第五話 数字は嘘をつかない。ただし、数字を選ぶ者はいる
ミツオケラ人民共和国中央委員会は、統計改革の実施を発表した。
発表は、朝の人民放送を通じて、全国の微生物たちに伝えられた。
放送の冒頭では、荘重な音楽が流れた。
続いて、ミツオケラ党の旗が画面に映し出された。
そして、画面いっぱいに、白い文字が浮かび上がった。
「数字は、客観的な現実を映し出す鏡である」
その下には、もう一行あった。
「正確な統計なくして、正しい政治なし」
最後に、少し小さな文字で、こう付け加えられていた。
「統計の解釈にあたっては、中央委員会の指導的見解を尊重すること」
人民共和国の住民たちは、朝食を取りながら放送を見ていた。
ある者は感心し、ある者はうなずき、ある者は音量を下げた。
しかし、誰もが理解したことがあった。
今回の改革は、数字を使って政治を説明するためのものらしい。
そして、数字を使って政治を説明する以上、数字が以前より重要になるらしい。
ただし、数字が政治に何を言わせるのかについては、まだ誰も説明していなかった。
*
中央委員会の統計改革担当責任者、ミツオケラ書記は、新しい制度の概要を説明した。
「同志諸君。これまで、人民共和国では各地域の報告方法にばらつきがあり、統計の比較可能性に課題がありました」
会議室のスクリーンに、古い統計表が映し出された。
地域ごとに書式が異なり、集計期間も違い、分類項目にも統一性がなかった。
「この問題を解決するため、中央委員会は統計の標準化を進めます。今後は、各地域の報告を統一された基準で集計し、全国的な傾向を正確に把握します」
拍手が起きた。
ブラウ太郎も、拍手をした。
統計の標準化そのものに反対する理由はなかった。
同じものを比較するなら、同じ基準で測る必要がある。
数字がなければ、資源の偏りを発見することも難しい。
声の大きい者の意見だけで政治が決まることを防ぐためにも、統計には重要な役割がある。
問題は、その先だった。
「なお、集計対象、分類基準、集計期間、および公表項目については、中央委員会が一元的に管理します」
ブラウ太郎の拍手が止まった。
彼は隣に座るビフ太郎に、小声で尋ねた。
「今のところ、聞き逃しましたか?」
「何をです?」
「誰が数字を決めるのか、という話です」
「中央委員会が管理すると言っていましたよ」
「そうですね。では、誰が中央委員会を評価するんでしょう」
ビフ太郎は、しばらく考えた。
「……統計改革評価委員会でしょうか」
「その委員会は、誰が設置するんです?」
「中央委員会では?」
「では、その委員会の評価結果を、誰が評価するんでしょう」
ビフ太郎は、手元の資料を見つめた。
「ブラウ太郎同志。朝から、あまり複雑な話をしないでください」
「すみません」
「私は、今日の会議が無事に終わるかどうかだけで、もう十分に複雑なんです」
ブラウ太郎は笑った。
しかし、笑いながらも、スクリーンの一文が気になっていた。
「集計対象、分類基準、集計期間、公表項目は、中央委員会が一元的に管理する」
数字そのものが嘘をつかなくても、数字になる前の現実は、誰かが選んでいる。
彼は、そのことを、まだうまく説明できずにいた。
*
統計改革の第一弾として発表されたのは、「人民生活安定度指数」だった。
この指数は、人民共和国の住民たちが、どの程度安定した生活を送っているかを数値で示すものだという。
発表資料によれば、指数は百点満点で算出される。
資源の供給状況。
環境の安定性。
集団間の協力。
意見表明の機会。
制度への信頼。
それぞれの項目が点数化され、一定の計算式によって総合指数が導き出される。
初年度の結果は、次のとおりだった。
人民生活安定度指数、八十七・六点。
前年より三・二ポイント上昇。
中央委員会は、この結果を「統治能力の着実な向上を示す客観的証拠」と評価した。
人民放送は、専門家の解説を繰り返し流した。
「八十七・六という数字は、人民共和国が安定的な発展を遂げていることを示しています」
