第八話 記録にない人々
一 登録されていない者は、存在するのか
中央記録管理局には、朝になると、三種類の生き物が集まってくる。
一つ目は、仕事をするために来る生き物。
二つ目は、仕事が終わらないために残る生き物。
三つ目は、仕事が終わったことになっているのに、帰ることができない生き物である。
最後の種類について、局は公式な分類を設けていなかった。
分類を設ければ、その生き物の存在を認めることになる。
存在を認めれば、なぜ帰れないのか説明しなければならない。
説明するには、担当部署を決めなければならない。
担当部署を決めるには、規程を確認しなければならない。
そして規程には、仕事が終わったことになっている生き物が帰れない場合について、何も書かれていなかった。
したがって、彼らは分類されないまま、廊下の椅子に座っていた。
この国では、分類されないことは、自由を意味するとは限らなかった。
ときには、どこにも所属できないという意味だった。
ブラウ太郎は、記録管理局の入口で、その椅子を見た。
椅子には、三匹の菌が座っていた。
一匹は、古い受付番号を握りしめていた。
一匹は、何枚もの書類を膝に載せていた。
もう一匹は、何も持っていなかった。
「何を待っているんですか」
ブラウ太郎が尋ねると、受付番号を握った菌が答えた。
「自分の意見が、いま、どこにあるのかを聞きに来たんです」
「それで、ここに?」
「はい。受付では、記録の照合が必要だと言われました」
「照合は、できましたか」
「いいえ。私の番号は、旧制度の番号なので、現在のシステムでは検索できないそうです」
「では、旧制度の記録を調べればいいのでは?」
「旧制度の記録を閲覧するには、現在の管理番号が必要だそうです」
ブラウ太郎は、隣の菌を見た。
「あなたは?」
「私は、意見の回答を受け取りに来ました」
「回答は?」
「回答済みだそうです」
「それなら、回答を確認すればいい」
「回答書の番号を教えてもらいました。しかし、その番号は、私の受付番号とは対応していませんでした」
「対応関係を調べてもらえば?」
「そのためには、私の意見が、どの案件に移管されたのかを確認する必要があるそうです」
ブラウ太郎は、三匹目の菌を見た。
「あなたは、何を?」
三匹目は、しばらく黙っていた。
「……私は、ここに来たことがないことになっているそうです」
「どういう意味ですか」
「受付記録が見つからないそうです」
「受付番号は?」
「ありません」
「控えは?」
「ありません」
「では、なぜ、ここに来たんですか」
三匹目は、困ったように笑った。
「私も、それを説明しに来たんです」
ブラウ太郎は、返事ができなかった。
彼らの話が正しいかどうかは、まだ分からない。
受付番号の記憶違いかもしれない。
古い記録が別の名称で保存されているのかもしれない。
回答書が、別の案件と誤って対応づけられた可能性もある。
あるいは、本当に、記録が失われているのかもしれない。
確かなのは、三匹とも、自分の意見の行方を知るために、ここまで来ていたということだった。
そして、誰も、その意見の現在地を説明できなかった。
「お名前を聞いてもいいですか」
ブラウ太郎は尋ねた。
三匹は、それぞれ名乗った。
ブラウ太郎は、手帳に名前を書いた。
すると、受付番号を握っていた菌が、不安そうに言った。
「その名前は、記録されるんですか」
「はい」
「どこに?」
「私の調査記録に」
「それは、公式の記録ですか」
「まだ、そうではありません」
「では、公式の記録にしてもらえませんか」
ブラウ太郎は、手帳を閉じた。
「……その方法を、これから調べます」
菌は、うなずいた。
「お願いします」
その声は、抗議というより、長く待たされた者の疲労に近かった。
ブラウ太郎は、三匹の名前を、手帳のいちばん最初のページに書き直した。
そして、余白に一文を加えた。
記録が見つからないことと、記録されるべきことがなかったことは、同じではない。
二 仮番号一覧の所在
その日の午後、ブラウ太郎と名無しの七号は、中央記録管理局の資料保存課を訪れた。
目的は、「旧制度移行期・仮番号一覧」の所在を確認することだった。
受付の菌は、二人の申請書を受け取り、端末に番号を入力した。
「こちらの資料につきましては、保存区分が変更されている可能性があります」
「保存区分が変更されたという記録はありますか」
ブラウ太郎が尋ねた。
「変更記録の有無については、確認が必要です」
「確認するには?」
「保存区分変更記録の閲覧申請が必要です」
「その記録が存在するかどうかを確認したいのですが」
「存在の有無を確認する場合にも、閲覧申請が必要となります」
七号は、すぐに手帳を開いた。
受付の菌は、七号を見て、少し困った顔をした。
「記録の作成状況を確認する申請と、記録の所在を確認する申請は、別の手続きになります」
「では、両方お願いします」
七号が言った。
「二つの申請を同時に提出することは可能ですが、審査はそれぞれ別に行われます」
「構いません」
「ただし、記録の名称が正確でない場合、対象資料を特定できない可能性があります」
「名称は、中央記録管理局からの通知に記載されていました」
「通知に記載された名称が、現在の保存台帳に登録されている名称と一致するとは限りません」
七号は、少し考えた。
「では、現在の保存台帳に登録されている名称を確認する申請もお願いします」
受付の菌は、初めて、七号をじっと見た。
「……申請の目的は、資料の所在確認でよろしいですか」
「はい」
「そのために、三種類の申請を行うということでしょうか」
