新章 第十二話 数えきれない人民 改訂版
第十二話 数えきれない人民
吾輩は、腸内細菌7号である。
いや。
正確には、吾輩は腸内細菌ではない。
検査記録によれば、ラクトフェリンというタンパク質である。
この説明を、いったい何度繰り返せばよいのだろう。
吾輩は、もう数える気にもなれなかった。
そもそも、吾輩は数えることについて、以前ほど自信がなくなっていたのである。
数字は便利だ。
数えれば、比べられる。
比べれば、違いがわかる。
違いがわかれば、分類できる。
分類できれば、管理できる。
管理できれば、安心できる。
――本当に、そうだろうか。
吾輩は、机の上に置いた一枚の紙を見つめた。
そこには、こう書かれていた。
「七号を、記録から削除せよ。」
差出人の名前はない。
日付もない。
理由もない。
ただ、命令だけがある。
命令というものは、ずいぶんと簡潔に書けるらしい。
説明を省き、責任の所在を曖昧にし、受け取った者に解釈を委ねれば、短い文章で大きな仕事をさせることができる。
ただし、その仕事が正しいかどうかは、文章の短さとは関係がない。
吾輩は、紙を懐にしまった。
昨日は、議会で自分の発言が記録されるのを見届けた。
そして今朝は、その記録から自分を削除せよという紙を手にしている。
まことに忙しい。
昨日、記録するよう求められたことを、今日、記録から消すよう命じられる。
共和国の事務処理能力には、感心すべきところがある。
ただし、感心したからといって、従わなければならないわけではない。
吾輩は、議会へ向かうことにした。
紙を持って。
そして、まだ答えの出ていない問いを持って。
*
議会の建物へ着くと、いつもと様子が違っていた。
廊下には、数人の職員が立っていた。
議員たちは、互いに小声で話している。
誰もが何かを知っているようで、誰もがそれを口にしたがらない。
吾輩は、その光景を見て、胸の中に小さな不安が生じるのを感じた。
何かが起きたのだろうか。
それとも、これから何かが起きるのだろうか。
この二つは、似ているようで違う。
すでに起きたことなら、調べることができる。
これから起きることなら、まだ防げるかもしれない。
ただし、何が起きるのかを知らなければ、どちらも難しい。
「七号さん」
声をかけられて振り返ると、レイコさんがいた。
「レイコさん。何かあったのですか」
「議会の記録について、確認が行われているそうです」
「記録?」
「昨日の議事録です。まだ正式な確認が終わっていないのに、一部の関係者が、七号さんの発言を記録に残すべきではないと言っているらしいのです」
吾輩は、懐の紙を思い出した。
「このようなものが、吾輩の机に置かれていました」
紙を見せると、レイコさんの表情が変わった。
「誰が置いたのですか」
「わかりません」
「いつ置かれたのですか」
「それも、わかりません」
「誰かに見られましたか」
「いいえ」
レイコさんは、紙を慎重に読み直した。
「七号さん。これは、議会に報告したほうがよいと思います」
「吾輩も、そう考えていました」
「ただし、気をつけてください」
「何にですか」
レイコさんは、すぐには答えなかった。
「この紙を書いた者が、何を望んでいるのか、まだわかりません。七号さんを脅したいだけなのか。それとも、本当に記録を消そうとしているのか」
「どちらにしても、吾輩が従う理由はありません」
「ええ。でも、従わないことと、何も警戒しなくてよいことは、同じではありません」
吾輩はうなずいた。
レイコさんの言うとおりだった。
勇気というものは、危険を知らないことではない。
危険があると知りながら、何をすべきかを考えることなのだろう。
吾輩は、そう思うことにした。
ただし、吾輩は勇敢な存在ではない。
怖いものは怖い。
危険と聞けば、できれば遠くへ行きたい。
できることなら、安全な場所で、誰かが問題を解決してくれるのを待っていたい。
吾輩は、そのような自分を恥じるつもりはなかった。
怖いと感じることまで、規則で禁止されているわけではないのだから。
*
議長は、吾輩から紙を受け取った。
そして、何度も読み直した。
「これは、誰が書いたのかわからないのだな」
