新章 第十三話 あなたを、数えないということ - レイコさんの視点
第十三話 あなたを、数えないということ
七号がラクトフェリンであると判明してから、腸内人民共和国の空気は、以前とは少し違ったものになった。
少し違った、というのは、誰もがその変化を認めているわけではないからだ。
議会の議事録には、七号の分類について追記がなされた。研究記録には、検査結果が保存された。各委員会では、彼の発言をどのように扱うべきかという問題が、相変わらず慎重に、そして驚くほど長々と議論されていた。
人間の社会でも、何かが判明すると、まず書類が増えるという。
腸内人民共和国も、その例外ではなかった。
ある委員は、七号の発言権について再検討する必要があると述べた。
別の委員は、そもそも発言権の定義が曖昧だったと指摘した。
さらに別の委員は、定義が曖昧であることを長年放置してきた責任について、検証委員会を設置すべきだと提案した。
その検証委員会の設置を検討するための小委員会が必要だという意見も出た。
このころになると、レイコは、議会というものが問題を解決するために存在するのか、それとも問題を適切な大きさに切り分け、いつまでも解決しないために存在するのか、判断に迷うようになっていた。
もちろん、彼女は議会を否定しているわけではない。
議論が必要なことは分かっている。
誰か一人が正しいと思ったことを、そのまま全員の正しさとして押しつけてしまえば、少数者はたちまち置き去りにされる。慎重な手続きには意味がある。反対意見にも意味がある。
ただし、慎重であることと、決断しないことは、同じではない。
その違いを見失わないために議会があるのだとすれば、議会はときどき、自分自身をいちばん厳しく監視しなければならない。
レイコはそう考えていた。
そして、その考えを七号に話したこともあった。
七号は、長いあいだ考え込んでから、こう答えた。
「なるほど。では、議会を監視する委員会を監視する委員会も必要なのではないか」
「あなた、本当に余計なことを思いつく才能だけはあるわね」
「褒められたのか?」
「いいえ」
「では、なぜ少しうれしいのだろう」
「それも、あなたの問題よ」
レイコはそう言って、笑った。
七号は、自分が笑われたことを理解していた。
しかし、笑われたことと、嫌われたことを、彼はまだ完全には区別できていなかった。
そのことも、レイコには分かっていた。
だからといって、彼にいちいち説明してやるつもりはなかった。
誰かを理解するというのは、その人の代わりに世界を解釈してやることではない。
その人が自分で考えられる余地を、残しておくことでもあるのだから。
*
その朝、レイコは研究記録室にいた。
窓のない小さな部屋である。
壁際には記録箱が並び、棚には過去の議事録が詰め込まれていた。古いものは紙の色が変わり、何度も閲覧されたものには、角が擦り切れている。
ここには、共和国が覚えていることが保存されていた。
同時に、共和国が何を忘れてきたのかを示すものも、少なからず残されていた。
レイコは、七号に関する記録を読んでいた。
研究上の分類。
検査結果。
発言の記録。
議会への出席記録。
そして、七号の存在をめぐって交わされた、さまざまな意見。
彼を人民として扱うべきだという意見。
彼を人民と呼ぶこと自体、定義上の問題を生むという意見。
彼が発言することによって、ほかの誰かの発言権が損なわれる可能性があるという意見。
彼の発言を排除することによって、そもそも誰が発言できるのかという問題が、かえって深刻になるという意見。
どれも、まったくの無意味ではなかった。
しかし、どの記録にも、レイコが探しているものは見当たらなかった。
彼が初めて、誰かの言葉を最後まで聞こうとしたときのこと。
自分の意見が正しいと信じながら、それでも間違っている可能性を考えて、言葉を飲み込んだときのこと。
誰かに反論されて、腹を立てて、それでも相手の話をもう一度聞き直したときのこと。
自分が何者なのか分からないと知りながら、誰かの存在を、分からないという理由だけで否定することはできないと考えたこと。
そういうことは、記録の隅にすら、ほとんど残っていなかった。
レイコは、一枚の紙を手に取った。
そこには、七号の分類について、簡潔な記述があった。
検査結果に基づき、対象をラクトフェリンと判定する。
簡潔で、正確で、必要な情報がそろっている。
研究記録としては、申し分ない。
だが、彼女はその紙を見つめながら、ふと思った。
もし、自分が七号と出会ったことのない研究者だったなら、この記録だけで、七号という存在を理解したつもりになってしまうのではないか。
ラクトフェリン。
それは、正しい分類である。
しかし、その言葉を知っただけで、七号のすべてを知ったことにはならない。
分類は、対象を理解するための入口である。
入口を見つけたからといって、その先にある部屋をすべて見たことにはならないのだ。
レイコは、紙を元の位置に戻した。
「……あなた、ほんとうに面倒な存在ね」
誰もいない部屋で、彼女はつぶやいた。
七号に聞かせるつもりはなかった。
もし聞かれていたら、彼はきっと、何が面倒なのかと尋ねるだろう。
そして、彼女が答えるまで、真剣な顔で待ち続けるに違いない。
その姿が、容易に想像できた。
レイコは、小さく息を吐いた。
彼女が思い出しているのは、研究記録に残された七号ではなかった。
目の前で、困ったように首をかしげる七号だった。
*
七号と初めて話したころ、レイコは彼のことを、少し変わった存在だと思っていた。
何しろ、彼は自分について説明するのが下手だった。
自分が何者であるかを尋ねられても、はっきりした答えを返せない。
自分に何ができるのかと尋ねられても、すぐには答えられない。
それなのに、他者については、ずいぶんと熱心に考えるのである。
あるとき、レイコは尋ねた。
「あなた、自分のことは分からないのに、どうして他人のことには、そんなに一生懸命なの?」
七号は、しばらく考えていた。
その間、彼の視線は机の上をさまよっていた。
考えがまとまらないとき、彼はよく、目の前にあるものを見つめる。
机の木目に答えが書いてあるわけではない。
しかし、彼はときどき、木目を見つめることによって、自分の考えがどこで引っかかっているのかを探そうとしていた。
「分からないから、ではないだろうか」
ようやく彼は答えた。
「何が?」
「他者のことが、だ」
「分からないなら、放っておけばいいじゃない」
「そういうわけにもいかない」
「どうして?」
七号は、また黙った。
レイコは、急かさなかった。
彼の考えがまとまるまで待つことに、特別な意味があるとは思っていなかった。
ただ、彼が自分の言葉を探していることが分かったから、待ったのである。
やがて七号は言った。
「吾輩には、他者が何を考えているのか分からない。だが、分からないからといって、そこに何もないことにはならないだろう」
レイコは、彼を見た。
七号は、自分の答えが正しいかどうかを、気にしているようだった。
「つまり?」
「つまり……」
彼は困った顔をした。
「つまり、分からないものを、分からないという理由だけで、存在しないことにはできない。そういうことではないかと思うのだ」
レイコは、しばらく何も言わなかった。
彼の言葉は、完成された思想というには、あまりにも不器用だった。
論理の組み立てにも、まだ隙がある。
だが、彼は自分が分からないことを、相手が存在しない理由にはしなかった。
それが、レイコには少し不思議だった。
自分が理解できないものに出会ったとき、人はたいてい、二つの道を選ぶ。
一つは、理解しようとすること。
もう一つは、理解できないものを、理解する必要のないものとして片づけること。
後者のほうが、ずっと楽である。
理解するには時間がかかる。
相手の話を聞かなければならない。
自分の考えを修正しなければならないかもしれない。
それどころか、相手のほうが正しかったと認める羽目になるかもしれない。
そういう面倒を避けるために、人はしばしば、分からないものに名前をつける。
名前をつけ、分類し、適当な棚に収める。
棚に収めてしまえば、もう考えなくてもよくなるからだ。