「そうです」
「承知しました」
受付の菌は、書類を処理した。
数分後、三枚の受付票が発行された。
それぞれに、異なる番号が付いていた。
七号は、三枚を並べた。
「これで、少なくとも三つの記録が残りました」
「三つの申請記録が残った、ということだな」
ブラウ太郎が訂正した。
「資料が存在することも、所在が分かったことも、まだ確認できていない」
「はい」
「言葉を急がないようにしよう」
「分かりました」
七号は、三枚の受付票を手帳に挟んだ。
そのとき、資料保存課の奥から、年老いた菌が出てきた。
彼は、受付票に印字された資料名を見て、足を止めた。
「その資料を探しているのかね」
ブラウ太郎は顔を上げた。
「ご存じなんですか」
「名前だけはね」
「実物を見たことは?」
老菌は、すぐには答えなかった。
「昔、似たような一覧を見た記憶がある」
「いつごろですか」
「制度が切り替わったころだ。ずいぶん前のことだよ」
「どこにありましたか」
「それが、思い出せない」
七号は、手帳を開いた。
「その一覧は、何のために作られたんですか」
老菌は、少し考えた。
「番号が変わるからだよ」
「番号が?」
「旧制度から新制度に移るとき、古い受付番号を、そのまま新しいシステムに移せないものがあった。桁数も違えば、分類の仕方も違ったからね」
「では、仮番号は、旧番号と新番号をつなぐためのものだったんですか」
「そうだったと思う」
老菌は、慎重に付け加えた。
「ただし、全部がそうだったかどうかは分からない。私は、作業の一部を見ただけだからね」
ブラウ太郎はうなずいた。
「それで、その一覧は、どこへ?」
「移行作業が終わったあと、保存資料としてまとめる話があった。だが、私は、その後のことを知らない」
「廃棄された可能性は?」
「あるかもしれない」
「別の資料に統合された可能性は?」
「あるかもしれない」
「最初から完成しなかった可能性は?」
老菌は、七号を見た。
「それも、あるかもしれない」
七号は、三つの可能性を手帳に書いた。
「では、何も分からないんですね」
「いや」
老菌は首を振った。
「一つだけ、覚えていることがある」
二人は顔を上げた。
「一覧を作る作業のとき、担当者が、こう言っていた」
老菌は、昔の言葉を思い出すように、ゆっくり話した。
「『番号を変えるのは構わない。だが、元の番号に戻れなくなるのだけは困る』」
ブラウ太郎は、静かに聞いていた。
「その人は、どうなったんですか」
「さあね。担当が変われば、仕事も変わる。人事異動は、記録の外で起きることも多いから」
「その担当者の名前は?」
「覚えていない」
老菌は、少し申し訳なさそうに笑った。
「記録を残す仕事をしていたのに、私自身の記憶には、穴がある」
七号は、ペンを止めた。
老菌の話は、証拠ではなかった。
だが、調査の手がかりにはなった。
仮番号一覧は、旧制度と新制度をつなぐために作られた可能性がある。
もし、その一覧が存在したなら、いま原案件との対応関係が分からない意見の一部について、過去の番号をたどれるかもしれない。
しかし、その一覧が実際に完成したかどうかも、どこへ保存されたかも、まだ確認できていなかった。
「ありがとうございます」
ブラウ太郎は言った。
「あなたのお話は、記録として残してもよろしいですか」
「私の名前も?」
「もちろんです」
老菌は、少し驚いた。
「名前を記録しても、私の記憶が正確になるわけではないよ」
「ええ」
ブラウ太郎は答えた。
「だから、記憶に基づく証言として記録します。確認できた事実とは、区別して」
老菌は、長く息を吐いた。
「それなら、頼むよ」
七号は、彼の名前と証言の日時を記録した。
その記録には、分類名を付けなかった。
代わりに、こう記した。
「未確認情報。ただし、確認すべき手がかりを含む」
ブラウ太郎は、その記載を見て、うなずいた。
この国では、情報を分類することはできても、分類した情報をどう扱うべきかについては、必ずしも合意がなかった。
だが、少なくとも二人は、一つの区別を守ろうとしていた。
分からないことを、分かったことにしない。
そして、分からないという理由だけで、調べる価値まで失わせない。
三 回答済みの人生
中央委員会の広報部は、コウシン太郎の公開資料に対し、翌日、正式な見解を発表した。
発表文は、簡潔だった。
――過去の記録管理において、現在の基準から見れば不十分な点が存在する可能性は否定できない。
――一方、記録の一部が確認できないことのみをもって、意見が意図的に隠蔽されたと判断することは適切ではない。
――中央委員会は、過去の制度運用を検証するとともに、今後の透明性向上に向けた改善を進める。
この発表に、コウシン太郎は異議を唱えなかった。
実際、記録が確認できないことだけで、意図的な隠蔽を断定することはできない。
彼が求めていたのも、断定ではなかった。
必要なのは、記録がなぜ確認できないのかを調べることだった。
しかし、広報部の発表を読んだ人々の反応は、さまざまだった。
「やはり、意図的な隠蔽ではなかったのだ」
そう受け止める者もいた。
「記録が不十分だと認めたのだから、徹底的に調べるべきだ」
そう主張する者もいた。
「結局、何も分からないということではないか」
そう嘆く者もいた。
そして、ある小さな菌は、発表文の一節を見て、手を止めた。
――記録の一部が確認できないことのみをもって、意見が意図的に隠蔽されたと判断することは適切ではない。
その菌は、何年も前に、中央委員会へ意見書を提出していた。