「前年比三・二ポイントの上昇は、政策の継続性が有効に機能していることの表れです」
「数字は嘘をつきません。今回の統計は、政治的な印象論を超え、客観的な評価を可能にしました」
ブラウ太郎は、報告書を三度読み返した。
数字そのものには、計算上の誤りは見当たらなかった。
足し算も正しい。
掛け算も正しい。
小数点の位置も正しい。
しかし、何かが気になった。
彼は、報告書の末尾にある付属資料を開いた。
そこには、指数の算出方法が記載されていた。
資源供給状況、二十五点。
環境安定性、二十五点。
集団間協力、二十点。
意見表明の機会、十五点。
制度への信頼、十五点。
合計百点。
配点も、きれいに百点になっている。
ところが、その下に、小さな注記があった。
「各項目の評価に際しては、確認可能な資料を用いる。ただし、制度の安定性に重大な影響を与える可能性がある未確定情報については、評価対象から除外する場合がある」
ブラウ太郎は、その一文を読み直した。
「未確定情報は、評価対象から除外する場合がある……」
彼は、先日の食物繊維の問題を思い出した。
環境の変化は起きていた。
その影響は、まだ十分に分かっていなかった。
各地域からは、従来の予測に当てはまらない報告が届いていた。
それらは、確認可能な資料なのか。
未確定情報なのか。
制度の安定性に重大な影響を与える情報なのか。
その分類を決めるのは、誰なのか。
ブラウ太郎は、報告書を閉じた。
数字は正しいのかもしれない。
しかし、その数字が何を数えた結果なのかは、別の問題だった。
*
翌日、人民大会議の統計改革審議会が開催された。
議長菌は、冒頭でこう宣言した。
「本審議会は、統計改革の透明性を高め、人民の理解を深めることを目的とする」
議場には、中央委員会の代表、各地域の代表、人民刷新協議会の代表、そして少数の専門家が集まっていた。
コウシン太郎も、人新会の代表として出席していた。
彼は、以前、中央委員会の政策部門に所属していた。
数字の作られ方について、よく知っていた。
そして、数字が政治の中でどのように使われるかについても、よく知っていた。
審議の最初に、中央委員会の統計担当者が説明した。
「人民生活安定度指数は、客観的な指標に基づいて算出されています。評価項目は明確であり、配点も公開されています。したがって、恣意的な操作が入り込む余地は限定的です」
ブラウ太郎が手を挙げた。
「質問があります」
「どうぞ」
「評価項目は、誰が決めたのですか」
「統計改革専門委員会です」
「専門委員会の構成員は、誰が選んだのですか」
「中央委員会が、専門性と経験を考慮して任命しました」
「評価項目を決める際、一般の住民から意見を集めましたか」
「各地域から提出された意見を参考にしました」
「提出された意見のうち、何件が採用されたのですか」
担当者は資料を確認した。
「意見は合計四万二千六百十八件です」
「そのうち、採用されたものは?」
「採用された意見の定義によります」
「では、採用されなかったものは?」
「採用されなかった意見です」
議場の一部で、笑いが起きた。
担当者は、不快そうな表情を浮かべた。
「ブラウ太郎同志。統計制度の技術的な問題について、言葉遊びをするのは適切ではありません」
「言葉遊びをしているつもりはありません。四万件以上の意見を集めたのなら、その意見が制度にどう反映されたのかを知りたいだけです」
「意見のすべてを採用することは、現実的ではありません」
「もちろんです。すべて採用する必要はありません。ただ、採用しなかった理由が分かるようになっているのでしょうか」
「個々の意見について、すべて個別の説明を行うことは困難です」
「では、どのような意見が採用され、どのような意見が採用されなかったのか、全体的な傾向は公表されていますか」
担当者は、資料をめくった。
「意見は、政策改善、制度理解、安定性への懸念、その他の四分類に整理されています」
「その他には、何が含まれるのですか」
「既存の分類に該当しない意見です」
「その分類に該当しない意見を、誰が分類したのですか」