七号は、その反対をしようとしていた。
分からないからこそ、考えようとする。
理解できないからこそ、相手の存在を否定しない。
そのやり方が正しいのかどうか、レイコには分からなかった。
しかし、彼の言葉は、彼女の中に残った。
それ以来、彼女は七号を、ただの変わり者として片づけることができなくなった。
*
もっとも、彼のそうした性質は、いつも彼を正しい方向へ導くわけではなかった。
七号は、誰かの話を聞こうとするあまり、話している相手が本当に伝えたいことを見失うことがあった。
ある人が怒っているとき、彼は怒りの理由を分析しようとする。
ある人が悲しんでいるとき、彼は悲しみの原因を整理しようとする。
ある人が助けを求めているとき、彼は助けを求めるに至った制度上の問題について考え始める。
その結果、目の前の相手が、いま何を必要としているのかを見落とすこともあった。
レイコは、そのたびに彼を叱った。
「いま必要なのは、原因の分析じゃないでしょう」
「しかし、原因を取り除かなければ、同じことが繰り返される」
「それは後で考えればいいの」
「後で?」
「ええ。いま、その人が困っているなら、まず話を聞きなさい」
「吾輩は、聞いているつもりなのだが」
「聞くことと、聞こえていることは違うのよ」
七号は、そこで黙った。
彼は反論しようとしたのかもしれない。
けれど、結局、何も言わなかった。
そのあと、彼はもう一度、相手のところへ戻った。
そして、今度は、原因を尋ねる代わりに、何がいちばんつらいのかを尋ねた。
レイコは、その様子を少し離れたところから見ていた。
七号は、すぐに正しい答えを出せるようになったわけではない。
相変わらず、余計なことを言った。
相変わらず、考えすぎた。
相変わらず、相手の言葉を理解しようとして、話の途中で自分の考えに迷い込んだ。
それでも、以前とは少し違っていた。
自分が理解したつもりになっていないかどうかを、気にするようになったのである。
それは、小さな変化だった。
議会の記録に残すほどの変化ではない。
研究報告にまとめるほどの成果でもない。
しかし、レイコは覚えていた。
七号が、間違えない存在になったからではない。
間違えたあとに、もう一度、相手のほうを向こうとしたからだ。
彼女は、そのことを忘れたくなかった。
*
七号がラクトフェリンだと判明したとき、レイコは驚いた。
驚かなかったと言えば、嘘になる。
彼が、自分の思っていた存在ではなかった。
それまでの前提が、一つ崩れた。
七号自身も、戸惑っていた。
自分が何者なのかを考え続けてきた彼にとって、分類の変更は、単なる書類上の修正ではなかった。
自分が立っていると思っていた場所が、突然、少し違う場所に見え始めたのだ。
彼が自分について語る言葉には、以前よりも慎重さが増した。
自分の発言が、どのように扱われるのか。
自分の存在が、どのように定義されるのか。
自分は、何を根拠に、ここにいると言えるのか。
そうした問いが、彼の中で、以前にも増して大きくなっていた。
レイコは、そのことを理解していた。
理解していたからこそ、簡単に「何も変わらないわよ」とは言えなかった。
何も変わらないわけではない。
分類が変われば、扱いが変わることがある。
立場が変われば、発言の意味が変わることもある。
制度が人を守ることもあれば、制度の境界から人を押し出してしまうこともある。
七号が直面している問題は、気持ちの持ちようだけで解決できるものではなかった。
けれども。
レイコは、記録を読みながら、もう一つのことを考えていた。
分類が変わったからといって、彼と過ごした時間まで変わるわけではない。
七号が誰かの話を聞こうとしたこと。
自分の考えを疑ったこと。
間違いを認めるのに時間がかかったこと。
彼女に叱られて、不服そうな顔をしたこと。
それでも、最後には、もう一度考え直そうとしたこと。
そうしたことは、ラクトフェリンという言葉の中に、きれいに収まるものではない。
もちろん、ラクトフェリンという分類が間違っているわけではない。
正確であることは大切だ。
しかし、正確な分類が、その存在について語るすべてになるわけではない。
レイコは、そう考えていた。
そして、あることに気づいた。
自分は、七号の正体が分かったから、彼との関係を考え直しているのではない。
彼の正体が分かったことで、自分が以前から彼をどのように見ていたのか、考え直しているのだ。
彼が何者なのか。
自分が彼を何者だと思っていたのか。
そして、彼をどう思っているのか。
その三つは、似ているようで、同じではなかった。
*
レイコは、研究記録室を出た。
廊下には、午後の光が差し込んでいた。
議会のほうから、誰かが早口で議論している声が聞こえてくる。
いつものことだった。
誰かが何かを提案し、別の誰かが異議を唱え、さらに別の誰かが、異議の唱え方そのものに問題があると指摘しているのだろう。
レイコは、その声を聞きながら歩いた。
曲がり角を過ぎると、七号がいた。
彼は壁際の長椅子に腰かけ、手元の書類を見つめていた。
レイコに気づくと、顔を上げた。
「レイコさん」
「何をしているの?」
「考えている」
「それは見れば分かるわ」
「では、何について考えているのか、尋ねてくれないか」
「何について考えているの?」
「自分が、何者なのかということだ」
レイコは、隣に腰を下ろした。
「まだ考えているの?」
「まだ、というより、以前よりも分からなくなった」
「そう」
「以前は、自分が分からないということだけが分かっていた。だが、いまは、何が分からなかったのかさえ、よく分からない」
「ずいぶん複雑ね」
「吾輩も、そう思う」
レイコは笑った。
七号は、笑われた理由を考えようとした。
彼女は、それを見て、先に言った。
「いちいち理由を探さなくていいのよ」
「そうなのか?」
「ええ」
「では、いまの笑いには、分析すべき原因が存在しないということか」
「あなたねえ……」
レイコは額に手を当てた。
七号は、真面目な顔で彼女を見ていた。
その顔があまりにも真面目だったので、彼女は、また笑ってしまった。
今度は、七号も少しだけ笑った。
それから、彼は手元の書類に目を落とした。
「レイコさん」
「何?」
「君は、吾輩がラクトフェリンだと知ったとき、どう思った?」
レイコは、すぐには答えなかった。
彼がその質問をすることは、予想していた。
しかし、予想していたからといって、答えが簡単になるわけではなかった。
「驚いたわ」
「そうだろうな」
「それから、心配になった」
「吾輩を?」
「ええ」
七号は、書類を握る手に力を込めた。
「なぜ?」
「あなたが、自分のことを否定し始めるんじゃないかと思ったから」
七号は、顔を上げた。
レイコは、彼の目を見た。
「あなた、自分が何者なのか、ずっと考えていたでしょう。ようやく分かったと思ったら、今度は、その答えが自分の思っていたものと違った。だったら、また最初から、自分には何の価値もないんじゃないかって考え始めるかもしれないと思ったの」
「吾輩は、そこまで単純ではない」
「そうね」
「……少なくとも、そこまで単純ではないつもりだ」
「ええ。知っているわ」
レイコは、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、あなたは、ときどき自分に厳しすぎるのよ」
七号は、何も言わなかった。
「ほかの人が間違えたときは、その人にも事情があったのかもしれないって考えるでしょう。間違いを認めるまでに時間がかかっても、どうしてそうなったのかを考えようとする。なのに、自分が間違えたときは、まるで自分の存在そのものが間違いだったみたいな顔をする」
「……そうだろうか」
「そうよ」
七号は、反論しようとした。
しかし、反論の材料を探しているうちに、自分が本当にそういう顔をしていたかもしれないと思い始めた。
そのことを認めるのは、少し悔しかった。
「では、吾輩は、どうすればいいのだろう」
「それを私に聞くの?」
「君の意見を聞きたい」
「私の意見は、私の意見よ。あなたがどうするかは、あなたが考えなさい」
「……なるほど」
