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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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第七話 独立案件という名の消失


一 丸印のついた記録


 中央記録管理局の地下三階には、窓がなかった。


 窓がないことについて、局は特別な説明をしていない。


 ただし、施設案内には「外部環境の影響を受けず、記録の中立性を維持するため」と書かれていた。


 ブラウ太郎は、その説明を読んでから、しばらく考えた。


「記録の中立性を維持するために、外が見えないのか」


「そういうことらしいです」


 名無しの七号が答えた。


「では、記録が外の現実と食い違った場合、どうするんだろう」


「外部環境の影響を受けないように、現実のほうを参考資料にするのではないでしょうか」


 ブラウ太郎は七号を見た。


「君は、最近、ずいぶん嫌なことを言うようになったな」


「記録を読んでいるうちに、自然とこうなりました」


「読書教育の成果だな」


「いえ、分類教育の副作用かもしれません」


 二人は、閲覧室の長い机に向かっていた。


 前回、七号が見つけた古い記録には、奇妙な一文が繰り返し現れていた。


 ――原案件との対応関係が確認できないため、独立案件として管理する。


 その横には、小さな丸印が付いている。


 丸印は、単なる筆記上の目印かもしれない。


 あるいは、旧式の処理区分を示す記号かもしれない。


 問題は、丸印の付いた案件が、通常の記録番号を持つ案件とは別の一覧表に記載されていたことだった。


 その一覧表の表題は、


 「独立案件管理簿」


 となっていた。


「まずは、これが何なのかを確かめよう」


 ブラウ太郎は言った。


「丸印があるからといって、すぐに不正だと決めつけるわけにはいかない。単に古い事務処理の名残かもしれない」


「はい」


「だが、なぜ独立させる必要があったのか。誰が独立を決めたのか。独立した後、その意見はどう扱われたのか。それは調べなければならない」


「それで、閲覧申請を出したんですね」


「そうだ」


「申請理由は?」


「原案件との対応関係を確認するため」


「審査結果は?」


「現在、審査中だ」


 七号は、机の上に置かれた通知書を見た。


「審査に必要な期間は?」


「審査期間の確認申請が必要だそうだ」


「その確認申請の審査期間は?」


「まだ分からない」


 七号は、手帳を開いた。


 そして、丁寧な字で記録した。


 調査の進捗を知るための手続きが、調査の進捗を知ることを妨げている。


「その一文は、記録しないほうがいいぞ」


 ブラウ太郎は言った。


「なぜですか」


「君が記録すると、いつか誰かが引用する。その誰かが引用すると、局はこの一文を制度改善の参考意見として受け付ける。その意見は制度理解促進案件に分類され、原案件との対応関係が確認できなくなり、独立案件として管理される」


