柔らかい絶望と、空っぽの魔法
お湯から上がり、備え付けの安っぽいガウンを羽織る。
清潔な布が肌に触れる感覚すら、彼女にとっては初めての経験だった。
部屋の中央には、一人用のベッドが置かれている。スプリングは古く、少し軋むが、泥の地面に比べれば雲のように柔らかそうだ。
少女は恐る恐る、その上に体を横たえた。
「……」
沈む。
体が、柔らかい布とスポンジの中に吸い込まれていく。
スラムで「地面が柔らかい」というのは、そこが腐海か、死体が溶けた沼であることの証明だった。背中から伝わってくるはずの、敵の足音という「振動」も、この分厚いマットレスが全て吸収してしまう。
「……だめだ。気持ち悪い」
少女はわずか三分でベッドから転げ落ちた。
心臓が嫌な音を立てている。無防備すぎた。こんな宙に浮いたような場所で目を閉じれば、確実に殺される。
結局、彼女はベッドの下――冷たくて硬いフローリングの床に背中を預け、入り口のドアを射線に収める位置で膝を抱えた。
「……ここなら、安心だ」
『マスター。それは「ベッド」と呼ばれる睡眠用の家具です。床で寝る行為は、衛生面および骨格への悪影響が懸念されますが』
「……うるさい。硬くないと、私が私じゃなくなる気がするんだ」
硬い床の感触と、手元に置いた黒い鉄(グロック26)の冷たさだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。
家賃8万(初期費用100万)の部屋を借りておきながら、彼女は初日、ベッドの下の床で眠りについた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
胃袋の鈍い痛みで目が覚める。300万の大金を持っていても、スラムの境界街で手に入る「まともな朝食」のレベルは知れていた。
少女が近くの自動配給機で1000円を払って買ったのは、銀色のアルミチューブに入った『高圧縮・完全栄養ペースト(ストロベリー風味)』だった。
キャップを開け、灰色のドロドロしたゲル状の物体を直接口に絞り込む。
「……んっ……」
顔が歪む。ストロベリーの味など微塵もしない。工業用オイルと人工甘味料、そして強烈な塩化ビニールの匂いが鼻を抜ける。まさにディストピアの「エサ」だ。
だが、カロリーだけは暴力的なまでに詰まっている。胃の中でゲルが膨張し、痛みが強制的にシャットダウンされる。
『栄養素の吸収を確認。……マスター、私のショップ機能を使えば、旧世界の「レーション(戦闘糧食)」も購入可能ですよ? 味は保証します』
「……いや、いい。金は大事だ。……それに、昨日の肉の串焼きより、ずっと腹に溜まる」
少女はチューブを最後まで吸い尽くし、ゴミ箱へ投げ捨てた。
家賃を払い、いつか本当に「普通の飯」を腹いっぱい食べるためにも、稼ぎ続けなければならない。彼女は再び、黒い銃を隠し持ってスラムの奥地へと向かった。
◇ ◇ ◇
第4セクター『廃棄プラント』跡地。
ここには、旧世界の警備ドローンが野生化した『スクラップ・ハウンド』と呼ばれる機械の獣が群れをなしている。
ガキンッ、と鉄を引っ掻くような足音が響き、瓦礫の陰から三匹のハウンドが姿を現した。
赤いセンサーアイが少女を捉え、刃のような牙を剥き出しにして唸り声を上げる。
『マスター。敵性反応、三体。危険度は低〜中程度です』
「……わかってる」
少女は落ち着き払っていた。
恐怖はない。今の自分には、あの巨大な怪物を一瞬でスクラップに変えた『無敵の魔法』があるのだから。
彼女は懐からグロック26を引き抜き、真っ直ぐに一番先頭の獣へと狙いを定めた。
獣が、地面を蹴って跳躍する。
少女はためらいなく、冷たい引き金を引いた。
――ダァンッ! ダァンッ!
暴力的な反動が腕を駆け上がるが、二度目となれば抑え込める。放たれた二発の弾丸は、空中にいる一匹目の頭部を正確に粉砕した。
着地と同時に、二匹目が横から回り込んでくる。
「……遅い」
少女は冷徹に銃口を振り向きざまに向けた。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
三発の連射。マズルフラッシュが閃き、二匹目の獣の胴体が火花を吹いて真っ二つにへし折れる。
(……やれる。私、この力があれば、どこまでだって行ける……!)
全能感が、少女の脳を麻痺させていく。
自分はもう、泥水をすするだけのゴミじゃない。この黒い鉄の魔法がある限り、誰も私を見下せない。
残るは、ひときわ大きな三匹目のみ。
突進してくる獣の眉間を、少女は完璧に捉えた。
「これで、終わりだっ!」
ダンッ! ダンッ!
放たれた二発は獣の肩の装甲を大きく抉ったが、致命傷には至らない。獣は体勢を崩しながらも、執念で距離を詰めてくる。
少女はトドメを刺すべく、三度目の引き金を引いた。
――カチャッ。
小さな、空虚な音が響いた。
爆音は鳴らない。火炎も出ない。手首を砕くような反動も来ない。
「……え?」
少女は目を見開いた。
銃のスライド(上部の稼働部)が後退したまま固定され、内部の空っぽの空洞が露出している。
彼女は、それが何を意味するのか知らなかった。
もう一度、引き金を引く。カチャッ。何も起きない。
『マスター。警告します。手持ちの弾薬(9ミリ・パラベラム弾)は、全弾(10発)消費済みです』
「だん、やく……? なんだそれ! ずっと撃てる魔法じゃないのか!?」
『旧世界の兵器は、物理的な質量を投射する機械です。弾丸がなければ、それはただの鉄の塊にすぎません』
セレナの無機質な宣告と同時に、三匹目のハウンドの鋭い前足が、無防備な少女の肩を深く切り裂いた。
「がっ……ぁああっ!?」
鮮血が舞い、少女は瓦礫の上に吹き飛ばされた。
手から零れ落ちたグロックが、乾いた音を立てて遠くへ転がっていく。
魔法は解けた。残されたのは、ただのひ弱な、傷だらけの少女の体だけ。
機械獣が、血の匂いに狂ったようにのしかかってくる。
視界が真っ赤に染まり、少女はついに、自分がいかに無知で愚かだったかを思い知った。この世界は、金で買った一度の奇跡だけで生き抜けるほど、甘くはなかったのだ。
「……い、やだ……死にたく……っ……」
『――状況の悪化を確認。マスター、ショップ・インターフェースを解放します。……次は、何を「お買い上げ」になりますか?』
死の淵で、冷酷なAIのシステム音が再び脳内に鳴り響いた。