「専門委員会です」
「では、専門委員会の分類が正しいかどうかを、誰が確認したのですか」
担当者は、少しだけ口を開き、それから閉じた。
議長菌が、木槌を打った。
「質問は、審議の目的に沿って簡潔にお願いします」
ブラウ太郎は、議長菌を見た。
「議長。私の質問は、統計の透明性についてです」
「その点は理解しています」
「では、透明性を確認するために、分類方法について質問することは、審議の目的に沿っているのではありませんか」
議長菌は、議事進行表を見た。
「分類方法に関する詳細な議論については、別途、専門部会で扱うことが適切と考えます」
「専門部会は、どのように構成されるのですか」
「中央委員会が、専門性と経験を考慮して選任します」
ブラウ太郎は、椅子に座り直した。
同じ答えが、別の場所から返ってきた。
質問の内容は変わっても、答えは同じ場所へ戻っていく。
この国の政治は、ときどき円を描いていた。
しかも、その円は、堂々と「透明性の向上」と名付けられていた。
*
審議の途中で、コウシン太郎が発言を求めた。
「人新会として、提案があります」
議長菌は、彼に発言を許可した。
「我々は、人民生活安定度指数の公表そのものには反対しません。数字によって社会の状態を把握することは、重要です。しかし、指数の算出方法について、少なくとも三つの点を明確にする必要があります」
彼は、手元の資料を読み上げた。
「第一に、評価対象から除外された情報の件数と、その理由を公表すること。
第二に、評価項目と配点の変更履歴を保存し、変更前後の結果を比較できるようにすること。
第三に、統計の算出に関わった機関とは独立した立場から、集計方法を検証できる仕組みを設けること」
議場は静かになった。
ブラウ太郎は、コウシン太郎を見つめた。
以前のコウシン太郎なら、ここまで踏み込んだ提案をしなかったかもしれない。
いや、以前の彼なら、もっと巧みに、中央委員会の方針と矛盾しない表現に包んでいただろう。
しかし今回は、少し違った。
彼は、提案を読み終えると、顔を上げた。
「数字が客観的であるためには、計算が正しいだけでは不十分です。何を数えたのか。何を数えなかったのか。なぜ、その項目を選んだのか。それらを検証できる必要があります」
中央委員会側の代表が、すぐに反論した。
「コウシン太郎同志の提案には、統計制度への不信を広げる懸念があります」
「検証を求めることが、不信を広げるのでしょうか」
「制度に対する信頼を維持することも、重要な政治的責任です」
「だからこそ、検証が必要なのではありませんか」
「現行制度は、専門家によって適切に設計されています」
「専門家が設計したから正しいというのであれば、専門家の判断を検証する必要はない、ということになります」
「そこまで極端な話はしていません」
「では、どこまでなら検証してよいのでしょうか」
中央委員会側の代表は、答えなかった。
コウシン太郎は、発言席に立ったまま、少しだけ視線を落とした。
彼は知っていた。
この提案が、そのまま採用される可能性は低い。
それでも、今回は言わなければならないと思った。
数字が政策の正しさを証明するためだけに使われ始めれば、数字は現実を測る道具ではなく、権力を守る盾になってしまう。
そして、盾として使われる数字は、現実が盾に合わなくなったとき、現実のほうを排除し始める。
彼は、その光景を、かつて自分が働いていた中央委員会の中で何度も見ていた。
だからこそ、今度は見過ごしたくなかった。
議長菌は、議事進行表を閉じた。
「人新会の提案については、建設的な意見として記録します」
コウシン太郎は、議長を見た。
「採否は?」
「今後、総合的に検討します」
「検討する主体は?」
「所管機関です」
「所管機関は、どこですか」
「中央委員会です」
コウシン太郎は、ゆっくりと座った。
ブラウ太郎は、彼の横顔を見ていた。
彼は以前、コウシン太郎に尋ねたことがある。
あなたたちは、何に反対しているんですか。
その問いに、コウシン太郎は十分に答えられなかった。