「つまり?」


「君は、いま書いた一文について、永遠に調べることができなくなる」


 七号は手帳を閉じた。


「では、どうすればいいんでしょう」


「書くんだ」


「え?」


「書かないと、何も残らない。書けば、消されるかもしれない。だが、消されたことを記録できるのも、書いた者だけだ」


 七号は、もう一度手帳を開いた。


 先ほどの一文の下に、こう付け加えた。


 ただし、記録した者は、その記録がどこへ移されたかを確認する必要がある。


 ブラウ太郎は満足そうにうなずいた。


「よし。まずは君の記録番号を控えておこう」


「どうしてですか」


「独立案件になったとき、原案件との関係を証明するためだ」


「私自身が、原案件になるんですか」


「この国では、何が案件になるかは、本人の意思だけでは決まらない」


 閲覧室の奥で、記録端末が低い音を立てた。


 二人は、独立案件管理簿の次のページをめくった。


 そこには、意見番号と分類名が並んでいた。


 しかし、意見の本文はなかった。


 あるのは、受付日、移管日、独立案件への登録日、そして処理状況だけだった。


 その処理状況は、ほぼすべて同じだった。


 ――管理継続。


「これでは、何についての意見なのか分からない」


 七号が言った。


「いや、分かることもある」


 ブラウ太郎は、表の右端を指した。


「受付日と独立案件への登録日だ」


 いくつかの案件では、受付から独立案件への登録まで、わずか数日しかかかっていなかった。


 別の案件では、数か月。


 そして、ある案件では、受付から三日後に独立案件へ移されているにもかかわらず、その翌日には、すでに「原案件との対応関係の確認不能」と記録されていた。


「一日で、対応関係が確認できなくなったんでしょうか」


「そういう可能性もある」


「あるいは?」


「対応関係を確認する前に、独立させたのかもしれない」


 ブラウ太郎は慎重に言った。


「だが、まだ断定はできない。記録が欠けているのか、別の場所にあるのか、最初から作られなかったのか。それぞれ意味が違う」


 七号は、表の数字を数え始めた。


 五十件。


 百件。


 二百件。


 やがて、彼の指が止まった。


「ブラウ太郎さん」


「どうした」


「これ、私たちが調べている四百二十六件だけではありません」


 七号は、ページの最後に書かれた集計数を示した。


 独立案件管理簿の登録総数。


 八千七百十四件。


 ブラウ太郎は、すぐには返事をしなかった。


 四百二十六件は、集計の食い違いから見つかった数字だった。


 八千七百十四件は、その二十倍を超えていた。


 しかも、独立案件管理簿には、さらに古い別冊の存在が記されていた。


 別冊の名称は、


 「旧制度移行期独立案件補助簿」


 だった。


「補助簿は、どこにあるんでしょう」


 七号が尋ねた。


 ブラウ太郎は、記録管理局の閲覧規則を見直した。


「この規則によれば、旧制度移行期の補助簿は、保存年限の経過後、廃棄または統合の対象になる」


「どちらになったかは?」


「その記録を閲覧するには、保存状況確認申請が必要だ」


 七号は、深く息を吸った。


「申請しましょう」


「ああ」


「今度は、審査期間の確認申請も、最初から一緒に出しておきます」


 ブラウ太郎は笑った。


「成長したな」


「この国に適応しているだけかもしれません」


「その二つを区別するのが、いちばん難しいんだ」


 そのとき、端末の画面が切り替わった。


 新しい通知が表示された。


 閲覧申請について、審査を開始するための必要書類が不足しています。


 不足書類の欄には、こう記されていた。


 ――閲覧を希望する記録の正確な名称。


 七号は、画面を指さした。


「私たちは、いま、その記録の名称を調べているんですよね」


「そうだ」


「そのために閲覧を申請したのに?」


「そうだ」


 ブラウ太郎は、画面をしばらく見つめた。


「これは、なかなか完成度の高い制度だな」


「褒めているんですか」


「いや。感心しているだけだ」


 そして彼は、新たな申請書を開いた。


 申請理由の欄に、こう書いた。


 ――記録の正確な名称を確認するため、記録の閲覧を希望する。


 少し考え、最後に付け加えた。


 ――なお、本申請は、記録の名称が不明であることを理由として却下されないことを希望する。


 七号は、それを見てうなずいた。


「念のため、ですね」


「いや」


 ブラウ太郎は申請書を送信した。


「これは、未来の記録係に向けた手紙だ」


二 統計の改革は、統計の外へ出られるか


 同じころ、中央委員会では、統計制度改革の検討会が開かれていた。


 議題は、前回の調査で明らかになった四百二十六件の不一致と、独立案件管理簿の存在だった。


 議長菌は、冒頭から慎重な口調だった。


「本日の会議は、既存制度の欠陥を断定するものではありません。制度運用上の課題を整理し、必要に応じて改善可能性を検討するためのものです」


 ミツオケラ十三世は、手元の資料をめくった。


「では、独立案件管理簿とは何だ」


「現在、確認中です」


「登録総数は八千七百十四件とある」


「その数値についても、集計基準を確認しております」


「八千七百十四という数字が正しいかどうかも分からないのか」


「正確には、現行の管理簿に記載されている登録総数が八千七百十四件であることは確認しております。ただし、過去の登録方法との連続性については、確認が必要です」


 十三世は資料を閉じた。


「つまり、数字はあるが、何を数えた数字なのか分からない」


「その表現は、やや簡略化されているかと存じます」


「では、詳しく言ってみろ」


「数字は確認できますが、数字が示す対象の範囲については、引き続き精査が必要です」


 十三世は、ゆっくりとうなずいた。


「なるほど。簡略化すると、何を数えたか分からない。詳しくすると、何を数えたか分からない理由が分かる」


 会議室の空気が、わずかに動いた。


 議長菌は咳払いをした。


「書記の記録上、本発言は制度改善に向けた建設的な問題提起として整理いたします」


「皮肉まで、建設的に整理するのか」


「発言の意図については、発言者のご見解を尊重しつつ、会議録の統一性を維持する必要があります」


「私が何を言ったかより、会議録が統一されることのほうが重要なのか」


「重要性の比較ではなく、記録上の要件でございます」


 十三世は、また資料を開いた。


 彼は、自分がこの制度を守ってきたことを誇りに思っていた。


 意見の集計には、慎重さが必要だった。


 複雑な意見を単純な賛否に分ければ、誤解が生じる。


 少数意見を急いで多数決にかければ、深刻な問題が見落とされる。


 だからこそ、分類を見直し、保留し、必要なら独立案件として扱う。


 その考え方自体は、必ずしも間違っていなかった。


 問題は、慎重さを終わらせる条件が、制度の中に存在していたかどうかだった。


「独立案件への移行は、誰が決めるのだ」


 十三世が尋ねた。


「原則として、所管部局が判断します」


