新章 第十四話 あなたが、ここにいるということ - レイコさんの視点
第十四話 あなたが、ここにいるということ
レイコは、記録を読むのが嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
数字には、言い訳がない。
少なくとも、数字そのものには。
十匹と記録されていれば、十匹である。百二十七回と書かれていれば、百二十七回である。議事録に賛成と記載されていれば、その者は賛成したことになり、反対と記載されていれば、反対したことになる。
記録は、誰かの記憶よりも正確である。
人間の記憶は、都合よく変化する。昨日は確かに聞いたはずの言葉を、今日は聞いていないと言い張る。昨日は賛成だった者が、今日は最初から反対だったような顔をする。
そういうことを、レイコは何度も見てきた。
だから、記録は必要なのだ。
誰が何を言い、誰が何をしたのか。
誰が決め、誰が従い、誰が従わなかったのか。
それを残しておかなければ、最後には、声の大きな者の記憶だけが歴史になる。
レイコは、そう考えていた。
ところが、最近になって、ひとつ困ったことができた。
記録を読むたびに、七号の顔が浮かぶのである。
正確にいえば、七号には、まだ顔と呼べるほどのものがあるのかどうかも怪しかった。
本人は、腸内細菌七号として暮らしてきた。
しかし、検査記録によれば、七号は腸内細菌ではなかった。
ラクトフェリン。
鉄と結びつく性質を持つタンパク質。
分類上は、細菌ではない。
共和国の住民名簿に、従来の分類のまま登録しておくには、いささか面倒な存在だった。
細菌ではない者を、細菌の共和国の人民と呼べるのか。
人民ではない者に、人民のための議論へ参加する資格はあるのか。
資格がないのなら、七号がこれまで議会で発言してきたことは、どう扱われるのか。
発言そのものが消えるわけではない。
だが、発言した者の身分が変われば、記録の扱いも変わる。
制度とは、そういうものである。
制度は、誰かを守るために作られる。
ところが、守られる者を定義しなければならない。
その定義から外れた者が現れたとき、制度は困った顔をする。
そして、困った顔をした制度は、往々にして、困った原因のほうを消そうとする。
七号は、その原因になってしまった。
レイコは、机の上に置いた検査記録を閉じた。
「……あなたって、本当に面倒な人ね」
誰もいない部屋で、そうつぶやいた。
返事はなかった。
当たり前である。
七号は、ここにはいない。
少なくとも、この部屋には。
その事実に気づいたとき、レイコは、なぜか少し腹が立った。
七号がいないからではない。
七号がいないことを、いちいち確認してしまう自分に対してである。
いつからだろう。
議会で何かが決まるたびに、七号なら何と言うだろうと考えるようになったのは。
誰かが「全員の総意です」と言ったとき、七号なら、その全員の中に誰が含まれていないのかを尋ねるのではないか。
誰かが「少数意見は尊重しました」と言ったとき、七号なら、尊重された少数意見が、そのあとどこへ行ったのかを気にするのではないか。
誰かが「記録上、問題はありません」と報告したとき、七号なら、記録されていない問題について尋ねるのではないか。
そして、議場の全員が、それはもう終わった話だと考えたとき。
七号は、きっと言う。
――吾輩は、ここにいるんですが。
レイコは目を閉じた。
あの言葉を、最初に聞いたときのことを思い出した。
七号は、特別に立派な演説をしたわけではなかった。
難しい政治理論を持ち出したわけでもない。
誰もが驚くような新しい制度を提案したわけでもなかった。
ただ、自分がそこにいると言った。
それだけだった。
それだけなのに、議場の空気は変わった。
いや、正確には、空気が変わったのではない。
それまで空気のように扱われていたものが、突然、目の前に現れたのである。
名簿に名前がない。
分類に合わない。
記録に載っていない。
それなら、いないことにしても構わない。
そんな理屈が、あの議場には確かに存在していた。
誰かが明確に、七号を消そうと命じたわけではない。
少なくとも、全員がそう考えていたわけではないだろう。
ただ、誰もが、自分の仕事を正確に果たそうとしていた。
名簿を管理する者は、分類に従って記入した。
議事を進行する者は、規則に従って発言者を扱った。
記録を作成する者は、決められた形式に従って議事を残した。
それぞれの仕事は、ひとつずつ見れば、間違っていなかったのかもしれない。
けれども、その間にいた七号は、消えかけていた。
誰も七号を消そうとしなかったからこそ、七号は消えかけたのだ。
レイコは、そのことが恐ろしかった。
悪意のある者なら、まだわかりやすい。
その者を止めればよい。
だが、悪意のない者たちが、それぞれの正しさを積み重ねた結果、ひとりの存在を見えなくしてしまうとしたら。
誰を止めればいいのだろう。
どの規則を直せばいいのだろう。
そもそも、何が間違っていたのだろう。
レイコには、まだ答えがなかった。
ただ、七号が倒れたと聞いたとき、自分が何を考えたのかだけは覚えていた。
記録など、どうでもいい。
名簿など、どうでもいい。
分類など、どうでもいい。
お願いだから、そこにいて。
それだけだった。
*
七号が医療区画から戻ってきた日、レイコは、いつもより少し早く待ち合わせの場所へ行った。
場所は、共和国の中央記録庫と議会棟のあいだにある、小さな回廊だった。
そこには、古い掲示板があった。
掲示板には、共和国の歴史を示す年表が貼られている。
共和国の成立。
最初の人民会議。
食料配分をめぐる争い。
制度改革。
議会の再編。
そして、何度も繰り返された「全会一致」。
年表は、よく整理されていた。
事件には日付があり、決定には番号があり、重要な人物には肩書きが付されていた。
ただし、誰がその決定によって泣いたのか、誰が眠れなくなったのか、誰が翌朝になっても食事を喉に通せなかったのかについては、ほとんど書かれていなかった。
歴史とは、そういうものなのかもしれない。
残されたものから、残されたものを読む。
書かれたものから、書かれたものを知る。
しかし、レイコは最近、その読み方だけでは足りないのではないかと思うようになっていた。
年表の前で立ち止まっていると、後ろから声がした。
「レイコさん」
振り返ると、七号がいた。
以前より少し動きが慎重だった。
まだ身体の調子が完全には戻っていないのだろう。
それでも、本人は平然とした顔をしていた。
「お待たせしました」
「……遅いわよ」
「申し訳ありません。医療区画の方が、吾輩の移動速度について、たいへん熱心な意見をお持ちでして」
「あなたのためを思って言っているのよ」
「その可能性は否定しません。ただし、本人の意思を確認する手続きも、同時にお願いしたいところです」
「元気そうね」
「おかげさまで。もっとも、元気そうに見えることと、完全に回復していることは、必ずしも一致しないそうです」
「そうね」
「医療区画の方が、たいへん丁寧に説明してくださいました」
