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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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第四話 食物繊維という外圧


 人民大会議の翌朝、ミツオケラ人民共和国中央委員会は、いつもより早く招集された。


 理由は、国家機密に関わる重大な変化が確認されたからである。


 議場正面の巨大なスクリーンには、赤い文字でこう表示されていた。


 「外部環境に、予測不能な変動あり」


 その下には、さらに小さな文字が続いていた。


 「ただし、国家の基本方針に変更はない」


 ミツオケラ十三世は、壇上に立つと、ゆっくりと会場を見渡した。


「諸君。落ち着いていただきたい」


 誰も騒いでいなかった。


 それでも十三世は、落ち着くように求めた。


 この国では、何かが起きたとき、まず国民に落ち着いてもらうことが重要だった。落ち着いてもらっている間に、政府は事態の名称を決めることができるからである。


「昨夜、松木ひろ子同志の食生活に変化が生じた」


 会場がざわめいた。


 松木ひろ子。


 この人民共和国が存在する場所であり、同時に、この人民共和国の住民たちが自分たちの都合で自由に動かすことのできない、巨大な環境そのものでもある。


 ひろ子の食事は、中央委員会の管轄外だった。


 それが問題だった。


「具体的には、食物繊維の摂取量が増加した可能性がある」


 議場のあちこちから、ため息が漏れた。


 食物繊維。


 その言葉には、彼らの政治制度にとって、いささか不都合な響きがあった。


 これまで中央委員会は、人民の活動を指導し、資源の配分を管理し、各組織の役割を調整することで、国家の安定を実現してきた。


 しかし、食物繊維は、中央委員会の指導を受けずにやって来る。


 許可証を提出しない。


 党員名簿に登録されない。


 中央委員会の意向を確認するために、事前協議を申し込むこともない。


 それどころか、どこから来て、どのように作用し、どの集団にどの程度の影響を与えるのか、中央委員会自身にも完全には予測できない。


 国家にとって、これほど扱いにくい存在はなかった。


「同志十三世」


 発言を求めたのは、バク長老だった。


「確認したい。食物繊維の増加は、我々の政策によるものなのか」


「現時点では、そう断定することはできない」


「では、我々の政策によるものではない可能性もあるのだな」


「可能性という言葉を、軽々しく使うべきではない」


「だが、可能性があることは否定できないのだろう」


 十三世は、少しだけ眉を寄せた。


「バク長老。重要なのは、何が起きたかという事実だけではない。何が起きたと人民に理解されるか、ということでもある」


「つまり、事実より説明が先だと?」


「説明によって、事実の社会的な意味が明らかになるということだ」


 バク長老は黙った。


 長い経験を持つ彼には、その説明が、過去に何度も聞いたものとよく似ていることが分かっていた。


 政策が成功したときは、政府の指導力が証明された。


 政策が失敗したときは、現場の理解が不足していた。


 予想外のことが起きたときは、新しい段階に入ったことが確認された。


 そして、何が起きたのかさえ分からないときは、歴史的な転換点に立っていると発表された。


 どの場合にも、中央委員会の権威は揺らがなかった。


 揺らがないように説明されていたからである。


     *


 同じころ、松木ひろ子は、自宅の食卓で小さな決意を固めていた。


「やっぱり、もう少し食物繊維を取ったほうがいいかな」


 テーブルの上には、オートミール、ヨーグルト、バナナ、野菜の入ったスープが並んでいた。


 ひろ子は、最近読んだ健康記事を思い出しながら、オートミールをひと口食べた。


「うん。意外といける」


 それだけだった。


 国家転覆を企てたわけではない。


 中央委員会への抗議声明を発表したわけでもない。


 ましてや、七%の独裁を終わらせようなどと考えたわけでもない。


 ひろ子は、ただ朝食を少し変えただけだった。


