灰色の夜明けと、透視される深淵
スラムの朝は、夜よりも暗く、そして冷たい。
窓ガラスが割れ、ドアもないアパートの一室には、汚染された紫色の霧が容赦なく流れ込んでいた。コンクリートの床で丸くなっていた少女は、寒さに身を震わせて薄く目を開けた。
体中の節々が重い。ナノマシンが傷を塞いでくれても、精神的な疲労までは拭い去れない。
隣では、シエルがツナギの裾を丸めて、安らかな寝息を立てていた。昨夜、泣きながら1000万を数えていた時とは別人のような、幼い寝顔だ。
(……いつまでも、止まってはいられない)
少女は静かに立ち上がり、凝り固まった体を伸ばした。
視界の端で、セレナが淡い光を放ちながら再起動する。
『おはようございます、マスター。現在の外気温、4度。湿度88%。酸性雨の濃度は昨日より3%上昇。……稼ぎに行くには、最悪のコンディションですね』
「……最高じゃないか。誰も外に出たがらないなら、お宝を独り占めできる」
少女は洗面所――配管が壊れているため、ただの窪みと化した流し台――へ向かい、備蓄していたペットボトルのわずかな水で顔を洗った。鏡に映る自分の瞳は、昨日の絶望を経て、より鋭く、冷徹に研ぎ澄まされている。
「……セレナ。残りの400万、全部使え。出し惜しみはしない」
少女は手首のデバイスを起動し、冷たい声で命じた。
『了解しました、マスター。賢明な判断です。地獄を生き抜くには、神の奇跡よりも一振りの鋼鉄と、真実を見通す目が必要です』
光の粒子が、少女の顔を包み込むように収束していく。
現れたのは、無機質な黒いフレームに複数のレンズが複雑に組み合わされた**『マルチスペクトル・スキャン・バイザー(旧世界軍事用)』**だった。少女がそれを装着すると、こめかみのデバイスがチリリと熱を持ち、脳内のナノマシンと同期する。
「……っ! これは……」
視界が劇的に変貌した。
霧に包まれて何も見えなかった薄暗い部屋が、青白いワイヤーフレームの構造体として描き出される。それだけではない。壁の向こう側を歩くネズミの体温すらも、小さな赤いシルエットとして浮かび上がっていた。
『バイザーの試運転を開始。透過スキャン、及び熱源感知をリンク。……マスター、防御と継戦能力も底上げしましょう』
続いて光の粒子が形作ったのは、今までのボロ布とは違う、旧世界の特殊繊維で作られた**『タクティカル・バリスティックベスト』**。痩せ細った彼女の体を守るには少し重いが、その質実剛健な厚みが、命を守る盾としての安心感を与えてくれる。
そして、テーブルの上には、山のような黒い箱が積まれていた。全て、MP7とグロック用の予備マガジン、そして数百発に及ぶ4.6ミリ徹甲弾だ。
「……弾の心配をしながら戦うのは、もう終わりだ」
少女は手際よくベストを着込み、各ポーチに重たい予備の弾倉を詰め込んでいく。ガシャリ、チャキリと、無機質な金属音が静寂の中に響く。それは、彼女が一人の「戦士」へと変貌していく儀式のようでもあった。
「シエル。起きろ。……仕事だ」
「ふにゃっ!? ……う、うん。おはよ……って、えええ!?」
目を覚ましたシエルは、完全武装の特殊部隊のような出で立ちになった少女を見て、文字通り飛び上がった。
「その格好、どうしたの!? めちゃくちゃ物騒なんだけど!」
「400万の投資だ。元を取るぞ」
少女は漆黒のMP7をスリングで吊り下げ、躊躇いなく部屋を出た。
◇ ◇ ◇
二人が向かったのは、第7セクターの最深部。
かつて旧世界の巨大な地下研究施設が存在した場所であり、スラムの住人たちが『深淵の墓場』と呼んで恐れる危険地帯だ。
腐り落ちた地下鉄の入り口から足を踏み入れると、天井からは「神のヨダレ」が不気味な雫となって滴り、遠くで機械獣の駆動音が反響していた。
「ここ、本当にヤバいって言われてる場所だよ……? 私、前も見えないし……」
「シエル、下がってろ。……私の目には、全部見えてる」
少女のバイザー越しには、すべてが丸裸だった。
瓦礫に埋もれた「高純度チタンのスクラップ」が黄金色にハイライトされ、そして――前方の崩れかけた分厚い壁の向こう側に、複数の『熱源』が潜んでいるのがはっきりと見えた。
『ターゲット確認。スクラップ・ハウンドの進化個体、5体。壁の向こうで待ち伏せしています』
「……無駄なことだ」
少女はMP7のフォアグリップを握りしめ、バイザーが算出した『壁の最も薄い構造的弱点』へと銃口を向けた。
――ビィィィィィィィィィィィィッ!!