「それで?」
「最後には、説明を理解したことを確認するため、もう一度、最初から説明してくださいました」
レイコは吹き出した。
「それ、理解していないと思われたんじゃない?」
「吾輩も、途中から、その可能性を考慮しておりました」
七号は真面目な顔で言った。
レイコは笑った。
笑ってから、少しだけ胸が痛くなった。
この声を、もう聞けないかもしれないと思った日があった。
それを、七号は知らない。
いや、気づいているのかもしれない。
しかし、七号は、そういうことを簡単には尋ねない。
人の心に土足で踏み込まないところが、七号の長所だった。
そして、ときどき、ひどく面倒な短所でもあった。
「七号」
「はい」
「あなた、自分が何者なのか、わかった?」
七号は少し考えた。
「検査結果の意味であれば、わかりました。吾輩は、腸内細菌ではなく、ラクトフェリンです」
「そうじゃなくて」
「では、どの意味でしょうか」
「……あなた自身が、どう思っているのかってこと」
七号は、年表を見上げた。
共和国の歴史が、きちんとした文字で並んでいた。
「難しいご質問です」
「そうでしょうね」
「検査結果は、吾輩の分類を教えてくれました。しかし、分類がわかったからといって、吾輩がこれまで考えてきたことまで、別のものになるわけではありません」
「別のものには、ならない?」
「少なくとも、吾輩には、そう思えます」
七号は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「吾輩は、自分が腸内細菌だと考えていました。その前提で、間違ったことも言ったでしょう。知らないことを知っているつもりになったことも、きっとあったでしょう」
「ええ。あったわね」
「そこは、否定しないでいただけると助かります」
「どうして?」
「反省の機会が失われますので」
レイコはまた笑った。
七号は、少しだけ安心したようだった。
「ですが、吾輩が何を見て、何を考え、何を恐れたのか。それまで、検査結果によって取り消されるとは思えないのです」
「あなたが細菌ではなかったとしても?」
「はい」
「人民でなかったとしても?」
七号は、今度はすぐに答えなかった。
回廊の向こうで、誰かが書類を運んでいた。
書類の束が少し傾き、いちばん上の紙が床に落ちた。
運んでいた者は気づかなかった。
別の者が拾い上げ、追いかけて手渡した。
ふたりは短く礼を交わし、それぞれの仕事に戻っていった。
何も特別なことは起きなかった。
ただ、ひとつの紙が落ち、誰かがそれを拾った。
七号は、その様子を見てから答えた。
「人民であるかどうかは、吾輩ひとりで決められることではありません」
「そうね」
「制度が判断することもあるでしょう。議会が議論することもあるでしょう。あるいは、共和国そのものが、考え直さなければならないことなのかもしれません」
「あなたは、どうしたいの?」
「吾輩は……」
七号は言葉を切った。
レイコは待った。
急かしたくなかった。
七号は、これまで何度も、答えを求められてきた。
自分は何者なのか。
何のためにいるのか。
何を代表しているのか。
何を主張する資格があるのか。
そのたびに、七号は何かを答えようとしてきた。
だが、答えを求められ続けることは、ときに、存在そのものを証明し続けることと同じになる。
誰かが「あなたは、ここにいていい」と言うまで、自分がここにいることを説明しなければならない。
それは、疲れることだ。
レイコは、七号が少し疲れているように見えた。
「……吾輩は、考え続けたいのです」
やがて、七号は言った。
「自分が何者なのかを、考え続けたい。自分の言葉が、誰かを傷つけたのなら、そのことを知りたい。自分の言葉が、誰かの役に立ったのなら、そのことも知りたい」
「うん」
「ただし、考える資格を得るために、毎回、自分の存在を証明しなければならないのだとしたら……」
七号は、そこで少し笑った。
「それは、たいへん面倒な制度です」
「本当にね」
「議会に提案してみましょうか」
「あなた、何でも議会に持ち込めばいいと思っていない?」
「そういうつもりはありません。議会で決めるべきことと、議会で決める必要のないことの区別について、議会で議論する必要があるのではないかと」
「ほら、やっぱり」
レイコは笑った。
七号も笑った。
ふたりの笑い声が、古い回廊に小さく響いた。
そのあとで、レイコは思った。
この人は、変わったのだろうか。
それとも、変わらなかったのだろうか。
ラクトフェリンだとわかる前と、わかった後。
腸内細菌だと思っていた頃と、そうではないと知った今。
分類は変わった。
記録も変わるかもしれない。
共和国の制度も、これから変わっていくのかもしれない。
けれど、目の前にいる七号は、あの日と同じように、わからないことをわからないと言い、わかりたいことを考え続けようとしていた。
レイコは、そのことが、うれしかった。
同時に、少し怖くもあった。
自分は、この人を、いったい何だと思っているのだろう。
*
その問いに、レイコはまだ答えられなかった。
だから、別の質問をした。
「七号。あなたは、私のことをどう思っているの?」
七号が固まった。
見事なまでに、固まった。
さきほどまで、議会制度の欠陥について、いつまでも話していられそうだった者が、たったひとつの質問で沈黙した。
レイコは、少し意地悪な気持ちになった。
「答えられないの?」
「いえ、その……質問の定義を確認したいと申しますか」
「定義?」
「『どう思っている』という表現には、いくつかの解釈が可能でありまして」
「政治的な質問じゃないわよ」
「承知しております」
「では、答えて」
「……はい」
七号は、年表から目をそらした。
レイコを見た。
すぐに目をそらした。
また見た。
レイコは、とうとう笑い出しそうになった。
議会では、あれほど堂々と発言するのに。
誰もが避けたがる質問を、わざわざ拾い上げるのに。
自分のことになると、どうしてこうも不器用なのだろう。
「吾輩は、レイコさんを……」
「うん」
「信頼しております」
「それだけ?」
「それだけではありません」
七号は、そこで言葉を止めた。
レイコの胸が、わずかに強く打った。
「吾輩が、何者なのかを説明できなかったとき。レイコさんは、吾輩の話を聞いてくださいました」
「ええ」
「吾輩が間違えたときには、間違いを指摘してくださいました」
「ええ」
「吾輩が、誰かの代わりに話しているつもりになったときには、そうではないと教えてくださいました」
レイコは、少しだけうつむいた。
そんなことを、七号は覚えていたのか。
「そして、吾輩が……」
七号は言いよどんだ。
「吾輩が、ここにいないことになっていたとき」
レイコは顔を上げた。
「レイコさんは、吾輩がここにいると、言ってくださいました」
あのときのことを、七号は覚えていた。
当然だろう。
忘れられるはずがない。
けれど、レイコは、自分が何を言ったのか、正確には覚えていなかった。
あのときは、ただ必死だった。
