空っぽの財布と、安物のスープ
窓のない、冷たい風が吹き込むアパートの一室。
ドアもない、バスタブもない、床はコンクリートが剥き出し。1500万の夢が消え去った後には、ただの「空虚な箱」だけが残っていた。
少女は、唯一無事だった小さなテーブルの前に座り、頭を抱えていた。
所持金、400万。スラムでは大金だが、彼女が目指した「普通」を維持するには、あまりにも心許ない。
「……あーあ。笑っちゃうよね。命がけで王様倒して、残ったのがこれだけなんて」
シエルが、どこからか持ってきたキャンプ用の小さなガスバーナーで、銀色の缶詰を温めている。中身は、新世界で「犬の餌」として流通している、謎の肉と大豆の煮込みだ。
「……お風呂。入りたかったな」
「ごめんね。私がもっと上手く立ち回ってれば、あんたにこんな惨めな思いさせなかったのに。……ねえ、あんた。もしよかったら、私が何か名前を――」
「……いい。それは、断る」
少女は遮るように、静かに、けれどきっぱりと言い放った。
シエルは意外そうに目を丸くする。
「え、なんで? 名前があった方が、呼びやすいし……」
「……普通になるためのものは、全部自分で手に入れる。そう決めてるんだ」
少女は、温まった缶詰のドロドロしたスープを見つめた。
「名前も、家も、お風呂も。誰かに貰ったものじゃ、意味がない。……私が私の力で、胸を張って名乗れる自分を手に入れた時、その時初めて、自分の名前を決めるつもりだ」
シエルは一瞬呆気に取られたが、すぐにクスクスと笑い出した。
「……あはは! あんたらしいや。相変わらず可愛くないけど、そういうとこ、嫌いじゃないよ」
シエルは自分の分のスープを豪快に啜り、空いた手で少女の肩を叩いた。
「わかった。じゃあ、あんたが自分の名前を見つけるその日まで、私は最高の『相棒』として付き合ってあげる。……その代わり、これからも死なないでよ。あんたが死んだら、私の研究材料がなくなっちゃうからね」
「……ふん。お前こそ、私の武器を預かってる間にバルトロに消されるなよ」
少女は、泥臭い匂いのするスープを口に運んだ。
ひどい味だ。けれど、喉を通る時の温かさだけは、不思議とあの夜の高級なバスタブのお湯よりも、ずっと深く体の中に染み渡っていくような気がした。
「……シエル。明日の探索。弾薬の召喚コスト、お前が少し持て」
「うわぁ! なんでそうなるの!? さっきのいい話、台無しだよ!」
シエルがピーピーと騒ぎ、少女は今日初めて、心の底から小さく笑った。
『……マスター。微笑率、80%を記録。……「名前」という概念は保留されましたが、自己定義への強い意志を確認。……「普通」への道のりは、あなたのプライドの分だけ、より高く、険しくなりそうですね』
「……うるさい。高ければ高いほど、手に入れた時に気持ちいいだろ」