「はい」
「君は、誰かに恨まれるようなことをした覚えがあるか」
吾輩は、考えた。
「吾輩の発言に反対する者はいるでしょう。しかし、それだけで誰かが吾輩を恨んでいるとは言い切れません」
「では、誰かが君を黙らせようとしている可能性は?」
「あるかもしれません。ただ、今のところ、確かなことはわかりません」
議長は、しばらく考えていた。
「この紙については、調査する。議事録についても、定められた手続きに従って確認することにしよう」
「ありがとうございます」
「ただし、七号。ひとつ覚えておいてほしい」
「何でしょうか」
「君の発言が記録されることと、君の主張が認められることは、同じではない」
「はい。承知しています」
「君の発言は、議論の材料になる。しかし、それだけで共和国の制度が変わるわけではない」
「それも、承知しています」
議長は、少しだけ表情を和らげた。
「ならば、今は調査を待つことだ」
吾輩は、うなずいた。
議長の言葉は、もっともだった。
匿名の紙一枚で、誰かを犯人と決めつけるわけにはいかない。
疑わしいという理由だけで、相手の立場を奪うこともできない。
それをしてしまえば、吾輩が議会で求めたことと、反対のことをすることになる。
吾輩は、調査を待つことにした。
ただし、待っている間にも、時間は進む。
そして、時間が進んだからといって、問題が自然に解決するとは限らない。
吾輩は、議場の外へ出た。
そのとき、廊下の向こうから、何人かの議員が歩いてくるのが見えた。
先頭の議員が、吾輩に気づいた。
「七号」
「はい」
「君の発言について、議会で改めて議論することになった」
「どのような議論でしょうか」
「君の立場を、共和国の制度の中でどう扱うべきか。それから、制度の見直しをどのような手続きで進めるべきかだ」
吾輩は、静かにうなずいた。
「わかりました」
「君にも、意見を述べてもらうことになるだろう」
「ありがとうございます」
議員たちは、そのまま通り過ぎていった。
吾輩は、その背中を見送った。
まだ、何も決まってはいない。
しかし、議論は続いている。
それだけは確かだった。
*
その日の議会では、いくつもの意見が交わされた。
七号の発言を、どのように記録するのか。
共和国の構成員を、どのように定義するのか。
そして、これまでの制度が想定していなかった存在に対して、どのような手続きを設けるべきなのか。
議員たちは、それぞれの立場から意見を述べた。
ある者は、慎重であるべきだと主張した。
ある者は、現行の規則を優先すべきだと述べた。
またある者は、規則を見直す必要性を認めながらも、変更の範囲を明確にすべきだと主張した。
吾輩は、それらの意見を聞いていた。
全員が吾輩の味方になったわけではない。
反対する者もいる。
疑問を持つ者もいる。
しかし、反対意見があるということだけで、議論が失敗したわけではなかった。
むしろ、反対意見があるからこそ、何を変える必要があり、何を慎重に扱わなければならないのかが、少しずつ見えてくる。
ただし、議論が長引けば、それだけで問題が解決するわけでもない。
議論のための議論になってしまえば、誰も傷つかない代わりに、誰も救われないこともある。
その境目は、どこにあるのだろう。
吾輩には、まだわからなかった。
やがて、議長が発言した。
「本件については、引き続き審議する。制度の変更については、所定の手続きを踏み、議会として判断することとする」
それが、その日の結論だった。
劇的な決定ではない。
誰かが立ち上がり、拳を振り上げ、全員が歓声を上げるような場面でもない。
ただ、議論は終わらなかった。
吾輩は、それを大切にしたかった。
問題が解決していないことを、解決したことにしない。
意見が一致していないことを、一致したことにしない。
まだわからないことを、わかったことにしない。
それは、派手ではない。
しかし、何かを決めるときには、必要なことなのだと思った。
*
議会が休憩に入ったとき、レイコさんが吾輩のところへ来た。
「七号さん。少し、話したいことがあります」
「何でしょうか」
「私は、これからの議論に参加したいと思っています」
