百万の城と、水面の傷跡
スラムと中層の境界にある、鉄格子に囲まれた不動産屋。
少女はカウンターの前に立ち、ぶっきらぼうに告げた。
「……表の看板で見た。家賃8万の部屋。貸して」
カウンターの奥で葉巻を吹かしていた悪徳ブローカーは、血と泥にまみれた少女を見るなり鼻で笑った。
「おいおい、ここはゴミ捨て場じゃねえぞ。看板の8万ってのは『身元がまともな奴』の話だ。身分証なし、保証人なしのスラムの野良犬が、正規の値段で借りられるわけねえだろ」
「……金なら、払う」
少女がボロ布の懐に手を入れようとすると、ブローカーは狡猾な笑みを浮かべて言葉を被せた。
「いいか。保証金に礼金、家具のリース代、数ヶ月分の前家賃。それに、お前みたいな厄介者を住まわせてやる『治安維持費』だ。……全部込みで、初期費用は100万。払えなきゃ、泥の中へ帰りな」
完全なぼったくりだ。足元を見られているのは明白だった。
視界の隅で、セレナの警告ウィンドウが明滅する。
『マスター。これは不当な契約です。家の間取りや保証に対してスラムの相場から逸脱しています。私の機能でこの男の口座をハッキングし、脅迫して適正価格で――』
「……いい。払う」
少女はぶっきらぼうに言い放ち、札束から100万円分を横に滑らせた。
言葉での交渉など、疲れるだけだ。それに、今の彼女にとって一番価値があるのは金ではなく、今夜眠るための「屋根」と「お湯」だった。
「毎月8万は払う。……鍵、よこせ」
あっけにとられるブローカーから鍵をひったくり、少女はついに自分の「城」を手に入れた。
◇ ◇ ◇
重厚な鉄のドアを閉め、内側からいくつもの鍵をかける。
備え付けの安っぽいベッドと、小さなテーブルしかない狭いワンルーム。それでも、雨風を防げる壁があり、冷たくない床がある。
少女はふらつく足で、真っ直ぐに浴室へと向かった。
蛇口をひねる。
錆びた音と共に、泥水ではない、透き通ったお湯が勢いよくバスタブに注ぎ込まれていく。立ち上る白い湯気と、微かなカルキの匂い。
それは、彼女がずっと夢見ていた「普通」の象徴だった。
少女は、泥と血で肌に張り付いたボロ布を、皮膚ごと引き剥がすように脱ぎ捨てた。
洗面台の曇った鏡に、全裸になった自分の姿が映る。
それを見て、彼女は息を呑んだ。
「……ひどい、な」
ポツリとこぼれた声は、浴室に虚しく響いた。
鏡に映っていたのは、夢に見た「普通の女の子」とは程遠い、醜い骨だった。
栄養失調でガリガリに痩せ細り、あばら骨が痛々しく浮き出ている。胸の膨らみなど微塵もない。
そして何より残酷なのは、全身に刻まれた無数の『痕』だった。
食べ物を奪い合った時についた刃物の切り傷。
大人に蹴り飛ばされた赤黒い打撲痕。
毒雨(神のヨダレ)によってただれた皮膚。
それは、彼女がこの地獄で「今日まで生き延びてきた証明」そのものだった。だが、平和な世界を知らない彼女の目にも、自分の体がひどく壊れて、汚れていることだけははっきりと分かった。
少女は鏡から目を逸らし、お湯の張られたバスタブにそっと足を入れた。
「あ……」
熱い。泥と傷に覆われた皮膚に、清潔なお湯が染み渡る。
ゆっくりと体を沈めると、凍りついていた細胞の底からじんわりと温もりが広がっていった。
お湯が、体表の泥と血を洗い流していく。水面が黒く濁っていくのと反比例して、少女の体に刻まれた傷跡が、より一層くっきりと浮かび上がった。
『マスター。心拍数の安定を確認。……良いお湯ですか?』
脳内で、セレナの声が優しく響く。
少女は膝を抱え、水面に浮かぶ自分の細い腕を見つめた。
「……温かい。すごく、温かいよ、セレナ」
泥が落ちていく。けれど、傷跡は消えない。
300万の大金を手に入れて、旧世界の強力な兵器を手に入れて、家も借りた。
だというのに、お湯に浸かった自分の体は、どうしようもなく「普通」からかけ離れていた。
「……私、普通になりたいんだ。……こんな傷だらけじゃない、普通の……」
温かいお湯の中で、少女は初めて自分の輪郭を理解した。
自分がどれほど深く傷ついていたのかを、安全な場所に来てようやく実感したのだ。
膝に顔を埋めると、温かいお湯とは違う熱い雫が、ポタポタと水面に落ちた。
それは、彼女が物心ついてから初めて流す、恐怖でも痛みでもない「自分の惨めさに対する涙」だった。
『……ええ。きっとなれますよ、マスター。そのためのシステムなのですから』
セレナの静かな声だけが、狭い浴室に響いていた。
外では今日も、神のヨダレがスラムを腐らせている。だが、この狭いバスタブの中だけは、彼女が初めて手に入れた絶対の「聖域」だった。




