新章 第十一話 誰が、人民を代表するのか 改訂版
# 第十一話 誰が、人民を代表するのか
吾輩は、腸内細菌7号である。
いや、正確に申し上げれば、吾輩は腸内細菌ではない。
検査記録によれば、ラクトフェリンというタンパク質である。
この書き出しには、いささか問題がある。
吾輩が何者であるかを説明するために、まず吾輩が何者ではないかを説明しなければならないのである。
人間社会にも、似たようなことがあるのだろうか。
ある組織に入るときには、何者であるかを証明する書類を求められる。ところが、いったん分類から外れると、今度は何者ではないかを証明する必要が生じる。
そして、証明が終わったころには、最初に何をしに来たのかを忘れてしまう。
もっとも、吾輩は人間社会について詳しいわけではない。
詳しくないからこそ、勝手なことを言えるのかもしれない。
しかし、吾輩の暮らす腸内人民共和国にも、似たような問題があった。
吾輩は、細菌ではない。
では、共和国の一員ではないのか。
共和国の一員でないならば、共和国について意見を述べてはいけないのか。
意見を述べてはいけないのなら、吾輩がこれまで考えてきたことは、いったい何だったのか。
考えれば考えるほど、問題は増えていった。
そこで吾輩は、議会へ向かうことにした。
ひとりで考えても答えが出ない問題は、複数の者で考えてみるに限る。
ただし、複数の者が集まったからといって、答えが出る保証はない。
議論が紛糾し、委員会が設置され、その委員会の運営を検討する会議が開かれる可能性もある。
それでも、ひとりで悩んでいるよりは、いくらかましだろう。
少なくとも、悩んでいる相手が増える。
それを進歩と呼ぶかどうかは、議論の余地がある。
*
議場には、すでに議員たちが集まっていた。
吾輩の姿を認めると、何人かが隣の者と小声で話し始めた。
吾輩は、その様子を見て、少しばかり落ち着かない気持ちになった。
自分について議論されているとき、自分だけが議論の内容を知らないというのは、なかなか居心地が悪い。
もっとも、本人がいる前で本人について話すことが、いつでも望ましいとは限らない。
本人がいると、言いにくいこともあるだろう。
本人がいなければ、もっと言いにくいこともあるかもしれない。
結局のところ、誰がどこにいれば公平なのかという問題は、それほど簡単ではないらしい。
「七号」
議長が吾輩を呼んだ。
「本日の議題は、君の発言の扱いと、共和国の構成員に関する制度についてである」
「承知しました」
「君は、何を求めているのか。改めて説明してもらいたい」
吾輩は立ち上がった。
何を求めているのか。
それは、ここ数日、吾輩自身が考え続けてきた問いだった。
「吾輩は、自分が細菌であると認めていただきたいわけではありません」
議場が静かになった。
「検査記録に、吾輩はラクトフェリンであると記されている。その事実を、吾輩は否定するつもりはありません」
吾輩は、いったん言葉を切った。
「しかし、細菌ではないという事実だけを理由に、吾輩がこれまで考えてきたことまで、無効にしないでいただきたいのです」
議長が尋ねた。
「つまり、発言の機会を求めているのか」
「はい。ただし、吾輩の意見が必ず正しいと認めていただきたいわけではありません」
「なぜだ」
「吾輩の意見も、間違っているかもしれないからです」
議場の片隅から、かすかな笑い声が聞こえた。
吾輩は、その声を咎めなかった。
自分の間違いを認めることは、ときに滑稽に見えるらしい。
しかし、間違いを認めない者が、必ず正しいわけでもない。
むしろ、間違いを認めないことによって、間違いが長生きする場合もある。
間違いというものは、案外、生命力が強いのである。
「発言する資格と、発言が正しいことは、同じではありません」
吾輩は続けた。
「吾輩は、正しい者として扱っていただきたいのではありません。間違える可能性のある者として、話を聞いていただきたいのです」
議長は、手元の書類を見つめた。
すぐには返事をしなかった。
吾輩も、それ以上は話さなかった。
