目覚めた先で
誰かの声が聞こえる。
「……なさい……」
遠くから。
まるで、水の底から聞こえてくるような声だった。
「……ごめ……なさい……」
誰かが、何かを謝っている。
「……ごめんなさい……」
栞奈は、夢の中でぼんやりと目を開けようとした。
(……誰?)
声は聞こえる。
確かに聞こえているのに。
身体が動かない。
目を開けようとしても、瞼は重く閉じたままだった。
(何か……聞こえる……)
「ごめんなさい……」
「本当に……ごめんなさい……」
その声が、少しずつ遠ざかっていく。
そして――。
「……ん……」
栞奈は、ゆっくりと目を開けた。
「…………」
ぼんやりとした視界。
最初に見えたのは、見慣れない天井だった。
「……ここ……」
まだ頭が上手く働かない。
栞奈はゆっくりと身体を起こした。
その瞬間。
視界に入ったものに、思わず目を瞬かせる。
細かな装飾が施された家具。
大きな窓には、重厚なカーテン。
壁紙も。
家具も。
ベッドも。
どれも上品で、明らかに高級そうなものばかりだった。
「…………」
栞奈は、しばらく部屋を見回した。
まるで――。
「貴族の屋敷……」
そんな言葉が頭に浮かぶ。
いや。
屋敷の一室そのものだった。
(……やっぱり、夢じゃないんだ)
目を閉じる。
もう一度開けてみる。
当然、景色は変わらない。
「…………はぁ」
小さく息を吐いた。
目が覚めたら、自分の部屋にいる。
そんな淡い期待が、どこかにあったのかもしれない。
けれど。
ここは日本ではない。
昨日までの日常でもない。
見知らぬ世界。
見知らぬ場所。
そして、自分を勝手に呼び出した人たちがいる世界。
「……現実、なんだよね」
そう呟いたところで答えてくれる人は誰もいない。
ふと、枕元に置かれた小さな机へ視線が向いた。
そこに、一枚の紙が置かれている。
「……?」
栞奈は手を伸ばし、それを手に取った。
見覚えのある紙。
昨日の――。
あの氷によって銀色の世界と化した部屋。
宰相と名乗った男性と交わした約束が書かれている。
「……これ」
夢ではない。
あれは、現実だった。
改めてそう実感すると、胸の奥が少し重くなった。
けれど。
同時に、一つだけ安心できるものもある。
この世界での生活を、少なくとも一旦は保証してもらえた。
(だったら……)
この時間を無駄にしてはいけない。
帰る方法があるのかどうかすら分からない。
そもそも、この世界について何も知らない。
ならば。
生活が保証されている間に、できるだけ多くのことを知らなければならない。
そう考えていた、その時。
「失礼いたします」
控えめな声とともに、扉が開いた。
「……え?」
入ってきたのは、一人の女性だった。
落ち着いた色合いの服を身につけ、丁寧に頭を下げる。
「お目覚めになられましたか」
「あ、はい……」
「私はヴァンキッシュ様よりお仕えするよう申し付かりました。何かございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
「は、はい」
栞奈が頷くと、女性は穏やかに微笑んだ。
「それでは、いくつか確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「まず、お湯をご用意いたします。湯浴みのお手伝いは私達がさせていただきます。」
「……え?」
栞奈は固まった。
「お手伝い……?」
「はい」
「……一人では?」
「申し訳ございません。規則上、お一人での湯浴みは控えていただくことになっております。異世界からお越しになったばかりですので、何かございましたら――」
「いえ、あの…一人で大丈夫です!」
食い気味に答える。
すると女性は、少し困ったように微笑んだ。
「ですが……」
「本当に大丈夫です」
「申し訳ございません。湯浴みのお手伝いも私達の仕事ですし、万が一貴方様お一人にして何かあった場合、職務怠慢で罰を受けることになるのです…。」
「……」
「罰を受ける……」
栞奈は絶望した。
「…………分かりました」
しばらく抵抗したものの、結局は折れることになった。
この世界の常識が分からない以上、無理に逆らって問題を起こすわけにもいかない。
「それでは、湯浴みの準備をいたしますね」
「あの……できるだけ、その……」
「はい?」
「最低限のお手伝いでお願いします……」
「かしこまりました」
にっこりと笑われた。
その笑顔が、妙に頼もしく見えたのは気のせいだろうか。
「続いて、お召し物ですが」
そう言って女性が別の部屋へ案内すると――。
「…………」
栞奈は並べられた服を見て、固まった。
「……すごい」
華やかなドレス。
細かな刺繍。
大量のレース。
胸元や袖にも装飾が施されている。
どれも綺麗ではある。
綺麗ではあるのだが。
(……これ、着るの?)
思わず遠い目になる。
「こちらなどはいかがでしょう」
「……あの」
「はい」
「もう少し……シンプルなものってありますか?」
「シン…プル…とは?」
「あぁ、そっか…。なんというか…もっとフリルが少ないものとか…装飾の少ないものとかって…」
「あぁ、なるほど。かしこまりました。そうですね…こちらはいかがでしょう?」
と、いくつか見せてもらった中から、栞奈は比較的装飾の少ないものを選んだ。
「これでお願いします」
「承知いたしました」
ようやく一息つく。
そして最後に。
「朝食はいかがなさいますか?」
「……朝食」
そういえば、昨日からまともに何も食べていない。
「じゃあ……ここで一般的に食べられている朝食をお願いします」
「かしこまりました」
女性は頷いた。
「パンとスープ、それからサラダ等をご用意いたします」
「はい」
そこで栞奈は、少しだけ考えた。
パン。
スープ。
野菜。
魚介類などもあるのだろうか。
食文化についても、あとで聞いてみよう。
そんなことを考えているうちに、女性が一礼する。
「それでは、湯浴みの準備をいたします」
「お願いします」
女性が部屋を出ていく。
栞奈は、手元に残った約束の書面へ視線を落とした。
「…………」
この世界で、どう生きていくのか。
まだ何も分からない。
けれど。
「……まずは、知るところからかな」
知らなければ、何も始まらない。
そう呟いて、栞奈は静かに息を吐いた。
異世界での生活――。
こうして、少しずつ始まっていくのだった。