「レイコさんも?」
「ええ」
吾輩は、少し驚いた。
「吾輩のために、ですか」
「それだけではありません」
レイコさんは、はっきりと言った。
「私は、七号さんの問題が解決すれば、それですべてがよくなるとは思っていません」
「そうですか」
「七号さんが発言できるようになったとしても、ほかの誰かが同じように扱われるとは限りません。制度が変わらなければ、次に同じ問題が起きたとき、また最初から考えなければならないでしょう」
吾輩は、黙って聞いていた。
「私は、七号さんの味方でありたいと思っています。でも、それは、七号さんの言うことに何でも賛成するという意味ではありません」
「はい」
「私自身が、おかしいと思うことには、おかしいと言いたいのです」
吾輩は、ゆっくりとうなずいた。
「レイコさん。それは、とても大切なことだと思います」
「七号さんは、私が反対しても、怒りませんか」
「怒ることはあるかもしれません」
「あるのですか」
「吾輩も、まだ修行中ですので」
レイコさんは笑った。
吾輩も笑った。
「でも、怒ったからといって、レイコさんの意見を聞かなくてよいことにはなりません」
「それなら、安心しました」
レイコさんは、少しだけ真剣な顔に戻った。
「七号さん。ひとつ、聞いてもよいですか」
「どうぞ」
「もし、制度が変わらなかったら、どうしますか」
吾輩は、すぐには答えられなかった。
制度が変わらなければ、問題は残る。
吾輩の立場も、曖昧なままかもしれない。
それでも、議会の決定を無視して、自分だけで新しい制度を作るわけにはいかない。
共和国には、共和国の手続きがある。
手続きが不十分だと思うなら、その不十分さを指摘し、変えるための方法を探さなければならない。
「そのときは、もう一度、考えます」
「それだけですか」
「はい。考えることをやめない、ということです」
レイコさんは、吾輩を見つめていた。
「七号さんらしい答えですね」
「また、それですか」
「褒めています」
「今度は、信じることにします」
レイコさんは笑った。
吾輩は、その笑顔を見て、少しだけ安心した。
彼女は、吾輩のために自分の意見を捨てたのではない。
自分の意志で、議論に参加しようとしている。
そのことが、吾輩にはうれしかった。
*
その日の夕方、吾輩は議会の建物を出た。
長い一日だった。
議論は続いている。
匿名の紙についても、まだ何もわかっていない。
それでも、吾輩は、昨日より少しだけ前へ進んだ気がしていた。
何かが解決したからではない。
自分が何を求めているのかを、以前よりも明確に理解できたからだ。
吾輩は、特別な存在として扱われたいのではない。
正しい者として、すべての意見を認めてもらいたいのでもない。
ただ、自分が何者であるかという分類だけで、自分の考えや、そこにいたという事実まで消されてしまうことに、納得できなかったのである。
そして、それは、吾輩ひとりの問題ではないのかもしれなかった。
この共和国には、数えられる者たちがいる。
数えられ、名前を与えられ、記録されている者たちがいる。
その一方で、数えられない者がいるかもしれない。
名前を持たない者がいるかもしれない。
記録されていない者がいるかもしれない。
吾輩は、そのすべてを知っているわけではない。
知らないからこそ、最初からいないことにしてはならないと思った。
吾輩は、歩きながら、ふと空を見上げた。
空が何かを教えてくれるわけではない。
しかし、何も答えをくれない空を見上げることが、無意味だとも思わなかった。
答えがないことと、問いを持つことは、同じではない。
そして、問いを持つことと、すぐに答えを出さなければならないことも、同じではない。
吾輩は、そう考えた。
そのとき、後ろから足音が聞こえた。
吾輩は振り返った。
誰かが、こちらへ近づいてくる。
その者は、吾輩の姿を見ると、足を止めた。
「七号」
声をかけられた。
「はい」
「少し、話がある」
吾輩は、その者の顔を見た。
見覚えがあるような気もした。
しかし、誰だったのか、すぐには思い出せなかった。
「何でしょうか」
その者は、周囲を確かめるように視線を動かした。
そして、声を低くした。