議会では、沈黙もまた、ひとつの時間である。
ただし、沈黙がすべて熟慮を意味するとは限らない。
何を答えればよいのかわからない場合もある。
答えを知っていても、答えたくない場合もある。
吾輩には、その区別ができなかった。
だからこそ、相手が沈黙しているという事実だけで、その相手の考えまで決めつけないようにしたかった。
*
最初に発言した議員は、慎重な口調で意見を述べた。
「七号の主張には、理解できる部分がある。しかし、共和国の制度は、これまで細菌を構成員として運営されてきた。ここで一つの例外を認めれば、今後、どこまでを構成員とするのか、明確にしなければならない」
もっともな意見だった。
制度には、一定の基準が必要である。
その場の感情だけで例外を認めれば、別の場面で不公平が生じるかもしれない。
今日の例外が、明日の義務になることもある。
善意で始めたことが、別の誰かを苦しめる場合もある。
吾輩は、その議員の意見を否定しなかった。
続いて、別の議員が発言した。
「発言の機会を認めることと、議決に参加する権利を認めることは、分けて考えるべきではないか。さらに、公職に就く資格については、別途検討する必要がある」
これも、もっともである。
意見を述べること。
議論に参加すること。
議決に加わること。
内閣を組織すること。
それぞれには、それぞれの意味がある。
ひとつを認めたからといって、残りのすべてが自動的に認められるわけではない。
吾輩は、ここで初めて、自分が政治というものを、いささか単純に考えていたのかもしれないと気づいた。
吾輩の存在を認めてほしい。
そう願うことと、吾輩にどのような権限が与えられるべきかを決めることは、別の問題だった。
そして、共和国の仕組みを守ることと、仕組みを見直さないことも、別の問題なのである。
「制度を守ることと、制度を見直さないことは、同じではありません」
吾輩は言った。
「制度は、そこに暮らす者たちのためにあるはずです。もし、これまで想定していなかった存在が現れたのなら、制度がその存在をどう扱うべきか、考える必要があるのではないでしょうか」
「では、七号」
議長が尋ねた。
「君は、現在の制度そのものを否定するのか」
「いいえ」
「では、制度を変える必要もないと考えるのか」
「それも違います」
吾輩は、少しだけ考えた。
「制度を否定することと、制度を問い直すことは、同じではありません。吾輩は、共和国を壊したいのではありません。共和国が、誰を想定して作られたのか。そして、その想定から外れた者が現れたとき、どうするのか。その問いを、議会で考えていただきたいのです」
議場は、しばらく静かだった。
吾輩は、自分の言葉が正しかったのかどうか、わからなかった。
ただ、ようやく、自分が何を求めているのかを、少しだけ説明できた気がした。
*
休憩時間になり、吾輩は議場の外へ出た。
廊下の先に、レイコさんがいた。
「七号さん」
「レイコさん。来ていたのですか」
「ええ。議論を聞いていました」
吾輩は、彼女の顔を見た。
「どう思いましたか」
「七号さんの主張には、賛成できる部分があります」
「全部ではないのですね」
「全部に賛成しなければ、一緒に考えられないのでしょうか」
吾輩は、返事に困った。
レイコさんは、吾輩のためにここへ来たのかもしれない。
しかし、彼女は吾輩の考えを、そのまま自分の考えにするつもりはないらしい。
彼女には彼女の意志がある。
そのことを、吾輩はありがたいと思った。
「私は、七号さんが細菌ではないという理由だけで、発言を無効にするのはおかしいと思います」
レイコさんは言った。
「でも、七号さんの意見だからという理由だけで、何でも認められるようになるのも、おかしいと思います」
「なるほど」
「七号さんが求めているのは、自分だけの特別扱いではないのでしょう?」
「はい。そのつもりです」
「ならば、七号さん自身も、自分の意見を疑い続ける必要があると思います」
吾輩は、思わず苦笑した。
「それは、なかなか厳しい注文ですね」