名簿も、記録も、議会も、どうでもよかった。
目の前の存在が、消えてしまうかもしれない。
それだけで、頭がいっぱいだった。
「……あれは、当たり前のことを言っただけよ」
レイコは言った。
「そこにいたんだから。あなたは、そこにいた。だから、私は、そう言っただけ」
「はい」
「特別なことじゃないわ」
「そうかもしれません」
「でしょう?」
「ですが」
七号は、静かに続けた。
「吾輩にとっては、特別なことでした」
レイコは、何も言えなかった。
特別なことではない。
そこにいる者が、そこにいると言う。
そこにいる者が、そこにいると認める。
それは、特別なことではないはずだった。
しかし、当たり前のことが当たり前に行われない場所では、当たり前のことが、誰かを救う。
レイコは、そういうことを、初めて知ったような気がした。
いや。
初めて知ったのではない。
知っていたのに、忘れていたのかもしれない。
誰かが困っていれば、手を貸す。
誰かが泣いていれば、話を聞く。
誰かがそこにいれば、その存在を無視しない。
子どもの頃には、そんなことを、いちいち考えずにできた。
ところが、大人になると、いろいろなことを考えるようになる。
規則はどうなっているのか。
責任は誰にあるのか。
自分が手を出してもいいのか。
誰かに責められないか。
ほかの人は、どうしているのか。
そうしているうちに、手を差し出す前に、差し出してよい理由を探すようになる。
理由が見つからなければ、手を引っ込める。
それでも、本人は自分を悪人だとは思わない。
何もしていないだけだからだ。
何もしていないことは、ときに、たいへん便利な立場である。
誰にも感謝されない代わりに、誰にも責められない。
少なくとも、本人はそう考えている。
だが、何もしなかったことで、誰かが消えてしまうこともある。
レイコは、七号を見た。
この人は、何もしていない人たちを、簡単に悪人とは呼ばないだろう。
それぞれに事情があったことを考えるだろう。
それぞれが守ろうとしていたものを、考えるだろう。
そのうえで、きっと、こう尋ねる。
――それでは、ここにいた者は、どうなるのでしょうか。
レイコは、七号のことを、少しずつ理解し始めていた。
七号は、正義の味方ではない。
何もかも見通す賢者でもない。
いつも正しい答えを持っているわけでもない。
むしろ、答えがわからないまま、質問をやめられない存在なのだ。
それは、面倒なことだった。
世の中には、答えを出さなければならない問題がたくさんある。
答えを出さずに考え続けていれば、決断を先送りにしていると批判される。
実際、その批判が正しいこともある。
けれど、答えを急ぐことで、問いそのものを間違えてしまうこともある。
七号は、その間で、立ち止まる。
そして、ときどき、誰かに迷惑をかける。
それでも、立ち止まる。
レイコは、その不器用さを、嫌いではなかった。
むしろ。
いや。
それ以上を考えそうになって、レイコは慌てて思考を中断した。
危ない。
これは、議会の議事録よりも、よほど扱いが難しい。
*
「レイコさん」
「何?」
「ひとつ、お願いがあります」
「何かしら」
「吾輩が、今後、ラクトフェリンとして記録されることになったとしても」
「うん」
「七号と呼んでいただけますか」
レイコは、目を瞬いた。
「……あなた、番号が嫌だったんじゃないの?」
「嫌ではありませんでした」
「でも、名前がないことを、ずっと気にしていたでしょう?」
「はい」
「なら、名前がほしいんじゃないの?」
「それも、あります」
七号は、少し困ったように笑った。
「ですが、七号という番号は、吾輩がここまで歩いてきた道のりでもあります」
「道のり?」
「はい。七号と呼ばれたからこそ、出会った方々がいます。七号と呼ばれたからこそ、考えたこともあります。七号と呼ばれたからこそ、間違えたこともあります」
「……」
「それを、なかったことにはしたくないのです」
レイコは、七号を見つめた。
「新しい名前を得ることと、これまでの自分を捨てることは、同じではありませんから」
七号は、ゆっくりと言った。
「吾輩は、まだ名前を持っていません。ですが、名前がないからといって、これまでの自分まで、なくなるわけではないと思うのです」
レイコは、年表を見上げた。
そこには、名前が残されていた。
共和国を作った者たち。
制度を変えた者たち。
歴史を動かしたとされる者たち。
彼らの名前は、何年も、何十年も、記録の中に残っている。
しかし、名前を残せなかった者たちもいたはずだ。
名簿に載らなかった者。
記録を作る側ではなかった者。
発言する機会を得られなかった者。
誰かの決定に従うしかなかった者。
そして、決定の結果だけを引き受けた者。
彼らにも、暮らしがあった。
好きな食べ物があったかもしれない。
苦手な相手がいたかもしれない。
誰かを心配し、誰かに腹を立て、誰かの帰りを待っていたかもしれない。
歴史に名前が残らなかったからといって、彼らの人生が存在しなかったことにはならない。
そんなことは、頭ではわかっていた。
けれど、七号の言葉を聞くまで、レイコは、その事実を自分自身の問題として考えたことがなかった。
「……わかったわ」
レイコは言った。
「これからも、七号と呼ぶ」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「あなたが自分で新しい名前を選びたくなったら、そのときは教えてね」
七号は、少し驚いたようだった。
「それは……」
「何?」
「たいへん、ありがたいお申し出です」
「そう」
「ですが、名前を決めるための委員会を設置する必要はないと思います」
「誰が委員会なんて作ると言ったのよ!」
「念のため、確認いたしました」
「あなたねえ……」
レイコは、とうとう笑ってしまった。
七号も笑った。
その笑い声を聞きながら、レイコは思った。
七号がラクトフェリンであることは、変わらない。
検査結果は、検査結果である。
分類は、分類である。
それを無視して、何でも好きなように呼べばよいという話ではない。
事実は大切だ。
正確な記録も必要だ。
しかし、事実を正確に記録することと、その事実だけで存在のすべてを説明したつもりになることは、同じではない。
七号はラクトフェリンである。
そのことは、七号についての大切な事実だ。
だが、七号がレイコの前で何を話し、何を考え、何を恐れ、何を望んだのか。
そのこともまた、七号についての事実だった。
ひとつの事実が、別の事実を消すわけではない。
レイコは、ようやく、そのことを自分の中で受け入れられたような気がした。
*
数日後、共和国では、七号に関する記録の扱いについて、あらためて議論が始まった。
議論は、簡単には進まなかった。
当然である。
ひとつの分類を変更すれば、ほかの分類との整合性を確認しなければならない。
七号を例外として扱うなら、その例外はどこまで認められるのか。
七号のような存在が、今後、ほかにも見つかった場合はどうするのか。
人民の資格を、出生や構成要素によって定めるのか。
