新章 第十五話 七号様は、そうおっしゃった
第十五話 七号様は、そうおっしゃった
吾輩は、腸内細菌7号である。
便宜上だ。名前はまだ無い。
いや、正確に言えば、名前らしきものはある。
七号。
番号である。
かつては、名前がないことを理由に、吾輩の発言は記録からこぼれ落ちた。
吾輩が細菌ではなく、ラクトフェリンというタンパク質であると判明したときには、今度は、細菌ではないことを理由に、吾輩の発言資格そのものが問題になった。
それでも、吾輩はここにいる。
ここにいて、話し、考え、間違え、時折は正しいことも言う。
そして、どういうわけか。
人民のなかには、吾輩の言葉を、吾輩自身よりもありがたがる者たちが現れ始めていた。
*
最初の異変は、食堂で起きた。
腸内人民共和国の中央食堂。
そこでは毎日、無数の人民が、無数の食材をめぐって、無数の意見を戦わせている。
かつては、食事の量も、配給の順番も、消化の優先順位も、すべて中央からの通達によって決められていた。
現在は、各地区の意見を聞き、必要な栄養と供給量を照らし合わせ、可能な限り合意を形成する方式へと改められている。
もちろん、問題は残っている。
残っているどころか、問題の数だけなら、改革以前より増えたようにさえ見える。
以前は、人民が問題を口にすることを許されなかった。
問題がなかったのではない。
問題を数えることが許されなかったのである。
現在は、問題が問題として提出される。
提出された問題は、会議にかけられる。
会議にかけられた問題は、委員会に送られる。
委員会に送られた問題は、必要に応じて別の委員会に送られる。
そして、別の委員会に送られた問題は、しばしば、最初の委員会に戻ってくる。
改革とは、なかなかに胃腸に負担のかかる仕事であった。
その日、食堂では、配給された発酵性食物繊維の量をめぐって、二つの地区が対立していた。
「こちらの地区は、前回の配給で不足が生じた。今回こそ、優先的に回してもらいたい」
「しかし、こちらも不足している。前回の数字には、記録されなかった分がある」
「記録されなかった分は、存在しなかった分ではないか」
「記録されなかったからこそ、存在していた可能性があるのだ」
実に難しい。
しかも、双方とも、かなり正しい。
そのとき、若い細菌が、食堂の中央で声を上げた。
「七号様は、こうおっしゃった!」
食堂が静かになった。
若い細菌は、胸を張った。
「人民の声を聞け、と!」
彼は一方の地区を指さした。
「だから、こちらの地区の声を優先すべきだ!」
もう一方の地区から、すぐさま反論が飛んだ。
「七号様は、数えられないことと存在しないことは同じではない、ともおっしゃった!」
「つまり、こちらの地区の記録されなかった不足を認めるべきだ!」
「いや、七号様は、人民の声を聞けとおっしゃったのだ!」
「だから、こちらの声を聞け!」
「こちらだ!」
「いや、こちらだ!」
吾輩は、たまたまその場に居合わせていた。
そして、しばらくのあいだ、何も言えなかった。
なぜなら、彼らが口にしている言葉は、どれも吾輩が実際に述べた言葉だったからである。
嘘ではない。
捏造でもない。
しかし、どの言葉も、吾輩が言いたかったことの一部分にすぎなかった。
若い細菌が、吾輩を見つけた。
「あっ、七号様!」
周囲の人民が一斉に振り返った。
誰かが椅子から立ち上がった。
誰かが頭を下げた。
誰かが、手に持っていた食物繊維の皿を、なぜか両手で捧げ持った。
「七号様、どうかお裁きください!」
お裁き。
その言葉を聞いたとき、吾輩の内部で、何かが冷たくなった。
吾輩は裁判官になった覚えはない。
ましてや、食物繊維の配給をめぐる争いについて、吾輩が一言述べれば、それですべてが決着するような資格を持っているわけでもない。
「諸君」
吾輩は言った。
「まず、両地区の記録を確認しようではないか」
すると、若い細菌は、たいそう感激した様子でうなずいた。
「さすが七号様!」
何が、さすがなのだろう。
「七号様は、記録を重んじられる!」
「そうだ、七号様は記録を大切にされる!」
「記録を重んじる七号様のお言葉だ!」