彼の意見は、栄養配分の見直しを求めるものだった。
当時、彼の住む区域では、食物繊維の供給が増えたことによって、微生物社会の構成が変わり始めていた。
新しい環境に適応するため、配分の基準を見直すべきだと、彼は考えた。
だが、その提案は、旧制度の分類基準では、どの項目にも完全には当てはまらなかった。
食料政策の問題であり、環境変化への対応でもあり、地域間の調整の問題でもあった。
担当部局は、意見を複数の案件に分けた。
その後、一部は「制度理解促進案件」に移管され、一部は「地域調整案件」に移管された。
そして、彼が提出した元の意見書は、独立案件として管理されることになった。
彼は、何度も回答を求めた。
最初の回答は、こうだった。
――ご意見は、適切な部局において検討されています。
二度目の回答は、こうだった。
――関係部局間での調整を継続しています。
三度目の回答は、こうだった。
――当該案件は、所定の手続きに基づき処理済みです。
彼は、最後の回答を受け取ったとき、ほっとした。
少なくとも、手続きは終わったのだ。
何らかの結論が出たのだろう。
自分の提案が採用されなかったとしても、その理由が説明されるはずだった。
しかし、回答書には、結論が書かれていなかった。
採用されたのか。
採用されなかったのか。
どの部局が判断したのか。
どの基準が適用されたのか。
何も記載されていなかった。
彼は問い合わせた。
回答は、次のとおりだった。
――処理済み案件については、個別の処理経緯に関する照会を受け付けておりません。
彼は、それ以上、問い合わせることをやめた。
自分の意見は、処理済みなのだ。
それなら、もう終わったことなのだろう。
彼はそう考えることにした。
だが、年月が過ぎても、配分基準は変わらなかった。
彼の区域では、問題が解決したとは思えなかった。
それでも、彼は、自分の意見がどこへ行ったのかを調べようとはしなかった。
調べても分からない。
分からないなら、諦めるしかない。
それが、彼の身につけた知恵だった。
ある日、彼はコウシン太郎の公開資料を読み、自分の意見が独立案件管理簿に登録されている可能性を知った。
彼は、古い引き出しから、提出時の控えを取り出した。
受付番号は、まだ読めた。
日付も、残っていた。
そして、意見書の末尾には、彼自身の手書きの一文があった。
――回答をいただければ、必要に応じて提案を修正します。
彼は、その一文を見て、長いあいだ動かなかった。
当時の自分は、制度を敵だと思っていなかった。
制度を信頼していたからこそ、意見を提出したのだ。
反対するためではない。
責めるためでもない。
自分たちの暮らしを、少しでもよくするためだった。
彼は、記録管理局へ照会を送った。
数日後、回答が届いた。
――ご提示いただいた旧受付番号について、現行システム上の対応番号を確認できませんでした。
――旧制度における記録の保存状況については、現在調査中です。
――なお、当該案件については、過去の記録に「処理済み」との記載が確認されています。
彼は、回答書を机に置いた。
処理済み。
その言葉を、彼は何度も見てきた。
しかし、今度は、その言葉を以前と同じようには受け取れなかった。
処理済みとは、何が終わったという意味なのか。
受付が終わったのか。
分類が終わったのか。
移管が終わったのか。
判断が終わったのか。
回答が終わったのか。
それとも、ただ、誰かの作業が終わっただけなのか。
彼は、もう一度、照会を送った。
――当該案件が処理済みとされた際、私の意見に対して、どのような判断が行われたのかを教えてください。
回答は、翌週に届いた。
――ご照会の内容については、現在の記録から確認できませんでした。
――ただし、当該案件が処理済みとされた事実は、記録上確認できます。
彼は、紙を折りたたんだ。
そして、初めて、自分の中に怒りが生まれるのを感じた。
怒りの相手は、特定の担当者ではなかった。
誰が悪いのか、まだ分からない。
だが、彼の意見が処理済みと記録されている一方で、その意見に何が起きたのかを説明できる者がいない。
そのこと自体が、彼には耐えがたかった。
彼は、記録管理局に、もう一度だけ問い合わせた。
今度は、質問を変えた。
――私の意見は、処理済みとされた後、どの記録に引き継がれたのでしょうか。
その回答は、まだ届いていない。
彼は、古い控えを封筒に入れた。
封筒の表には、こう書いた。
「私が提出した意見について」
その下に、自分の名前を書いた。
今度は、記録の中に自分の名前があるかどうかを確かめるためではなかった。
自分が、その意見を提出した当人であることを、もう一度、はっきりさせるためだった。
四 対象者数は、登録者数と一致している
ミツオケラ十三世は、統計制度改革の中間報告を読んでいた。
報告書は、整然としていた。
項目ごとに分類され、表には合計値が記され、脚注には集計基準が添えられていた。
最後のページには、改革の進捗状況がまとめられていた。
その中の一文が、十三世の目に留まった。
――本制度の対象者数は、登録済みの対象者数と一致している。
彼は、その文を二度読んだ。
「担当者を呼んでくれ」
しばらくして、統計部の責任者がやってきた。
「この一文について、説明してほしい」
「はい。現在の登録データに基づく対象者数と、制度の集計対象者数は一致しております」
「制度の対象者数は、どのように決めている」
「現行規程に定められた登録条件に基づいております」
「登録条件に当てはまらない者は?」
「対象者として登録されません」