「ここでは話せない」
「では、どこで話せばよいのでしょう」
「人のいないところで」
吾輩は、少し迷った。
レイコさんの言葉が、頭の中によみがえった。
気をつけてください。
この紙を書いた者が、何を望んでいるのか、まだわからないのです。
吾輩は、その忠告を忘れてはいなかった。
「申し訳ありませんが、話の内容を先に教えていただけませんか」
その者は、しばらく黙っていた。
「君の記録についてだ」
吾輩は、胸の中で、何かが小さく動くのを感じた。
「記録?」
「ああ」
「議事録のことですか」
その者は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「君は、自分が記録から消されるという意味を、まだ理解していない」
吾輩は、その者を見つめた。
「どういう意味でしょうか」
「ここでは話せない」
また、その言葉だった。
吾輩は、しばらく考えた。
そして、首を横に振った。
「申し訳ありません。吾輩は、内容のわからない話のために、誰もいない場所へ行くことはできません」
その者の表情が、わずかに変わった。
「用心深くなったな」
「そうしなければならない理由が、できたものですから」
その者は、何かを言いかけた。
しかし、結局、何も言わなかった。
やがて、吾輩に背を向け、歩き去っていった。
吾輩は、その後ろ姿を見送った。
今のやり取りが、何を意味していたのかは、まだわからない。
ただ、吾輩は、あの紙が単なる悪戯ではない可能性を、以前より強く感じていた。
吾輩は、レイコさんに知らせようと思った。
そして、議長にも。
誰かを犯人と決めつけるためではない。
起きたことを、起きたこととして記録するために。
吾輩は、歩き始めた。
*
その夜、共和国は、いつもと変わらないように見えた。
誰かが働いている。
誰かが休んでいる。
誰かが食事をしている。
誰かが明日の予定を考えている。
そのような日常が、どこかで続いていた。
吾輩は、部屋に戻ると、机の上に紙を置いた。
――七号を、記録から削除せよ。
朝から何度も読み返した言葉だった。
しかし、読み返すたびに、別の疑問が浮かんでくる。
誰が書いたのか。
何の記録を消そうとしているのか。
なぜ、吾輩なのか。
そして、誰が、その命令に従うことを期待しているのか。
吾輩は、紙を丁寧に折りたたんだ。
捨てるつもりはなかった。
証拠になるかもしれない。
あるいは、何の役にも立たない紙なのかもしれない。
それでも、今の吾輩にできることは、残しておくことだった。
記録すること。
確かめること。
そして、わからないことを、わからないままにしておくこと。
その夜、吾輩は、机の上の書類を整理していた。
すると、扉の向こうで、かすかな物音がした。
吾輩は顔を上げた。
「どなたですか」
返事はなかった。
吾輩は、しばらく扉を見つめた。
もう一度、物音がした。
今度は、先ほどよりも近かった。
吾輩は立ち上がった。
扉へ向かおうとした、そのとき。
机の上に置いていた紙が、風もないのに、かすかに揺れた。
吾輩は足を止めた。
窓は閉まっている。
扉も閉まっている。
それなのに、紙の端が、ほんの少しだけ動いていた。
吾輩は、ゆっくりと紙に近づいた。
そして、気づいた。
紙の裏側に、先ほどまではなかった文字が記されていたのである。
吾輩は、息をのんだ。
そこには、こう書かれていた。
「明日、議会で発言するな。」
吾輩は、その文字を見つめた。
議会で発言するな。
記録から削除せよ。
二つの命令が、ひとつにつながった。
吾輩は、ようやく理解した。
誰かは、吾輩が何を言うかを恐れているのかもしれない。
吾輩が何を知っているのかを、恐れているのかもしれない。
あるいは、吾輩が何も知らないことさえ、都合が悪いのかもしれない。
だが、誰が。
なぜ。
吾輩は、まだ何も知らなかった。
扉の向こうでは、物音がしなくなっていた。
吾輩は、紙を懐にしまった。
そして、扉を見つめた。
今、扉を開けるべきなのか。
それとも、議長に知らせるべきなのか。
レイコさんに相談すべきなのか。
吾輩は、考えた。
考えているあいだにも、時間は過ぎていく。