「判断基準は?」


「原案件との対応関係が確認できない場合、独立案件として管理することができます」


「確認できない場合とは、確認するための資料がない場合か。それとも、確認作業を行っても対応関係が分からなかった場合か」


 担当者は、資料を確認した。


「現行規程では、両者を明確には区別しておりません」


 十三世は、椅子に深く腰を下ろした。


「区別していないのか」


「はい」


「では、確認しなかった案件と、確認したが分からなかった案件が、同じ分類になるのか」


「結果として、同じ分類になる場合があります」


 十三世は、しばらく沈黙した。


 彼の頭の中で、七%という数字が動いていた。


 七%。


 かつて彼は、その数字を少数派の責任の証明として語った。


 七%しかいないからこそ、全体を見なければならない。


 七%しかいないからこそ、歴史的使命を担わなければならない。


 七%しかいないからこそ、九十三%の意見を、より高い視点から整理しなければならない。


 その論理は、彼にとって長いあいだ、疑う必要のないものだった。


 だが、いま彼は、別の可能性を考え始めていた。


 七%が九十三%の意見を整理してきたのではない。


 七%が、九十三%の意見を整理した結果として残ったものだけを見てきたのではないか。


 もし、そうなら。


 彼らが「全体の意見」と呼んでいたものは、全体の意見ではなかったことになる。


 会議室の正面には、党の基本理念が掲げられていた。


 少数の責任によって、多数の安定を実現する。


 十三世は、その標語を見た。


 そして、初めて思った。


 責任を引き受けることと、判断を独占することは、同じではない。


 しかし、その考えを口にすることは、標語そのものを疑うことでもあった。


「独立案件管理簿を、全面的に調査する必要がある」


 十三世は言った。


 議長菌がうなずいた。


「その方向性について、検討を開始することは可能です」


「いつからだ」


「調査計画の策定後となります」


「計画は、いつ策定する」


「計画策定のための体制を整える必要があります」


「体制は、いつ整う」


「まずは、体制整備の必要性を確認する必要がございます」


 十三世は、目を閉じた。


「君たちは、私の忍耐力を試しているのか」


「そのような意図はございません」


「では、なぜ、私の忍耐力が試されているように感じるのだ」


「受け止め方については、個人差があるものと考えられます」


 議長菌は、真剣だった。


 彼は、悪意から十三世を困らせているわけではない。


 手続きを飛ばせば、前例が崩れる。


 前例が崩れれば、別の部署から異議が出る。


 異議が出れば、会議が必要になる。


 会議を開けば、議事録を整えなければならない。


 議事録を整えるには、発言の分類が必要になる。


 そして、分類基準を変更するには、また会議が必要だった。


 誰かが命令して止めているのではない。


 誰もが、自分の担当する手続きを正しく守っていた。


 その結果として、物事が進まなくなっていた。


 十三世は、そこで初めて、党が長年掲げてきた言葉の意味を別の角度から見た。


 ――秩序を守る。


 それは、本来、共同体を守るための言葉だった。


 だが、いつからか。


 共同体を守るために秩序を守るのではなく、秩序を守るために共同体の現実を整理するようになったのではないか。


 彼は、次の指示を出そうとした。


 だが、口を開く前に、気づいた。


 調査を命じるだけでは足りない。


 調査する者が、調査される制度の中にいる。


 そして、その制度の正しさを判断する基準もまた、同じ制度が定めている。


「……外部の検証が必要だな」


 十三世は、ようやく言った。


 議長菌は顔を上げた。


「外部と申しますと」


「中央委員会の指揮系統から独立した検証だ。原案件の記録と独立案件管理簿を照合し、分類の妥当性を調べる。調査対象の選定基準も公開する」


 会議室が静まり返った。


 議長菌は、慎重に言葉を選んだ。


「そのような仕組みを導入する場合、独立性の定義、権限の範囲、報告先、異議申立ての手続きについて、事前に整理する必要がございます」


「それは分かっている」


「また、検証結果が既存統計と異なる場合の取り扱いについても――」


「それも分かっている」


「さらに、検証機関自体の中立性をどのように保証するかという問題が――」


「議長菌」


 十三世は、声を低くした。


「その検証機関が中立かどうかを、誰が検証するのだ」


 議長菌は、黙った。


 長い沈黙の後、彼は答えた。


「……その点についても、検討が必要かと存じます」


 十三世はうなずいた。


「そうだろうな」


 そして、ひどく疲れた顔で言った。


「だが、検討が必要であることを理由に、検討そのものを永久に延期することだけは、やめなければならない」


 その発言は、正式な会議録には、


 「検証制度の整備に際し、適切な検討期間の確保と、実施に向けた継続的な努力の重要性が指摘された」


 と記録された。


 十三世は、その記録を読んで、何も言わなかった。


 彼は、もう一つのことを理解し始めていた。


 自分の発言が、どのように記録されるかを自分で決められない。


 それは、独裁者にとって、案外、不愉快な経験だった。


三 差出人のいない手紙


 コウシン太郎の執務室には、古い書類箱が一つあった。


 箱の側面には、黒い文字でこう書かれていた。


 「制度設計時資料・参考保存」


 彼は長いあいだ、その箱を開けなかった。


 開けなかった理由を、彼は自分の中で何度も説明してきた。


 過去の資料は、現在の制度運用とは切り離して考えるべきだ。


 当時の判断は、当時の状況の中で行われた。


 いま必要なのは、責任追及ではなく、制度の改善である。


 どれも、間違った説明ではなかった。


 だが、正しい説明が、すべての真実を含んでいるとは限らない。


 コウシン太郎は箱を開けた。


 中には、古い議事録、分類基準の草案、修正履歴、そして数枚の意見書が入っていた。


 そのうちの一枚に、彼は見覚えがあった。


 紙の左上には、丸印が付いていた。


 本文には、こう書かれていた。


 ――意見を分類する際、分類不能という理由だけで、意見そのものを失効させてはならない。


 コウシン太郎は、息を止めた。


 その文面は、彼がかつて作成した制度設計資料に引用されていた。


 当時、彼は、複雑な意見を無理に分類することに反対していた。


 賛成でも反対でもない意見がある。


 複数の問題を同時に扱う意見がある。


 質問の形をした意見もあれば、制度の前提そのものを疑う意見もある。


 そうした声を、既存の分類枠に押し込めてしまえば、制度は整理されても、現実は理解されなくなる。


 だから、彼は提案した。


 分類できない意見を、すぐに排除しないこと。


 判断が難しい意見を、無理に結論へ導かないこと。


 原案件との関係が分からない場合には、独立案件として保護し、後から再検討できるようにすること。