「では、登録されていない者が、本来は制度の対象となるべきだった場合は?」
責任者は、資料を確認した。
「その場合は、登録条件の適用について、別途確認する必要がございます」
「誰が確認する」
「原則として、登録を所管する部局です」
「登録されていない者は、どのようにして、自分が登録されていないことを知るのだ」
責任者は、言葉を止めた。
十三世は続けた。
「登録されていない者が、自分は対象者であると考えた場合、どこに申し立てればよい」
「制度の対象者であることを確認するための照会窓口がございます」
「照会するには、何が必要だ」
「本人の識別情報と、制度の対象者であることを示す資料が必要です」
「対象者として登録されていない者が、その資料を持っていない場合は?」
「個別の事情を確認する必要がございます」
「その個別の事情を確認するためには?」
責任者は、黙った。
十三世は、報告書を閉じた。
「君は、何も間違ったことを言っていない」
「ありがとうございます」
「だが、私の質問には答えていない」
責任者の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「……申し訳ございません」
「謝罪は要らない。制度の仕組みを知りたいのだ」
十三世は、椅子から立ち上がった。
「登録された者だけを数えて、その数が登録された者の数と一致していると報告する。それは、計算として正しいのだろう」
「はい」
「だが、その計算だけでは、制度の対象となるべき者が、全員登録されているかどうかは分からない」
「……そのとおりです」
「では、なぜ、報告書には、その点が書かれていない」
「現在の集計基準では、未登録者の総数を把握する仕組みがないためです」
十三世は、窓のない部屋を見回した。
この国では、登録された者が数えられる。
数えられた者が、対象者と呼ばれる。
対象者の意見が集計される。
集計された意見が、人民の総意として報告される。
そして、報告された総意が、制度の正しさを証明する。
その循環の中には、登録されていない者の姿がなかった。
「この報告書を修正してくれ」
十三世は言った。
「どのように修正いたしましょうか」
「『登録済みの対象者数は、現行の集計対象者数と一致している。ただし、登録条件の適用から漏れた者の有無については、本集計から確認できない』と記載する」
「そのように記載した場合、従来の報告との比較が難しくなる可能性があります」
「比較できる数字と、比較できない数字を分ければいい」
「また、制度への信頼に影響する可能性もございます」
十三世は、静かに答えた。
「信頼を守るために、確認できないことを確認できたように書くわけにはいかない」
責任者は、頭を下げた。
「承知いたしました」
彼が退出した後、十三世は、机の引き出しから古い資料を取り出した。
そこには、ミツオケラ党が初めて「七%の歴史的使命」を公式に掲げたときの演説原稿が入っていた。
原稿の一節には、こう書かれていた。
――われわれは、人民のすべてを把握しているから指導するのではない。人民のすべてに責任を負うために指導するのである。
十三世は、その文章を見つめた。
当時の自分は、本気でそう信じていた。
人民のすべてを把握することはできない。
だからこそ、制度を改善し、情報を集め、誤りを修正し続けなければならない。
それが、彼の考える責任だった。
いつから、その考えが変わったのだろう。
いつから、把握できない者を、制度の対象外として扱うようになったのだろう。
いつから、制度に登録されている者だけが、制度によって守られるべき者になったのだろう。
彼は、原稿を閉じた。
自分がその変化のどこに関わったのか、まだ分からない。
だが、少なくとも、変化が起きたことを認める必要はあった。
彼は、統計制度改革の中間報告に、新しい調査項目を追加するよう指示した。
「制度の対象者である可能性があるにもかかわらず、登録されていない者の有無を確認する方法」
その項目には、担当部局の欄がなかった。
責任者の欄もなかった。
期限の欄もなかった。
十三世は、その三つの空欄を見つめた。
そして、指示書に書き加えた。
――担当部局、責任者、実施期限を明記すること。なお、未登録者の有無を確認する仕組みが現行制度に存在しない場合は、その事実を明示すること。
彼は、署名した。
それは、ほんの小さな修正だった。
だが、彼にとっては、党の根拠を支えてきた数字に、初めて条件を付ける行為だった。
七%という数字が正しいかどうか。
九十三%の意見が、どこまで集計されているのか。
その答えを、彼はまだ知らない。
ただ、数字を正しいと信じることと、数字が正しいかどうかを確かめられるようにすることは、違う。
その違いを認めることからしか、次の一歩は始まらない。
五 名前を書いた者
コウシン太郎のもとに、古い意見書の写しが届いたのは、その三日後だった。
差出人は、かつて中央委員会に意見を提出した菌だった。
彼は、自分の意見がどの記録に引き継がれたのかを調べてほしいと求めていた。
封筒には、古い受付番号と、提出日が記されていた。
意見書の本文は、栄養配分の基準を見直すべきだというものだった。
末尾には、手書きの一文があった。
――回答をいただければ、必要に応じて提案を修正します。
コウシン太郎は、その文章を読んだ。
そこには、敵意がなかった。
制度を打倒しようという宣言もなかった。
ただ、意見を出し、回答を受け取り、必要なら自分の提案を修正するという意思があった。
彼は、古い制度設計資料を開いた。
そこには、意見を独立案件として扱う場合の目的が記されていた。