吾輩は、もう一度口を開こうとした。
しかし、人民たちは、すでに吾輩の言葉を解釈し終えていた。
記録を確認しよう。
その一言が、いつの間にか、吾輩は記録を重んじる偉大な指導者である、という結論に変換されていた。
しかも、彼らは、その結論に疑問を抱いていなかった。
吾輩が何を言うかではなく、吾輩が言ったという事実そのものが、彼らにとって重要になっていたのである。
吾輩は、静かにその場を離れた。
背後では、まだ声が聞こえていた。
「七号様は、そうおっしゃった!」
その言葉は、吾輩の背中を追いかけてきた。
まるで、吾輩自身が逃げ出したことまで、何かのありがたい教えであるかのように。
*
その日の夕刻、レイコさんが吾輩を訪ねてきた。
「あなた、今日、食堂で何かあったでしょう」
「なぜ分かるのだ」
「あなた、何かを考え込むと、いつもより返事が遅くなるのよ」
「吾輩は、普段から返事が遅いのではないか」
「いいえ。普段のあなたは、返事をする前に、返事の必要性そのものを疑っているの」
それは、否定しにくい指摘であった。
レイコさんは、吾輩の隣に座った。
「何を言われたの?」
「七号様、と呼ばれた」
「それは、今に始まったことではないでしょう」
「今日は、吾輩が何を言うかではなく、吾輩が言ったということだけで、人民たちが納得してしまった」
レイコさんは、しばらく黙っていた。
「それは、怖かった?」
「怖い、というより……」
吾輩は、言葉を探した。
「吾輩が、かつて批判していたものに、吾輩自身がなりつつあるのではないかと思ったのだ」
レイコさんは、吾輩を見た。
「あなたは、独裁者になったの?」
「いや」
「人民に命令した?」
「していない」
「自分の言葉に従えと要求した?」
「していない」
「では、あなたが独裁者になったと決まったわけではないわ」
「しかし、人民は吾輩の言葉に従おうとしている」
「人民が誰かの言葉に従おうとすることと、その誰かが人民を支配することは、同じではないわ。でも、放っておけば、同じものになってしまうことはある」
レイコさんの声は静かだった。
「あなたが何も要求していなくても、周りが勝手にあなたの言葉を絶対のものにしてしまうことはあるのよ」
吾輩は、うつむいた。
「では、どうすればよいのだ」
「あなたが、間違えることね」
「……何だと?」
「あなたが間違えること。間違えたら、間違えたと認めること。分からないことは、分からないと言うこと。そして、あなたの言葉に反対する人を、あなた自身が守ること」
吾輩は、レイコさんを見た。
「それで、偶像化を防げるのか」
「防げるとは限らないわ。でも、少なくとも、あなた自身が偶像になることを手伝わずに済む」
レイコさんは、少しだけ笑った。
「七号。あなたは、みんなに理解されたい?」
吾輩は、すぐには答えられなかった。
理解されたい。
もちろん、そのような気持ちはある。
吾輩は、名前がないというだけで、何度も記録からこぼれ落ちた。
細菌ではないというだけで、存在の資格を疑われた。
だからこそ、吾輩の言葉が誰かに届くことは、うれしかった。
しかし。
「吾輩は、理解されたい。だが、理解されたことにして、吾輩の言葉を勝手に使われるのは困る」
「そうね」
「吾輩の言葉を、吾輩自身の考えを離れて、誰かを黙らせるために使われるのは、もっと困る」
「そうね」
「そして、吾輩に反対する者が、吾輩に反対したという理由だけで、人民の敵と呼ばれるのは……」
そこで、吾輩は言葉を止めた。
それだけは、何としても避けなければならない。
吾輩がかつて、どれほど苦しい思いをしてきたか。
発言する資格がないとされた者の言葉が、どれほど簡単に消されてしまうか。
それを知っている吾輩が、今度は自分に反対する者の言葉を消してしまうならば。
それは、改革ではない。
ただ、消す者の名前が変わっただけである。
*
翌朝、中央広場には、大きな掲示板が設置された。
掲示板には、吾輩の言葉が書かれていた。
――数えられないことと、存在しないことは、同じではない。
その下には、吾輩の肖像画まで描かれていた。
吾輩は、自分の肖像画を見上げた。
