宰相の留守番は、どうやら平穏ではないらしい
王宮の執務室。
「…………」
ヴァンキッシュ・ブラックウェルは、目の前に積み上げられた書類の山を無言で見つめていた。
一枚。
二枚。
三枚。
処理した端から、別の書類が追加されていく。
「……終わらんな」
思わず、低い声が漏れた。
現在、王宮は人手不足だった。
皇帝陛下は他国との定例会議に出席するため、王都を離れている。
王宮騎士団団長である王弟殿下も不在。
先日、とある貴族領のダンジョンで魔物の大量発生――モンスタースタンピードが発生したため、現地への討伐支援と原因調査に赴いている。
さらに、もう一人の王弟殿下。
宮廷魔法師団団長も別の貴族領へ出ていた。
そちらでは新たなダンジョンが発生したらしく、魔法的な調査を行っている。
――つまり。
国の中枢を担う者たちが、揃って王都を離れている。
その間の王宮を任されているのが――ヴァンキッシュだった。
「……せめて陛下がお戻りになるまで、何事もなければよいのだが」
書類に目を通しながら、ぽつりと呟く。
これほどまでに人手が足りない時に、大きな問題など起こされたらたまったものではない。
ヴァンキッシュはそう思っていた。
――だが。
世の中というものは。
そういう時に限って、何かが起こる。
――バンッ!!
「宰相閣下!!」
「…………」
勢いよく開かれた扉。
息を切らしながら飛び込んできたのは、一人の魔法士だった。
ヴァンキッシュは、ゆっくりと顔を上げる。
「…………君」
「は、はい!」
「ここへ入る時は、まず何をする?」
「…………」
魔法士の顔が固まった。
「ノックをする、でしょうか……」
「そうだ」
ヴァンキッシュは眼鏡を押し上げる。
「それから、入室の許可を得る」
「も、申し訳ありません!」
「まったく……緊急事態でも最低限の礼儀は――」
「王子殿下方が、召喚の儀を行いました!」
「…………」
ヴァンキッシュの言葉が止まった。
「……今、何と言った?」
「三人の王子殿下が、召喚の儀を行いまして……!」
「…………召喚の儀?」
「はい!」
ヴァンキッシュは眉間に皺を寄せた。
「……私は聞いていないぞ」
「も、申し訳ありません!」
魔法士は慌てて頭を下げる。
「召喚の儀が行われることは承知しておりました。ですが――」
一度、言葉を選ぶように口ごもる。
「正式な許可が下りているものと、そう認識しておりまして……」
「……何?」
ヴァンキッシュの眉間の皺が、さらに深くなった。
「誰が許可した」
「それが……王子殿下方から、すでに許可は得ていると……」
「召喚の儀を、そう簡単に許可できるものだと思っているのか!?」
思わず声が荒くなる。
「しかも、あの王子殿下方に許可が出るわけがないだろう!」
「も、申し訳ございません!」
魔法士はますます恐縮した様子で頭を下げた。
「私どもも疑問には思ったのです。ですが……」
「ですが?」
「『すでに許可を得ている。まさか私たちを疑うのか』と、殿下方に言われまして……」
「…………」
「それ以上、逆らうこともできず……」
ヴァンキッシュは、しばし無言で魔法士を見つめた。
そして。
「……そうか」
深々と息を吐き出す。
「つまり、召喚の儀そのものは把握していたが、正式な許可の確認を取っていなかった、と」
「……はい」
「…………」
ヴァンキッシュは無言になった。
嫌な予感がする。
非常に。
嫌な予感がする。
「それで?」
仕方なく続きを促す。
「召喚は成功したのか?」
「はい」
「ならば、その報告をなぜ今になって?」
「それが……」
魔法士の顔が、さらに青ざめた。
「二人……召喚されたのです」
「…………二人?」
「はい」
ヴァンキッシュはさらに深く眉を寄せた。
召喚された異世界人が二人。
それ自体も由々しき事態ではあるが。
問題なのは――。
「その二人を、どうした?」
「……一人は、王子殿下方が丁重に扱っております」
「もう一人は?」
「…………」
魔法士が黙り込む。
「答えろ」
「……地下室に」
「…………何?」
「もう一人の方は……地下室に残されております」
「なぜだ」
「それが……」
魔法士の声が震えた。
「その方から……何かが漏れ出しまして」
「何か?」
「冷気です」
「冷気……?」
「はい……最初は、ほんの僅かだったのですが……」
魔法士が青ざめた顔で続ける。
「どんどん強くなって……」
「…………」
「騎士たちが近づけなくなり……魔法士が炎魔法で対処しようとしたのですが……」
そこで言葉が詰まる。
「……どうした」
「止まりません」
ヴァンキッシュの表情が険しくなる。
「現在、地下室は……」
魔法士が震えながら告げた。
「氷に覆われております……」
ヴァンキッシュは額に手を当てた。
「…………はぁ」
深いため息が、執務室に響いた。
王子たちが勝手に召喚の儀を行った。
しかも二人召喚されてしまった。
そのうち一人だけを丁重に扱い、もう一人を地下室へ放置。
そして――。
放置された異世界人が、何らかの力を暴走させている。
「…………」
ヴァンキッシュは頭を抱えた。
陛下は不在。
二人の王弟殿下も不在。
そして王子たちは、どうやら自分たちが何をしたのか理解していない。
「……なぜだ」
思わず呟く。
「なぜ、よりにもよって……今日なのだ……」
返事をする者はいない。
魔法士はただ、申し訳なさそうに俯いている。
ヴァンキッシュはしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……地下室へ案内しろ」
「は、はい!」
「今動ける騎士を数名呼べ。魔法士もだ。状況を確認する」
「承知しました!」
魔法士が慌てて踵を返す。
その背中を見送りながら、ヴァンキッシュはもう一度だけ深く息を吐いた。
「……留守を預かる、というのは」
机の上に残された大量の書類を見つめる。
「こういう意味ではなかったはずなのだがな……」
しかし。
嘆いている暇はない。
ヴァンキッシュは立ち上がった。
――この時の彼は、まだ知らなかった。
地下室で待っているのが。
この国の常識すら覆しかねないほどの力を持った、一人の異世界人であることを。