――分類困難な意見を保護し、必要に応じて再検討できるようにする。
コウシン太郎は、二つの文章を並べた。
一方には、意見を提出した者の言葉がある。
もう一方には、制度を設計した者の言葉がある。
どちらも、意見を失わせないことを目的としていた。
しかし、その二つの言葉の間に、長い空白があった。
提出された意見が、どの部局に移管されたのか。
どの分類を受けたのか。
どのような判断が行われたのか。
なぜ処理済みとされたのか。
その空白を埋める記録が、見つかっていなかった。
コウシン太郎は、差出人に返事を書いた。
――ご提供いただいた受付番号について、現行の記録との対応関係を確認できておりません。現在、旧制度の記録を調査しています。現時点で、当該意見が意図的に隠されたと判断できる証拠はありません。一方、処理済みとされた理由や、意見がどのように扱われたのかについても、確認できていません。
彼は、一度、手を止めた。
もっと安心させる言葉を書くこともできた。
制度は改善されつつある。
調査が進めば、何らかの答えが見つかるだろう。
あなたの意見は、無駄ではなかった。
しかし、どれも、今の彼には約束できなかった。
彼は、代わりに、こう書いた。
――あなたが意見を提出したこと、その意見の控えを保管していたこと、そして現在も回答を求めていることは、確認できる事実です。これらの事実を、調査記録に残します。
そして最後に、一文を加えた。
――記録が見つからないことを理由に、あなたが意見を提出したという事実まで、なかったことにはしません。
書き終えた彼は、その文章を何度も読み返した。
それは、問題を解決する回答ではなかった。
意見の行方を説明することもできていない。
だが、少なくとも、回答できないことを、回答したことにはしなかった。
彼は、返事を送った。
その直後、中央委員会から連絡が入った。
「コウシン太郎さん。現在、旧制度に関する調査の進め方について、調整を行っています」
「はい」
「個別の意見提出者に対する回答については、統一的な方針を定める必要があると考えています」
「それは、分かります」
「現時点で、確認できない事項を個別に回答した場合、今後の調査結果との不一致が生じる可能性があります」
「確認できない事項については、確認できないと答えています」
「ただし、その表現が、制度全体への不信を招く可能性もございます」
コウシン太郎は、静かに尋ねた。
「では、確認できないことを、確認できたように答えるべきだとお考えですか」
「そのような意味ではありません」
「では、どうすればいいのでしょう」
「回答の標準化を進め、誤解を招かない表現を検討したいと考えております」
コウシン太郎は、机の上の意見書を見た。
「標準化すること自体には反対しません。ただし、標準化によって、個別の事実が消えないようにしてください」
「もちろんです」
「そのことも、記録に残してください」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「……承知しました」
電話が切れた。
コウシン太郎は、受話器を置いた。
彼は、かつて、制度を守るために、個別の事情を整理しようとした。
今は、個別の事情を守るために、制度の側が何をしてきたのかを、もう一度調べようとしている。
それは、簡単な転換ではなかった。
自分の過去を否定すれば、かつて信じていた理念まで、すべて間違いだったことになりそうだった。
しかし、理念が間違っていなかったとしても、その理念を実現する仕組みが、正しく機能していたとは限らない。
彼は、その違いを受け入れようとしていた。
そして、その違いを認めることこそが、彼に残された、数少ない責任の取り方なのかもしれなかった。
六 記録にない人々の集会
その週の終わり、ブラウ太郎は、三匹の意見提出者と、資料保存課の老菌、そして名無しの七号を、小さな会議室に集めた。
会議室は、中央委員会の正式な施設ではなかった。
人新会が、資料整理のために借りている部屋だった。
壁には、何も掲げられていなかった。
標語も、党の理念も、会議の進行規則もなかった。
ただ、机と椅子が並んでいた。
「今日、ここで決めたいことがあります」
ブラウ太郎は言った。
「私たちは、まだ、皆さんの意見がどこへ行ったのかを説明できません。仮番号一覧の所在も、旧制度の記録の保存状況も、確認できていません」
受付番号を握っていた菌が、うなずいた。
「それは、分かっています」
「ですが、皆さんが意見を提出したという事実は、皆さん自身の証言と、残されている控えによって確認できるものがあります」
「はい」
「そこで、私たちは、記録の照合が終わるのを待つだけでなく、提出者の側に残っている記録を集めたいと考えています」
ブラウ太郎は、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、簡単な項目が並んでいた。
提出した時期。
提出先。
受付番号。
意見の内容。
受け取った回答。
その後に行われた問い合わせ。
現在、確認できていること。
そして、まだ分からないこと。
「これは、公式な記録ではありません」
ブラウ太郎は、最初に断った。
「私たちが集めた資料が、すべて正確であるとも限りません。記憶違いもあるでしょうし、控えが残っていない方もいるでしょう」
何も持っていなかった菌が、手を挙げた。
「私のように、受付番号も控えもない場合は?」
「その場合は、ご本人の証言として記録します」
「それは、証拠になりますか」