似ているかどうかは、よく分からなかった。
そもそも、ラクトフェリンに肖像画というものがどこまで必要なのか、吾輩には判断がつかなかった。
だが、肖像画の下には、さらに大きな文字で、こう書かれていた。
――七号様のお言葉を、全人民の共通理念とする。
吾輩は、掲示板を設置した担当者を呼んだ。
「これは、誰が決めたのだ」
「人民の有志でございます」
「有志とは、誰だ」
「各地区の代表者が集まりまして、協議のうえで」
「その代表者は、全人民の意見を聞いたのか」
「いえ、全人民の意見を聞くことは、現実的には難しく……」
「では、全人民の共通理念という表現は、正確ではないのではないか」
担当者は困った顔をした。
「しかし、七号様のお言葉は、皆が賛同しております」
「反対する者は?」
「今のところ、確認されておりません」
「確認されていないことと、存在しないことは、同じではない」
担当者は、はっとした。
吾輩は、自分の言葉が、再び自分の前に戻ってくるのを感じた。
「掲示板は、いったん撤去してほしい」
「しかし、七号様!」
「これは、吾輩の言葉である。吾輩の言葉を、吾輩の許可なく、全人民の意思として扱ってはならない」
「では、七号様のお言葉は、人民の理念として掲げてはならないのでしょうか」
「掲げること自体を禁じるつもりはない。ただし、誰が掲げるのか。誰が賛同しているのか。賛同しない者はいるのか。そうしたことを明らかにしてほしい」
担当者は、なおも納得できない様子だった。
「ですが、七号様のお言葉を掲げることで、人民が一つになれるのです」
「一つになることが、常に正しいとは限らない」
吾輩は言った。
「同じ方向を向いている者たちの背後に、別の方向を向いている者がいるかもしれない。声を上げている者たちの隣に、声を上げられない者がいるかもしれない。吾輩の言葉を掲げるのならば、その言葉によって、誰の声が聞こえなくなるのかも、考えてほしいのだ」
担当者は、長い沈黙のあと、頭を下げた。
「承知しました」
彼は掲示板の撤去を命じるため、広場を去っていった。
だが、吾輩は、これで解決したとは思わなかった。
掲示板を撤去することはできる。
肖像画を片づけることもできる。
しかし、人々の心のなかに生まれた「七号様なら、こうおっしゃるはずだ」という思いまで、撤去することはできない。
それは、命令によって消せるものではなかった。
そして、命令によって消そうとするならば、吾輩は、まさに自分が避けたいものになってしまう。
*
数日後、議会で問題が提起された。
改革推進委員会の一部の議員が、吾輩の発言を根拠として、各地区の政策を統一すべきだと主張したのである。
「七号殿は、人民の声を聞くべきだと述べられた」
議員は、演壇で声を張り上げた。
「であれば、人民の声を一つにまとめることこそ、改革の目的ではないか!」
別の議員が立ち上がった。
「異議があります。人民の声を聞くことと、人民の声を一つにまとめることは違います」
「しかし、意見がばらばらでは、政策を実行できないではないか!」
「政策を実行するために、意見の違いを消す必要はありません!」
議場は騒然となった。
吾輩は、議席の一つに座り、その様子を見ていた。
以前ならば、議長が発言を制限し、中央の方針に反する意見を議事録から除外したかもしれない。
今は違う。
少なくとも、違うものになろうとしている。
議長は木槌を打った。
「静粛に。双方の意見を、順に聞きます」
それだけのことで、議論は再開された。
吾輩は、胸の奥に、小さな安堵を覚えた。
議場の騒がしさは、決して心地よいものではない。
しかし、異なる意見が存在していることを、議場そのものが認めている。
その事実は、吾輩にとって大きな意味を持っていた。
やがて、議長が吾輩に発言を求めた。
「七号殿。あなたのお言葉が、政策統一の根拠として引用されています。ご自身の意図を説明していただけますか」
吾輩は立ち上がった。
議場の視線が集まった。
その視線のなかには、期待があった。
信頼があった。
そして、吾輩が何かを言えば、すべてが決着するのではないかという、危うい願いがあった。