今も、完全な答えを持っているわけではないだろう。
しかし、少なくとも今回は、何を変えたいのかを言葉にした。
それだけでも、以前とは違っていた。
*
その日の夕方、ブラウ太郎は、統計改革の公開資料を調べていた。
資料は膨大だった。
各地域の集計結果。
政策別の評価。
年度ごとの推移。
分類基準の一覧。
集計方法の説明。
公表された数字は、整然と並んでいた。
彼は、人民生活安定度指数の算出資料をもう一度確認した。
八十七・六点。
前年比三・二ポイント上昇。
制度への信頼、十四・二点。
意見表明の機会、十三・八点。
環境の安定性、二十二・四点。
どれも、それらしく見えた。
しかし、資料を読み進めていくうちに、ひとつの数字が目に留まった。
統計対象となった意見の総数。
四万二千六百十八件。
分類済みの意見の総数。
四万二千百九十二件。
差し引き、四百二十六件。
ブラウ太郎は、紙に数字を書き出した。
四万二千六百十八。
四万二千百九十二。
四百二十六。
分類済みの意見は、総数より四百二十六件少ない。
それ自体は、必ずしも不正を意味しない。
重複した投稿があったのかもしれない。
記録の不備があったのかもしれない。
集計期間の境界で、処理が分かれたのかもしれない。
問題は、その四百二十六件が、どこへ行ったのかということだった。
彼は資料の注記を探した。
脚注。
付録。
集計上の留意事項。
用語の定義。
どこにも、その数字の説明はなかった。
ただ、資料の最後に、次の一文があった。
「集計結果は、所定の分類基準に従い、適切に整理されている」
ブラウ太郎は、しばらく、その文章を見つめていた。
適切に整理されている。
その文章は、何も説明していない。
しかし、説明が完了したことだけは、はっきりと宣言していた。
*
翌朝、ブラウ太郎は名無しの七号を訪ねた。
七号は、いつものように小さなノートを開いていた。
「七号さん。少し、手伝ってほしいことがあります」
「何でしょう」
「統計資料を確認していたら、数字が合わないところを見つけました」
「計算の間違いですか」
「まだ分かりません。ただ、集計対象の意見が四万二千六百十八件なのに、分類済みの意見が四万二千百九十二件しかないんです」
七号は、ノートを閉じた。
「差は四百二十六件ですね」
「ええ」
「その数字は、どこかで見た気がします」
ブラウ太郎は驚いた。
「どこでですか」
「以前の意見集約制度の資料です」
七号は、古いノートを取り出した。
そこには、過去の統計に関する記録が残されていた。
数か月前、中央委員会は、住民から寄せられた意見を集計し、その内訳を公表していた。
開発に関する意見。
安定に関する意見。
両方に関する意見。
その他の意見。
その際も、意見は分類され、集計され、公式発表にまとめられていた。
七号は、該当するページを開いた。
「ここです」
そこには、別の数字が記されていた。
「分類保留、四百二十六件」
ブラウ太郎は、息を止めた。
「同じ数字だ」
「はい」
「今回の四百二十六件も、分類保留なのかもしれません」
「可能性はあります。ただし、まだ確認できていません」
七号は、そう言ってから、ノートの別のページを開いた。
そこには、以前の分類保留に関する説明が記されていた。
分類保留とは、複数の分類にまたがる意見、または既存の分類基準では適切な整理が難しい意見を、追加検討のために一時的に保留する措置である。
制度の説明としては、もっともらしかった。
分類が難しい意見を、無理に分類しない。
それ自体は、むしろ慎重な方法ともいえる。
しかし、七号は、その下に小さな文字で書き加えていた。
「保留された意見が、その後どのように処理されたのか、公開資料からは確認できない」
ブラウ太郎は、七号のノートを見つめた。
「この四百二十六件が、今回の数字と同じものだとすれば……」
「そうです。ただし、同じ数字であることと、同じ意見であることは違います」
七号は、慎重に言った。
「私たちは、まだ結論を出すべきではありません」
「そのとおりですね」