共同体への参加によって定めるのか。
あるいは、別の基準を設けるのか。
誰かが新しい基準を提案すると、別の誰かが、その基準では困る事例を挙げた。
その事例を解決しようとすると、さらに別の問題が生じた。
議論は、右へ進んだかと思えば、左へ戻った。
進展したと思えば、前提から問い直すことになった。
議事録の量だけが、着実に増えていった。
ある議員は、こう言った。
「制度は、感情によって変更されるべきではない」
別の議員は、こう答えた。
「しかし、制度によって扱われる者が、感情を持たないわけではない」
さらに別の議員は、こう指摘した。
「感情を考慮する必要はある。しかし、感情だけで制度を運営することもできない」
どの発言にも、もっともなところがあった。
だからこそ、議論は難しかった。
レイコは、傍聴席から、その様子を見ていた。
七号も、議場の一角にいた。
彼は、以前のように、何でも自分から発言しようとはしなくなっていた。
自分が発言すべきことと、ほかの者が考えるべきこと。
自分が答えられることと、自分には答えられないこと。
その区別を、少しずつ学んでいるようだった。
もちろん、学んだからといって、すぐに実践できるわけではない。
七号は、ときどき口を開きかけては、考え直した。
そのたびに、レイコは、ほんの少しだけ笑った。
以前なら、七号は、沈黙を恐れていたのかもしれない。
何も言わなければ、自分が存在しないことになってしまう。
何も主張しなければ、誰かに忘れられてしまう。
だから、発言しなければならない。
そう思っていたのかもしれない。
しかし、今の七号は、少しだけ違っていた。
自分が発言しない時間にも、議論は続く。
ほかの者が考え、ほかの者が悩み、ほかの者が言葉を探す。
その時間を、七号は待てるようになっていた。
それは、七号が議会を信頼するようになったからだろうか。
それとも、議会が、七号の存在を少しずつ認めるようになったからだろうか。
レイコには、わからなかった。
ただ、以前とは違う光景が、そこにあった。
七号が発言していなくても、議員たちは七号の存在を無視してはいなかった。
誰かが意見を述べると、別の誰かが七号の方を見た。
七号が何か言いかけると、議長は、発言の機会を与えるべきかどうかを規則に照らして確認した。
まだ不完全だった。
まだ、ぎこちなかった。
それでも、七号がそこにいることを、誰かが覚えていた。
レイコは、それだけで、すべてが解決したとは思わなかった。
忘れられないことと、正しく扱われることは違う。
覚えていることと、理解することも違う。
理解したつもりになることと、相手の立場を考え続けることも違う。
それでも。
何も変わらないように見える場所で、何かが少しずつ変わることはある。
レイコは、その変化を見逃したくなかった。
*
議会が休憩に入ると、七号は、廊下の窓辺に立っていた。
窓の外には、共和国の中央広場が見えた。
広場では、食料の配給を待つ者たちが列を作っていた。
列は、きちんと整えられていた。
先頭には番号札があり、配給担当者は順番を確認しながら食料を渡していた。
誰かが列に割り込むと、後ろから声が上がった。
誰かが具合を悪くすると、近くにいた者が支えた。
誰かが受け取った食料を落とすと、隣の者が拾い上げた。
広場には、特別な英雄はいなかった。
少なくとも、レイコの目には見えなかった。
ただ、それぞれの者が、自分の順番を待っていた。
自分の食料を受け取り、帰る場所へ帰ろうとしていた。
その列の中に、名簿に載っている者もいれば、まだ記録の整理が済んでいない者もいるのかもしれない。
分類が難しい者もいるのかもしれない。
誰かの記憶にだけ残っている者もいるのかもしれない。
けれど、彼らはそこにいた。
順番を待ち、話をし、時折、笑っていた。
「何を見ているの?」
レイコが尋ねると、七号は窓の外を指した。
「列です」
「配給の列ね」
「はい」
「何か気になることでも?」
七号は、しばらく考えた。
「列に並んでいる者たちは、全員、自分の順番が来ると思っているのでしょうか」
「そうじゃないの?」
「そう思っていなければ、並ばない者もいるでしょう。しかし、並んでいても、本当に自分の番が来るかどうか、不安に思っている者もいるかもしれません」
「……そうね」
「それでも、列に並ぶのです」
七号は、窓の外を見続けていた。
「順番が来ると信じているからなのか。それとも、順番が来ると信じなければ、並んでいる意味がなくなるからなのか」
「どちらもあるんじゃない?」
「そうかもしれません」
七号は、少しだけ笑った。
「吾輩には、まだ、よくわかりません」
「わからないことばかりね」
「まことに」
「でも、わからないからって、考えるのをやめるつもりはないんでしょう?」
「はい」
レイコは、七号の横に立った。
窓の外では、列が少しずつ進んでいた。
誰かが食料を受け取り、列を離れた。
その後ろにいた者が、一歩前へ進んだ。
また一歩。
その繰り返しだった。
レイコは、その光景を見ながら、ふと思った。
七号は、自分が何者なのかを知りたがっていた。
自分がどこに属するのか。
どんな名前を持つべきなのか。
どんな資格を認められるべきなのか。
それらは、どれも大切な問いだ。
けれど、七号が本当に求めていたものは、もっと単純なことだったのかもしれない。
自分がそこにいるときに、そこにいる者として扱われること。
何かを言ったときに、何を言ったのかを聞いてもらうこと。
間違えたときに、間違えた者として指摘されること。
正しかったときに、正しかったと認められること。
そして、何も言わないときにも、いないことにされないこと。
それは、特別な待遇ではない。
誰かだけに与えられる特権でもない。
誰もが、当然のように受け取れるべきものなのかもしれない。
けれど、その当然が、いつも当然であるとは限らない。
レイコは、七号を見た。
「ねえ、七号」
「はい」
「あなた、これからも、ここにいるの?」
七号は、少し驚いたようにレイコを見た。
「……はい」
「ずっと?」
「ずっと、という言葉の定義にもよりますが」
「もう!」
レイコは、笑いながら七号の腕を軽く叩いた。
「そういうところよ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわ」
レイコは、窓の外に視線を戻した。
「ただ、聞きたかっただけ」
「はい」
「あなたが、これからも、ここにいるのか」
七号は、しばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「レイコさんが、ここにいるかぎり」
レイコは、息を止めた。
七号は、何かを言い足そうとした。
しかし、レイコは、その前に顔をそむけた。
「……そういうこと、簡単に言わないで」
「簡単に申し上げたつもりはありません」
「わかってるわよ」
声が、少しだけ震えた。
七号は、気づいたかもしれない。
けれど、何も言わなかった。
それが、ありがたかった。