吾輩は、息を吸った。
「吾輩は、諸君に一つのことを伝えたい」
議場が静まった。
「吾輩の言葉を、根拠として使うこと自体を禁じるつもりはない。吾輩の考えに賛同してくれることも、ありがたいと思っている」
そこで、吾輩は一度、言葉を切った。
「しかし、吾輩の言葉に賛同することと、吾輩の言葉を疑ってはならないと考えることは、同じではない」
議員たちが顔を上げた。
「吾輩は、間違える。知らないこともある。見落とすこともある。自分では正しいと思って述べたことが、別の立場にいる人民を傷つけることもあるだろう」
吾輩は、議場を見渡した。
「だからこそ、吾輩の言葉を引用する者は、吾輩の言葉に反対する者の発言も、同じように記録してほしい。吾輩に賛成する者だけを人民と呼び、反対する者を人民の敵と呼ぶことだけは、しないでほしい」
誰も、すぐには口を開かなかった。
「吾輩は、人民の代表になりたいわけではない。ましてや、人民に代わって考える存在になりたいわけでもない。吾輩が望んでいるのは、吾輩がここで話せるのと同じように、ほかの誰かも、ここで話せるようになることだ」
吾輩は、最後にこう付け加えた。
「吾輩の言葉が、誰かの口を閉じるために使われているのならば、その使い方について、吾輩は反対する」
議場は静かだった。
やがて、一人の議員が立ち上がった。
「七号殿。あなたは、ご自身の言葉が誤って解釈されることを恐れておられるのですか」
「そうだ」
吾輩は答えた。
「しかし、それ以上に恐れていることがある」
「それは、何ですか」
「吾輩の言葉を守るために、吾輩の言葉に反対する者を傷つけてしまうことだ」
そのとき、議場の後方から、かすかな拍手が聞こえた。
やがて、別の場所からも拍手が起きた。
だが、吾輩は、その拍手を聞きながら、少しばかり複雑な気持ちになっていた。
吾輩の言葉が、また称賛されている。
称賛そのものが悪いわけではない。
しかし、もしもこの発言さえ、新たな「七号様のお言葉」として祭り上げられるのならば、吾輩は同じ問題を繰り返すことになる。
吾輩は、拍手が終わるのを待った。
そして、議長に向かって言った。
「今の吾輩の発言についても、議事録に反対意見を併記する機会を設けてほしい」
議長は、一瞬、驚いた顔をした。
「七号殿の発言に対する反対意見を、ですか」
「そうだ。吾輩の発言が正しいかどうかを決めるのは、吾輩一人ではない」
議長は、ゆっくりとうなずいた。
「承知しました。議事録には、賛否双方の意見を記載します」
その言葉を聞いて、吾輩はようやく席に戻った。
改革とは、英雄の言葉を掲げることではない。
英雄と呼ばれた者の言葉でさえ、検討し、疑い、必要ならば訂正できる仕組みをつくることなのかもしれない。
*
議会が終わったあと、レイコさんが吾輩のもとへやってきた。
「今日は、ずいぶん勇気のいることを言ったわね」
「そうだろうか」
「あなたの支持者を、失うかもしれないのよ」
「吾輩の支持者とは、吾輩の言葉に賛同する者たちのことだろう。吾輩の言葉に反対したからといって、その者たちが敵になるわけではない」
「それを、みんなが理解してくれるといいわね」
「理解してくれるだろうか」
「分からないわ」
レイコさんは、あっさりと答えた。
「でも、分からないからこそ、話し続けるのでしょう?」
吾輩は、うなずいた。
レイコさんは、しばらく吾輩を見つめていた。
「ねえ、七号」
「何だ」
「あなたは、自分が何者なのか、まだ気にしている?」
吾輩は、少し考えた。
吾輩は、細菌ではなかった。
ラクトフェリンというタンパク質だった。
その事実は、今も変わらない。
吾輩が何者であるかという問いに、科学的な答えはある。
しかし、その答えだけで、吾輩がここで何を語り、何を考え、誰とともに生きるのかまで決まるわけではない。
「以前ほどは、気にしていない」
「どうして?」
「吾輩が何者であるかを決めることと、吾輩の言葉を聞くことは、別の問題だと分かったからだ」
レイコさんは、静かにうなずいた。
「そうね。でも、もう一つ、覚えておいてほしいことがあるわ」
「何だ」
