
「私は、この国の宰相を務める、ヴァンキッシュ・ブラックウェルと申します」
彼女の表情は変わらない。
ヴァンキッシュは、さらに続けた。
「部下から一部報告を受け、こちらへ参りました」
言葉を慎重に選ぶ。
刺激してはいけない。
敵意がないことを伝えなければならない。
「あの……王子殿下方が、あなたに対して大変失礼なことをしたと聞いております」
危うく別の言葉が出そうになった。
だが、何とか飲み込む。
ここで王子たちを罵倒しても仕方がない。
「差し支えなければ……あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……名前」
小さく呟く。
「……文月、栞奈です、栞奈が名前…」
「カンナ嬢、とお呼びしても?」
「……はい」
その瞬間だった。
ヴァンキッシュは、わずかな変化を感じ取った。
先ほどまで絶え間なく流れていた冷気が――止まった。
氷が溶けたわけではない。
だが、それ以上広がる気配がない。
「……」
ヴァンキッシュは内心で息を吐いた。
どうやら、話はできる。
「では、カンナ嬢」
できるだけ穏やかに問いかける。
「何があったのか……お話を聞かせていただけますか?」
「…………」
栞奈は俯いた。
しばらく何も言わなかった。
けれど。
「……私」
ぽつり。
小さな声が落ちる。
「私、普通に仕事してたんです」
ヴァンキッシュは黙って聞いた。
「帰りに……子供が道路に飛び出して」
栞奈の声が少し震える。
「トラックが来てて……それで、助けようとして……」
ぽつり。
ぽつり。
栞奈は、自分が元の世界で何をしていたのか。
どうしてここへ来たのか。
そして、召喚された後に何があったのか。
途切れ途切れに話していった。
突然現れたこと。
何も説明されなかったこと。
もう一人の少女にだけ、王子たちが親しげに接していたこと。
自分には年増だと言ったこと。
結婚適齢期を過ぎていると言われたこと。
そして。
「……私は、帰りたかっただけなんです」
最後の言葉だけは、はっきりしていた。
「家に……帰りたかった」
ヴァンキッシュは、静かに目を伏せた。
話を聞けば聞くほど。
自分たちの側に非があることが分かる。
そして何より。
この少女は、望んでここへ来たわけではない。
それなのに。
説明もされず。
理不尽な言葉まで浴びせられ。
挙げ句の果てには、置き去りにされた。
ヴァンキッシュは、深々と頭を下げた。
「……申し訳ございません」
栞奈が顔を上げる。
「自国の王子たちが、あなたに対してこのような無礼を働いたこと。宰相として、心よりお詫び申し上げます」
「…………」
「本来ならば、陛下がお戻りになってから正式にお話しすべきところですが……」
ヴァンキッシュは彼女をまっすぐ見つめた。
「現在、陛下は王宮を離れております。そして、留守を預かっているのは私です」
一度、言葉を切る。
「私の持つ権限の範囲ではありますが、あなたの今後の生活について、責任を持って保証いたします」
「……保証?」
「衣食住を含め、こちらで生活するために必要なものは、可能な限り手配いたしましょう」
栞奈は黙ってヴァンキッシュを見つめている。
「陛下がお戻りになりましたら、改めてあなたの希望を伺います。これからどうしたいのか――あなた自身の望みを、聞かせていただきたい」
「…………」
栞奈はしばらく考え込んでいた。
そして。
「……それ」
「はい」
「書面に書いてくれます?」
「……は?」
思わず、ヴァンキッシュの口から素っ頓狂な声が漏れた。
「書面……ですか?」
「はい」
栞奈は真剣な顔をしていた。
「口約束だと……あとでなかったことにされそうなので」
「…………」
ヴァンキッシュは一瞬、言葉を失った。
だが。
すぐに頷く。
「……分かりました」
むしろ、当然の要求だった。
「今すぐ書面にいたします。あなたにお渡しすると、ここで誓いましょう」
振り返る。
「誰か、紙とペンを!」
「は、はい!」
部下が慌てて走っていく。
ほどなくして持ってこられた紙とペンを受け取ると、ヴァンキッシュはその場で内容を書き始めた。
異世界人である文月栞奈の生活を保証すること。
衣食住を可能な限り保障すること。
陛下の帰還後、本人の希望を確認すること。
その内容を一つずつ、曖昧な表現を避けて記していく。
「……こちらで、よろしいでしょうか」
書き終えた書面を栞奈へ差し出す。
栞奈はそれを受け取った。
一行ずつ。
何度も確認する。
そして。
「……約束、ですよ……」
小さく呟いた。
「はい」
ヴァンキッシュは頷いた。
「必ず」
その言葉を聞いた栞奈の身体から、ふっと力が抜けた。
「……よかった……」
「カンナ嬢?」
そのまま、栞奈の身体が傾く。
「危ない!」
部下が慌てて駆け寄る。
ヴァンキッシュも手を伸ばした。
しかし、少女を支えるより早く。
栞奈はその場に崩れ落ちた。
「カンナ嬢!」
反応がない。
だが、呼吸はある。
「……気を失っただけか」
ヴァンキッシュは安堵の息を吐いた。
そして、改めて周囲を見渡す。
氷に閉じ込められた騎士たち。
魔法士たち。
そして、その中心で眠る異世界人。
「……さて」
ヴァンキッシュは小さく呟いた。
「ここからが、本当の仕事だな」
その声を聞いた部下たちは、揃って顔を引きつらせた。
――宰相の仕事は、まだまだ終わらない。