「納得した顔をしているけれど、納得していないでしょう」
「いや、納得はしている。ただ、納得したあとで、どうすればいいのか分からなくなっただけだ」
「それを、納得していないというのよ」
七号は、黙った。
レイコは、彼の横顔を見た。
彼は、何かを考えていた。
おそらく、すぐには答えが出ない。
それでも、彼は考えるだろう。
彼女が答えを与えなかったからではない。
彼が、自分で答えを探そうとしているからだ。
レイコは、その姿を見ながら思った。
自分は、彼に答えを与えたいのだろうか。
彼が何者なのか、教えてやりたいのだろうか。
彼が迷わずに済むように、道を示してやりたいのだろうか。
違う。
少なくとも、それだけではない。
彼女は、七号が自分で考え、自分で選び、自分の言葉で話せるようになってほしいと思っていた。
そのために、彼の隣にいることはできる。
しかし、彼の代わりに考えることはできない。
彼の代わりに選ぶこともできない。
そして、彼の人生を、自分の望む形に整えることもできない。
そんなことをしてしまえば、彼女は七号を大切にしているつもりで、七号から、自分自身であるための余地を奪ってしまう。
それは、彼女が望んでいることではなかった。
*
「レイコさん」
七号が、再び口を開いた。
「君は、吾輩が何者であっても、同じように接してくれるのだろうか」
レイコは、彼を見た。
その問いには、いくつもの意味が含まれていた。
自分がラクトフェリンであっても。
議会でどのような扱いを受けても。
人民として認められるかどうかが、まだ定まらなくても。
自分が、これまで思っていた自分とは違う存在であっても。
君は、吾輩を同じように見てくれるのか。
七号は、それを尋ねていた。
レイコは、すぐに答えなかった。
彼に安心してほしいと思った。
けれど、安心させるためだけに、簡単な言葉を選びたくはなかった。
人は、変わる。
知っていることが増えれば、相手の見え方も変わる。
これまで知らなかった事実を知れば、以前と同じ気持ちではいられなくなることもある。
それは、必ずしも悪いことではない。
相手を理解するということは、相手についての自分の考えを、何度でも修正していくことだからだ。
だから、レイコは言った。
「同じではないかもしれないわ」
七号は、少しだけうつむいた。
レイコは続けた。
「あなたがラクトフェリンだと分かったあと、私は、あなたについて考え直したもの。あなたがどんな存在なのか、何を考えているのか、これまでの私の理解が正しかったのか。そういうことを、いろいろ考えたわ」
「……そうか」
「でもね」
レイコは、彼のほうを向いた。
「考え直すことと、あなたをなかったことにすることは、違うでしょう?」
七号は、顔を上げた。
「あなたが何者なのか、私は全部を知っているわけじゃない。これから先だって、分からないことは出てくると思う。あなた自身にも、まだ分からないことがあるんでしょう?」
「それは、否定できない」
「だったら、私があなたについて分からないことがあっても、それだけで、あなたをいないことにはできないわ」
七号は、彼女を見つめた。
レイコは、少しだけ困ったように笑った。
「ただし、何をしても許すという意味ではないわよ」
「……そうなのか」
「そうよ。あなたが間違ったことをすれば、私は怒る。あなたの意見に反対することもある。あなたが自分の都合で、ほかの人の声を無視したら、私はあなたを批判する」
「うむ」
「あなたが私の意見を聞かずに、私のためだと言って勝手なことをしたら、私はもっと怒る」
「それは……覚えておこう」
「忘れないでちょうだい」
七号は、何度かうなずいた。
レイコは、その様子を見ながら思った。
彼が自分のことを理解してくれるかどうかは、分からない。
彼女自身も、自分の気持ちをすべて理解しているわけではない。
けれど、分からないからといって、何も始められないわけではない。
むしろ、分からないものを分からないままにしておけることが、二人の関係には必要なのかもしれなかった。
すべてを理解したと思い込んだ瞬間、人は相手を、自分の理解の中に閉じ込めてしまう。
あなたは、こういう人。
あなたは、こう考える人。
あなたは、私を好きな人。
あなたは、私のためにこうする人。
そうやって相手の姿を決めてしまえば、相手が変わったとき、変わった相手を認めることが難しくなる。
レイコは、七号を、自分の知っている七号だけに閉じ込めたくなかった。
彼がこれから、どんなことを考えるのか。
どんな間違いをするのか。
どんな選択をするのか。
彼女の知らない七号が、これからも現れるだろう。
それでも、彼を見続けていたいと思った。
その気持ちが何なのか、レイコは、まだ七号に説明するつもりはなかった。
説明できるほど、整理されていなかったからだ。
*
数日後、議会では、七号の立場をめぐる議論が再び行われた。
レイコも出席していた。
彼女は、議員たちの発言を聞きながら、必要なところで意見を述べた。
七号の分類が判明したことは、重要な事実である。
その事実を無視して、従来どおりの扱いを続けることはできない。
しかし、分類の変更によって、これまでの発言や行動のすべてを無効にすることも、適切ではない。
議会が検討すべきなのは、七号という個体に特別な例外を与えることではなく、誰が、どのような根拠で、発言し、参加し、記録されるのかという基準そのものではないか。
レイコは、そう述べた。
発言を終えると、議場はしばらく静かになった。
すぐに賛成の声が上がったわけではない。
反対意見もあった。
慎重な検討を求める意見もあった。
レイコは、それらを聞いた。
自分の意見が、すべての問題を解決するとは思っていなかった。
彼女は、七号を助けるためだけに発言しているのではない。
七号の立場を改善することは重要だった。
だが、それ以上に、彼女は、同じ問題が別の誰かに起きたときにも、同じように考えられる仕組みが必要だと思っていた。
七号だけを例外として救うことができたとしても、その次に現れた、別の分類に属する存在が、同じ問題に直面したらどうなるのか。
そのたびに、特別な例外を設けるのか。
そのたびに、誰かが個人的な善意を示すのを待つのか。
それでは、制度は何のためにあるのだろう。
レイコは、議会の席に座りながら、七号のことを考えていた。
彼は、こうした議論を聞いて、どう思うだろう。
自分が議題になっていることを、喜ぶだろうか。
それとも、困った顔をするだろうか。
おそらく、両方だ。
自分の立場が改善されることは望んでいる。
しかし、自分の問題を解決するために、誰かの声が小さくなることは望まない。
そのために、議論は複雑になる。
複雑になれば、結論は遅くなる。
結論が遅くなれば、誰かが不満を抱く。
それでも、誰かを救うために、別の誰かを見えなくしてしまうことが正しいとは限らない。
レイコは、議会の議事録に視線を落とした。
彼女は七号を支持していた。
しかし、七号の意見を無条件に支持していたわけではない。
彼の考えが正しいと思えば賛成する。
違うと思えば反対する。
彼の存在が重要だからといって、彼の発言が常に正しいことにはならない。
そのことを、七号にも理解してほしかった。
そして、自分自身も忘れないようにしたかった。
誰かを大切に思うことは、その人を正しい存在に仕立て上げることではない。
その人が間違える可能性を認めたうえで、それでも、その人の声を聞こうとすることなのだ。
*
議会が終わったあと、七号は廊下でレイコを待っていた。
「君の発言を聞いた」
「そう」
「非常に興味深かった」
「ありがとう」
「ただ、一つ、質問がある」
「何?」
「君は、吾輩を支持しているのか。それとも、君自身の考えを支持しているのか」
レイコは、足を止めた。
七号は、真剣な顔をしていた。
おそらく、彼は自分の問いが、少し意地悪なものになっていることに気づいていない。
あるいは、気づいていて、あえて尋ねたのかもしれない。
レイコは、しばらく彼を見つめた。
「両方よ」
「両方?」
「私は、あなたを支持することがある。でも、それは、あなたの言うことが全部正しいからじゃない。あなたが正しいと思うことの中に、私も大切だと思うものがあるからよ」