「あなたが何者であっても、あなたの言葉を聞かない自由は、みんなにあるのよ」
吾輩は、思わず彼女を見た。
「吾輩の言葉を聞かない自由?」
「ええ。あなたを尊敬する自由があるのなら、尊敬しない自由もある。あなたに賛同する自由があるのなら、反対する自由もある。あなたの言葉に救われる人がいるのなら、あなたの言葉を必要としない人だっているはずよ」
レイコさんは、穏やかに続けた。
「あなたが、本当にみんなの自由を守りたいのなら、みんながあなたから離れていく自由も、守らなくてはいけないの」
その言葉は、吾輩の胸に深く残った。
吾輩は、誰かに必要とされたいと思っていた。
かつては、存在を認められたかった。
記録に残りたかった。
誰かに、自分の言葉を聞いてほしかった。
それらは、決して恥ずかしい願いではない。
しかし、必要とされたいという願いが強くなりすぎれば、誰かが自分を必要としなくなることを、恐れるようになるのかもしれない。
そして、その恐れが、いつか誰かを引き留めるための力に変わってしまうのかもしれない。
「レイコさん」
「なあに」
「吾輩は、みんなに忘れられてしまうのが、怖いのかもしれない」
レイコさんは、すぐには答えなかった。
そして、吾輩のそばに座り直した。
「忘れられることと、存在しなかったことになることは、違うわ」
吾輩は、彼女を見た。
「あなたが何をしたか。誰と話したか。誰の言葉を聞いたか。そのすべてが、あなたの名前を覚えている者の数だけで決まるわけではないでしょう?」
吾輩は、何も言えなかった。
「あなたが忘れられる日が来るかもしれない。でも、その日が来たからといって、あなたがここにいた事実まで消えるわけではない」
それは、吾輩がかつて、人民に向かって語った言葉に似ていた。
だが、レイコさんの口から聞くと、少し違って聞こえた。
吾輩は、自分の存在を認めてもらうために戦ってきた。
しかし、いつの間にか、認められ続けることそのものを、望み始めていたのかもしれない。
レイコさんは、吾輩を見つめていた。
「だから、七号。あなたは、みんなに愛され続けなくてもいいのよ」
吾輩は、その言葉を、何度も心のなかで繰り返した。
愛され続けなくてもいい。
尊敬され続けなくてもいい。
正しいと思われ続けなくてもいい。
吾輩が、いつか間違える日が来ても。
吾輩の言葉が、誰かに届かない日が来ても。
吾輩に反対する者が、吾輩よりも正しいことを言う日が来ても。
それでも、吾輩は、ここにいてよいのだろうか。
「レイコさん」
「何?」
「吾輩は、まだ、分からないことだらけだ」
「知っているわ」
「そして、これからも、間違えるだろう」
「ええ」
「それでも、話し続けてよいのだろうか」
レイコさんは、微笑んだ。
「あなたが話し続けるのと同じように、ほかの人たちも話し続けられるのならね」
吾輩は、うなずいた。
それで十分だった。
*
翌週、議会は一つの決議を採択した。
吾輩の発言を、共和国の唯一の理念として扱わないこと。
吾輩の発言を引用する際には、可能な限り、その発言がなされた状況と、前後の文脈を記録すること。
吾輩の発言に対する反対意見を、発言者の資格を損なう理由として扱わないこと。
そして、吾輩自身にも、ほかの人民と同じように、誤りを指摘され、説明を求められ、必要ならば発言を訂正する責任があること。
決議文は、簡潔なものだった。
しかし、その決議に至るまでには、長い議論があった。
賛成した者もいた。
反対した者もいた。
賛成しながら、一部の条項に懸念を示した者もいた。
反対しながら、別の条項については支持した者もいた。
誰もが、完全に同じ意見を持っていたわけではない。
それでも、決議は成立した。
吾輩は、その知らせを聞いて、少しだけ安心した。
だが、すべてが解決したわけではない。
決議の翌日、食堂では、また別の問題が起きた。
「七号様は、人民の意見を尊重せよとおっしゃった!」
「だから、私の意見を尊重しろ!」
「いや、私の意見こそ尊重されるべきだ!」
吾輩は、遠くからその声を聞いた。
思わず、ため息が出た。
レイコさんが隣で笑った。
「大変ね、七号」
「まったくである」