「どのような事実を証明できるかは、個別に検討する必要があります。ただ、控えがないという理由だけで、最初から記録しないことはしません」
菌は、長いあいだ黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「私は、昔、意見を出したことを、ずっと誰にも話していませんでした」
「どうしてですか」
「回答が来なかったからです」
ブラウ太郎は、黙って聞いていた。
「最初は、忙しいのだろうと思いました。次に、私の意見が分かりにくかったのだろうと思いました。そのうち、自分の意見は、そもそも出すべきものではなかったのかもしれないと考えるようになりました」
彼は、机の上の紙を見た。
「記録がないと言われたら、私が間違っていたのだろうと思うしかありませんでした」
その言葉を聞いて、受付番号を握っていた菌が、ゆっくりとうなずいた。
「私も、そうでした」
隣の菌も言った。
「私もです」
会議室の中に、短い沈黙が流れた。
それは、誰かが発言を禁止したための沈黙ではなかった。
誰もが、自分の経験を、どう言葉にすればいいのか分からなかったのだ。
名無しの七号は、その沈黙を急がせなかった。
彼は、手帳を閉じていた。
記録を取ることは大切だった。
しかし、記録を取ることに夢中になり、目の前の者が話し終える前に、分類名を考え始めてしまっては意味がない。
しばらくして、老菌が口を開いた。
「私は、資料保存課で働いてきました。記録がないと言われたとき、私は、まず保存台帳を確認します。台帳にないものは、所定の記録では確認できないと答えます」
彼は、自分の手を見た。
「それは、間違った手続きではありませんでした。ただ、その手続きだけでは、記録がどこへ行ったのかを調べられないことがある。私は、そのことを、もっと早く考えるべきだったのかもしれません」
「あなた一人の責任ではありません」
ブラウ太郎が言った。
「そうかもしれない」
老菌は答えた。
「だが、私の責任がまったくないとも、言い切れない」
その言葉は、コウシン太郎が公開資料に記した文章と、どこか似ていた。
責任をすべて一人に押しつけないこと。
しかし、責任が分散していることを理由に、誰も自分の役割を振り返らなくならないこと。
その二つを、同時に守るのは難しかった。
七号は、会議室にいる者たちの名前を書き始めた。
名前が分かる者は、名前を。
名前を公表したくない者は、本人が希望する記号を。
記録がない者については、本人の同意を得たうえで、証言の日時と内容を。
誰かが、七号に尋ねた。
「この記録は、どこに保管するんですか」
「複数の場所に保管します」
「なぜですか」
「一か所の記録だけに頼ると、その記録が見つからなくなったとき、ほかに確認する方法がなくなるからです」
「誰が管理するんですか」
「管理責任者を決めます。ただし、管理責任者が変わっても、記録の所在と引き継ぎが分かるようにします」
「記録を修正するときは?」
「修正前の内容を残し、いつ、誰が、なぜ修正したのかを記録します」
「もし、間違った証言が含まれていたら?」
「確認できた事実と、本人の証言と、まだ確認できないことを区別します。間違いが分かった場合には、訂正の履歴も残します」
質問は、次々と出てきた。
そのたびに、七号は、すぐに答えられることと、まだ決めなければならないことを分けて説明した。
会議の最後に、ブラウ太郎は言った。
「今日、集めた記録で、過去の問題が解決するわけではありません。中央記録管理局の正式な記録と照合できるとも限りません」
彼は、一人ひとりの顔を見た。
「それでも、皆さんが意見を提出したという事実を、皆さん自身の記憶だけに閉じ込めておく必要はありません」
受付番号を握っていた菌が、初めて、番号の書かれた紙を机に置いた。
「では、私の意見は、まだ終わっていないんですね」
ブラウ太郎は、慎重に答えた。
「少なくとも、あなたが回答を求めているという事実については、今日、記録に残りました」
菌は、うなずいた。
「それで、十分だとは思いません」
「私も、そう思います」
「でも、何もないよりは、いい」
「はい」
その日の会議で、彼らは何も解決しなかった。
仮番号一覧は見つかっていない。
独立案件管理簿の正確な内訳も、まだ分からない。
意見がどのように扱われたのかを説明できる記録も、不足していた。
だが、彼らは、少なくとも一つのことを始めた。
記録が見つからない者を、記録の外に置いたままにしないこと。
そして、記録がないという理由だけで、その者の経験まで存在しなかったことにしないこと。
それは、中央委員会の制度改革よりも、小さな取り組みだった。
だが、その小さな取り組みは、これまでの制度が十分に扱えてこなかった問いを、正面から引き受けていた。
誰が、何を、いつ、どこへ提出したのか。
その意見は、誰の手を通り、どのような判断を受けたのか。
そして、
その過程を、提出した本人が確かめられるのか。
彼らは、その問いに、まだ答えを持っていなかった。
ただ、問いそのものを、もう独立させたままにはしないと決めたのだった。
七 九十三%の、その外側
その夜、ミツオケラ十三世は、中央委員会の報告書に添付された参考資料を読んでいた。
統計制度改革の担当者が、未登録者の問題について、追加の説明を提出していた。
現行制度では、対象者の登録条件を満たした者が、集計対象となる。
登録条件を満たさない者は、集計対象外となる。
登録条件に当てはまるかどうか不明な者は、確認が済むまで、別の管理区分に置かれる。