「でも、確認する必要はあります」
「ええ」
二人は、しばらく黙っていた。
そしてブラウ太郎は、ふと思い出したように尋ねた。
「七号さん。もし、保留された意見が、何度も保留され続けていたとしたら、どうなるんでしょう」
七号は、ノートを見下ろした。
「その場合、その意見は、存在しているのに、制度の中ではどこにも到着しないことになります」
「意見は提出された。記録もされた。分類もされた。でも、どこにも到着しない」
「はい」
「それは、意見が無視されたのと同じでしょうか」
七号は、少し考えた。
「必ずしも同じではありません。無視された意見は、少なくとも、無視されたという経過をたどっています。でも、保留された意見は、処理が終わっていないことになっている」
「つまり、いつまでも終わらない」
「そして、終わっていないことが、問題として数えられないのかもしれません」
ブラウ太郎は、椅子の背にもたれた。
意見が拒否されれば、拒否されたという記録が残る。
採用されれば、採用されたという記録が残る。
しかし、保留されたままなら、制度はその意見に対して何も決めていないことになる。
決めていないのだから、失敗もしていない。
失敗していないのだから、責任を問われることもない。
そして、保留された意見の数が増えても、政策が失敗したことにはならない。
制度は、ただ、検討を続けているだけなのだから。
「七号さん」
「はい」
「この国では、答えが出ないことよりも、答えが出ていないことを問題にできないことのほうが、深刻なのかもしれませんね」
七号は、ゆっくりとうなずいた。
「私も、そう思います」
*
その日の午後、中央委員会は統計改革の中間報告を発表した。
報告書の表紙には、大きくこう書かれていた。
「統計の透明性向上に向けた、着実な前進」
本文には、改革の成果が列挙されていた。
全国統一の分類基準を導入した。
集計方法を標準化した。
公表項目を整理した。
評価指標を数値化した。
そして、各地域の統計担当者に対する研修を実施した。
報告書は、最後にこう結論づけていた。
「以上の取組により、統計の客観性、比較可能性、および透明性は、総合的に向上したと評価できる」
ブラウ太郎は、報告書を読んだ。
そのどこにも、四百二十六件の説明はなかった。
彼は、記者会見で質問しようと考えた。
しかし、その前に、中央委員会から新たな通達が出された。
統計に関する質問については、今後、所定の様式を用いて事前に提出すること。
質問は、統計制度の理解促進を目的とするものに限ること。
個別の事例については、全体的な傾向との関連が明確な場合に限り、取り上げること。
質問への回答は、関連資料の整備状況を踏まえ、適切な時期に行うこと。
ブラウ太郎は、通達を読み終えた。
「四百二十六件について質問するには、様式が必要なのか」
隣にいたビフ太郎が、通達をのぞき込んだ。
「そうみたいですね」
「様式には、何を書けばいいんだろう」
「質問の目的、背景、統計制度への理解との関連性、そして全体的な傾向との関係、だそうです」
「では、質問の答えが分からないから質問する、という場合は?」
「質問の背景を明確にする必要があるようです」
「背景が分からないから質問する場合は?」
ビフ太郎は、通達をもう一度読んだ。
「……背景の整理が必要ですね」
ブラウ太郎は笑った。
「そうですね。質問をするためには、まず、答えを知っておく必要があるようです」
ビフ太郎も笑った。
だが、その笑いは、すぐに消えた。
「ブラウ太郎同志。ひとつ、気になることがあります」
「何でしょう」
「もし、四百二十六件が本当に分類保留のままなら、私たちの質問も、分類保留になるのではありませんか」
ブラウ太郎は、答えなかった。
その可能性は、十分にあった。
質問は提出される。
質問は記録される。
質問は適切な分類基準に従って整理される。
そして、回答が必要だと判断されれば、回答が検討される。
検討が必要だと判断されれば、検討が続けられる。
その間、質問は存在し続ける。