一秒間に15発。40連マガジンから吐き出された徹甲弾の暴雨が、コンクリートの壁を容赦なく穿つ。壁はガラスのように粉砕され、その向こう側に隠れていた獣たちへと弾丸が突き刺さる。
「ギャァァァッ!?」
壁の向こうで上がる苦悶の叫び。バイザー越しの赤いシルエットが、次々と四散して消滅していく。
少女はただ引き金を引きながら銃口を横に振っただけだ。リロードすら必要ない。数秒後、壁の向こうには、ただの動かない鉄クズの山が出来上がっていた。
「……ふぅ。次だ」
熱を持った銃身を下げ、何事もなかったかのように歩き出す少女。
シエルは開いた口が塞がらない。かつて死にかけていたハウンドの群れを、姿を見ることもなく、壁越しに一瞬で粉砕したのだ。これが、400万を注ぎ込んだ旧世界の圧倒的な暴力。
「すごい……! あんた、本当に無敵じゃん!」
「……悪くないな。この調子で最深部まで――」
少女が僅かに口角を上げた、その時だった。
『警告。警告。……バイザーのARサポートに重大な障害が発生』
突然、バイザーの青白いワイヤーフレームに強烈なノイズが走り、視界が激しく歪んだ。
黄金色のお宝のハイライトも、赤い熱源反応も、すべてが掻き消える。代わりに、暗闇の奥から、今までのどんな獣とも違う、空間そのものを捻じ曲げるような『異常なエネルギーの渦』が近づいてくるのが見えた。
――ズズンッ。
地下空間全体が、大きく揺れた。
遠くで聞こえていた小さな機械音が一斉に静まり返り、代わりに、地底から這い上がるような重く鈍い駆動音が、少女たちの鼓膜を直接揺さぶり始める。
「ゲホッ……なに、これ。息が……っ」
シエルが苦しそうに喉を押さえてしゃがみ込む。
『マスター! 周囲の電磁場が完全に飽和しています! 前方に、規格外の敵性反応!』
バイザーが完全にブラックアウトし、ただの暗黒が戻ってくる。
その暗闇の奥で、カシャ、カシャ、と、分厚い装甲が擦れ合う音が響いた。
そして、遥か頭上の高さに、三つの巨大な赤いカメラアイが点灯する。
現れたのは、少女が今まで見てきた継ぎ接ぎの機械獣とは次元が違う代物だった。
全身を重厚な漆黒のチタン合金で覆い、右腕には回転する巨大な破砕ドリル、左腕には車すら容易く握り潰せそうな重機用のアームを備えた、全高4メートルを超える純粋な殺戮要塞。
『……データ照合。旧世代軍事規格、自律型制圧兵器・クラスS。コードネーム『ヘカトンケイル』。……マスター、現在の武装での装甲貫通確率は、0パーセントです』
セレナの絶望的な宣告。
巨人が一歩を踏み出すたびに、分厚いコンクリートの床が悲鳴を上げて砕け散る。
400万の投資で得た火力も、壁を透視する目も、この絶望的な質量と暴力の前では、ただのオモチャに過ぎなかった。
圧倒的な死の気配を前に、少女は震える手でMP7を構え直した。