 しかし、人民共和国の歴史において、しばしば大きな変化は、誰も歴史的事件だと思っていないところから始まる。


 ある者がパンを食べるのをやめる。


 ある者が豆を食べ始める。


 ある者が野菜を一品増やす。


 そうした小さな選択が、複雑な環境の中で、思いもよらない影響を生み出すことがある。


 もちろん、その影響を事前に正確に予測することは難しい。


 それでも、ひろ子の食卓で起きた変化は、彼女の体内に広がる微生物たちの世界にとって、無視できない環境の変化になり得た。


 人民共和国の住民たちは、そのことをまだ知らなかった。


 彼らは、国家の未来を決めるのは人民大会議であり、中央委員会であり、歴史的使命であると教えられていた。


 自分たちの外側にある食卓が、政治の条件そのものを変え得るなどとは、考えたこともなかったのである。


     *


 その日の午後、中央委員会は臨時記者会見を開いた。


 壇上に並んだのは、ミツオケラ十三世、議長菌、そして広報担当のミツオケラ書記だった。


 記者席には、各地域の機関紙から集まった報道菌が座っていた。


 最前列には、中央委員会の方針に好意的な質問をすることで知られる『人民の安定』紙の記者がいた。


「今回の食生活の変化について、中央委員会はどのように評価していますか」


 ミツオケラ書記は、用意していた原稿を読み上げた。


「今回の変化は、長年にわたる中央委員会の健康的環境整備政策が、人民の日常生活において理解されつつあることを示す、注目すべき現象です」


 記者たちは、一斉にメモを取った。


 その発表には、いくつかの問題があった。


 第一に、中央委員会は、ひろ子の食生活に関与していない。


 第二に、ひろ子が何を考えて食事を変えたのか、中央委員会は知らない。


 第三に、食物繊維の増加が、この人民共和国にどのような影響を与えるのかも、まだ分からない。


 しかし、記者会見の発表文には、こう書かれていた。


 「計画的環境整備の成果、生活領域において具体化」


 『人民の安定』紙の記者が、満足そうにうなずいた。


「つまり、中央委員会の政策が、外部環境にも影響を及ぼしたという理解でよろしいでしょうか」


「そのような理解は、建設的なものと考えます」


 書記は答えた。


 別の記者が手を挙げた。


 ブラウ太郎だった。


「ひとつ質問があります」


 議長菌が、わずかに身を乗り出した。


「質問の趣旨を簡潔に述べてください」


「ひろ子同志が食物繊維を増やしたのは、中央委員会の政策を知っていたからですか」


「質問の趣旨が不明確です」


「では、言い換えます。中央委員会は、ひろ子同志の食生活を指導したのですか」


「現在、確認中です」


「指導したという事実は確認されていない、ということですか」


「そのような否定的な表現は適切ではありません」


「では、肯定的な表現を教えてください」


 会見場が静かになった。


 ミツオケラ十三世は、書記に目配せをした。


 書記は原稿をめくった。


「今回の変化は、我々の政策と矛盾するものではありません」


「それは、政策が原因だったという意味ですか」


「そういうことを申し上げているのではありません」


「では、原因ではないという意味ですか」


「ブラウ太郎同志。因果関係を単純化することは、複雑な現実を理解するうえで、必ずしも有益ではありません」


 ブラウ太郎は、うなずいた。


「それには賛成です。だからこそ、原因が分からない段階で、中央委員会の成果だと断定するのも、単純化ではないでしょうか」


 議長菌が、木槌を打った。


「質問は以上です。記者会見は、建設的な相互理解を確認したうえで終了します」


 まだ誰も終了に同意していなかった。


 しかし、終了した。


 この国では、会議が終わるかどうかは、参加者の意見が尽きたかどうかによって決まるのではない。


 終了を宣言する権限を持つ者が、終了を宣言したかどうかによって決まるのだった。


     *


 数日後、人民共和国の各地域から、さまざまな報告が届き始めた。


 ある地域では、これまで目立たなかった集団が、資源の利用について新しい提案を出した。


 別の地域では、従来の配分方式に対する不満が表面化した。


 また別の地域では、環境の変化を受けて、これまでとは異なる集団同士の協力が見られるようになった。