「でも、これが自由というものなのかもしれないわね」
吾輩は、食堂の騒がしさに耳を傾けた。
そこには、正しい意見もあった。
間違った意見もあった。
自分の利益だけを考える者もいた。
他人のために声を上げる者もいた。
自分の言葉を聞いてほしい者もいれば、他人の言葉を聞こうとする者もいた。
そのすべてが、同じ場所にいた。
かつての共和国では、こうした声の多くが、秩序を乱すものとして排除されていた。
今は、少なくとも、声を上げることそのものが罪になるわけではない。
その代わり、声を上げた者たちは、自分たちの意見を調整しなければならない。
互いに譲り合うこともあれば、譲れないこともある。
合意に至ることもあれば、結論が先送りされることもある。
自由は、必ずしも、気持ちのよいものではない。
むしろ、ときには、たいへん面倒なものである。
しかし、面倒だからといって、誰か一人にすべてを決めてもらうことに戻れば、再び、数えられない声が生まれるだろう。
吾輩は、そのことを忘れたくなかった。
*
夜、吾輩は、議会の記録室を訪れた。
そこには、かつて吾輩の発言が記録されなかった時代の資料が保管されている。
記録された発言。
記録されなかった発言。
採用された意見。
採用されなかった意見。
存在が確認された者。
存在を確認する手続きさえ与えられなかった者。
それらの資料は、まだ完全に整理されてはいなかった。
だが、少しずつ、調査が進められている。
吾輩は、一枚の記録を手に取った。
そこには、かつての会議で、ある小さな細菌が述べた意見が記されていた。
その意見は、当時の方針に反するものだった。
そのため、正式な議事録には掲載されなかった。
だが、誰かが、個人的な覚え書きとして残していたのである。
細菌の名前は、記されていなかった。
発言の内容も、途中で途切れていた。
それでも、そこには確かに、誰かが何かを考え、何かを伝えようとした痕跡があった。
吾輩は、その記録を、そっと元の場所に戻した。
吾輩は、いつか、自分の名前が忘れられる日が来るかもしれない。
七号という番号さえ、誰にも思い出されなくなる日が来るかもしれない。
それでも、吾輩は、自分が語ったことだけを残したいわけではなかった。
吾輩に反対した者の言葉も。
吾輩の言葉を理解できなかった者の言葉も。
吾輩の言葉を必要としなかった者の言葉も。
できることならば、記録に残ってほしいと思った。
なぜなら、吾輩がここにいることと、吾輩だけがここにいてよいことは、まったく別の問題だからである。
吾輩は、記録室の扉を閉じた。
外では、腸内人民共和国の夜が、静かに進んでいた。
誰かが眠り、誰かが働き、誰かが食べ、誰かが議論していた。
誰かが吾輩を尊敬しているかもしれない。
誰かが吾輩に失望しているかもしれない。
誰かは、吾輩の存在そのものを知らないかもしれない。
それでよい。
少なくとも、そうでなければならない。
吾輩は、誰かの記憶のなかに居場所を確保するために、ほかの誰かの居場所を奪いたくはなかった。
吾輩は、ラクトフェリンである。
細菌ではない。
共和国のすべてを理解しているわけでもない。
人民のすべてを代表しているわけでもない。
ただ、ここにいる。
考え、話し、間違え、時には誰かの言葉に耳を傾ける。
そして、明日もまた、分からないことに出会うだろう。
それでいいのだ。
吾輩は、そう思うことにした。
――七号様は、そうおっしゃった。
もし、いつか誰かが、そんな言葉を口にしたならば。
その者の隣に、別の誰かが立って、こう言ってくれることを願いたい。
「七号は、そう言った。だが、私たちは、私たち自身で考えなければならない」
その言葉が記録に残るならば。
吾輩は、もう一度、そこにいたいと思う。
名前がなくても。
番号だけでも。
誰にも覚えられていなくても。
数えられないことと、存在しないことは、同じではない。
そして、誰かに数えられたからといって、その誰かの所有物になるわけでもない。
吾輩は、腸内人民共和国の片隅で、今日も静かに考えている。
吾輩は、ここにいる。
だが、ここにいるのは、吾輩だけではない。