 その提案は、当時、歓迎された。


 中央委員会は「少数意見を尊重する制度設計」として高く評価した。


 新聞広報部は、彼の提案を「成熟した対話の象徴」と紹介した。


 そして彼は、制度設計の担当者として、会議でこう述べたのだった。


 ――保留とは、意見を消さないための仕組みです。


 彼は、その発言を覚えていた。


 覚えていたが、その後に何が起きたのかについては、長いあいだ、考えないようにしていた。


 独立案件の再検討期限は、当初の草案に含まれていた。


 だが、関係部局から反対が出た。


 複雑な意見に期限を設ければ、期限内に結論を出すことが優先され、かえって誤った判断が増える。


 その懸念には、一定の合理性があった。


 コウシン太郎は、期限の一律設定を見送ることに賛成した。


 代わりに、定期的な再確認を行う仕組みを提案した。


 ところが、再確認の頻度は、各部局の判断に委ねられた。


 各部局は、通常案件の処理を優先した。


 再確認は、次の四半期へ送られた。


 次の四半期には、別の案件が積み上がった。


 そのうち、独立案件の存在を知らない担当者も増えた。


 やがて、再確認するための人員が確保できないという理由で、再確認そのものが延期された。


 誰かが「消せ」と命令したわけではない。


 誰かが「無視しろ」と指示したわけでもない。


 意見を守るためにつくられた制度が、意見を見直すための時間を失っていった。


 コウシン太郎は、古い意見書を裏返した。


 裏面には、手書きの注記があった。


 ――再確認の担当部局が不明なため、所管部局の決定まで保留。


 その下には、別の筆跡で、


 ――所管部局が確定していないため、独立案件として管理。


 さらに、その下には、


 ――独立案件であるため、原案件を所管する部局による再確認の対象外。


 コウシン太郎は、紙を机に置いた。


 三つの文章は、それぞれ単独で読めば、もっともらしかった。


 だが、順番に読むと、出口がなかった。


 彼は、誰かの責任を追及するために資料を開いたのではない。


 むしろ、責任を一人に押しつけることを避けるために、資料を確認したかった。


 しかし、そこにあったのは、誰にも責任がないことの証明ではなかった。


 複数の人間が、少しずつ判断を先送りした記録だった。


 そして、その最初の一人の中に、自分がいた。


 コウシン太郎は、しばらく動かなかった。


 彼は、反対派の代表として、中央委員会の不透明さを批判してきた。


 だが、自分がかつて制度の設計に関わっていたことを、十分に説明してきただろうか。


 制度の欠陥を批判することと、自分がその欠陥の形成に関わった事実を認めることは、同じではなかった。


 彼は、資料を整理し、公開用の写しを作ることにした。


 そのとき、一枚の薄い紙が、箱の底から滑り落ちた。


 正式な書式ではなかった。


 受付番号も、分類番号もない。


 ただ、本文だけが印刷されていた。


 「私たちの意見が、どこへ行ったのかを教えてください」


 コウシン太郎は、その一文を見つめた。


 差出人の欄は、空白だった。


 日付もない。


 添付資料もない。


 誰が書いたのか、いつ提出されたのか、それすら分からない。


 だが、紙の右上には、小さな丸印が付いていた。


 彼は、独立案件管理簿を開いた。


 そこに載っていた丸印と、形が一致していた。


 コウシン太郎は、記録端末に照会を入力した。


 ――本意見書の受付番号、原案件番号、移管履歴を確認したい。


 しばらくして、画面に回答が表示された。


 該当する原案件番号は確認できません。


 続けて、別の回答が表示された。


 独立案件としての登録記録については、照合に必要な識別情報が不足しています。


 最後に、定型文が現れた。


 原案件との対応関係が確認できないため、独立案件として管理することが適当と考えられます。


 コウシン太郎は、ゆっくりと目を閉じた。


 意見書は、独立案件として扱われていた。


 だが、独立案件として扱われた記録がない。


 記録がないため、原案件との関係が分からない。


 原案件との関係が分からないため、独立案件として扱う。


 彼は、思わず笑った。


 声は出なかった。


 笑うしかなかったのだ。


 制度が、制度の中で、自分の存在を証明できなくなっていた。


 そのとき、彼の机の電話が鳴った。


「コウシン太郎です」


『中央委員会広報調整室です』


「何でしょう」


『現在、独立案件管理簿に関する資料の公開について、各部局との調整が行われております』


「私のところにも照会が来るということですか」


『その可能性がございます。なお、資料の公開に際しては、個人情報、未確定情報、制度運用上の混乱を招く可能性のある記載について、事前確認が必要です』


「この意見書は、誰が書いたかも分からない」


『その場合も、個人情報に該当する可能性を確認する必要があります』


「差出人が分からないのに、どうやって確認するんですか」


『差出人が特定できないこと自体が、確認すべき事項となる場合がございます』


 コウシン太郎は、机の上の紙を見た。


「では、この意見書を公開するためには、差出人を特定しなければならないんですか」


『必ずしもそうではありません。ただし、公開によって個人の権利や制度運用に影響が生じる可能性について、慎重に検討する必要がございます』


「分かりました」


 彼は電話を切った。


 そして、公開用の資料に、その意見書を含めることにした。


 差出人が分からないこと。


 受付番号が分からないこと。


 原案件との対応関係が確認できないこと。


 そのすべてを、隠さず記載することにした。


 最後に、彼は一文を加えた。


 ――本意見書の提出者を特定できないことは、意見書が存在しなかったことを意味しない。


 書き終えた彼は、その文を何度も読み返した。


 それは、彼がかつて制度の理念として掲げたことだった。


 だが、今度は理念ではなかった。


 自分の責任を含む、記録だった。


四 消えたのではなく、数えられなくなった


 翌日、ブラウ太郎と名無しの七号は、中央記録管理局から届いた回答を受け取った。


 閲覧申請に対する正式な回答だった。


 ――独立案件管理簿の閲覧については、制度の透明性向上に資する可能性があることを認めます。


 ――一方、記録の一部には、旧制度に基づく分類が含まれているため、現行制度との整合性について確認する必要があります。


 ――また、独立案件の中には、原案件との対応関係が確認できないものが含まれるため、原案件番号による検索では全件を抽出できない場合があります。


 ――したがって、現時点での全面的な閲覧は困難です。


 七号は、回答書を机に置いた。


「全面的な閲覧は困難、ですか」


「そう書いてあるな」


「一部なら可能という意味でしょうか」


「そうかもしれない」


「では、閲覧できる範囲を聞きましょう」


「そうだな」


 ブラウ太郎は、回答書の末尾を指さした。


 そこには、問い合わせ先が記載されていた。