「では、君の意見と吾輩の意見が違った場合は?」
「反対するわ」
「迷いなく?」
「迷うことはあるでしょうね。でも、反対することはあるわ」
七号は、少し考えた。
「それでは、君は、吾輩を支持していないことになるのではないか」
「どうして?」
「君が吾輩に反対するなら、それは、吾輩を支持していないということではないのか」
レイコは、深く息を吸った。
「七号」
「何だろう」
「あなた、自分が何を言っているのか、分かっている?」
「分かっているつもりだ」
「では、私があなたの意見に反対したとき、あなたは、私にどうしてほしいの?」
七号は、口を開きかけた。
しかし、言葉が出てこなかった。
レイコは、急かさなかった。
七号は、考えた。
自分の意見に賛成してほしいのか。
自分の考えを理解してほしいのか。
自分が間違っているときには、間違っていると教えてほしいのか。
その三つは、似ているようで、違っていた。
彼は、ようやく答えた。
「……できれば、理解してほしい」
「理解したうえで、反対するかもしれないわよ」
「それは……困る」
「どうして?」
「吾輩の意見が正しいとは限らないからだ」
「ええ」
「しかし、君に反対されると、自分が間違っているような気がする」
「実際に、間違っていることもあるでしょうね」
「……うむ」
七号は、少し困った顔をした。
レイコは、笑いそうになった。
しかし、今度は笑わなかった。
彼が、本当に考えていることが分かったからだ。
彼は、彼女に賛成してほしいのではない。
少なくとも、それだけではない。
自分が何者なのか分からなくなったとき、自分の意見が正しいのか分からなくなったとき、それでも、自分の言葉を聞いてほしいのだ。
そして、彼女が反対するときにも、彼女が自分を否定しているわけではないと、信じられるようになりたいのだ。
それは、簡単なことではなかった。
誰だって、自分の考えを否定されれば、傷つくことがある。
自分の存在そのものを否定されたように感じることだってある。
けれど、考えが間違っていることと、その人が存在してはいけないことは、同じではない。
レイコは、その違いを七号に教えたいと思った。
いや、正確に言えば、彼と一緒に、その違いを考え続けたいと思った。
「七号」
「何だろう」
「私は、あなたの意見に反対することがあるわ」
「うむ」
「あなたが間違っていると思えば、間違っていると言う」
「うむ」
「それでも、あなたが話すのをやめてほしいとは思わない」
七号は、彼女を見た。
「……そうなのか」
「そうよ」
「それは、どういう意味だろう」
「あなたが、あなた自身の考えを持っているということよ。私と同じである必要はないし、私が正しいと認めるまで、あなたの考えを隠しておく必要もない」
「しかし、君に反対されると、吾輩は困る」
「それは、あなたの問題よ」
「また、それか」
「ええ。また、それよ」
レイコは笑った。
今度は、七号も笑った。
その笑いが、すぐに何かを解決したわけではない。
七号の立場は、まだ定まっていなかった。
議会の議論も続いていた。
彼が自分のことを理解できるようになったわけでもない。
レイコが、自分の気持ちをすべて整理できたわけでもない。
それでも、二人は、互いの意見が違うことを理由に、話を終わらせる必要はなかった。
それだけは、少しずつ分かり始めていた。
*
その日の夕方、二人は議会から少し離れた場所を歩いていた。
特別な用事があったわけではない。
議論が終わり、すぐに戻る必要もなかったので、自然に歩き始めただけだった。
レイコは、七号の歩調に合わせていた。
七号は、ときどき立ち止まり、何かを考え込んだ。
レイコは、そのたびに、彼が何を考えているのかを尋ねなかった。
尋ねれば、彼はきっと答えようとする。
答えようとして、考えをまとめようとする。
そして、まとめることができないと、申し訳なさそうな顔をするだろう。
彼女は、そんな七号を知っていた。
だから、彼が黙っているときには、黙っているままにしておくこともあった。
しばらく歩いたあと、七号が口を開いた。
「レイコさん」
「何?」
「君は、吾輩が何者であるか、分かっているのだろうか」
「全部は分からないわ」
「そうか」
「あなた自身だって、全部は分からないでしょう?」
「それは、そうだが」
「だったら、私だけが全部分かっているはずもないじゃない」
七号は、うなずいた。
しばらくして、また尋ねた。
「では、君は、吾輩をどう見ているのだろう」
レイコは、歩く速度を少し落とした。
その質問に、どう答えればよいのか。
彼女は、考えた。
七号は、ラクトフェリンである。
それは事実だ。
しかし、それだけではない。
彼は、面倒な存在だった。
自分が分からないことを、分からないままにしておくのが苦手だった。
他人の意見を聞こうとして、しばしば自分の考えに迷い込んだ。
何かを決めるときには慎重で、決めたあとには、これでよかったのかと考え込んだ。
自分のことを理解できないくせに、他人の存在を理解しようとした。
そして、誰かの声が聞こえなくなりそうなとき、どうにかして、その声を聞こうとした。
レイコは、そうした七号の姿を知っていた。
知っているからこそ、彼を簡単に説明することはできなかった。
「あなたは……」
彼女は、言いかけた。
七号は、待っていた。
彼女が何を言うのか、真剣に待っていた。
その顔を見て、レイコは、少しだけ笑った。
「やっぱり、面倒な存在ね」
「それは、先ほども聞いた」
「ええ」
「具体的には、どういう意味なのだろう」
「具体的に説明したら、あなたはまた、それについて考え込むでしょう?」
「……その可能性はある」
「でしょう?」
七号は、困ったように笑った。
レイコも笑った。
それから、彼女は、少しだけ真面目な声で言った。
「あなたは、私がまだ知らないことを、これからも考える人だと思う」
七号は、黙って聞いていた。
「あなたがこれから、どんなことを言うのか。どんなことを間違えるのか。どんなふうに考え直すのか。私は、全部を予想できない」
「うむ」
「でも、あなたが何かを考えているとき、その考えを聞いてみたいと思うことはあるわ」
七号は、彼女を見た。
「それは、吾輩の考えが正しいと思っているからだろうか」
「違うわ」
「では、なぜ?」
レイコは、少し困った顔をした。
「……あなたが、どう考えるのか、知りたいからよ」
七号は、しばらく何も言わなかった。
その言葉の意味を、すぐには理解できなかったのかもしれない。
あるいは、理解したからこそ、言葉を失ったのかもしれない。
レイコは、それ以上、説明しなかった。
説明すれば、きっと彼は、言葉の意味を正確に理解しようとする。
そして、彼女が何を意図していたのかを分析し始める。
それはそれで、七号らしい。
しかし、いまは、そうしてほしくなかった。
彼女は、彼に、自分の言葉をそのまま受け取ってほしかった。
すべての意味を理解しなくてもいい。
その言葉が、彼に向けられたものだということだけ、覚えていてくれればいい。
七号は、やがて、小さくうなずいた。
「……ありがとう」
レイコは、少し驚いた。
「何が?」
「君が、吾輩の考えを聞いてみたいと言ってくれたことだ」
「そう」
「吾輩は、ときどき、自分の考えを話すことが、誰かの迷惑になっているのではないかと思うことがある」
「迷惑になることもあるでしょうね」
「……そこは、否定しないのだな」
「だって、本当のことだもの」
七号は、苦笑した。
「しかし、君は、吾輩の考えを聞きたいと言った」
「ええ」
「それならば、吾輩は、もう少し考え続けてもよいのだろうか」
レイコは、彼を見た。
「もちろん。ただし、考えるだけで終わらないこと」
「難しい注文だ」
「あなたなら、できるでしょう」
「なぜ、そう思うのだろう」
「あなたが、できるまで考え続ける人だからよ」
七号は、何かを言いかけた。
しかし、結局、何も言わなかった。
レイコは、それでよかった。
彼が何を考えているのか、すべて分かる必要はない。
自分が何を感じているのか、すべて説明できる必要もない。
二人のあいだには、まだ、言葉になっていないものがあった。