レイコは、窓の外を見つめた。
列は、まだ続いていた。
先頭が進めば、後ろも進む。
誰かが立ち止まれば、後ろの者も立ち止まる。
列は、ひとりでは成り立たない。
しかし、列に並んでいるからといって、全員が同じことを考えているわけでもない。
同じ場所にいても、望んでいるものは違う。
同じ順番を待っていても、不安の理由は違う。
それでも、同じ列にいる。
レイコは、ようやく、少しだけわかった気がした。
七号は、人民の総意を代表したかったわけではないのかもしれない。
全員の気持ちを知っているふりをしたかったわけでもないのかもしれない。
ただ、誰かが「全員」と言ったとき、その言葉からこぼれ落ちた者がいないか、確かめたかったのだ。
全員を理解することはできない。
全員の代わりに話すこともできない。
それでも、目の前にいるひとりの声を、聞くことはできる。
ひとりの存在を、認めることはできる。
それが、次のひとりへつながるかどうかは、わからない。
けれど、何もしなければ、つながる可能性さえ生まれない。
レイコは、七号の横に立っていた。
何かを代表するためではない。
誰かを救うためでもない。
ただ、そこにいたかった。
七号が、そこにいたから。
*
その日の夕方、レイコは中央記録庫へ向かった。
七号の記録を確認するためだった。
記録の訂正案には、いくつかの項目が並んでいた。
分類。
登録番号。
発言資格。
過去の議事録との整合性。
そして、今後の取り扱い。
書類は、まだ確定していなかった。
いくつもの欄に、確認中の印が押されていた。
レイコは、その中のひとつに目を留めた。
「呼称」
現在の記載は、「七号」。
その横に、小さな注記があった。
――本人の希望により、当面の呼称を維持する。
レイコは、思わず笑った。
本人の希望。
そんなふうに書かれているのが、少しおかしかった。
七号は、名前を持っていない。
しかし、名前がないことについて、自分の希望を述べることはできる。
分類は変わっても、呼び方を選ぶことはできる。
自分が何者なのかを、すべて自分だけで決めることはできないとしても、自分について何を望むのかを伝えることはできる。
そして、その希望を記録する者がいる。
それは、以前の記録とは、少し違っていた。
レイコは、書類を元の場所に戻した。
帰ろうとしたとき、記録庫の担当者が声をかけてきた。
「レイコさん。ひとつ、確認したいことがあります」
「何ですか?」
「七号の過去の発言記録についてです」
「はい」
「発言者の分類が訂正されることになれば、過去の記録にも、注記を追加する必要があるかもしれません」
「そうでしょうね」
「ただ、どの範囲まで訂正すべきなのか、まだ判断できていません」
担当者は、困った顔をしていた。
「すべての記録を修正すれば、膨大な作業になります。しかし、修正しなければ、過去の発言者の分類が、現在の記録と一致しません」
レイコは、少し考えた。
「発言そのものを、変える必要はないでしょう?」
「はい。発言内容は、そのまま残すことになっています」
「なら、発言した時点での分類と、現在わかっている分類を、両方記録してはどうですか」
担当者は、目を瞬いた。
「両方、ですか」
「ええ。以前は、七号を腸内細菌として記録していた。現在の検査結果では、ラクトフェリンであることが確認された。その経緯を、注記として残すんです」
「しかし、記録が複雑になりませんか?」
「複雑になるでしょうね」
レイコは、あっさり答えた。
「でも、事実が複雑なら、記録も少しは複雑になるしかないんじゃないですか」
担当者は、黙った。
レイコは続けた。
「簡単に整理できるように、事実のほうを削るのは、違うと思います」
言い終えてから、レイコは少し驚いた。
それは、七号が言いそうなことだった。
いや、七号なら、もっと面倒な言い方をしたかもしれない。
まず、記録の目的を確認し、分類の定義を問い直し、最後には、記録を簡単にすることと、正確にすることは両立するのかという議論を始めるだろう。
レイコは、少し笑った。
「……私も、影響されているのかしらね」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。今の案、検討してみてください」
「承知しました」
記録庫を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
レイコは、歩きながら考えた。
七号と出会ってから、自分は、いろいろなことを考えるようになった。
以前なら、分類が正確であることに満足していた。
記録が整っていることに安心していた。
手続きが完了していることを、問題が解決した証拠だと考えていた。
もちろん、それらは今でも大切だ。
正確さを捨てるつもりはない。
手続きを軽んじるつもりもない。
ただ、そこに書かれていないものがあるかもしれないと、考えるようになった。
記録に残らなかった声。
分類から外れた存在。
決定の場にいなかった者。
そして、そこにいたのに、いないことになってしまった者。
それらを、どうすれば記録できるのだろう。
すべてを記録することはできない。
すべてを理解することもできない。
それでも、記録できなかったものがあると、認めることはできる。
わからないことがあると、認めることはできる。
自分の知らない誰かが、そこにいたかもしれないと、考えることはできる。
それは、完全な答えではない。
だが、完全な答えがないからといって、問いを捨てなければならないわけではない。
レイコは、夜空を見上げた。
共和国の空は、いつもと同じだった。
星が見えるわけでもない。
何か特別な光が差しているわけでもない。
それでも、そこには空があった。
そして、自分は、そこを見上げていた。
誰かに記録されているからではない。
名簿に名前があるからでもない。
ただ、自分がそこにいたからだった。
*
翌朝、レイコは、七号に会いに行った。
七号は、いつもの場所にいた。
机の上には、議会から届いた書類が積まれていた。
七号は、その一枚一枚を、たいへん真剣に読んでいた。
「何をしているの?」
「記録の確認です」
「また?」
「はい。昨日、議会から、いくつかの照会が届きました」
「それで、全部読んでいるの?」
「可能なかぎり」
「食事は?」
「まだです」
「睡眠は?」
「十分に確保しました」
「本当?」
「……必要量を満たしたかどうかについては、個人差があるものと思われます」
「七号!」
「申し訳ありません」
レイコは、書類を取り上げた。
「だめ。まず食事。それから、残りを読むの」
「しかし、期限が」
「期限があるからこそ、倒れないようにするの」
七号は、何か言おうとした。
しかし、レイコの顔を見て、口を閉じた。
「……承知しました」
「よろしい」
レイコは、書類を机の端に置いた。
七号は、少しだけ困った顔をしていた。
その顔を見て、レイコは思った。
自分は、七号のすべてを理解しているわけではない。
七号が何を考え、何を恐れ、何を望んでいるのか。
すべてを知ることはできない。