 ――独立案件に関するお問い合わせは、原案件を所管する部局へご連絡ください。


 七号は、思わず笑いそうになった。


「原案件が分からないから、独立案件を調べているんですよね」


「そうだ」


「そして、独立案件について問い合わせるには、原案件を知らなければならない」


「そうだ」


「では、私たちは、何を知っていれば調査を始められるんでしょう」


 ブラウ太郎は答えなかった。


 代わりに、七号が作成した一覧表を広げた。


 独立案件管理簿に記載された登録総数は八千七百十四件。


 そのうち、原案件番号が記載されているもの。


 原案件番号が空欄のもの。


 番号は記載されているが、旧制度の番号で現行データベースから検索できないもの。


 そして、原案件番号の欄に「該当なし」と記載されたもの。


 七号は、各項目を数えた。


「原案件番号が空欄のものが、千八百三十二件あります」


「該当なしは?」


「千四百六件です」


「旧制度の番号で検索できないものは?」


「二千百九十七件です」


 ブラウ太郎は、一覧表を見つめた。


「それぞれの数は、単純には足し合わせられないな。分類が重複している可能性がある」


「はい。そこで、重複を除いて集計したいのですが、原案件との対応関係がないものについては、重複を確認すること自体が難しいです」


「よく気づいた」


「褒められている場合ではない気がします」


「その感覚も、よく気づいた」


 七号は、集計表に小さく注記した。


 現時点の資料では、独立案件のうち、原案件との対応関係を確認できない件数を確定できない。


「つまり、八千七百十四件のうち、どれだけが本当に独立した案件なのかも分からないんですね」


「そうだ」


「別々の意見が、別々に登録されたのか。同じ意見が、移管のたびに別の案件として登録されたのか。それとも、元の意見が複数に分割されたのか」


「その可能性もある」


「反対に、複数の意見が一つの案件にまとめられた可能性も?」


「あるだろう」


 七号は、ペンを止めた。


「これでは、何件の意見があったのかさえ、正確には分からない」


「少なくとも、現行の記録からは、確定できない」


 ブラウ太郎は、言葉を慎重に選んだ。


「分からないことを、分からないと記録するのも、調査の成果だ」


「でも、分からないと記録するだけなら、局もずっとそうしてきたのではありませんか」


 ブラウ太郎は七号を見た。


「そうだな」


 その返事には、言い訳がなかった。


「だから、次は、何が分からないのかを確定しなければならない」


 彼は、一覧表の余白に、新しい項目を書き加えた。


 記録が欠けているのか。


 記録はあるが、参照先が分からないのか。


 参照先を確認する手続きが存在しないのか。


 手続きは存在するが、実行されていないのか。


 実行されたが、その履歴が残っていないのか。


「この五つを分けて調べよう」


 七号はうなずいた。


「一つの『不明』にまとめてしまうと、違う問題が、同じ問題として扱われてしまうんですね」


「そうだ。そして、同じ問題として扱われれば、同じ解決策で処理できることになる」


「実際には、違うのに」


「実際には、違う」


 ブラウ太郎は、机の端に積まれた資料を見た。


 彼らは、意見が消されたという証拠を探していた。


 だが、ここまでの記録から確実に言えることは、もっと限定的だった。


 多くの意見について、原案件との対応関係を確認できない。


 そのため、意見の移動や再分類の履歴を追えないものがある。


 さらに、独立案件の総数と、その中身を一貫した基準で照合することが難しい。


 これだけでも、制度の透明性には深刻な問題があった。


 しかし、それは、すべての意見が意図的に隠されたことの証明ではない。


 古い記録の欠損かもしれない。


 複数のシステムの移行による不整合かもしれない。


 過去の担当者が、善意で行った例外処理の積み重ねかもしれない。


 あるいは、そのいくつかが重なった結果かもしれない。


 ブラウ太郎は、その区別を失いたくなかった。


 制度の問題を明らかにするために、事実を誇張してはならない。


 それをすれば、彼ら自身が、批判している制度と同じことをする。


 都合のよい分類を先に決め、そこに現実を押し込めることになるからだ。


「ブラウ太郎さん」


 七号が言った。


「もし、意見が消えたのではなく、数えられなくなったのだとしたら、誰が責任を負うんでしょう」


 ブラウ太郎は、しばらく考えた。


「それを決めるには、まず、誰が何を知っていたのかを調べなければならない」


「制度を設計した人?」


「それだけではない」


「制度を運用した人?」


「それも必要だ」


「記録を移した人?」


「そうだ」


「記録の欠損に気づいた人?」


「その人が、何をできたのかも調べる必要がある」


 七号は、手帳に書き込んだ。


「では、責任も分類しなければならないんですね」


「分類は必要だ」


 ブラウ太郎は言った。


「だが、分類したことで、責任を追うことまで終わったと思ってはいけない」


 その言葉を聞いて、七号は少し考えた。


 それから、こう書き足した。


 分類は、理解のために使う。理解を終わらせるために使わない。


 ブラウ太郎は、何も言わなかった。


 ただ、その一文を、自分の手帳にも書き写した。


五 七%の恐怖


 その夜、ミツオケラ十三世は、一人で中央委員会の記録室にいた。


 彼の机には、統計制度改革の草案が置かれていた。


 独立案件の定期監査。


 分類変更の履歴保存。


 原案件番号と独立案件番号の対応表。


 保留案件の再確認期限。


 処理済みと回答済みの区別。


 そして、統計の集計基準と除外条件の公開。


 どれも、合理的な提案だった。


 少なくとも、提案書を読んだ限りでは。


 だが、彼には分かっていた。


 これらの改革が実行されれば、中央委員会がこれまで「人民の総意」と呼んできた数字の一部が、再計算される可能性がある。


 再計算された数字が、従来の数字と一致するとは限らない。


 そして、一致しなかった場合。


 これまでの政策決定は、何を根拠に行われていたのか。


 人民大会議の満場一致は、何を意味していたのか。


 九十三%の沈黙は、同意だったのか。


 それとも、意見が届かなかった結果だったのか。


 彼は、窓のない部屋で、窓の外を想像した。


 ミツオケラ党は、七%だった。


 この数字は、彼らの正統性を支える象徴だった。


 少数派だからこそ、責任がある。


 責任があるからこそ、指導する。


 指導しているからこそ、安定が保たれる。


 安定が保たれているからこそ、指導は正しい。


 その論理は、何年も、何十年も、党を支えてきた。


 だが、もし統計が再計算されれば。


 七%という数字そのものが、過去の分類基準に依存していたことが分かるかもしれない。


 分類基準が変われば、党の位置づけも変わる可能性がある。


 もちろん、分類の変更によって、実際の構成比がどれほど変わるかは分からない。