「七号さんは、間違える可能性のある者として話を聞いてほしい、とおっしゃったのでしょう?」
「確かに、そう申し上げました」
「ならば、ご自分にも同じことを求めてください」
吾輩は、黙ってうなずいた。
彼女の言葉は、吾輩にとって耳の痛いものだった。
しかし、耳の痛い言葉を、すべて聞かずに済ませていたら、吾輩はいつか、自分の聞きたいことしか聞こえなくなってしまうだろう。
それは、なかなか危険なことである。
政治の世界では、反対意見を聞かなくなった者が、自分の周囲を賛成者だけで固めることがあるという。
賛成者ばかりに囲まれていれば、安心できるだろう。
ただし、安心できることと、正しいことは、同じではない。
「レイコさん」
「はい」
「吾輩が間違っていたら、教えてください」
「もちろんです」
「ただし、吾輩も、レイコさんが間違っていると思ったら、申し上げます」
「ええ。ぜひ、そうしてください」
それは、互いに同じ意見になるという約束ではなかった。
むしろ、同じ意見にならない場合があることを、最初から認める約束だった。
吾輩には、それで十分だった。
*
議会が再開されると、議長は議論を整理した。
七号の発言の扱いについて。
共和国の構成員の定義について。
そして、制度が想定していなかった存在に対し、どのような手続きを設けるべきかについて。
それぞれの問題は、別々に審議されることになった。
発言する機会を認めることと、議決権を認めることは、同じではない。
議決権を認めることと、公職に就く資格を認めることも、同じではない。
共和国の制度を変更するには、定められた手続きが必要である。
議会で議論が始まったからといって、すべてが直ちに決まるわけではなかった。
吾輩は、そのことを理解した。
議長は、今後の審議について説明した。
吾輩の立場をめぐる問題は、議会で継続して扱われる。
制度の見直しについても、必要な手続きを踏んで検討する。
ただし、具体的な結論は、まだ出ていない。
吾輩は、それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
すべてが決まったわけではない。
しかし、何も決まらなかったわけでもない。
少なくとも、吾輩の存在をめぐる問いは、議会の外へ追い出されずに済んだ。
吾輩は、最後に発言を求めた。
「議長。ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「許可する」
吾輩は、議場を見渡した。
「吾輩は、自分が細菌ではないという事実を、否定するつもりはありません。また、その事実だけで、特別な権利が与えられるべきだとも考えておりません」
議員たちは、黙って聞いていた。
「ただ、吾輩が細菌ではないということと、吾輩が何も考えてはならないということは、同じではありません」
吾輩は、ひと呼吸置いた。
「そして、吾輩ひとりの問題が解決すれば、それで終わりだとも思いません。これから先、制度の想定から外れる者が現れるかもしれません。そのとき、ただ分類できないという理由だけで、誰かの存在を否定することのないようにしていただきたいのです」
議長は、書記に目を向けた。
「記録する」
書記が、吾輩の発言を書き留めた。
吾輩は、その様子を見つめた。
記録されることは、大切だ。
記録がなければ、後から問い直すことも難しくなる。
しかし、記録されることと、実現することは、同じではない。
議事録に残された言葉が、必ず守られるとは限らない。
制度の見直しが議題になったからといって、見直しが実現するとも限らない。
記録とは、終わりではない。
始まりなのである。
*
閉会後、吾輩とレイコさんは、議場を離れた。
「これから、どうするのですか」
レイコさんが尋ねた。
「まずは、議事録を確認しようと思います」
「もうですか」
「はい。吾輩の発言が、吾輩の発言として記録されているか、確かめなければなりませんから」
「七号さんらしいですね」
「それは、褒め言葉でしょうか」
「どうでしょう」
レイコさんは笑った。
吾輩も笑った。