しかし、焦って決めることが、必ずしも正しいとは限らない。
吾輩は、深く息を吸った。
そして、扉の向こうへ向かって、もう一度、声をかけた。
「どなたですか」
返事はなかった。
今度こそ、何も聞こえなかった。
吾輩は、扉を開けた。
そこには、誰もいなかった。
廊下は静まり返っていた。
ただ、床の上に、小さな紙片が落ちていた。
吾輩は、それを拾い上げた。
紙片には、ひとつの数字が記されていた。
7。
吾輩は、その数字を見つめた。
それは、吾輩に与えられた番号だった。
吾輩は、細菌ではない。
それでも、七号と呼ばれてきた。
その番号が、吾輩を何者にするのか。
吾輩には、まだわからない。
しかし、誰かが、その番号を消そうとしている。
それだけは、少しずつ、はっきりしてきた。
*
翌朝、吾輩は、議会へ向かった。
眠れなかった。
考え続けていた。
誰が、何のために、吾輩を記録から消そうとしているのか。
そして、なぜ、明日の発言を止めようとしているのか。
吾輩には、まだ答えがなかった。
ただ、ひとつだけ決めていた。
何があっても、吾輩は、議会で自分の考えを述べるつもりだった。
それは、誰かに逆らうためではない。
自分が正しいと証明するためでもない。
吾輩が、これまで考えてきたことを、なかったことにしないためである。
議会の前に着くと、レイコさんが待っていた。
「七号さん」
「レイコさん」
「昨日のことを、議長に報告しました」
「ありがとうございます」
「今日の議会では、発言の順番が変更されたそうです」
「変更?」
「ええ。七号さんの発言は、議題の最後になると聞きました」
吾輩は、少し考えた。
「それは、問題なのでしょうか」
「順番が変わること自体は、問題ではないかもしれません。ただ、誰が、どのような理由で変更したのか。それは確認する必要があると思います」
吾輩は、うなずいた。
「では、確認しましょう」
「はい」
レイコさんは、吾輩を見つめた。
「七号さん。もし、今日、何かが起きたら」
「はい」
「自分ひとりで、すべてを解決しようとしないでください」
吾輩は、少し笑った。
「吾輩は、そこまで立派な存在ではありません」
「知っています」
「おや」
「七号さんは、考え込むと、周りが見えなくなることがありますから」
吾輩は、返事に困った。
それは、確かに否定できない。
「わかりました。何かあれば、相談します」
「約束ですよ」
「はい。約束します」
二人は、議場へ向かった。
そのとき、吾輩は、ひとつのことを思った。
吾輩は、これまで、自分が何者であるかを知ろうとしてきた。
細菌なのか。
タンパク質なのか。
共和国の一員なのか。
そのどれもが、重要な問いだった。
しかし、今は、それだけではなかった。
吾輩は、誰と一緒に考えることができるのか。
誰の言葉を聞き、誰に自分の言葉を届けることができるのか。
そのこともまた、吾輩にとって大切な問いになっていた。
吾輩は、レイコさんの隣を歩いた。
議場の扉が見えてきた。
その向こうには、まだ答えの出ていない問題が待っている。
そして、おそらく、吾輩の知らない何かも。
吾輩は、懐の紙を確かめた。
そこには、二つの命令が残っていた。
記録から削除せよ。
明日、議会で発言するな。
吾輩は、その紙を、もう一度懐にしまった。
そして、議場の扉に手をかけた。
吾輩は、まだ、自分が何者なのかを完全には知らない。
だが、ここにいる。
それだけは、確かだった。
――そのとき。
議場の中から、誰かの声が聞こえた。
「七号は、出席していないことになっている」
吾輩は、扉の前で立ち止まった。
レイコさんも、息をのんだ。
吾輩は、ゆっくりと扉を開けた。
議場の中には、議員たちが集まっていた。
そして、議長の机の上には、すでに議事録が置かれていた。
吾輩は、その表紙を見た。
そこには、今日の日付と、議会の議題が記されていた。
そして、出席者の一覧。
吾輩は、その一覧を見つめた。
自分の番号を探した。
1。
2。
3。
4。
5。
6。
――8。
吾輩は、もう一度、最初から見直した。
1。
2。
3。
4。
5。
6。
8。
そこに、7はなかった。
吾輩は、議長を見た。