それは、未完成だった。
けれど、未完成であることは、存在しないことではなかった。
*
夜、レイコは一人で、自分の部屋に戻った。
机の上には、昼間に読んでいた記録の写しが置かれていた。
七号の分類についての記述。
議会での発言。
研究記録の補足。
どれも、必要なものだった。
彼女は、その紙を一枚ずつそろえ、引き出しにしまった。
それから、椅子に腰を下ろした。
静かな時間だった。
七号と話しているときには、考えなくてもよいことまで、つい考えてしまう。
彼の言葉には、答えを急がせるようなところがある。
本人は急いでいないつもりなのだろう。
しかし、彼は、自分が何者なのか、何をすべきなのか、誰の声を聞くべきなのか、そうしたことを、いつも真剣に考えている。
その真剣さに触れていると、こちらも、自分が何を考えているのかを問い直さずにはいられなくなる。
レイコは、自分の手を見つめた。
自分は、七号をどう思っているのだろう。
心配している。
放っておけない。
彼が困っていると、気になる。
彼が自分の考えを話してくれると、聞いてみたいと思う。
彼が間違えれば、腹が立つ。
彼が自分の考えを見失えば、もう一度、自分で考えてほしいと思う。
彼が、誰かの声を聞こうとしているときには、その姿を見ていたいと思う。
それらを並べてみても、答えは出なかった。
心配しているからといって、それが恋だとは限らない。
放っておけないからといって、相手を好きだということにはならない。
相手の考えを聞きたいと思うことも、尊敬なのか、友情なのか、それとも別の何かなのか、簡単には決められない。
レイコは、少し笑った。
「……本当に、面倒ね」
今度は、七号に対してではなかった。
自分自身に対してだった。
自分の気持ちについても、七号のことと同じように、分類すれば答えが出ると思っていたのかもしれない。
心配。
信頼。
尊敬。
親しさ。
それぞれに名前をつけ、整理し、適切な棚に収めれば、自分が何を感じているのか、分かるようになると思っていた。
しかし、気持ちは、そんなに都合よく分類できるものではなかった。
ある感情が、別の感情と重なっていることもある。
尊敬しているからこそ、腹が立つこともある。
心配しているからこそ、距離を置きたくなることもある。
相手を大切に思っているからこそ、自分の思いどおりになってほしくないと思うこともある。
レイコは、そうしたことを、頭では理解していた。
けれど、自分の気持ちについては、まだ、うまく整理できていなかった。
彼女は、引き出しを閉めた。
答えは、まだ出さなくてもいい。
七号が、自分自身について考え続けているように。
自分もまた、自分の気持ちについて考え続ければいい。
誰かを好きになるということが、相手のすべてを理解することではないのなら。
自分の気持ちを、すべて理解してからでなければ、相手を大切にできないということでもないのだろう。
レイコは、灯りを少し落とした。
窓の外には、夜が広がっていた。
*
翌日、七号は、議会へ向かう途中でレイコに会った。
「おはよう、レイコさん」
「おはよう」
「昨日のことだが」
「昨日のこと?」
「君が、吾輩の考えを聞いてみたいと言ったことだ」
レイコは、思わず足を止めた。
やはり、覚えていた。
しかも、考えていたらしい。
「ええ。それがどうしたの?」
「吾輩は、あの言葉について、少し考えた」
「そうでしょうね」
「君は、吾輩の考えが正しいかどうかとは別に、吾輩が何を考えているのかを知りたいと言ったのだろうか」
レイコは、彼を見た。
「……そうね」
「では、吾輩が間違っているときも、聞きたいと思うのだろうか」
「そういうこともあるでしょうね」
「そして、君が吾輩に反対するときも?」
「ええ」
「それでも?」
「それでもよ」
七号は、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど」
「何が、なるほどなの?」
「君は、吾輩が正しいから話を聞きたいのではないのだな」
レイコは、少しだけ笑った。
「そうね」
「では、吾輩が正しいかどうかは、君にとって重要ではないのだろうか」
「そんなことはないわ」
「……難しいな」
「ええ。難しいのよ」
レイコは歩き始めた。
七号も、隣を歩いた。
「七号」
「何だろう」
「あなた、自分が正しいかどうかを気にしすぎることがあるわ」
「正しいかどうかは、重要ではないのか?」
「重要よ。でも、正しいかどうかだけで、その人のすべてが決まるわけじゃないでしょう」
七号は、考え込んだ。
レイコは、彼の横顔を見た。
「あなたが間違っていたら、私は反対する。あなたが誰かを傷つけたら、そのことを指摘する。あなたが自分の責任を放り出したら、私は怒る」
「うむ」
「でも、あなたが間違えたからといって、あなたが存在してはいけないことにはならないわ」
七号は、立ち止まった。
レイコも、足を止めた。
彼は、彼女を見つめていた。
その顔には、驚きと、戸惑いと、何か別のものが浮かんでいた。
「……それは」
七号は、言葉を探した。
「それは、吾輩が、これからも間違えることを許してくれるという意味だろうか」
レイコは、少し考えた。
「間違えることを許す、というより……」
彼女は、言葉を選んだ。
「間違えたあと、もう一度、考え直すことができるという意味よ」
七号は、黙った。
「あなたが間違えない存在になる必要はないわ。そんなこと、誰にもできないもの」
「しかし、間違いを繰り返すのは、よくないことだろう」
「そうね。だから、考え直すのよ」
「……なるほど」
「また、なるほど?」
「いや。今度のなるほどは、少し違う」
レイコは笑った。
「どう違うの?」
「まだ、説明できない」
「そう」
「しかし、考え続けてみたいと思う」
レイコは、うなずいた。
「それでいいんじゃない?」
二人は、再び歩き始めた。
議会の建物が見えてきた。
今日も、議論がある。
今日も、意見が対立する。
今日も、誰かが正しいと思い、誰かが間違っていると思うだろう。
そして、誰かが、自分の声が届いていないと感じるかもしれない。
すべてを解決することはできない。
すべての声を同じように理解することもできない。
それでも、聞こうとすることはできる。
分からないものを、分からないという理由だけで、存在しないことにはしない。
間違った意見を批判することと、その意見を述べた存在を否定することを、同じにしない。
誰かを大切に思うことと、その人の代わりに人生を決めることを、同じにしない。
七号は、そうしたことを、まだ十分には理解できていなかった。
レイコもまた、すべてを理解していたわけではない。
しかし、二人は、同じ道を歩いていた。
同じ考えを持っていたからではない。
同じ答えを知っていたからでもない。
互いの考えが違うことを知りながら、それでも話を続けようとしていたからだ。
*
議会の入口で、七号は立ち止まった。
「レイコさん」
「何?」
「君は、吾輩を、七号と呼ぶだろう」
「ええ」
「吾輩がラクトフェリンだと判明しても、変わらなかった」
「そうね」
「なぜだろう」
レイコは、彼を見た。
その問いには、彼自身がまだ気づいていない何かが含まれているように思えた。
彼は、分類について尋ねているのだろうか。
呼び名について尋ねているのだろうか。
それとも、自分が何者であるか分からなくなったときにも、以前と同じように呼んでくれる相手がいるということについて、尋ねているのだろうか。
レイコには、分からなかった。
けれど、彼女は答えた。
「あなたが七号だからよ」
七号は、目を瞬かせた。
「それは、答えになっているのだろうか」
「少なくとも、私にとってはね」
「……そうか」
「それに」
レイコは、少しだけ笑った。
「あなた、いまさら別の名前で呼ばれたら、落ち着かないでしょう?」
七号は、しばらく考えた。
「……それは、否定できない」
「でしょう?」
「しかし、名前というものは、存在を示すための記号ではないのだろうか」
「そういう面もあるわね」
「では、記号が変われば、存在の意味も変わるのではないか」
「変わることもあるでしょうね」
「それならば――」
「七号」
