金で買えない『普通』と、銀の食器
鉄の要塞に帰り、純水のお風呂で戦闘の汚れを洗い流しても、サクラの心には黒いモヤのようなものが張り付いて離れなかった。
口座には一生使い切れないほどの金がある。
ガレージには最強の装甲車があり、手元には最新鋭のフルカスタム・アサルトライフルがある。
スラムの底辺から這い上がり、シティのハンターたちを恐怖で黙らせた。
それなのに。
あのギルドの受付で、電子ペンを握った自分の指がどれほど惨めに震えていたかを、サクラは忘れることができなかった。
「……金は稼いだ。装備も買った」
リビングのソファに深く沈み込み、サクラは天井を見上げてぽつりと呟いた。
「でも、あいつらが持ってる『当たり前』が、私には何一つない」
シティでは、金を持っていることは「前提条件」にすぎないのだと痛感した。
サクラが直面したのは、圧倒的な武力や財力では決して埋まらない、もっと根深い「教養と歴史の差」。スラムでは1円の価値もなかった『文字を読み、歴史を知り、レストランでマナー通りに食事をする』という文化の壁だ。
サクラは手首のデバイスを起動し、いつものように並べられた新兵器の購入リストをスワイプして消した。
「セレナ。……明日から、武器のカタログじゃなくて、文字のデータを表示しろ」
『……マスター?』
「金で買えない『普通』があるなら、それも全部、手に入れる」
サクラの強い意志が込められた瞳に、デバイスの青い光が反射する。
ほんの数秒の演算ののち、セレナの無機質だがどこか楽しげな音声が脳内に響いた。
『……承知いたしました、マスター。教育プログラム『リトル・レディ』をインストールします。……地獄の特訓になりますが、よろしいですね?』
「望むところだ。バルトロの拷問や、ゴリアテのブレスよりはマシだろう」
そうして、サクラの本当の意味での「成り上がり」の特訓が始まった。
◇ ◇ ◇
数日後。鉄の要塞のリビングには、かつてないほどの疲労感と緊張感が漂っていた。
「……くそっ、また肉が逃げた」
サクラが眉間を寄せ、ギリッと奥歯を噛み締める。
テーブルの上に用意されたのは、中層シティから密輸商人に頼んで取り寄せた高級なステーキ肉。しかし、彼女の手にあるのはサバイバルナイフではなく、純銀製の『ナイフとフォーク』だ。
TAC-50の強烈な反動をミリ単位で押さえ込むしなやかな筋肉が、なぜかこの小さな銀の食器を前にすると、言うことを聞かずにガチガチに強張ってしまう。
フォークで肉を押さえようとして滑り、カチャリと甲高い音を立てて皿を傷つけてしまった。
『マスター、1000メートル先から敵を狙撃するより、この「ナイフとフォーク」を使いこなす方が、あなたにとっては難易度が高いようですね。……微笑ましいです』
「……うるさい。黙ってろポンコツAI。次口出ししたら初期化するぞ」
セレナの皮肉めいた冷静な指摘に、サクラは顔を真っ赤にして悪態をつく。
文字の読み書きも、地獄だった。旧世界の複雑な漢字や文法は、銃の分解手順を覚えるのとは訳が違う。毎日毎日、ホログラムのノートに何百回も『サクラ』という自分の名前と、基本的な単語を書き続ける日々。
そんなサクラの横で、シエルが「うんうん」と腕を組んで頷いていた。
「サクラ、文字の練習、私も付き合うよ! 一緒にやれば怖くないって!」
シエルは意気揚々と電子タブレットを引き寄せ、ホログラムで表示された子供向けの童話のテキストを読み上げようとした。
が、開始3秒でピタッと止まる。
「むかしむかし、あるところに……お、お……えっと。……あ、この字、なんて読むんだっけ? セレナ、教えて!」
シエルが指差したのは、『翁』という漢字だった。
サクラはナイフとフォークを静かにテーブルに置き、呆れたような、しかしどこかホッとしたような半眼で相棒を見つめた。
「……シエル。お前もできてない」
「うっ……! い、いいじゃん! スラムじゃ数字さえ読めれば生きていけたんだもん!」
「……セレナ、こいつにも教えろ。スパルタでいい」
『承知いたしました。対象の教育プログラムも同時進行します』
「えええっ!? ちょっと待って、私まで地獄の特訓!?」
シエルの悲鳴が、安全で温かいリビングに響き渡る。
サクラは小さくため息をつきながらも、もう一度、銀のナイフとフォークを握り直した。
血と硝煙の匂いしか知らなかった少女が、初めて挑む『教養』という名の戦場。
遠く離れた中層シティのレストランで、誰にも見下されずに堂々と食事をする日を夢見て。名もなき野良犬だったサクラは、今日も不格好に、けれど確かに「普通」への階段を登っていくのだった。