議長は、吾輩を見ていなかった。
議員たちも、誰も、吾輩を見ようとしなかった。
ただ、レイコさんだけが、吾輩の隣に立っていた。
吾輩は、声を出そうとした。
しかし、その前に、議長が口を開いた。
「それでは、本日の議会を開会する」
吾輩は、議場を見渡した。
吾輩は、ここにいる。
確かに、ここにいる。
それなのに。
この議会の記録には、吾輩がいない。
吾輩は、懐の紙を握りしめた。
そして、ゆっくりと、一歩前へ出た。
「議長」
吾輩は言った。
「吾輩は、ここにいるんですが」
議場が、静まり返った。
誰も、すぐには答えなかった。
吾輩は、もう一度、言おうとした。
そのとき。
議場の後方で、何かが倒れる音がした。
誰かが叫んだ。
レイコさんが、吾輩の名を呼んだ。
吾輩は、振り返った。
そして――
その瞬間、吾輩の目の前から、世界が消えた。
*
吾輩は、暗闇の中にいた。
いや、暗闇というのは、正確ではない。
目を閉じているのかもしれない。
眠っているのかもしれない。
あるいは、吾輩には、もう目を開けることができないのかもしれない。
吾輩には、わからなかった。
ただ、誰かの声が聞こえた。
「七号さん」
レイコさんの声だった。
吾輩は、返事をしようとした。
しかし、声が出なかった。
もう一度、声がした。
「七号さん。聞こえますか」
吾輩は、何とか答えようとした。
ここにいる。
吾輩は、ここにいる。
その言葉を伝えたかった。
しかし、言葉にならなかった。
吾輩は、何者なのだろう。
細菌ではない。
タンパク質である。
記録には、そう書かれている。
しかし、記録に書かれていることだけが、吾輩のすべてなのだろうか。
吾輩は、レイコさんの声を聞いた。
彼女は、何度も吾輩を呼んでいた。
その声が、少しずつ遠ざかっていくように感じられた。
吾輩は、必死に考えた。
吾輩は、ここにいる。
吾輩は、ここにいる。
吾輩は――
そのとき、別の声が聞こえた。
「記録を確認しろ!」
誰かが叫んでいた。
「七号は、どこだ!」
別の誰かが答えた。
「記録には、いません!」
その言葉を聞いて、吾輩は、なぜか笑いたくなった。
記録には、いません。
確かに、そうなのだろう。
記録には、いない。
しかし、レイコさんは吾輩を呼んでいる。
誰かが、吾輩を探している。
誰かが、吾輩の存在を確かめようとしている。
それならば。
吾輩は、まだ――。
*
吾輩は、目を開けた。
最初に見えたのは、白い天井だった。
次に、誰かの顔が見えた。
レイコさんだった。
「七号さん!」
彼女は、吾輩の顔をのぞき込んでいた。
「聞こえますか。七号さん!」
吾輩は、口を動かした。
声が出た。
「……レイコさん」
レイコさんは、目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
「よかった……」
その声は、いつもの彼女の声とは少し違っていた。
吾輩は、周囲を見回そうとした。
しかし、身体が思うように動かなかった。
「ここは……」
「医療区画です」
「吾輩は……」
「今は、無理に話さないでください」
レイコさんは、そう言った。
吾輩は、彼女の言葉に従った。
どうやら、吾輩は議場で倒れたらしい。
何が起きたのか。
誰が倒れたのか。
何が原因だったのか。
吾輩には、まだわからないことが多かった。
ただ、レイコさんがここにいる。
そのことだけは、確かだった。
吾輩は、もう一度、目を閉じた。
今度は、眠るために。
*
目を覚ましたとき、吾輩のそばには、レイコさんのほかに、何人かの者がいた。
議長も、その中にいた。
「七号。具合はどうだ」
「まだ、少しふらつきます」
「無理をするな」
「はい」
議長は、吾輩の顔を見つめた。
「君が倒れた原因については、まだ調査中だ。現時点で、誰かが故意に君を傷つけたと断定することはできない」
「わかりました」
「ただし、議会で起きたことについては、すべて記録し、確認する」
吾輩は、うなずいた。
「それから、七号」
「はい」
「君の発言についてだが……」
議長は、言葉を選んでいるようだった。
「君が倒れたあと、議場では混乱が起きた。しかし、君の発言をなかったことにするつもりはない」