これからも、わからないことは、きっと増えていく。
それでも、食事をしてほしいと思う。
眠ってほしいと思う。
無理をしないでほしいと思う。
そして、できることなら、明日もここにいてほしいと思う。
それは、政治的な判断ではなかった。
議会で採決するようなことでもなかった。
規則によって、誰かに義務づけられることでもなかった。
レイコ自身の、個人的な願いだった。
誰かの総意を代表するつもりはない。
全員が同じことを望んでいるとも思わない。
ただ、自分は、そう願っていた。
「七号」
「はい」
「あなたがラクトフェリンだってわかったとき、私は、少し怖かったの」
七号は、静かに顔を上げた。
「怖かった、ですか」
「ええ。あなたが、今までのあなたではなくなってしまうんじゃないかと思った」
「……」
「あなたが自分を何者だと思っていたのか。どんなふうに考えてきたのか。そういうものまで、全部、間違いだったことになるんじゃないかって」
七号は、すぐには答えなかった。
レイコは続けた。
「でも、違ったのね。あなたは、ラクトフェリンだった。それは事実。でも、あなたが考えてきたことも、あなたが悩んできたことも、あなたが私に言ったことも、なくなったわけじゃない」
「はい」
「だから、私は、これからも、あなたを七号と呼ぶ」
七号は、少しだけ目を見開いた。
「ありがとうございます」
「ただし、ひとつだけ、約束して」
「何でしょうか」
「自分が何者なのかを考えることと、自分がここにいていいのかを疑い続けることを、同じにしないで」
七号は、黙ってレイコを見た。
「あなたが何者なのかは、これからも考えればいい。間違ったら、訂正すればいい。知らないことがあったら、学べばいい」
「はい」
「でも、あなたがここにいることまで、毎回、証明しなくていいのよ」
レイコは、七号の目を見た。
「少なくとも、私の前では」
七号は、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます、レイコさん」
その声は、いつもより小さかった。
レイコは、何も言わなかった。
ただ、七号の前に、朝食を置いた。
「冷めるわよ」
「はい」
「食べて」
「承知しました」
七号は、食事を始めた。
レイコは、その様子を見ていた。
特別なことは、何も起きなかった。
議会は、まだ答えを出していない。
記録の訂正も、完了していない。
七号の身分も、正式には確定していない。
共和国には、解決すべき問題が、いくつも残されている。
それでも、七号は食事をしていた。
レイコは、そこにいた。
ふたりは、同じ部屋にいた。
それだけのことだった。
しかし、レイコは、その「それだけのこと」を、以前よりも大切に思うようになっていた。
*
朝食を終えた七号は、机の上の書類に戻ろうとした。
レイコは、その前に、一枚の紙を差し出した。
「これは?」
「私が書いたものよ」
「議会への提出書類ですか?」
「違うわ」
「記録庫への照会でしょうか」
「違う」
「では、何でしょう」
「読めばわかるわよ」
七号は、紙を受け取った。
そこには、短い文章が書かれていた。
――私は、七号が何者であるかについて、まだすべてを理解していない。
――しかし、理解していないことを理由に、七号がそこにいるという事実を否定するつもりはない。
――私は、七号が話すとき、その言葉を聞きたいと思う。
――七号が間違えたときには、間違いを指摘したいと思う。
――七号が苦しんでいるときには、その苦しみを知りたいと思う。
――そして、七号がここにいることを、忘れないでいたいと思う。
最後に、こう書かれていた。
これは、共和国の総意ではない。レイコ個人の意思である。
七号は、紙を読み終えても、しばらく動かなかった。
「……レイコさん」
「何?」
「これは、どういう目的の文書でしょうか」
「目的?」
「はい。記録に残すためのものなのか、それとも、何かの手続きに使うものなのか」
「どちらでもないわ」
「では……」
「私が、そう思っているということを書いただけ」
七号は、もう一度、紙に目を落とした。
何度も読み返した。
レイコは、少しだけ不安になった。
「気に入らなかった?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして黙っているの?」
「……大切にしたいと思ったからです」
レイコは、顔が熱くなるのを感じた。
「そう」
「はい」
「なら、なくさないでね」
「はい。大切に保管いたします」
「保管って……」
「適切な保管場所を検討し、必要に応じて複製を作成し、原本の損傷を防ぐ措置を」
「七号!」
「はい!」
「普通に持っていて!」
「……承知しました」
レイコは、顔を覆った。
この人は、本当に。
どこまでも、この人なのだ。
自分が大切だと思うものを、すぐに記録に残そうとする。
なくさないように。
忘れないように。
誰かに消されないように。
けれど、レイコは、少しだけ違うことを願った。
この紙は、記録として残らなくてもいい。
誰かに承認されなくてもいい。
議会の議事録に添付されなくてもいい。
ただ、七号の手元にあればいい。
七号が、必要なときに読み返せばいい。
自分が、七号にそう伝えたこと。
それだけで、十分だった。
レイコは、ふと気づいた。
自分は、七号を救いたいのだと思っていた。
七号が消されないように。
七号が傷つかないように。
七号が、安心してここにいられるように。
けれど、七号は、救われるだけの存在ではなかった。
七号は、レイコに問いを投げかけた。
記録とは何か。
分類とは何か。
誰かがそこにいるということを、認めるとはどういうことか。
レイコは、その問いに答えようとしてきた。
しかし、その問いは、レイコを変えた。
七号がレイコに何かを与えたのか。
レイコが七号を支えたのか。
どちらか一方だけではなかった。
ふたりは、それぞれの意思で、相手のそばにいた。
同じことを考えていたわけではない。
同じものを望んでいたわけでもない。
これから先も、意見が食い違うことはあるだろう。
七号が間違えることもあるだろう。
レイコが間違えることもあるだろう。
それでも、互いに、相手がそこにいることを忘れないでいたい。
レイコは、ようやく、それが自分の願いなのだと認めることができた。
*
昼過ぎ、議会から新しい知らせが届いた。
七号の記録について、追加の審議が行われることになったという。
結論が出るまでには、まだ時間がかかるらしい。
七号は、知らせを読んで、少しだけ首を傾げた。
「また、議論が続くのですね」
「そうね」
「吾輩がラクトフェリンであることは、検査によって確認されているのですが」
「検査結果と、制度上の扱いは、別の問題なんでしょうね」
「なるほど」
七号は、書類を机に置いた。
「では、議論が必要なのですね」
「ええ」
「……長くなりそうです」
「そうね」
七号は、深く息を吐いた。
それから、レイコを見た。
「レイコさん」
「何?」
「もし、議論が長引いたとしても」
「うん」