その管理区分に置かれた者の数は、制度によって異なっていた。
つまり、制度の対象者を数えるためには、まず、誰が対象者なのかを決める必要があった。
だが、対象者であるかどうかを確認するためには、対象者に関する記録が必要だった。
そして、その記録を持たない者は、対象者であるかどうかを確認できないことがあった。
十三世は、資料の最後に記された一文を読んだ。
――現行の登録制度において、未登録者の総数を直接把握することは困難である。
彼は、その一文の横に線を引いた。
困難であることは、分かった。
では、困難であることを理由に、把握する努力をやめてよいのか。
その問いは、報告書には書かれていなかった。
十三世は、椅子から立ち上がり、壁の標語を見た。
少数の責任によって、多数の安定を実現する。
七%の党が、九十三%のために責任を負う。
それが、彼らの政治の出発点だった。
しかし、いま、彼は考えていた。
九十三%とは、誰のことなのか。
登録された九十三%なのか。
分類された九十三%なのか。
意見を提出した九十三%なのか。
それとも、意見を提出する機会を得られなかった者まで含む、すべての者なのか。
彼らは、長年、九十三%という数字を語ってきた。
だが、その数字の外側にいる者について、どれほど知っていたのだろう。
十三世は、統計部の責任者に電話をかけた。
「追加の調査を指示したい」
『どのような調査でしょうか』
「現行の登録制度で、対象者として把握されていない者が、どれほど存在する可能性があるのかを調べる」
『未登録者の総数を直接把握することは困難です』
「それは、報告書で読んだ」
『はい』
「だから、総数を確定できないことを前提に、どのような方法なら存在の可能性を確認できるのかを調べてほしい」
『具体的には、どのような方法を想定されておりますか』
「複数の記録を照合する方法。登録制度の対象条件を見直す方法。登録されていない者から、自分が対象者である可能性を申し立てられる仕組み。それから、申し立てを受け付けた後、どのように判断したかを本人が確認できる仕組みだ」
『その場合、既存の登録制度そのものを見直す必要が生じる可能性があります』
「そうだろう」
『また、過去の統計との連続性が失われる可能性もございます』
「それも分かっている」
『さらに、登録条件を変更した場合、現在の集計対象者数が大きく変わる可能性があります』
十三世は、少しだけ笑った。
「数字が変わる可能性があるから、数字を調べないのか」
『そのような意味ではございません』
「分かっている。君は、制度の担当者として、必要な懸念を挙げているだけだ」
彼は続けた。
「だが、これまでの制度が正しかったかどうかを確かめるために、これまでの制度だけを使うわけにはいかない。別の方法が必要なら、その方法を考えなければならない」
電話の向こうで、責任者が息を吸う音がした。
『承知いたしました。調査方法の検討を開始いたします』
「期限を決めてくれ」
『はい』
「それから、調査方法を検討する担当者と、調査結果を検証する担当者は、可能な限り分けてほしい」
『その場合、組織体制の見直しが必要になります』
「それも含めて、検討してくれ」
電話を切った十三世は、しばらく机の前に立っていた。
自分がいま行っていることが、改革なのか。
あるいは、改革を行っているという事実を作るための、新しい手続きなのか。
彼には、まだ分からなかった。
だからこそ、期限を定めた。
だからこそ、担当者を分けた。
そして、調査結果だけでなく、調査方法そのものも、後から検証できるようにすることを指示した。
それでも、制度が変わる保証はなかった。
だが、少なくとも、変わらないことを当然の前提として扱うわけにはいかなかった。
彼は、標語の下に、新しい紙を貼った。
そこには、こう書かれていた。
「把握できていない者がいる可能性を、把握できていないことを理由に無視してはならない」
その文章は、まだ党の正式な理念ではなかった。
正式な理念にするには、検討会が必要だった。
検討会を開くには、議題を登録しなければならない。
議題を登録するには、担当部局を決めなければならない。
担当部局を決めるための照会が、翌朝、発行される予定だった。
十三世は、そのことを知っていた。
それでも、紙を剥がさなかった。
八 記録の外側から
翌朝、中央記録管理局の掲示板に、一枚の通知が貼り出された。
――旧制度移行期・仮番号一覧の保存状況について、追加調査を実施します。
――調査期間は、三十日間とします。
――調査対象資料の所在が確認できない場合には、その経緯について、確認できた範囲で報告します。
掲示を読んだ者たちは、さまざまな反応を示した。
「三十日で見つかるのだろうか」
「見つからなかったら、どうなるのだろう」
「そもそも、本当に作られていたのだろうか」
誰も、答えを持っていなかった。
ブラウ太郎は、掲示板の前で、七号と並んで立っていた。
「三十日か」
七号が言った。
「長いですか。短いですか」
「資料がどこにあるか分かっていれば、長いかもしれない」
「どこにあるか分からないなら?」
「短いかもしれないし、十分かもしれない」
七号は、うなずいた。
「期間が決まったこと自体には、意味がありますね」
「そうだな」
「少なくとも、いつまでも確認中というわけにはいかなくなった」
「ただし、三十日後に、どんな報告が出てくるかは分からない」
「はい」
ブラウ太郎は、掲示の末尾を見た。
――確認できた範囲で報告します。
「この一文が重要だ」
「どうしてですか」
