表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/25

柔らかい絶望と、空っぽの魔法

お湯から上がり、備え付けの安っぽいガウンを羽織る。

 清潔な布が肌に触れる感覚すら、彼女にとっては初めての経験だった。


部屋の中央には、一人用のベッドが置かれている。スプリングは古く、少し軋むが、泥の地面に比べれば雲のように柔らかそうだ。

 少女は恐る恐る、その上に体を横たえた。


「……」


沈む。

 体が、柔らかい布とスポンジの中に吸い込まれていく。

 スラムで「地面が柔らかい」というのは、そこが腐海ヘドロか、死体が溶けた沼であることの証明だった。背中から伝わってくるはずの、敵の足音という「振動」も、この分厚いマットレスが全て吸収してしまう。


「……だめだ。気持ち悪い」


少女はわずか三分でベッドから転げ落ちた。

 心臓が嫌な音を立てている。無防備すぎた。こんな宙に浮いたような場所で目を閉じれば、確実に殺される。

 結局、彼女はベッドの下――冷たくて硬いフローリングの床に背中を預け、入り口のドアを射線に収める位置で膝を抱えた。


「……ここなら、安心だ」

『マスター。それは「ベッド」と呼ばれる睡眠用の家具です。床で寝る行為は、衛生面および骨格への悪影響が懸念されますが』

「……うるさい。硬くないと、私が私じゃなくなる気がするんだ」


硬い床の感触と、手元に置いた黒い鉄(グロック26)の冷たさだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。

 家賃8万(初期費用100万)の部屋を借りておきながら、彼女は初日、ベッドの下の床で眠りについた。


◇ ◇ ◇


翌朝。

 胃袋の鈍い痛みで目が覚める。300万の大金を持っていても、スラムの境界街で手に入る「まともな朝食」のレベルは知れていた。


少女が近くの自動配給機で1000円を払って買ったのは、銀色のアルミチューブに入った『高圧縮・完全栄養ペースト(ストロベリー風味)』だった。

 キャップを開け、灰色のドロドロしたゲル状の物体を直接口に絞り込む。


「……んっ……」


顔が歪む。ストロベリーの味など微塵もしない。工業用オイルと人工甘味料、そして強烈な塩化ビニールの匂いが鼻を抜ける。まさにディストピアの「エサ」だ。

 だが、カロリーだけは暴力的なまでに詰まっている。胃の中でゲルが膨張し、痛みが強制的にシャットダウンされる。


『栄養素の吸収を確認。……マスター、私のショップ機能を使えば、旧世界の「レーション(戦闘糧食)」も購入可能ですよ? 味は保証します』

「……いや、いい。金は大事だ。……それに、昨日の肉の串焼きより、ずっと腹に溜まる」


少女はチューブを最後まで吸い尽くし、ゴミ箱へ投げ捨てた。

 家賃を払い、いつか本当に「普通の飯」を腹いっぱい食べるためにも、稼ぎ続けなければならない。彼女は再び、黒い銃を隠し持ってスラムの奥地へと向かった。


◇ ◇ ◇


第4セクター『廃棄プラント』跡地。

 ここには、旧世界の警備ドローンが野生化した『スクラップ・ハウンド』と呼ばれる機械の獣が群れをなしている。


ガキンッ、と鉄を引っ掻くような足音が響き、瓦礫の陰から三匹のハウンドが姿を現した。

 赤いセンサーアイが少女を捉え、刃のような牙を剥き出しにして唸り声を上げる。


『マスター。敵性反応、三体。危険度は低〜中程度です』

「……わかってる」


少女は落ち着き払っていた。

 恐怖はない。今の自分には、あの巨大な怪物を一瞬でスクラップに変えた『無敵の魔法』があるのだから。

 彼女は懐からグロック26を引き抜き、真っ直ぐに一番先頭の獣へと狙いを定めた。


獣が、地面を蹴って跳躍する。

 少女はためらいなく、冷たい引き金を引いた。


――ダァンッ! ダァンッ!


暴力的な反動が腕を駆け上がるが、二度目となれば抑え込める。放たれた二発の弾丸は、空中にいる一匹目の頭部を正確に粉砕した。

 着地と同時に、二匹目が横から回り込んでくる。


「……遅い」


少女は冷徹に銃口を振り向きざまに向けた。

 ダンッ! ダンッ! ダンッ!

 三発の連射。マズルフラッシュが閃き、二匹目の獣の胴体が火花を吹いて真っ二つにへし折れる。


(……やれる。私、この力があれば、どこまでだって行ける……!)


全能感が、少女の脳を麻痺させていく。

 自分はもう、泥水をすするだけのゴミじゃない。この黒い鉄の魔法がある限り、誰も私を見下せない。

 残るは、ひときわ大きな三匹目のみ。

 突進してくる獣の眉間を、少女は完璧に捉えた。


「これで、終わりだっ!」


ダンッ! ダンッ!


放たれた二発は獣の肩の装甲を大きく抉ったが、致命傷には至らない。獣は体勢を崩しながらも、執念で距離を詰めてくる。

 少女はトドメを刺すべく、三度目の引き金を引いた。


――カチャッ。


小さな、空虚な音が響いた。

 爆音は鳴らない。火炎も出ない。手首を砕くような反動も来ない。


「……え?」


少女は目を見開いた。

 銃のスライド(上部の稼働部)が後退したまま固定ホールドオープンされ、内部の空っぽの空洞が露出している。

 彼女は、それが何を意味するのか知らなかった。

 もう一度、引き金を引く。カチャッ。何も起きない。


『マスター。警告します。手持ちの弾薬(9ミリ・パラベラム弾)は、全弾(10発)消費済みです』


「だん、やく……? なんだそれ! ずっと撃てる魔法じゃないのか!?」


『旧世界の兵器は、物理的な質量を投射する機械です。弾丸がなければ、それはただの鉄の塊にすぎません』


セレナの無機質な宣告と同時に、三匹目のハウンドの鋭い前足が、無防備な少女の肩を深く切り裂いた。


「がっ……ぁああっ!?」


鮮血が舞い、少女は瓦礫の上に吹き飛ばされた。

 手から零れ落ちたグロックが、乾いた音を立てて遠くへ転がっていく。

 魔法は解けた。残されたのは、ただのひ弱な、傷だらけの少女の体だけ。


機械獣が、血の匂いに狂ったようにのしかかってくる。

 視界が真っ赤に染まり、少女はついに、自分がいかに無知で愚かだったかを思い知った。この世界は、金で買った一度の奇跡だけで生き抜けるほど、甘くはなかったのだ。


「……い、やだ……死にたく……っ……」


『――状況の悪化を確認。マスター、ショップ・インターフェースを解放します。……次は、何を「お買い上げ」になりますか?』


死の淵で、冷酷なAIのシステム音が再び脳内に鳴り響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