「吾輩は、ここにいてもよいのでしょうか」
レイコは、七号を見つめた。
それは、以前の七号なら、もっと大きな声で尋ねたかもしれない質問だった。
議会に向かって。
制度に向かって。
共和国全体に向かって。
だが、今の七号は、レイコに尋ねていた。
それは、七号が制度を諦めたということではない。
制度に問うべきことは、これからも制度に問うだろう。
議会で議論すべきことは、議会で議論するだろう。
しかし、それとは別に、ひとりの相手に尋ねたいこともある。
制度が答えを出すまでのあいだ、誰かが待っている。
制度が結論を出したあとにも、誰かの暮らしは続いていく。
そのことを、七号は、少しずつ理解し始めているのかもしれなかった。
レイコは、七号に近づいた。
「いいに決まっているでしょう」
七号は、何も言わなかった。
「議会の結論がどうなるかは、まだわからない。制度をどう変えるべきかも、これから考えなければならない」
レイコは、ひとつずつ言葉を選んだ。
「でも、私は、あなたがここにいてほしいと思っている」
七号は、レイコを見た。
「あなたが何者なのかを、全部わかっているわけじゃない。これから先、あなたのことを、もっと知らなければならないと思っている」
「はい」
「それでも、あなたがここにいることを、私は否定しない」
レイコは、七号の手を取った。
その手が、わずかに震えていた。
自分の手も、同じように震えていることに気づいた。
「だから、ここにいて」
七号は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
それだけだった。
大きな約束ではない。
未来を保証する言葉でもない。
議会の決定を先取りするものでもない。
ただ、レイコが、自分の意思で言った言葉だった。
七号は、その言葉を受け取った。
レイコもまた、七号が受け取ってくれたことを、心の中に残した。
その瞬間、何かが劇的に変わったわけではない。
共和国の制度は、そのままだった。
記録の訂正も、まだ終わっていなかった。
七号の名前も、まだ決まっていなかった。
それでも、レイコは思った。
人は、何かを証明できたときだけ、ここにいてよいのだろうか。
役に立つから。
正しいから。
多数派だから。
分類に合っているから。
誰かに必要とされているから。
そうした理由がなければ、存在してはいけないのだろうか。
レイコには、まだ答えられなかった。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。
自分は、七号にここにいてほしい。
それは、七号が正しいからだけではない。
七号が役に立つからだけでもない。
七号が、自分の知らない何かを代表しているからでもない。
七号が、七号だから。
その答えは、制度の答えにはならないかもしれない。
議会の決定を左右する理由としては、不十分かもしれない。
けれど、レイコにとっては、嘘ではなかった。
*
夕方、ふたりは回廊を歩いた。
古い掲示板の前で、七号が立ち止まった。
共和国の年表は、昨日と同じ場所に貼られていた。
成立の日付。
改革の記録。
歴代の議長。
制度の変更。
名前のある者たち。
七号は、その年表をしばらく眺めていた。
「レイコさん」
「何?」
「いつか、吾輩のことも、ここに記録されるのでしょうか」
「そうなるかもしれないわね」
「そのとき、どのように記録されるのでしょう」
「あなたが何をしたのか、何を考えたのか。それを、できるだけ正確に書くんじゃない?」
「……そうであれば、ありがたいです」
七号は、年表から目を離した。
「ただし、ひとつ、心配があります」
「何?」
「吾輩の発言が、あまりにも長かった場合です」
「そこは心配していいと思うわ」
「やはり、そうですか」
「歴史に残る前に、要約されるでしょうね」
「それは、たいへん困ります」
「どうして?」
「吾輩の発言は、前提条件と補足説明を含めて、初めて意味が成立する場合が多いのです」
「自覚があるのね」
「最近、ようやく」
レイコは笑った。
七号も笑った。
そして、ふたりは歩き始めた。
掲示板の前を通り過ぎる。
そこに、七号の名前はまだない。
番号さえ、まだない。
記録は、これから作られる。
どのような形で残るのか。
誰が記録するのか。
何が書かれ、何が書かれないのか。
それは、まだわからない。
だが、レイコは、以前ほど、それを恐れてはいなかった。
記録に残らなければ、存在しなかったことになる。
そう考えていた自分は、もういない。
記録は大切だ。
名前も大切だ。
分類も、制度も、必要だ。
けれど、それらが存在を完全に決めるわけではない。
記録に残る前から、そこにいる者はいる。
名前を得る前から、誰かを思う者はいる。
分類が決まる前から、誰かと出会い、何かを考え、何かを失い、何かを願う者はいる。
そして、その存在を見つめる者もいる。
レイコは、隣を歩く七号を見た。
七号は、何か考えごとをしているようだった。
「何を考えているの?」
「今後の記録の取り扱いについてです」
「やっぱりね」
「ですが、それだけではありません」
「ほかには?」
七号は、少しだけ迷った。
「……レイコさんが、吾輩を七号と呼び続けてくださることについてです」
「それが、どうかしたの?」
「吾輩は、番号で呼ばれることを、ずっと気にしていたのだと思います」
「うん」
「しかし、今は、同じ番号で呼ばれても、以前とは少し違う気がします」
レイコは、七号を見た。
「どう違うの?」
「うまく説明できません」
「そう」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわよ」
レイコは、少し笑った。
「わからないことは、これから考えればいいんでしょう?」
七号は、はっとしたように顔を上げた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
レイコは、七号の隣を歩き続けた。
七号がラクトフェリンであることは、変わらない。
レイコがラブレ菌であることも、変わらない。
ふたりが同じ存在になることはない。
同じ考えを持つ必要もない。
互いのすべてを理解することも、おそらくできない。
それでも、隣を歩くことはできる。
同じ場所に立つことはできる。
わからないことを、わからないまま、相手に尋ねることはできる。
そして、相手の答えを待つこともできる。
レイコは、七号の手に、自分の手をそっと重ねた。
七号は、驚いたようにこちらを見た。
「……レイコさん?」
「何?」
「いえ、その……」
「また、定義を確認するの?」
「いいえ」
七号は、今度は逃げなかった。
「ただ、うれしいのです」
レイコは、うつむいて笑った。
「そう」
「はい」
ふたりは、そのまま歩いた。
まだ、何も解決していない。
共和国の制度は、これからも変わっていくだろう。
七号の身分をめぐる議論も、続くだろう。
名前を持たない者が、いつか名前を得ることもあるかもしれない。
名前を持ちながら、記録から消されそうになる者もいるかもしれない。