「見つからなかった場合に、見つからなかったという結果だけで終わらせないためだ。何を調べ、何が分かり、何が分からなかったのか。その経緯を残すことができる」
「それでも、資料が見つからなければ、元の意見を追えないかもしれません」
「そうだ」
ブラウ太郎は答えた。
「だから、別の道も探す」
七号は、手帳を開いた。
彼らが集め始めた提出者側の記録。
古い受付票。
意見書の控え。
回答書。
担当者の記憶。
過去の会議録。
そして、記録管理局が保有する管理簿。
それらを照合すれば、すべての意見の行方が分かるとは限らない。
しかし、少なくとも、記録の片側だけに頼らずに済む。
制度の記録と、提出者の記録。
管理する側の記録と、管理される側の記録。
両方を照らし合わせることで、初めて見えてくることがあるかもしれなかった。
そのとき、掲示板の前に、一匹の小さな菌が立ち止まった。
彼は、通知を読んでから、ブラウ太郎に声をかけた。
「あの……意見の記録について、調べている方ですか」
「はい」
「私も、昔、意見を提出しました」
「受付番号はありますか」
「ありません」
ブラウ太郎は、首を振った。
「受付番号がなくても、話を聞かせてください」
菌は、少し驚いた。
「番号がなくても、いいんですか」
「はい」
「記録がないかもしれません」
「それも含めて、記録します」
菌は、手を握りしめた。
「私は、意見を提出したことを、ずっと忘れようとしていました」
「どうしてですか」
「回答がなかったからです。それに、周りから、そんな意見を出しても意味がないと言われました」
ブラウ太郎は、黙って聞いた。
「でも、私は、意見を出したことを覚えています。どこへ提出したかも、だいたい覚えています。何を書いたかも、少しは覚えています」
菌は、ブラウ太郎を見上げた。
「こんな曖昧な記憶でも、話していいんでしょうか」
ブラウ太郎は、ゆっくりとうなずいた。
「もちろんです。ただし、記憶に基づく話であることは、記録に明記します。後から確認できたことがあれば、追加します。間違いが分かったら、そのことも残します」
「それなら、話します」
菌は、椅子に座った。
七号は、新しい記録用紙を取り出した。
用紙の上には、まだ何も書かれていなかった。
氏名。
提出時期。
提出先。
意見の内容。
回答の有無。
関連する記録。
そして、確認できていないこと。
七号は、最初の欄に、菌の名前を書いた。
その名前は、中央委員会の登録簿には見つかっていなかった。
独立案件管理簿にも、記載されていなかった。
仮番号一覧の存在も、まだ確認できていない。
それでも、その名前は、いま、ここに書かれた。
名前を書いたことによって、過去の記録が復元されたわけではない。
その菌の記憶が、すべて正確だと証明されたわけでもない。
ただ、彼が自分の経験を語ったという事実が、新しい記録として残った。
ブラウ太郎は、その用紙を見つめた。
そして、静かに言った。
「始めましょう」
七号は、ペンを構えた。
小さな菌は、昔のことを話し始めた。
どのような問題があったのか。
なぜ、意見を提出しようと思ったのか。
どこへ持っていったのか。
誰が受け取ったのか。
どのような返事を期待していたのか。
そして、いつから、回答を待つことをやめたのか。
話は、途切れ途切れだった。
記憶は、順番どおりには並ばなかった。
日付が曖昧なところもあった。
担当者の名前を思い出せない箇所もあった。
七号は、分からないことを、分からないまま記録した。
ブラウ太郎は、確認できる手がかりを、別の欄に書き出した。
その作業は、ゆっくりと進んだ。
それでも、記録は少しずつ形になっていった。
昼になり、午後になり、窓のない局舎の外で、食物繊維を含む新しい食事が松木ひろ子の体内に届いた。
その変化は、腸内人民共和国のすべての問題を解決しなかった。
ミツオケラ党の支配も、独立案件管理簿も、失われた番号も、そのままだった。
だが、環境は変わり続けていた。
菌たちは、その変化の中で、少しずつ、自分たちの暮らしを考え直し始めていた。
記録の中に名前がない者も。
回答済みとされたまま、答えを受け取っていない者も。
自分の意見が、どこへ行ったのかを知らない者も。
彼らは、まだ、制度の中心にはいなかった。
だが、記録の外側にいることと、社会の外側にいることは、同じではなかった。
名無しの七号は、その日の最後に、調査記録の末尾へ一文を書いた。
「本記録は、公式記録との照合が完了していない。しかし、照合が完了していないことを理由に、本記録の存在を否定してはならない」
彼は、その下に、日付と自分の名前を書いた。
そして、記録を二部作成した。
一部は、人新会の保管庫へ。
もう一部は、提出者本人へ。
どちらにも、同じ番号を付けた。
番号の対応関係を示す欄には、こう記した。
――本記録の原本は、本人および人新会の双方で保管する。
その記録が、将来、正式な記録体系に組み込まれるかどうかは分からなかった。
誰かが閲覧するかどうかも分からなかった。
だが、少なくとも、二つの場所に同じ記録が残った。
片方が見つからなくなったとき、もう片方を確認できるように。
片方の番号が変わったとき、もう片方との関係をたどれるように。
そして、いつか誰かが「そのような意見は存在しなかった」と言ったとき、別の場所から、もう一度、問いを立てられるように。
記録にない人々は、まだ、すべてを取り戻したわけではなかった。
だが、彼らは、自分たちの存在を証明するための記録を、自分たちの手で作り始めていた。
そのことを、中央委員会は、まだ統計に含めていなかった。