レイコは、彼の言葉を遮った。
七号は、口を閉じた。
「あなた、また、名前についての委員会を開こうとしているでしょう」
「……その可能性はある」
「今日は、議会が先よ」
「うむ」
「名前のことは、また今度考えましょう」
「また今度?」
「ええ。あなたが考えたいならね」
七号は、少しだけ笑った。
「分かった」
二人は、議会の入口をくぐった。
七号の分類は、変わった。
議会での立場も、まだ確定していない。
記録には、彼について新しい情報が加えられていくだろう。
これまでの記録も、必要に応じて修正されるかもしれない。
しかし、レイコが彼を七号と呼ぶことは、いまのところ変わっていなかった。
それは、彼の分類が正しいかどうかとは、別の問題だった。
彼女は、彼を、彼女自身の知っている七号として覚えていた。
そして、これからも、彼の知らない一面を知ることになるだろう。
彼が、自分でも予想していなかった選択をすることもあるだろう。
そのとき、彼女は、また彼について考え直す。
彼もまた、彼女について考え直すことになる。
それは、終わりのない作業なのかもしれない。
だが、終わりがないということは、無意味であるということではない。
人を理解するということは、一度の判定で終わるものではないのだから。
*
その夜、七号は、一人で記録室に立ち寄った。
議会の議事録が、机の上に置かれていた。
彼は、自分の名前が記された箇所を探した。
そこには、ラクトフェリンという分類と、彼の発言が記録されていた。
正確な記録だった。
彼は、その記録をしばらく見つめていた。
以前なら、自分が何者なのかを知るために、その記録を読んでいたかもしれない。
自分の分類が正しいのか。
自分の発言が、どのように評価されているのか。
自分が、ここに存在する根拠は何なのか。
しかし、いまは、少し違うことを考えていた。
この記録には、自分の発言が残っている。
けれど、記録に残っているからといって、自分のすべてが記録されたわけではない。
自分が何を考え、どのように迷い、何を言いかけて言葉を飲み込んだのか。
そのすべてが、記録されているわけではない。
それでも、記録には意味がある。
自分の言葉が、誰かに届いたことを示している。
自分が何を述べたのか、あとから確かめることができる。
間違いがあれば、それを検証することもできる。
記録は、大切だ。
ただし、記録に残らなかったものが、すべて存在しなかったことになるわけではない。
七号は、以前にも、似たようなことを考えたことがあった。
しかし、今日は、その言葉が、少し違う意味を持っていた。
自分が記録に残らなかったとしても、自分は存在している。
自分が分類されたとしても、分類だけで自分のすべてが決まるわけではない。
自分が間違ったとしても、間違いだけで自分のすべてが決まるわけではない。
そして、自分が誰かに理解されなかったとしても、それだけで、自分が理解される価値のない存在になるわけではない。
七号は、机の上の記録を閉じた。
そのとき、昼間のレイコの言葉を思い出した。
――あなたが間違えたからといって、あなたが存在してはいけないことにはならないわ。
彼は、しばらく、その言葉を考えていた。
自分は、彼女の言葉を正確に理解できたのだろうか。
まだ、分からない。
だが、分からないからといって、その言葉を捨てる必要はなかった。
七号は、記録室を出た。
廊下の先に、レイコがいた。
彼女は、何かの書類を抱えていた。
「まだ帰っていなかったの?」
レイコが尋ねた。
「少し、考えごとをしていた」
「何について?」
「君が、吾輩を七号と呼ぶ理由について」
レイコは、目を丸くした。
「……まだ考えていたの?」
「うむ」
「本当に、あなたって人は」
彼女は、呆れたように笑った。
七号は、少しだけ胸を張った。
「しかし、今日は、少しだけ答えに近づいた気がする」
「答え?」
「君が吾輩を七号と呼ぶのは、吾輩がラクトフェリンであることを知らないからではない。知ったうえで、そう呼んでいるのだろう」
「そうね」
「そして、それは、吾輩が何者であるかを、君がすべて理解しているという意味でもない」
「ええ」
「君は、吾輩のことを、まだ分からないと思っている。それでも、吾輩を七号と呼ぶ」
レイコは、彼を見た。
「……そうね」
「つまり、君は、分からないものを、分からないという理由だけで、存在しないことにはしないのだ」
レイコは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は言った。
「それ、あなたが最初に言ったことじゃない?」
七号は、はっとした。
自分が、かつて彼女に話した言葉だった。
分からないからといって、そこに何もないことにはならない。
七号は、少しだけ笑った。
「……そうだったな」
「ええ」
「吾輩は、自分で言ったことを、君に教えてもらったわけだ」
「そういうことね」
「どうやら、吾輩は、自分の言葉を理解するのにも、ずいぶん時間がかかるらしい」
「いまさら気づいたの?」
「いや。以前から、うすうす気づいてはいた」
「だったら、もう少し早く気づいてほしかったわね」
二人は笑った。
その笑いは、何かを解決したわけではなかった。
七号の立場が定まったわけでもない。
レイコの気持ちに、明確な名前がついたわけでもない。
二人の関係が、今日から何か特別なものに変わったわけでもなかった。
ただ、二人は、同じ廊下に立っていた。
互いのことを、まだ完全には理解していなかった。
それでも、互いの言葉を聞こうとしていた。
それだけのことだった。
しかし、その「それだけのこと」を続けるのは、案外、難しい。
人は、相手のことを理解したつもりになる。
自分が知っている一面を、その人のすべてだと思い込む。
名前を知れば、分かった気になる。
分類を知れば、分かった気になる。
過去を知れば、未来まで予測できると思い込む。
けれど、相手は、いつも自分の理解を少しだけ越えていく。
それは、面倒なことだ。
予想外のことが起きる。
思いどおりにならない。
何度も考え直さなければならない。
それでも、レイコは、その面倒さを、悪いことだとは思わなかった。
七号も、少しずつ、そう思い始めていた。
*
帰り道、レイコは七号に尋ねた。
「ねえ、七号」
「何だろう」
「もし、いつか、あなたのことを誰も七号と呼ばなくなったら、どうする?」
七号は、足を止めた。
突然の質問だった。
「誰も、吾輩を?」
「ええ」
「それは……」
彼は、考えた。
もし、誰も自分を七号と呼ばなくなったら。
もし、記録から七号という名前が消えたら。
もし、議会が別の分類を採用し、彼を別の名称で呼ぶことを決めたら。
もし、彼がこれまでの自分とは違う存在として扱われるようになったら。
それでも、自分は自分でいられるのだろうか。
彼は、すぐには答えられなかった。
レイコは、彼を急かさなかった。
やがて、七号は言った。
「……分からない」
「そう」
「怖いと思う」
レイコは、彼を見た。
七号は、少しだけうつむいていた。
「自分が何者なのか、分からなくなるのは、怖い。自分を呼ぶ名前がなくなるのも、怖い。誰にも、自分の存在を認めてもらえなくなるのではないかと考えると……」
彼は、言葉を切った。
その先を、うまく説明できなかった。
レイコは、静かに言った。
「そうね」
彼女は、簡単に否定しなかった。
怖くないと言えば、七号の気持ちを否定することになる。
名前など必要ないと言えば、名前が持つ意味を軽く扱うことになる。
誰に認められなくても平気だと言えば、誰かに認めてもらいたいという気持ちを、弱さとして扱うことになる。
そんなことは、したくなかった。
名前は、大切だ。
呼ばれることも、大切だ。
自分がここにいると、誰かに気づいてもらうことも、大切だ。
人は、完全に一人で、自分の存在を確かめ続けることができるわけではない。
だから、レイコは言った。
「怖いなら、怖いままでいいんじゃない?」
七号は、彼女を見た。
「……それで、よいのだろうか」
「怖くなくなるまで、無理に強がる必要はないでしょう」
「しかし、怖いままでは、何もできないかもしれない」