 いずれも、食物繊維の増加だけで説明できる現象ではなかった。


 微生物たちの社会は、もともと多くの要因に左右される複雑な世界だったからである。


 しかし、中央委員会にとって重要だったのは、別の点だった。


 以前と同じ指示を出しているのに、以前と同じ結果が返ってこない。


 それは、権力にとって不愉快な現象だった。


 中央委員会は、これまで、命令と結果の間にある複雑な過程を、できるだけ見えなくしてきた。


 命令が出されれば、結果は出る。


 結果が出なければ、実行が不十分だった。


 実行が十分だったのに結果が出なければ、評価方法に問題があった。


 評価方法に問題がなければ、成果の定義を見直せばよかった。


 ところが、今回の変化は、そうした手続きの枠内に収まらなかった。


 中央委員会の命令とは関係のないところで、環境そのものが変わり始めていたからである。


 そして環境が変われば、同じ命令でも、その意味や効果は変わり得る。


 同じ資源を配っても、以前と同じように利用されるとは限らない。


 同じ集団を優遇しても、以前と同じ影響力を保てるとは限らない。


 同じ規則を掲げても、以前と同じ社会が維持されるとは限らない。


 中央委員会が最も恐れていたのは、反乱ではなかった。


 反乱なら、反乱と名付けることができる。


 反対派なら、反対派と分類することができる。


 批判なら、建設的批判と非建設的批判に分けることができる。


 しかし、環境の変化は、必ずしも誰かの意志によって起きるわけではない。


 敵がいないのに、権力の条件だけが変わってしまう。


 それが厄介だった。


     *


 中央委員会の小会議室で、ミツオケラ十三世は報告書を読んでいた。


「この数字は、どういう意味だ」


 彼が指差したのは、各集団の活動状況をまとめた表だった。


 以前は、ミツオケラ党の影響力が強い地域では、資源の配分も情報の流れも、比較的予測しやすかった。


 しかし、最近の報告では、複数の集団がそれぞれの条件に応じて活動し、結果として、中央委員会が想定していなかった関係が生まれている。


「一部の地域で、従来の統制モデルとの不一致が見られます」


 ミツオケラ書記が答えた。


「統制モデルの問題か。それとも現場の問題か」


「現在、分析を進めています」


「分析の結論は」


「分析のための追加資料を収集しています」


「追加資料の収集は、いつ終わる」


「分析の進捗状況を踏まえて判断します」


 十三世は、報告書を閉じた。


「つまり、まだ分からないのだな」


「正確には、現時点で確定的な結論を示すことは、科学的慎重さの観点から適切ではないと考えます」


「それなら、なぜ先日の記者会見では、計画的環境整備の成果だと発表したのだ」


 書記は、少しも慌てなかった。


「それは、政治的な説明と科学的な分析を区別したものです」


 十三世は、書記を見つめた。


「便利な区別だな」


「ありがとうございます」


「褒めてはいない」


「承知しております。批判的なご指摘として、前向きに受け止めます」


 十三世は、深く息を吐いた。


 彼は、自分が単純な嘘をついているとは思っていなかった。


 国家には、安定が必要だった。


 住民たちは、複雑な現実をすべて理解できるわけではない。


 指導者には、まだ確定していない事態についても、一定の説明を与える責任がある。


 その説明がなければ、不安が広がるかもしれない。


 不安が広がれば、協力が失われるかもしれない。


 協力が失われれば、社会が混乱するかもしれない。


 だから、彼は説明する。


 説明できない部分についても、説明する。


 それがいつしか、説明できないことを認めない政治へと変わっていた。


 十三世は、その境界線がどこにあるのか、最近、少し分からなくなっていた。


     *


 その夜、ブラウ太郎は、議場の外にある古い記録室を訪ねた。


 記録室には、過去の人民大会議の議事録や、政策評価報告書が保管されていた。


 普段は、誰も来ない。


 記録は保存されているが、読む者が少ない。


 読む者が少なければ、記録は権力にとって安全な存在でいられる。


 ブラウ太郎は、書棚の奥から、数年前の資源配分に関する報告書を取り出した。