吾輩は、しばらく黙っていた。
「議事録には、吾輩の名前がなかったと聞きました」
「その件についても、調査している」
「では、吾輩の発言は、記録されるのでしょうか」
「君が実際に発言したことを確認できれば、その事実は記録されるべきだと考えている」
吾輩は、ゆっくりとうなずいた。
すべてが解決したわけではない。
誰が吾輩を記録から消そうとしたのか。
誰が、吾輩の発言を止めようとしたのか。
そして、議場で何が起きたのか。
まだ、わからないことが多い。
しかし、少なくとも、議長は、吾輩の存在を否定しなかった。
それは、ひとつの始まりだった。
吾輩は、レイコさんを見た。
「レイコさん」
「はい」
「吾輩は、何日くらい眠っていたのでしょうか」
「それほど長くはありません」
「そうですか」
吾輩は、少し安心した。
それから、もうひとつ尋ねた。
「吾輩が倒れたとき、レイコさんは、どうしたのですか」
レイコさんは、少しだけ黙っていた。
「七号さんを呼びました」
「それだけですか」
「それだけではありません」
彼女は、吾輩を見つめた。
「七号さんが、ここにいると、伝えました」
吾輩は、返事ができなかった。
レイコさんは、続けた。
「議事録に七号さんの名前がなくても、七号さんがいなかったことにはなりません。七号さんが倒れたとき、私は、七号さんがここにいることを知っていました」
彼女は、少しだけ笑った。
「だから、呼び続けました」
吾輩は、目を閉じた。
泣いていたのかもしれない。
あるいは、ただ、疲れていただけなのかもしれない。
吾輩には、よくわからなかった。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていた。
吾輩は、ここにいる。
レイコさんも、ここにいる。
それだけのことが、今は、とても大切に思えた。
*
数日後、吾輩は、少しずつ日常に戻り始めた。
身体は、まだ完全には回復していなかった。
しかし、考えることはできた。
考えることができるならば、吾輩には、まだやるべきことがある。
議会では、吾輩の立場について、引き続き議論が行われていた。
制度の見直しについても、検討が続けられていた。
そして、吾輩が倒れた日の出来事について、調査が進められていた。
すべてが、すぐに解決したわけではない。
誰が紙を書いたのか。
誰が吾輩の記録を消そうとしたのか。
議場で何が起きたのか。
まだ、わからないことが残っている。
しかし、わからないことが残っているからといって、すべてを諦める必要はない。
吾輩は、そう思った。
ある日、議長から、正式な議事録の写しが届いた。
吾輩は、それを開いた。
そこには、議会で交わされた言葉が記されていた。
そして、最後のほうに、吾輩の発言があった。
吾輩が細菌ではないということと、吾輩が何も考えてはならないということは、同じではありません。
その言葉は、確かに記録されていた。
吾輩は、何度も読み返した。
記録に残ったからといって、すべてが解決したわけではない。
しかし、記録に残ったことで、これからも問い続けることができる。
吾輩は、そう思った。
そして、議事録を閉じた。
*
その夜、吾輩は、ひとりで考えていた。
吾輩は、細菌ではない。
それでも、七号と呼ばれてきた。
七号という番号は、吾輩のすべてではない。
しかし、吾輩がここにいたことを示す、ひとつの手がかりではある。
番号が消えたからといって、吾輩が消えるわけではない。
記録から外されたからといって、吾輩が存在しなかったことになるわけでもない。
それでも、記録は大切だ。
記録がなければ、誰かがいたことを証明するのは難しくなる。
誰かが何を言ったのか。
誰かが何を考えたのか。
誰かが、そこにいたのか。
そうしたことを、後から確かめる手がかりが失われてしまうからだ。
だからこそ、記録は必要なのだろう。
ただし、記録だけが、存在のすべてではない。
吾輩は、レイコさんの言葉を思い出した。
議事録に七号さんの名前がなくても、七号さんがいなかったことにはなりません。
その言葉を、吾輩は忘れないだろう。
吾輩は、窓の外を見た。
誰かが、どこかで眠っている。