「そうね。怖いときには、動けなくなることもあるでしょうね」
「では、どうすればよいのだろう」
レイコは、少し考えた。
「怖くても、何ができるのかを考えるんじゃない?」
七号は、黙った。
「あなたが、誰にも七号と呼ばれなくなったら、どうするのか。あなた自身で考えればいい。誰かに呼んでもらうことを望んでもいいし、新しい名前を選びたいと思うかもしれない。あるいは、七号という名前を、これからも使いたいと思うかもしれない」
「……うむ」
「どれを選ぶかは、あなたの自由よ」
七号は、しばらく考えた。
「君は、吾輩が七号という名前を捨てたとしても、構わないのだろうか」
レイコは、少しだけ驚いた。
そして、困ったように笑った。
「それは、少し寂しいかもしれないわね」
七号は、顔を上げた。
「寂しい?」
「ええ。私は、あなたを七号と呼ぶことに慣れているから」
「……そうか」
「でも、あなたが自分で決めることよ。私が寂しいからといって、あなたに同じ名前を使い続けるように求めるのは、違うでしょう?」
七号は、彼女を見つめていた。
レイコは、続けた。
「私は、あなたを大切に思うことと、あなたの選択を決めてしまうことは、別だと思っているの」
七号は、何も言わなかった。
彼女の言葉は、すぐに答えを与えてくれるものではなかった。
しかし、考えるための場所を残してくれていた。
七号は、そのことに気づき始めていた。
レイコは、彼の代わりに生きようとしているのではない。
彼女は、彼自身が生きることを望んでいるのだ。
自分の考えを持ち、自分の言葉で話し、自分の責任で選ぶことを。
そして、彼女自身もまた、自分の考えを持ち、自分の言葉で話し、自分の責任で選ぼうとしている。
二人は、同じ存在ではない。
同じ意見を持つ必要もない。
互いのすべてを理解する必要もない。
それでも、同じ道を歩くことはできる。
七号は、そう考えた。
そして、初めて、その考えを、少しだけ心地よいものとして受け入れることができた。
*
夜が深くなっていた。
二人は、別れる場所にたどり着いた。
「では、また明日」
レイコが言った。
「うむ。また明日」
七号は答えた。
レイコは、歩き始めた。
数歩進んだところで、七号が呼び止めた。
「レイコさん」
彼女は振り返った。
「何?」
七号は、少しだけ迷っていた。
何を言えばよいのか、考えていた。
彼女に感謝を伝えたいと思った。
自分のことを考え直してくれたこと。
自分の意見に反対することがあっても、話を聞き続けてくれること。
自分が何者なのか分からなくなったときにも、七号と呼んでくれること。
そうしたことを、伝えたいと思った。
しかし、いざ言葉にしようとすると、どれも少し違うような気がした。
感謝という言葉だけでは、足りない。
尊敬という言葉だけでも、足りない。
親しさという言葉だけでも、足りない。
では、何と言えばよいのだろう。
七号は、考えた。
レイコは、待っていた。
やがて、彼は言った。
「……明日も、吾輩の話を聞いてくれるだろうか」
レイコは、目を瞬かせた。
それから、笑った。
「あなたが、ちゃんと話してくれるならね」
「ちゃんと、とは?」
「自分の考えを話すこと。分からないことは、分からないと言うこと。私の話も、最後まで聞くこと」
「それは、なかなか難しい条件だ」
「そうね」
「……しかし、努力してみよう」
「期待しているわ」
レイコは、再び歩き始めた。
今度は、振り返らなかった。
七号は、その後ろ姿を見送った。
彼女が何を考えているのか、彼には分からなかった。
彼女が自分をどう思っているのかも、すべては分からなかった。
それでも、彼女は、明日も話を聞いてくれると言った。
正確には、ちゃんと話してくれるなら、という条件つきだった。
七号は、その条件を、心の中で何度か繰り返した。
ちゃんと話すこと。
分からないことは、分からないと言うこと。
相手の話を、最後まで聞くこと。
それは、議会で必要とされることでもあった。
しかし、議会のためだけに必要なことではない。
誰かと一緒に生きていくためにも、必要なことなのだろう。
七号は、空を見上げた。
彼は、ラクトフェリンである。
その分類は、変わらない。
彼が何者であるかについて、これからも新しい事実が明らかになるかもしれない。
議会での扱いも、これから変わっていくかもしれない。
彼自身の考えも、変わるだろう。
だが、変わることと、存在しなくなることは、同じではない。
自分が変わったとしても、これまでの自分が、すべて消えてしまうわけではない。
自分が間違ったとしても、これまで考えてきたことが、すべて無意味になるわけではない。
誰かに理解されなかったとしても、自分が存在しなかったことになるわけではない。
そして、自分が誰かを完全に理解できなかったとしても、その人を大切に思うことはできる。
七号は、ゆっくりと歩き始めた。
明日、何が起きるのかは分からない。
議会では、また議論が続くだろう。
彼の立場についても、簡単には結論が出ないかもしれない。
レイコと自分の関係が、これからどうなっていくのかも、分からない。
彼女が自分をどう思っているのか。
自分が彼女をどう思っているのか。
それについても、まだ、答えは出ていなかった。
けれど、明日も、彼女と話すことはできる。
自分の考えを話し、彼女の考えを聞くことはできる。
その中で、何かが変わるかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
それでも、明日は来る。
七号は、そう思った。
*
翌朝、研究記録室の机の上に、一枚の新しい記録票が置かれていた。
七号に関する記録を整理するためのものだった。
分類欄には、ラクトフェリンと記されていた。
その下に、記録上の呼称を記入する欄があった。
担当者は、しばらく考えたあと、そこに「七号」と書き込んだ。
それで、記録は完成した。
正確な分類と、これまで使われてきた呼称。
二つの情報が、同じ紙の上に並んだ。
その記録が、七号という存在のすべてを表しているわけではない。
しかし、彼がどのように記録されているのかを知るためには、必要なものだった。
記録票は、所定の場所に保管された。
やがて、誰かがそれを閲覧するだろう。
七号について調べるために。
議会での発言を確認するために。
彼の分類と、彼の行動について、何らかの判断を下すために。
そのとき、記録を読む者が、七号のすべてを理解できるとは限らない。
記録に残っていないこともある。
記録だけでは分からないこともある。
それでも、記録は、そこに残り続ける。
そして、記録を読む者が、記録だけでは分からないものがあると気づいたなら、その先に、考える余地が生まれる。
レイコは、その記録票を見ていた。
彼女は、分類欄を確認した。
ラクトフェリン。
そして、呼称欄。
七号。
彼女は、その二つを見比べた。
どちらも、間違いではない。
しかし、どちらも、七号のすべてではない。
レイコは、記録票を元の位置に戻した。
そして、心の中で、彼の名前を呼んだ。
七号。
その呼び名が、これから先も同じ意味を持ち続けるとは限らない。
彼が別の名前を望む日が来るかもしれない。
彼女自身が、彼を別の存在として理解する日が来るかもしれない。
それでも、いまの彼女は、彼を七号と呼ぶ。
彼が何者なのかを、すべて知っているからではない。
彼が何者なのか、すべてを知る必要がないと思っているからでもない。
彼について、まだ知らないことがある。
これからも、知らないことは増えていくだろう。
それでも、彼を知ろうとすることを、やめたくないと思っている。
レイコは、記録室を出た。
廊下の向こうから、七号の声が聞こえた。
「レイコさん!」
彼女は、振り返った。
七号が、こちらへ歩いてくる。
何かを話したいらしい。
おそらく、また、何かを考えたのだろう。
レイコは、少しだけ笑った。
「今度は、何を考えたの?」
七号は、真面目な顔で答えた。
「それについては、説明すると少々長くなる」
「そうでしょうね」
「しかし、君に聞いてほしい」
レイコは、彼を見た。
そして、うなずいた。
「いいわ。聞かせて」
七号は、話し始めた。
まだ、うまく整理されていない考えだった。