 数字が大きく変わる保証もない。


 むしろ、再計算しても、七%に近い結果が出るかもしれない。


 それでも、十三世は恐れていた。


 数字が変わることよりも、数字がどのように作られていたかを、誰もが検証できるようになることを。


 なぜなら、検証可能性は、権力の根拠を変えるからだ。


 これまでは、党が正しい数字を発表することが、正統性の一部だった。


 これからは、党が発表した数字を、人民が検証できることも、正統性の一部になる。


 それは、指導する側にとって、まったく違う世界だった。


 十三世は、草案の一行に目を留めた。


 ――過去の統計について、現在の基準による再計算を実施する。


 その一行を、彼は何度も読んだ。


 もし、再計算の結果、党の説明に重大な誤りがあったと分かったら。


 もし、誤りを認めれば、過去の政策の正当性が揺らぐとしたら。


 もし、誤りを認めなければ、改革そのものが信用されなくなるとしたら。


 どちらを選んでも、党は変わらなければならない。


 十三世は、草案の余白に書き込んだ。


 ――過去の統計の再計算は、現行政策への影響を考慮し、段階的に実施する。


 書き終えた瞬間、彼はペンを止めた。


 これは、慎重な判断だろうか。


 それとも、改革を遅らせるための、もっともらしい理由だろうか。


 彼には、すぐに判断できなかった。


 そのこと自体が、彼を不安にさせた。


 かつての彼なら、自分の判断を疑うことは、責任を放棄することだと考えていた。


 今は、逆の可能性が見え始めていた。


 自分の判断を疑わないことこそ、責任を放棄することなのかもしれない。


 彼は、草案の余白に書いた一文を、二重線で消した。


 そして、新たに書いた。


 ――再計算の実施時期と手順は、検証の独立性を損なわない方法で定める。政策への影響を理由として、検証対象を除外してはならない。


 彼は、ペンを置いた。


 そのとき、記録室の扉がノックされた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、議長菌だった。


「十三世。統計制度改革の草案について、ご相談がございます」


「何だ」


「改革の方向性は理解できます。ただ、過去の統計を再計算した場合、従来の公表値との不一致が生じる可能性があります」


「その可能性はある」


「その場合、人民にどのように説明するのか。過去の公表値を訂正するのか。それとも、当時の基準による数値として保存するのか。整理が必要です」


「両方だ」


 十三世は答えた。


「当時の基準による数値は、当時の記録として残す。現在の基準による再計算値は、再計算値として公開する。違いがあるなら、その理由を説明する」


「しかし、人民が混乱する可能性がございます」


「混乱するかもしれない」


 十三世は認めた。


「だが、混乱を避けるために、違いを隠すわけにはいかない」


 議長菌は、少し驚いたようだった。


「それでは、党への信頼が損なわれる可能性もございます」


「そうだろう」


「それでも、実施なさるのですか」


 十三世は、すぐには答えなかった。


 彼は、党への信頼を失いたくなかった。


 党が崩れれば、社会全体が不安定になるかもしれない。


 制度の変更によって、過去の政策を支えていた合意が揺らぐかもしれない。


 それは、彼が長年恐れてきたことだった。


 だが、もう一つの恐怖もあった。


 党が信頼されているのではなく、党の数字を疑うための記録が存在しないだけだったとしたら。


 彼らは、信頼を得ていたのではない。


 疑いを検証する手段を、独占していただけなのかもしれない。


「議長菌」


「はい」


「私たちが守るべきなのは、党への信頼なのか。それとも、信頼に値する制度なのか」


 議長菌は答えなかった。


「両方だと言いたいだろう」


 十三世は続けた。


「私も、そう思ってきた。だが、両方を守ろうとして、どちらも検証しないのであれば、それは両方を守っていることにはならない」


 彼は、改革草案を議長菌に渡した。


「この草案を、検討会に提出してくれ」


「承知いたしました」


 議長菌は書類を受け取った。


 そして、扉の前で立ち止まった。


「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「もし再計算の結果、党がこれまで説明してきたことと、重大な食い違いが見つかった場合。十三世は、その結果を認められますか」


 十三世は、議長菌を見た。


 それは、制度についての質問ではなかった。


 党についての質問でもなかった。


 彼自身についての質問だった。


 彼は、答えようとした。


 しかし、すぐには言葉が出なかった。


 その沈黙を、議長菌は急かさなかった。


 やがて十三世は言った。


「……認められる人間でありたいと思う」


 議長菌は、深く頭を下げた。


「それでは、会議録には、どのように記載いたしましょう」


 十三世は、苦笑した。


「そこまで私に聞くのか」


「発言の正確な記録は、重要ですので」


「そうだな」


 十三世は、しばらく考えた。


「こう書いてくれ。『検証結果を受け止める意思を示したが、具体的な判断については、結果を確認したうえで行うと述べた』」


「承知いたしました」


 議長菌は退室した。


 十三世は、一人になった。


 会議録の表現としては、妥当だった。


 彼は、嘘をついていない。


 しかし、まだ決意を示したわけでもなかった。


 正しい記録は、必ずしも勇気の証明にはならない。


 それでも、以前の彼なら、こうした記録の曖昧さを気にしなかったかもしれない。


 いまは、その曖昧さが、自分の内側にもあることを知っていた。


六 独立しているのは、意見か、責任か


 数日後、コウシン太郎は、独立案件管理簿に関する資料の一部を公開した。


 すべてではない。


 原資料との照合が済んでいないものもあり、個人の識別につながる可能性がある記載については、公開の妥当性を検討する必要があった。


 だから彼は、確認できた事実と、まだ確認できていないことを分けて公表した。


 公開資料には、次の内容が含まれていた。


 独立案件管理簿に、八千七百十四件の登録が記載されていること。


 そのうち、原案件との対応関係を現行の記録から確認できない案件が存在すること。


 旧制度の記録や、複数のシステム間の移行により、番号の対応関係を追跡できない場合があること。


 独立案件の登録総数と、実際に提出された意見の総数が、同じ意味の数字であるとは限らないこと。


 そして、現時点では、原案件との対応関係を確認できない案件の正確な総数を確定できないこと。


 公開文書の末尾には、コウシン太郎自身の説明が付されていた。


 ――私は、かつて独立案件制度の設計に関与した。当初の目的は、分類が困難な意見を安易に排除せず、再検討の可能性を残すことだった。しかし、再確認の期限と責任の所在を十分に明確化しなかったことが、制度の長期的な運用に影響した可能性がある。この点について、私自身の判断も検証対象とすべきである。