誰かが、まだ眠れずにいる。
誰かが、名前を持っている。
誰かが、名前を持たない。
誰かが、記録されている。
誰かが、記録されていない。
そのすべてを、吾輩は知っているわけではない。
そして、知らないままでいることも、きっとあるのだろう。
しかし、知らないという理由だけで、誰かを、いないことにはしたくなかった。
吾輩は、目を閉じた。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
制度の見直しも、議論も、まだ続いていく。
吾輩自身の問題も、すべてが解決したわけではない。
それでも、吾輩は、明日も考えるつもりだった。
吾輩は、まだ、ここにいるのだから。
*
ところで。
吾輩は、いまだに七号と呼ばれている。
正式な名前は、まだ決まっていない。
名前をつけるべきかどうかという問題も、今後、検討されることになった。
名前というものは、なかなか難しい。
名前があれば、呼びやすい。
呼びやすければ、覚えやすい。
覚えやすければ、親しみも生まれるかもしれない。
しかし、名前をつけたからといって、その者のすべてがわかるわけではない。
逆に、名前がないからといって、その者が存在しないわけでもない。
吾輩は、そう考えている。
もっとも、名前が決まれば、少しは便利になるかもしれない。
レイコさんに呼ばれるたびに、七号と返事をする必要もなくなる。
いや、待てよ。
名前が変わっても、吾輩は吾輩である。
ならば、今のままでも、特に困らないのではないか。
いやいや。
名前がないことと、名前を必要としないことは、同じではない。
吾輩は、また考え始めた。
どうやら、吾輩の思考には、終わりというものがないらしい。
それは、少々困ったことである。
しかし、考えることをやめてしまえば、今度は何もかもが、簡単に決まってしまうかもしれない。
それも、困る。
吾輩は、今日も七号である。
明日も、たぶん七号である。
明後日になれば、名前が決まっているかもしれない。
決まっていないかもしれない。
どちらにしても、吾輩は、明日もここにいるつもりだ。
そして、もし誰かが、吾輩に尋ねることがあれば。
吾輩は、こう答えるだろう。
吾輩は、ここにいるんだけど。
――おや。
また、誰かが呼んでいる。
今度は、誰だろう。
吾輩は、顔を上げた。
「七号さん」
レイコさんの声だった。
「はい」
「何を考えているのですか」
「吾輩が、何者なのかということを」
「またですか」
「はい。またです」
レイコさんは、笑った。
「答えは出ましたか」
吾輩は、少し考えた。
「まだ、出ていません」
「そうですか」
「ただ、ひとつだけ、わかったことがあります」
「何でしょう」
吾輩は、彼女を見た。
「答えが出ていなくても、吾輩は、ここにいるということです」
レイコさんは、しばらく吾輩を見つめていた。
そして、静かにうなずいた。
「ええ。知っています」
吾輩は、笑った。
レイコさんも、笑った。
そのとき、吾輩は、ようやく気づいた。
吾輩は、自分が何者であるかを、完全には知らない。
自分が、どこまで数えられているのかも、わからない。
自分の名前が、いつ決まるのかも、わからない。
それでも、吾輩は、ここにいる。
そして、吾輩の声を聞いてくれる者がいる。
その事実は、どんな記録にも、完全には収められないのかもしれない。
しかし、記録に収められないからといって、意味がないわけではない。
数えられないことと、存在しないことは、同じではない。
吾輩は、そう思った。
そして、いつものように、考え続けることにした。
吾輩は、腸内細菌7号である。
いや、正確には、吾輩は腸内細菌ではない。
だが。
吾輩は、ここにいる。
ここにいるんだけど。
「数えられないことと、存在しないことは、同じではない。」
誰かに数えてもらえなかったとき。
記録に残らなかったとき。 大勢の意見のなかに、自分の声が埋もれてしまったとき。
それでも、自分はここにいる。
そして、最後に残るのが、七号の名前ではなく、七号の存在そのものです。
七号は、まだ七号のまま。
物語は終わったのに、七号の明日は終わっていない。