だが、答えに到着するとは限らない。
*
数日後、ブラウ太郎は、正式な質問書を提出した。
質問書には、こう記した。
「人民生活安定度指数の算出にあたり、集計対象と分類済みの意見の件数に差が生じている理由について、ご説明を求めます。また、分類保留とされた意見の処理状況および、保留期間に関する基準が存在する場合、その内容の公表を求めます」
彼は、質問書を提出する前に、何度も文章を読み直した。
攻撃的な表現は避けた。
中央委員会への不信をあおる意図はないことも明記した。
統計制度の透明性を高めるための建設的な質問であることも、丁寧に説明した。
提出先の窓口では、担当者が書類を受け取った。
「受理しました」
「回答は、いつごろいただけますか」
「所定の手続きに従い、適切に対応いたします」
「回答の期限は決まっていますか」
「現時点では、個別の回答期限について、明確な定めはありません」
「では、回答がない場合、質問がどのような状態にあるのかを確認することはできますか」
「処理状況の照会については、別途、所定の手続きがございます」
「その手続きについて教えてください」
担当者は、別の用紙を取り出した。
「こちらが、処理状況照会申請書です」
ブラウ太郎は、用紙を受け取った。
「この申請書を提出すれば、処理状況が分かるのですね」
「照会申請が受理されれば、処理状況を確認するための手続きが開始されます」
「確認するための手続きが開始される、ということは、確認できるとは限らないのですか」
「そのような断定は適切ではありません」
「では、確認できる可能性はあるのですね」
「可能性を否定するものではありません」
ブラウ太郎は、用紙を見下ろした。
そこには、申請理由を書く欄があった。
彼は、しばらく考えてから、窓口の担当者に尋ねた。
「申請理由には、何と書けばいいでしょう」
「照会を必要とする理由を、具体的にご記入ください」
「質問に回答がないため、処理状況を知りたい、と書けばいいですか」
「その場合、回答がないことを確認するための資料が必要になる場合があります」
「回答がないことを確認する資料?」
「はい。質問書の受理記録などです」
ブラウ太郎は、先ほど受け取った受理票を見た。
「これで足りますか」
「確認いたします」
担当者は受理票を見て、うなずいた。
「問題ありません」
「では、申請できますね」
「はい。ただし、申請の受理と、照会結果の回答は、別の手続きになります」
ブラウ太郎は、目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
担当者は、満足そうに微笑んだ。
窓口の手続きは、滞りなく進んでいた。
誰も規則を破っていない。
誰も明確な嘘をついていない。
誰もブラウ太郎の質問を拒否したわけではない。
それでも、質問の答えにたどり着く道は、少しずつ長くなっていた。
*
その夜、中央委員会の執務室では、ミツオケラ十三世が統計改革の報告を受けていた。
「人民生活安定度指数は、八十七・六点です」
書記が説明した。
「統計改革への評価も、おおむね良好です。人民放送の視聴者アンケートでは、改革を支持する意見が多数を占めています」
「支持率は?」
「八十二・四%です」
「残りは?」
「中立が十二・一%。否定的な意見が五・五%です」
十三世は、数字を見つめた。
「否定的な意見には、どのようなものがある」
「主に、統計の算出方法に関する質問や、分類基準の公開を求める意見です」
「それらは、否定的な意見なのか」
「意見分類基準に基づき、否定的な意見に分類されています」
「質問をしただけで、否定的な意見になるのか」
「質問の内容によります」
「では、肯定的な質問もあるのか」
「はい。制度への理解を深めるための質問は、肯定的な意見に分類されます」
十三世は、椅子に深く座り直した。
「その違いを決めるのは、誰だ」
「分類担当者です」
「分類担当者の基準は?」
「統一された分類基準に従います」
「その基準を決めたのは?」
「統計改革専門委員会です」