 そこには、当時の中央委員会が掲げた目標が並んでいた。


 効率化。


 安定化。


 合理化。


 統一的管理。


 そして、その成果を示す数字。


 数字は整然としていた。


 しかし、報告書の末尾には、短い補足が添えられていた。


 「一部地域において、想定外の変動が発生している。引き続き注視する」


 ブラウ太郎は、別の年の報告書を開いた。


 同じ文章があった。


 さらに古い報告書にも、ほとんど同じ文章があった。


 「一部地域において、想定外の変動が発生している。引き続き注視する」


 変動は、毎年起きていた。


 ただし、毎年、別の名前で呼ばれていた。


 ある年は「局地的な揺らぎ」。


 別の年は「過渡的な不均衡」。


 さらに別の年は「発展過程における一時的な偏差」。


 呼び方は変わっていたが、問題の扱い方は変わっていなかった。


 変化は記録される。


 記録されることで、管理されたことになる。


 管理されたことになると、解決されたかのように扱われる。


 ブラウ太郎は、報告書を閉じた。


「変化を記録することと、変化を理解することは、同じではないんだな」


 背後から声がした。


「そうですね」


 名無しの七号だった。


「いつからいたんですか」


「ブラウ太郎同志が、三冊目の報告書を開いたあたりからです」


「声をかけてくれればよかったのに」


「記録室では、記録を読む人の集中を妨げないことが推奨されています」


「誰が推奨しているんです?」


「記録室の利用規則です」


「その規則を作ったのは?」


「記録室の利用規則制定委員会です」


「委員会の議事録は?」


「記録室に保管されています」


 二人は顔を見合わせた。


「……見事な制度ですね」


 ブラウ太郎が言った。


「はい。誰も責任を取らなくても、規則だけは確実に存在し続けます」


 七号は、小さなノートを取り出した。


 彼は、公式の記録には残らないことを、そこに書き留めていた。


「今回の食物繊維の件も、同じようになるのでしょうか」


「どういう意味です?」


「環境が変わった。でも、その変化が何を意味するのかは、まだ誰にも分からない。なのに、政府はすでに、変化を自分たちの成果として説明しています」


「ええ」


「このままでは、環境の変化そのものよりも、政府がそれをどう説明したかという記録のほうが、重要になってしまうのではないでしょうか」


 ブラウ太郎は、しばらく答えなかった。


 やがて、静かに言った。


「その可能性はありますね」


「では、私たちは何を記録すればいいのでしょう」


「政府の発表も記録する。実際に起きた変化も記録する。分からないことは、分からないと記録する」


「それだけですか」


「それだけです。ただし、三つ目がいちばん難しい」


 七号は、ノートを見下ろした。


 そこには、すでに何十もの疑問が書かれていた。


 答えの出ていない疑問。


 公式発表と一致しない疑問。


 質問すること自体が、会議の進行を妨げるとされかねない疑問。


 それでも、彼は書き続けていた。


「分からないと記録することが、そんなに難しいのでしょうか」


 ブラウ太郎は、書棚に並ぶ膨大な議事録を見た。


「分からないと認めるだけなら、難しくありません。でも、分からないままでも、権力を維持できるようにするのは難しいんです」


     *


 翌週、中央委員会は「環境変化対応特別委員会」の設置を発表した。


 委員会の目的は、食物繊維の増加を含む外部環境の変動を分析し、人民共和国の安定的発展を保障することであった。


 委員長には、ミツオケラ党の古参幹部が任命された。


 副委員長には、中央委員会の政策に詳しい専門家が任命された。


 書記には、各地域から提出された報告書を整理する能力に優れた人物が選ばれた。


 人選は、申し分なかった。


 ただし、委員会の構成員には、外部環境を直接変更できる者は一人もいなかった。


 当然である。


 外部環境とは、中央委員会の命令によって動くものではない。


 それでも、特別委員会は発足した。


 発足式では、委員長が力強く宣言した。


「我々は、あらゆる環境変化を的確に把握し、必要な対応を講じる。いかなる変動も、人民共和国の安定的発展を妨げることはできない」