 その文章は、反対派の内部でも議論を呼んだ。


 人新会の幹部の一人は、コウシン太郎に言った。


「あなたは、わざわざ自分の弱みを公表したんですか」


「事実だからだ」


「中央委員会は、その部分だけを取り上げるでしょう。制度の欠陥より、あなたの責任のほうを強調するかもしれない」


「その可能性はある」


「それでも?」


「自分の責任を隠したまま、相手の責任だけを問うわけにはいかない」


 幹部は、納得できない顔をした。


「しかし、政治的には不利です」


「政治的に有利なことと、正しいことが一致するとは限らない」


「あなたは、政治を何だと思っているんですか」


 コウシン太郎は、少し考えた。


「自分たちに有利な事実だけを選ぶ技術だと思っていた時期もある」


「今は?」


「それだけでは、政治は続かないと考えている」


「続けるために、何が必要なんです」


「自分たちに不利な事実を、記録から排除しないことだ」


 幹部は、ため息をついた。


「そんなことをしていたら、負けますよ」


「何に?」


「党に」


 コウシン太郎は、窓の外を見た。


 人新会の事務所からは、中央委員会の建物が見えた。


「党に負けることと、事実に負けることを、同じだと思わないほうがいい」


 彼は静かに言った。


「党に勝つために事実を曲げたら、たとえ選挙で勝っても、私たちは党と同じ制度を作ることになる」


 幹部は何も言わなかった。


 コウシン太郎自身も、完全に確信していたわけではなかった。


 正直に説明すれば、支持を失うかもしれない。


 自分の過去を明らかにすれば、反対派の代表としての資格を問われるかもしれない。


 だが、自分が制度の一部だったという事実を認めなければ、独立案件管理簿に記された無数の意見と、同じことを繰り返すことになる。


 彼らの意見は、記録の中で独立していた。


 提出者から独立し、提出された理由から独立し、元の問題から独立していた。


 そして、責任を問うための文脈からも、独立していた。


 独立していたのは、意見だけではなかった。


 意見を受け取った側の責任もまた、切り離されていたのだ。


 コウシン太郎は、公開資料の最後に、もう一文を追加した。


 ――独立案件として管理されていることは、その意見が、誰からも独立して存在していたことを意味しない。


 送信ボタンを押した。


 その瞬間、彼は自分の過去を取り戻したわけではなかった。


 失われた意見を、すべて回収したわけでもなかった。


 ただ、少なくとも一つの事実について、もう曖昧な言葉の陰に隠れないことを選んだ。


 それだけだった。


 しかし、政治というものは、ときに、その「それだけ」からしか変わり始めない。


七 誰も書かなかった名前


 公開資料が出た翌朝、中央記録管理局の問い合わせ窓口には、予想を超える数の照会が寄せられた。


 多くは、独立案件管理簿の閲覧を求めるものだった。


 中には、自分が過去に提出した意見について、現在の管理番号を知りたいという照会もあった。


 また、過去に提出した意見の控えを持っている者から、原案件番号を照合してほしいという依頼も届いた。


 局は、すべての照会を受け付けた。


 受け付けたことは、受付記録に残された。


 だが、照会に対応するには、過去の記録を調べる必要があった。


 過去の記録を調べるには、記録の所在を確認する必要があった。


 所在を確認するには、旧制度の管理簿を調べる必要があった。


 旧制度の管理簿を調べるには、保存状況を確認する必要があった。


 そのため、局は、新たな照会を「過去記録照合案件」として登録することにした。


 登録された照会は、担当部局へ移管された。


 担当部局は、原案件番号を確認した。


 原案件番号が見つからないものについては、独立案件として管理することが適当であると判断した。


 独立案件として登録された照会には、新しい管理番号が付された。


 その管理番号は、元の照会番号とは異なっていた。


 照会者が自分の問い合わせの進捗を確認するには、新しい管理番号を知る必要があった。


 しかし、新しい管理番号を通知するためには、照会者の連絡先と管理番号の対応関係を確認する必要があった。


 対応関係を確認するための資料が不足している場合、局は追加の本人確認を求めた。


 追加の本人確認を求める通知は、元の照会番号を使って発送された。


 その結果、照会者は、元の照会番号で進捗を確認しようとした。


 だが、元の照会は、すでに独立案件として管理されていた。


 問い合わせ窓口は、丁寧に説明した。


 ――現在の管理番号を確認するためには、過去の照会との対応関係を確認する必要があります。


 ――過去の照会との対応関係については、現在、確認を進めております。


 ――確認の結果、対応関係が確認できない場合には、独立案件として管理される可能性があります。


 誰も、意見を消そうとはしていなかった。


 局は照会を受け付け、番号を付け、担当部局へ移管し、必要な確認を進めていた。


 それでも、意見を提出した者が、自分の意見の行方を知ることは、ますます難しくなっていた。


 ブラウ太郎は、この状況を知って、しばらく言葉を失った。


「調査を始めたことで、記録が増えた」


 七号が言った。


「そうだな」


「記録が増えたのに、元の記録との対応関係は、さらに複雑になっています」


「そうだな」


「では、調査は、問題を悪化させたんでしょうか」


 ブラウ太郎は首を振った。


「調査が問題を作ったとは限らない。調査によって、以前からあった問題が、新しい記録の形で見えるようになった可能性もある」


「では、どうすればいいんでしょう」


「新しい記録を作るだけでは足りない。元の記録との関係を残さなければならない」


「それを、誰が確認するんですか」


 ブラウ太郎は、少し笑った。


「そこが問題なんだ」


 七号は手帳を開いた。


 彼は、新たな項目を作った。


 意見の受付記録。


 分類の履歴。


 移管の履歴。


 回答の記録。


 提出者が、自分の意見の現在地を確認できる仕組み。


 そして最後に、こう書いた。


 一つの意見が、複数の番号を持つことはあり得る。だが、その番号をつなぐ記録まで失われてはならない。


 ブラウ太郎は、その文章を読んだ。


「いい記録だ」


「本当に、制度を変えられるでしょうか」


「分からない」


 ブラウ太郎は正直に答えた。


「だが、変えられると信じていることと、変えられる仕組みを作ることは違う。私たちがやるべきなのは、後者だ」


 そのとき、七号の端末に通知が届いた。


 中央記録管理局からだった。


 件名は、


 「過去記録照合に関する参考情報の提供について」