「専門委員会を任命したのは?」
「中央委員会です」
十三世は、ゆっくりとうなずいた。
そして、静かに言った。
「数字は、嘘をつかないのだろうな」
書記は、即座に答えた。
「そのとおりです」
「しかし、数字に何を数えさせるかは、人間が決める」
書記は、答えなかった。
「何を質問と呼ぶか。何を批判と呼ぶか。何を未確定と呼ぶか。何を保留と呼ぶか。それを決めるのも、人間だ」
十三世は、報告書を閉じた。
「我々は、統計を使って現実を理解しようとしているのか。それとも、我々が理解できる範囲だけを現実として扱おうとしているのか」
書記は、いつものように、すぐには答えなかった。
彼もまた、中央委員会の一員だった。
制度を支えてきた者だった。
数字によって政策を説明し、数字によって成果を示し、数字によって権力の正当性を証明してきた者だった。
だからこそ、彼には分かっていた。
数字を疑うことは、計算式を疑うことだけではない。
数字が生まれるまでの手続きを疑うことでもある。
そして、その手続きを疑うことは、制度を疑うことにつながる。
十三世は、窓のない執務室の壁を見つめていた。
「書記。四百二十六件の件は、把握しているか」
書記の表情が、ほんのわずかに変わった。
「はい。現在、関係部署に確認を求めています」
「分類保留になった意見のことだな」
「その可能性を含め、確認中です」
「なぜ、これまで報告されなかった」
「統計の集計過程における技術的な問題として、整理されていたためです」
「技術的な問題なら、政治的な問題ではないのか」
書記は、慎重に答えた。
「技術的な問題が、必ずしも政治的な問題になるとは限りません」
「逆に、政治的な問題が、技術的な問題として扱われることはあるのではないか」
書記は、口を閉じた。
十三世は、責めるような口調ではなかった。
ただ、知りたがっていた。
そのことが、書記にはかえって不安だった。
彼は、十三世が何かを疑い始めていることを感じていた。
そして、疑い始めた指導者が、どこまで疑い続けるのかは、誰にも分からなかった。
*
翌日、名無しの七号は、ノートに新しい記録を残した。
彼は、公式発表の数字を書き写したあと、その横に、小さく別の数字を書いた。
八十七・六。
四百二十六。
八十二・四。
五・五。
数字は、どれも明確だった。
小数点まで記されていた。
しかし、それぞれの数字が何を意味するのかについては、確認できていないことが多かった。
七号は、ノートの最後に、こう書いた。
「数字が正確であることと、数字が十分であることは、同じではない」
そして、その下にもう一文を加えた。
「数字に現れないものが存在しないのか。それとも、存在するものを数字に現さない仕組みがあるのか。区別するためには、数字の外側を調べる必要がある」
彼は、ノートを閉じた。
そのころ、人民共和国の各地域では、環境の変化が続いていた。
食物繊維の増加が、すべての変化の原因だと断言することはできない。
しかし、環境条件が変わるなかで、住民たちの活動や集団間の関係にも、以前とは異なる動きが見られ始めていた。
中央委員会は、その変化を数値化しようとしていた。
数値化することで、変化を理解しようとしていた。
理解することで、変化を管理しようとしていた。
だが、数字になる前の現実は、必ずしも中央委員会の分類基準に従ってくれるわけではない。
分類できないものは、分類保留になる。
評価できないものは、評価対象から除外される。
説明できないものは、追加調査の対象になる。
そして、追加調査の結果が出ないあいだも、国家は平常どおり運営される。
会議は開かれる。
報告書は作られる。
数字は発表される。
人民は、安定していると説明される。
その一方で、分類されなかった意見は、どこかに残り続ける。
保留された疑問も、どこかに残り続ける。
説明されなかった事実も、どこかに残り続ける。
それらが、いつかひとつの大きな問題になるとは限らない。
ただ、問題にならないとも限らない。
そして、その可能性を判断するために必要な数字が、すでに存在しているとは限らない。