 記者が質問した。


「もし、変動が予測できなかった場合は、どう対応するのでしょうか」


「予測能力を向上させます」


「予測できたものの、対応できなかった場合は?」


「対応能力を向上させます」


「対応したものの、結果が想定と異なった場合は?」


「評価能力を向上させます」


「評価能力を向上させても、原因が分からない場合は?」


 委員長は、胸を張った。


「原因分析能力を向上させます」


 記者は、メモを取った。


 それ以上の質問はしなかった。


 特別委員会は、四つの能力向上を確認した。


 そして、第一回会合の日程を調整するための準備会合を開催することを決定した。


 準備会合の議題は、第一回会合で検討すべき議題の整理だった。


 議題の整理に際しては、各委員の意見を尊重することが確認された。


 ただし、議題の整理に関する意見は、事前に書面で提出することが求められた。


 書面の提出期限は、準備会合の開催日の三日前だった。


 準備会合の日程は、まだ決まっていなかった。


 したがって、提出期限も決められなかった。


 提出期限が決まらないため、委員たちは意見を提出できなかった。


 意見が提出されないため、議題を整理することができなかった。


 議題を整理できないため、準備会合の日程を決めることができなかった。


 それでも、特別委員会の設置そのものは、すでに大きな成果として発表されていた。


     *


 そのころ、松木ひろ子は、昼食に豆と野菜のスープを加えていた。


「昨日より、ちょっと健康的かな」


 彼女は満足そうに笑った。


 人民共和国の住民たちは、そのことを知らなかった。


 彼らは、特別委員会の設置を知らされていた。


 委員会の目的を知らされていた。


 委員長の決意を知らされていた。


 そして、環境変化に対する政府の対応能力が向上していることを知らされていた。


 だが、最も重要なことは、まだ誰にも説明されていなかった。


 この人民共和国の環境は、人民共和国の外側にある。


 国家は、環境の中に存在する。


 国家は、環境に影響を受ける。


 しかし、国家は、環境そのものではない。


 ミツオケラ党がどれほど長く政権を維持しても、どれほど多くの議事録を作成しても、どれほど緻密な分類制度を設計しても、その事実は変わらなかった。


 中央委員会は、人民を分類できる。


 意見を分類できる。


 反対派を分類できる。


 予算を分類できる。


 過去の失敗を、将来の課題として分類することもできる。


 しかし、食卓の上に置かれた一杯のスープを、政治的に分類したからといって、そのスープが中央委員会の指導に従うわけではない。


 環境は、政府の説明を待ってくれない。


 変化は、議事録への記載を必要としない。


 そして、現実は、全会一致で可決された政策に、必ずしも同意するとは限らない。


     *


 数日後、ミツオケラ十三世は、報告を受けるために執務室へ呼び出された。


 報告者は、ミツオケラ書記だった。


「同志十三世。環境変化対応特別委員会の準備状況について、ご報告いたします」


「聞こう」


「特別委員会の設置により、環境変化への対応体制が整備されました」


「具体的には?」


「対応体制が整備されたことを確認するため、今後、具体的な活動状況を継続的に把握する予定です」


「活動は始まっていないのか」


「活動開始に向けた準備を進めております」


「準備は、いつ終わる」


「準備状況を踏まえ、適切な時期に判断いたします」


 十三世は、窓のない執務室で、しばらく黙っていた。


「書記」


「はい」


「もし、環境が我々の予想どおりに変化しなかったら、どうなる」


「予測モデルを見直します」


「もし、我々の政策が、環境の変化に追いつかなかったら」


「政策の実施方法を改善します」


「もし、政策を改善しても、我々の影響力が弱まったら」


 書記は、初めて答えに詰まった。


 十三世は続けた。


「もし、我々が、人民のために必要だと信じてきた制度そのものが、環境の変化に適応できなくなったら、どうする」


 書記は、慎重に言葉を選んだ。


「その場合も、人民共和国の安定を最優先に考えるべきかと存じます」


「その安定を守る制度が、安定を損なう原因になっていたとしたら?」