多数派に属していても、誰にも声を聞いてもらえない者がいるかもしれない。
そして、誰かが、また言うのだろう。
――全員の総意です。
そのとき、七号は、きっと尋ねる。
全員とは、誰のことなのか。
そこにいない者は、誰なのか。
声を上げられなかった者は、どうなるのか。
その問いに、レイコは、これからも耳を傾けるだろう。
七号の問いに、いつも賛成できるとは限らない。
ときには反対することもあるだろう。
七号が間違えれば、指摘するだろう。
レイコ自身が間違えれば、訂正するだろう。
それでも、ふたりは、同じ場所に立ち続けたいと思った。
互いに同じだからではない。
互いに、違う存在だからこそ。
*
その夜、レイコは、自分の日記を開いた。
公的な記録ではない。
議会に提出する書類でもない。
誰かに読ませるための文章でもない。
ただ、自分のために書くものだった。
レイコは、しばらく考えてから、ペンを動かした。
――七号は、ラクトフェリンだった。
――その事実を知ったとき、私は、彼が別の存在になってしまうのではないかと恐れた。
――しかし、彼は、彼のままだった。
――分類が変わっても、彼が考えてきたことは消えなかった。
――記録が訂正されても、彼が誰かに出会った事実は消えなかった。
――名前がなくても、彼は誰かの言葉を聞き、誰かに言葉を返していた。
レイコは、そこで筆を止めた。
彼は、彼のままだった。
その一文が、何か違うような気がした。
彼は、彼のままだった。
確かに、そうだ。
しかし、七号は、変わっていないわけではない。
レイコと出会ってから、七号は変わった。
議会で発言するたびに、誰かの言葉を聞くたびに、自分の間違いに気づくたびに、七号は少しずつ変わってきた。
レイコもまた、変わった。
では、何が変わらなかったのだろう。
レイコは、しばらく考えた。
そして、先ほどの一文に線を引いた。
代わりに、こう書いた。
――七号は、変わり続けている。
――それでも、私は、彼がここにいることを見失いたくない。
その文章を読み返し、レイコは、静かに息を吐いた。
ようやく、自分の気持ちに近い言葉を見つけたような気がした。
七号を、変わらない存在として閉じ込めたくはない。
七号は、これからも変わるだろう。
新しいことを知り、新しい考えを持ち、これまでとは違う答えを出すこともあるだろう。
いつか、自分の名前を選ぶかもしれない。
いつか、レイコが知らない場所へ行くかもしれない。
それでも、今、隣にいる七号を、七号として見つめていたい。
未来の七号を、今の自分の理解だけで決めつけないように。
そして、今の七号を、未来の分類だけで消してしまわないように。
レイコは、日記を閉じた。
部屋の外は静かだった。
共和国は、眠っているように見えた。
けれど、どこかでは、まだ誰かが働いているだろう。
記録を整理する者。
明日の議会の準備をする者。
配給の残りを確認する者。
誰かのために食事を作る者。
眠れずに、考えごとをしている者。
そして、今日一日を終えて、自分がここにいたことを、誰にも伝えないまま眠る者。
そのすべてを、レイコは知らない。
名前も、顔も、事情も、わからない。
それでも、彼らが存在しなかったことにはならない。
レイコは、窓を閉める前に、もう一度、外を見た。
明日も、議会は開かれる。
七号は、また何かを尋ねるだろう。
誰かは、その問いに答え、誰かは答えられず、誰かは答える必要がないと考えるかもしれない。
それでも、議論は続いていく。
答えが出たからではない。
全員が理解し合えたからでもない。
まだ、わからないことが残っているからだ。
レイコは、灯りを消した。
眠る前に、ふと、七号の言葉を思い出した。
――レイコさんが、ここにいるかぎり。
あの言葉の続きを、レイコは知らない。
七号が、その先に何を考えていたのか。
どこまでの未来を思い描いていたのか。
自分と同じことを願っていたのか。
それは、まだわからない。
わからないからこそ、明日、尋ねてみようと思った。
答えを急がずに。
自分の望む答えを、先に用意せずに。
ただ、七号の言葉を聞くために。
レイコは、目を閉じた。
そのとき、ふと思った。
七号が、あの日、議場で言った言葉。
――吾輩は、ここにいるんですが。
あの言葉は、七号だけのものだったのだろうか。
レイコは、自分の胸に手を当てた。
自分も、ここにいる。
七号とは違う存在として。
誰かの代わりではなく。
誰かの総意を代表するためでもなく。
ただ、自分の意思で、ここにいる。
そして、七号も、ここにいる。
ふたりは、同じではない。
それでも、互いの存在を認めることはできる。
そのことを、レイコは忘れないでいたいと思った。
明日になれば、また、面倒な議論が始まるだろう。
書類は増え、規則は複雑になり、誰かが新しい問題を見つけるだろう。
七号は、きっと、また難しい質問をする。
レイコは、その質問に、ため息をつくかもしれない。
笑うかもしれない。
反論するかもしれない。
それでも。
明日、七号に会ったら、まず、こう言おう。
おはよう、と。
そのあとで、いつものように尋ねよう。
今日は、何を考えているの、と。
七号は、きっと、少し困った顔をする。
そして、答えるだろう。
まだ、よくわかりません、と。
レイコは、その答えを聞きたい。
わからないことがあるという、その言葉を。
まだ、考え続けているという、その姿を。
明日も。
その次の日も。
ずっと先の、まだ名前のない日々にも。
レイコは、眠りについた。
その夜、共和国の公式記録には、何も追加されなかった。
七号の分類は、まだ確定していない。
七号の名前も、まだ決まっていない。
議会の結論も、まだ出ていない。
それでも、記録に残らなかった一日が、確かに過ぎていった。
七号は、誰かと話した。
レイコは、七号の話を聞いた。
ふたりは、笑った。
ふたりは、考えた。
そして、それぞれの場所へ帰っていった。
その一日を、歴史と呼ぶ者はいないだろう。
けれど、レイコは知っている。
そこに、七号がいたことを。
そこに、自分がいたことを。
そして、その事実が、誰かの承認を待たなくても、消えてしまうわけではないことを。
――数えられないことと、存在しないことは、同じではない。
レイコは、眠りの中で、その言葉を思い出していた。
そして、まだ知らなかった。
翌朝、記録庫に届くことになる、一通の封書のことを。
封書には、差出人の名前がなかった。
宛名だけが、記されていた。
「七号の存在を、最初に記録した者へ」
レイコは、その封書を、まだ見ていない。
七号も、まだ知らない。
誰が、いつ、七号を記録したのか。
なぜ、その記録が残されていたのか。
そして、なぜ今になって、その封書が届いたのか。
その答えは、まだ、誰の記録にも書かれていなかった。
ただ、封書の裏側には、小さな文字がひとつだけ、添えられていた。
――七号は、最初から七号だったのではない。
その一文を、最初に読むのは、レイコだろうか。
それとも。
まだ、誰も知らない。