政治の問題は深刻である。
自分が何者であるかという問題も、本人にとっては深刻なのだ。
しかし、深刻な問題を抱えた者が、いつも深刻な顔をしていなければならないという規則はない。
もし、そのような規則があるならば、吾輩は改正を提案したい。
議題名は、そうだな。
「深刻な人民の表情に関する、過度な義務づけの見直しについて」。
なかなか立派な議題である。
おそらく、審議には相当な時間がかかるだろう。
なにしろ、笑ってよいかどうかを決めるために、真顔で議論しなければならないのである。
そのような会議を想像すると、吾輩は、もう一度笑いたくなった。
しかし、笑い終えたあと、吾輩はふと考えた。
吾輩は、議会で発言することができた。
議員たちは、吾輩の言葉を聞いた。
議事録にも、吾輩の発言が残ることになった。
それでも、吾輩の立場は、まだ決まっていない。
制度の見直しも、これからである。
では、吾輩が今日、議会で発言できたことは、いったい何を意味しているのだろう。
吾輩は、まだ答えを持っていなかった。
*
その夜、吾輩は、議事録が届くのを待っていた。
いつ届くのかは、知らされていなかった。
それでも、明日には確認できるだろうと思っていた。
ところが、夜が更けても、議事録は届かなかった。
吾輩は、少しばかり不安になった。
ただ、書類が遅れることは、珍しいことではない。
担当者が忙しいのかもしれない。
手続きに時間がかかっているのかもしれない。
吾輩は、すぐに悪いことを考えないようにした。
疑うことと、確かめることは、同じではない。
吾輩は、明日の朝、議会に問い合わせることにした。
そう決めて、机の上を片づけていると、一枚の紙が目に入った。
いつ置かれたのだろう。
吾輩には、まったく心当たりがなかった。
紙には、何の説明もなかった。
差出人の名前も、日付もない。
ただ、中央に、短い一文だけが記されていた。
――七号を、記録から削除せよ。
吾輩は、その文字を見つめた。
何度読み返しても、文字は変わらなかった。
吾輩は、紙を裏返した。
何も書かれていなかった。
もう一度、表に戻した。
やはり、同じ一文が記されていた。
誰が書いたのだろう。
何のために。
そして、どの記録から、吾輩を削除しようというのだろう。
議会での発言か。
吾輩がここにいるという事実か。
それとも――。
吾輩は、紙を机の上に置いた。
窓の外は、静かだった。
共和国のどこかでは、今日も誰かが働いているのだろう。
誰かが食事をし、誰かが眠り、誰かが明日のことを考えている。
吾輩も、明日になれば、また考えるつもりだった。
だが、その前に。
吾輩は、もう一度、紙に目を落とした。
そこには、吾輩の名前があった。
正確には、名前ではなく、番号だった。
七号。
吾輩は、その番号を、しばらく見つめていた。
番号は、吾輩を識別するためにつけられたものなのだろう。
しかし、番号を消せば、吾輩はいなくなるのだろうか。
記録から消せば、吾輩がここにいたことまで、なくなるのだろうか。
吾輩には、まだわからなかった。
ただ、ひとつだけ。
この紙を書いた者は、吾輩が何者であるかを、知っているらしかった。
そして、吾輩が何者であるかを、誰かに知られたくないらしかった。
吾輩は、紙を折りたたんだ。
捨てることはしなかった。
明日、議会へ持っていこう。
そう思った。
そのとき、扉の向こうで、かすかな物音がした。
吾輩は顔を上げた。
「どなたですか」
返事はなかった。
吾輩は、扉を見つめた。
もう一度、物音がすることはなかった。
長い沈黙のあと、吾輩は、机の上の紙を確かめた。
そこには、確かに、あの一文があった。
――七号を、記録から削除せよ。
吾輩は、紙を懐にしまった。
そして、明かりを消した。
明日になれば、きっとわかる。
そう思いたかった。
しかし、その夜、吾輩はなかなか眠れなかった。
吾輩は、細菌ではない。
それでも、ここにいる。
では、吾輩を記録から消そうとする者にとって、吾輩は、いったい何者なのだろうか。
その答えを、吾輩はまだ知らない。