 書記は答えなかった。


 十三世は、机の上の報告書に目を落とした。


 彼は、七%という数字を信じていた。


 七%だからこそ、責任を持たなければならない。


 責任を持つからこそ、指導しなければならない。


 指導するからこそ、権力を維持しなければならない。


 権力を維持するからこそ、七%の歴史的使命は続く。


 その論理は、彼の中で長いあいだ、揺るぎないものだった。


 しかし今、彼は初めて、別の問いを考えていた。


 七%の使命が続いているのは、七%が本当に必要だからなのか。


 それとも、七%が必要だと説明し続ける制度が存在しているからなのか。


 彼は、その問いを報告書に書かなかった。


 書けば、誰かが読むかもしれない。


 誰かが読めば、会議の議題になるかもしれない。


 議題になれば、説明を求められるかもしれない。


 説明できなければ、制度の正当性が問われるかもしれない。


 彼は報告書を閉じた。


「書記。今回の件は、慎重に進めよう」


「承知しました」


「性急な結論を出すべきではない」


「そのとおりです」


「環境の変化を、我々の成果だと安易に断定するのも避けよう」


 書記は、わずかに驚いた表情を見せた。


「では、公式発表の表現も修正いたしますか」


 十三世は、長い沈黙のあとで答えた。


「いや。現時点では、変更の必要はない」


「承知しました」


 書記は退出した。


 十三世は一人になった。


 彼は、慎重に進めると言った。


 しかし、何を慎重に進めるのか、自分でもはっきりとは分かっていなかった。


 真実を明らかにすることなのか。


 国家の安定を守ることなのか。


 それとも、真実を明らかにしても国家の安定が損なわれないような仕組みを、いつか作ることなのか。


 その違いは、以前よりも大きく見えた。


     *


 夜。


 名無しの七号は、ノートに新しい一文を書き加えた。


 「国家が環境を管理できないことと、国家が環境を管理できると信じていることの間には、大きな隔たりがある」


 少し考えてから、その下にもう一文を書いた。


 「しかし、国家が環境を管理できないと認めたとき、何が起きるのかは、まだ分からない」


 七号は、ノートを閉じた。


 人民共和国の住民たちは、まだ食物繊維の意味を知らない。


 中央委員会は、特別委員会を設置した。


 人民刷新協議会は、政府との対話を続けている。


 人民大会議は、次回も予定どおり開催されるだろう。


 議題は事前に整理され、発言時間は公平に配分され、採決は規則に従って行われる。


 そして、全会一致の決議が採択されるかもしれない。


 だが、その間にも、人民共和国を取り巻く環境は変化し続ける。


 誰かの許可を得ることなく。


 誰かの説明を待つことなく。


 誰かの歴史的使命に配慮することなく。


 松木ひろ子は、翌朝もオートミールを食べるかもしれない。


 あるいは、気が変わってパンを食べるかもしれない。


 どちらにしても、それは彼女の食事である。


 中央委員会の政策ではない。


 しかし、中央委員会の未来に影響しないとも限らない。


 人民共和国の政治を変えるものは、必ずしも政治家ではない。


 革命を起こす意志を持った者である必要もない。


 時には、ただの朝食が、長いあいだ動かなかった権力の足元に、小さな変化をもたらすこともある。


 もちろん、その朝食が革命を起こすと決まったわけではない。


 そこまで断言するのは、中央委員会と同じ過ちである。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 七%の独裁は、七%だけで成り立っているわけではない。


 その権力を支える環境があり、資源の流れがあり、沈黙する九十三%があり、そして、そのすべてを取り巻く、誰にも完全には支配できない現実がある。


 その現実が変わり始めたとき、独裁は初めて、自分が何の上に立っていたのかを問われることになる。


 中央委員会は、まだその問いを公式議題にしていなかった。


 しかし、環境のほうは、すでに変化を始めていた。


 議題の提出期限を待つことなく。

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