七号は、ノートを机の引き出しにしまった。
公式の統計には、彼の記録は含まれていなかった。
少なくとも、今のところは。
*
数日後、人民放送は、統計改革の成果を再び伝えた。
「今回の改革によって、人民共和国の現状をより正確に把握することが可能になりました」
画面には、色分けされた円グラフが映し出された。
八十七・六点。
八十二・四%。
三・二ポイントの上昇。
どの数字も、きれいに整っていた。
放送の最後には、ミツオケラ十三世の言葉が紹介された。
「数字は、人民の生活を理解するための重要な手段です。我々は、数字を尊重し、事実に基づく政治を進めていきます」
その発言は、正しかった。
少なくとも、言葉そのものは。
数字は、確かに重要な手段だった。
統計は、政治をよりよくする可能性を持っていた。
問題は、数字を尊重するという言葉が、数字を検証する者を尊重することまで意味しているかどうかだった。
人民共和国では、数字を読むことは奨励されていた。
数字を理解することも奨励されていた。
数字を使って政策の成果を説明することも奨励されていた。
しかし、数字が何を数えていないのかを問うことについては、まだ明確な方針がなかった。
その問いは、統計改革の評価項目に含まれていなかった。
そして、評価項目に含まれていないものは、成果として数えられにくかった。
その夜、ブラウ太郎は、七号のノートに書かれていた言葉を思い出した。
「数字に現れないものが存在しないのか。それとも、存在するものを数字に現さない仕組みがあるのか」
彼は、初めて、その問いの重さを理解した気がした。
そして、もうひとつのことにも気づいた。
中央委員会は、数字を使って自らの正しさを証明しようとしている。
だが、その数字を作る仕組みが中央委員会の管理下にあるなら、数字による証明は、どこまで独立した証明なのだろう。
証明する者と、証明される者が、同じ組織だったとしたら。
ブラウ太郎は、机の上の紙に、短く書きつけた。
「数字を疑うことは、数字を否定することではない」
その下に、もう一文。
「数字が何を示しているのかを知るために、数字が何を示していないのかを問う」
彼は、紙を折りたたんだ。
まだ、四百二十六件の正体は分からない。
まだ、分類保留の意見がどう処理されたのかも分からない。
まだ、中央委員会が意図的に何かを隠したのか、それとも制度の欠陥によって説明が失われたのかも分からない。
だからこそ、調べる必要があった。
分からないことを、分からないままにしておかないために。
そのためには、まず、分からないことが存在するという事実を、記録に残さなければならなかった。
人民共和国では、数字が発表されるたびに、国家の現状が明らかになったと説明されていた。
しかし、ブラウ太郎には、別のことが見え始めていた。
数字が増えるほど、現実が明らかになるとは限らない。
数字が細かくなるほど、真実に近づくとは限らない。
そして、数字が正確であるほど、その数字を選んだ者の責任が軽くなるわけでもない。
むしろ、数字が政治の中心に置かれるなら、問わなければならないことは増える。
誰が数えたのか。
何を数えたのか。
何を数えなかったのか。
そして、数えられなかったものは、どこへ行ったのか。
その問いに答えるためには、次の会議を待たなければならないのかもしれない。
だが、ブラウ太郎は、もうひとつの可能性も考えていた。
答えを持っているのは、中央委員会だけではないのではないか。
公式記録には載らなかった意見。
分類保留になった疑問。
集計表の外側に残された小さな記録。
そうしたものをつなぎ合わせれば、公式発表とは異なる現実の輪郭が見えてくるかもしれない。
その輪郭が、何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ、そこには、まだ数えられていない何かがある。
そして、数えられていないものがあるという事実は、数字だけを見ていても、見つけられないのだった。