 本文には、簡潔な説明があった。


 ――独立案件管理簿の旧制度移行期において、一部の意見は、原案件番号ではなく、提出時の受付順に基づく仮番号で管理されていた可能性があります。


 ――当該仮番号の一覧については、別の保存区分に属する資料として管理されているため、通常の独立案件管理簿からは検索できません。


 ――なお、当該資料の保存状況については、現在確認中です。


 七号は、画面を二度読んだ。


「仮番号です」


「そうだな」


「つまり、原案件番号がない意見にも、別の番号が付いていた可能性がある」


「そうだ」


「その一覧は、別の保存区分にある」


「そうだ」


 七号は、息をのんだ。


「では、独立案件管理簿の八千七百十四件は、すべてではないかもしれません」


「その可能性はある」


「仮番号の一覧が見つかれば、失われた対応関係を取り戻せるかもしれない」


「その可能性もある」


 ブラウ太郎は、通知の最後を指さした。


 ――保存状況については、現在確認中です。


「まずは、これだな」


「保存状況の確認申請ですね」


「いや」


 ブラウ太郎は、首を振った。


「今回は、少し違う」


 彼は、通知に記載された資料の名称を読み上げた。


「『旧制度移行期・仮番号一覧』」


 その名称を聞いた七号の顔が変わった。


「その資料……」


「何だ」


「昨日、コウシン太郎さんが公開した資料の中に、同じ名称があったんです」


 七号は、急いで公開文書を開いた。


 該当するページを見つけると、そこには一行だけ記されていた。


 ――旧制度移行期・仮番号一覧については、制度設計時資料において作成の必要性が指摘されているが、実際の作成状況は確認できていない。


 ブラウ太郎は、二つの記録を見比べた。


 一方には、資料が別の保存区分に属すると書かれている。


 もう一方には、資料の作成状況すら確認できていないと書かれている。


 どちらかが、単純に間違っているのかもしれない。


 資料の名称だけが残り、実物は存在しないのかもしれない。


 あるいは、資料は作成されたが、制度設計時の記録と実際の運用記録がつながっていないのかもしれない。


 まだ、何も断定できなかった。


 しかし、一つだけ確かなことがあった。


 彼らが調べていた独立案件管理簿の外側に、さらに別の記録体系が存在する可能性が出てきたのだ。


 七号は、手帳を開いた。


 そして、ゆっくりと書いた。


 意見は、消えたのではないかもしれない。


 少し間を置いて、その下に続けた。


 ただし、存在していることと、見つけられることは違う。


 ブラウ太郎は、端末の画面を見つめたまま言った。


「七号」


「はい」


「今度は、仮番号の一覧を探そう」


「はい」


「それから、誰が作成を決め、誰が管理し、誰が保存場所を変更し、誰がその変更を記録したのかを調べる」


「分かりました」


 七号は、新しい調査記録を作成した。


 表題は、


 「旧制度移行期・仮番号一覧の所在および作成経緯に関する調査」


 だった。


 彼は、送信ボタンを押す前に、一度だけ画面を確認した。


 添付資料の欄に、二つの文書が並んでいた。


 一つは、中央記録管理局からの通知。


 もう一つは、コウシン太郎が公開した制度設計時資料。


 その二つは、同じ資料名を記していた。


 しかし、資料の存在については、互いに異なる状態を示していた。


 七号は、送信した。


 数秒後、受付完了の通知が届いた。


 そこには、新しい受付番号が記されていた。


 そして、その下に、小さな注意書きがあった。


 ――本照会は、既存の照会案件との対応関係が確認できない場合、独立案件として管理されることがあります。


 七号は、通知を保存した。


 ブラウ太郎は、何も言わなかった。


 二人は、もう一度、古い記録の丸印を見た。


 丸印は、何かを消した証拠ではなかった。


 何かを隠した証拠とも、まだ言えなかった。


 ただ、その丸印が付いた記録には、原案件とのつながりを確認できないものが多かった。


 そして、つながりを確認できない理由を調べようとすると、新しい照会が生まれ、その照会にもまた、番号が付けられていった。


 記録は、増えていた。


 番号も、増えていた。


 手続きも、増えていた。


 それなのに、意見の提出者が、自分の声の行方を知るための道筋は、まだ見つかっていなかった。


 七号は、最後に一行だけ書き加えた。


 この調査記録が独立案件として管理される場合には、必ず本記録との対応関係を保持すること。


 そして、その一行の横に、丸印を付けた。


 自分たちが調べている記録と、同じ印だった。


 それが、抗議になるのか。


 皮肉になるのか。


 それとも、未来の誰かが意味を読み取るための、小さな目印になるのか。


 まだ分からなかった。


 ただ、七号は初めて、丸印を見て、記録の消失だけを考えなかった。


 丸印は、記録がどこかで切り離されたことを示しているのかもしれない。


 そして、切り離された記録を、もう一度つなぎ直すための手がかりにもなるのかもしれない。


 その夜、中央委員会の統計サーバーでは、定例集計が実行された。


 集計対象は、現行制度に登録された意見。


 集計対象外は、原案件番号を確認できないもののうち、現行制度の集計条件を満たさないもの。


 除外理由は、規定どおりに記録された。


 計算は正常に終了した。


 集計結果に、異常はなかった。


 画面には、大きくこう表示された。


 「本日の集計処理は、すべて正常に完了しました」


 その下に、小さな文字が続いていた。


 ――集計対象外の意見については、本集計の結果に含まれていません。


 さらに、その下には、もっと小さな文字で、こう書かれていた。


 ――集計対象外の意見のうち、原案件との対応関係が確認できないものについては、対象外件数の確定に必要な資料が不足しています。


 誰も、その表示を読まなかった。


 いや、正確には。


 表示は、正常に出力されていた。


 記録にも、残されていた。


 ただし、それを読むための定期報告書には、掲載されていなかった。


 掲載されていない理由は、報告書の作成基準に、集計結果と直接関係しない補足事項は原則として記載しない、と定められていたからだった。


 そして、その作成基準は、これまで一度も改訂されていなかった。


 記録は、そこにあった。


 ただし、誰もそれを読む必要があるとは判断していなかった。


 その判断をした者の名前は、記録されていなかった。


 なぜなら、それは、誰か一人の判断ではなかったからである。

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