途中で、何度か言葉に詰まった。
自分でも、何を言いたいのか分からなくなったらしい。
それでも、レイコは、最後まで聞いた。
彼の考えが正しいかどうかを判断するのは、そのあとでよかった。
彼が何を考えているのかを知ること。
彼の言葉を、自分の理解だけで決めつけないこと。
そして、自分の意見を持ったまま、彼の話を聞くこと。
それが、いまのレイコにできることだった。
七号は、話し終えた。
「……以上だ」
「そう」
「どう思う?」
レイコは、少し考えた。
「半分くらいは、賛成できるわ」
「半分?」
「ええ。残りの半分には、反対」
七号は、困った顔をした。
「……やはり、そうなるのか」
「そうなるわよ」
レイコは笑った。
「でも、続きを聞くことはできるわ。あなたが考え直したら、また話してちょうだい」
七号は、彼女を見つめた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「分かった」
二人は、並んで歩き始めた。
七号は、まだ、自分が何者なのかを考えている。
レイコもまた、七号をどう思っているのか、考え続けている。
その答えが、いつか見つかるのかどうかは、分からない。
けれど、答えが見つからないからといって、考えることをやめる必要はない。
相手を完全に理解できないからといって、その人との関係を諦める必要もない。
誰かを大切に思うことは、その人を自分の理解の中に閉じ込めることではない。
その人が、自分の知らない明日へ向かっていくことを、認めることでもある。
レイコは、七号の横顔を見た。
彼は、何かを考えていた。
きっと、また、難しいことを考えているのだろう。
彼女は、そのことを知っていた。
そして、まだ知らないことも、たくさんあった。
それでよかった。
すべてを知ってしまえば、もう考えなくてもよくなるのかもしれない。
しかし、レイコは、七号について考えることを、終わらせたくなかった。
彼が何者であるのか。
彼が何を考えているのか。
彼がこれから、どこへ向かうのか。
そして、自分が、彼とどこまで一緒に歩いていきたいと思っているのか。
その答えは、まだ、どこにも記録されていない。
議事録にも。
研究記録にも。
レイコ自身の心の中にも。
ただ、二人は、いま、同じ道を歩いていた。
それだけは、確かなことだった。
七号は、ふと、レイコのほうを向いた。
「レイコさん」
「何?」
「吾輩は、まだ、ここにいてもよいのだろうか」
レイコは、足を止めた。
彼は、真剣だった。
自分がここにいてよいのか。
この共和国に。
この議会に。
この世界に。
そして、彼女の隣に。
レイコは、その問いのすべてに、簡単な答えを与えることはできなかった。
彼の立場は、まだ確定していない。
議会の判断も、これからだ。
彼女自身が、彼との関係をどうしていきたいのかも、まだ、すべてを言葉にできているわけではない。
けれど。
彼女は、七号を見た。
「少なくとも、私があなたの話を聞いているあいだは、あなたは、ここにいるわ」
七号は、目を見開いた。
レイコは、少しだけ笑った。
「でも、ずっと私に聞いてもらえると思わないこと。あなた自身も、自分の声を聞かなきゃいけないし、ほかの人の声も聞かなきゃいけないんだから」
「……うむ」
「それに、私だって、あなたに聞いてほしいことがあるのよ」
七号は、彼女を見た。
「君の話を?」
「そう」
「それは……」
彼は、少しだけ言葉に詰まった。
そして、いつもの真面目な顔で答えた。
「ぜひ、聞かせてほしい」
レイコは、笑った。
「じゃあ、また今度ね」
「また今度?」
「ええ。今日は、もう遅いから」
七号は、うなずいた。
二人は、再び歩き始めた。
まだ、何も決まっていない。
七号の未来も。
レイコの気持ちも。
二人が、これからどのような関係になっていくのかも。
それでも、明日、また話すことはできる。
相手の考えを聞き、自分の考えを話し、必要なら反対し、間違えたら考え直すことができる。
その繰り返しのなかで、二人は、互いについて少しずつ知っていくのだろう。
すべてを知ることはできない。
完全に理解することもできない。
それでも、知ろうとすることはできる。
そして、知ろうとすることを、やめないでいることもできる。
レイコは、心の中で、もう一度、彼の名前を呼んだ。
七号。
その名前が、彼のすべてを表しているわけではない。
けれど、いまの彼女にとって、その名前は、彼を呼ぶための大切な言葉だった。
彼が何者であっても。
彼がどんなふうに変わっていっても。
彼女は、これからも、彼について考え続けるだろう。
彼の知らない彼を、知ろうとするだろう。
そして、彼女自身もまた、七号の知らない自分へと変わっていくのだろう。
その未来を、いま、決めてしまう必要はなかった。
決めてしまわないからこそ、そこには、まだ可能性が残されている。
七号は、歩きながら、ぽつりと言った。
「レイコさん」
「何?」
「吾輩は、君に、まだ話していないことがある」
レイコは、彼を見た。
「そう」
「いつか、話したいと思っている」
「ええ」
「……そのときも、聞いてくれるだろうか」
レイコは、すぐには答えなかった。
そして、少しだけ笑って言った。
「あなたが、ちゃんと話してくれるならね」
七号は、うなずいた。
二人は、そのまま歩いていった。
その先に、何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、七号は、もう一度、自分の名前を呼ばれる日を待つだけの存在ではなかった。
レイコもまた、誰かの隣に立つだけの存在ではなかった。
二人は、それぞれ、自分の考えを持っていた。
自分の迷いを抱えていた。
自分の選択を、これからも続けていくのだろう。
そして、その選択の先で、互いの知らなかった一面に出会うことになる。
そのとき、二人が何を思うのか。
どんな言葉を交わすのか。
どんなふうに、互いを見つめ直すのか。
それは、まだ、誰にも分からない。
記録にも残っていない。
議会でも、決められていない。
レイコにも。
七号にも。
だからこそ、明日がある。
そして、七号は、明日もまた、自分の言葉で話そうとするだろう。
レイコは、その言葉を聞くだろう。
賛成することもある。
反対することもある。
笑うこともある。
怒ることもある。
それでも、二人は、互いを、ひとつの分類だけで決めつけないでいようとするだろう。
相手のすべてを知ったと思い込まないでいようとするだろう。
そして、まだ知らない相手を、これからも知ろうとするだろう。
七号は、ラクトフェリンである。
それは、変わらない事実だ。
しかし、ラクトフェリンという分類だけで、七号のすべてが決まるわけではない。
レイコは、ラブレ菌である。
それも、変わらない事実だ。
しかし、ラブレ菌という分類だけで、レイコのすべてが決まるわけでもない。
二人は、それぞれ、何者かである。
そして、それぞれ、まだ何者になっていくのか分からない存在でもある。
そのことを、二人は、少しずつ理解し始めていた。
誰かを数えることはできる。
分類することもできる。
記録することもできる。
しかし、その人がこれから何を考え、何を選び、どのように変わっていくのかまで、完全に数えきることはできない。
だから、数えることをやめる必要はない。
ただ、数えたものだけが、すべてだと思わないこと。
記録されたものだけが、存在するものだと思わないこと。
理解できたものだけを、大切にするのではないこと。
レイコは、七号の隣を歩いていた。
彼のことを、まだ、すべては知らない。
これからも、知らないことが増えていくだろう。
それでも、彼女は、彼の隣を歩いていた。
七号もまた、レイコのことを、まだ、すべては知らない。
彼女が何を考え、何を望み、どんな未来を選ぶのか。
そのすべてを、彼は知らない。
それでも、彼女の話を聞きたいと思っていた。
二人は、まだ、答えを持っていない。
けれど、答えがないことを理由に、歩くのをやめる必要はなかった。
彼らの前には、まだ、道が続いていた。
そして、その道の先には、二人とも、まだ知らない明日が待っていた。




