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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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新章 第十話 名前のない資格

第十話 名前のない資格


 吾輩は、腸内細菌7号である。


 ――いや。


 この書き出しには、少々問題が生じた。


 吾輩は、腸内細菌ではない。


 検査記録によれば、吾輩の正体はラクトフェリン。細菌ではなく、タンパク質の一種であるという。


 記録は正確なのだろう。


 正確なのだろうが、正確であることと、愉快であることは、どうやら別の問題らしい。


 吾輩は、長らく自分を腸内細菌だと思っていた。仲間たちと暮らし、会議に耳を傾け、ときには意見を述べ、時には間違え、時には間違えたことを認めるという、なかなか忙しい日々を送ってきた。


 それが、ある日突然、


「あなたは、細菌ではありません」


 と言われたのである。


 生まれてこのかた、自分の所属を疑ったことのない者にとって、これはなかなか大きな出来事である。


 もっとも、吾輩は生まれてこのかたの記憶を、すべて保有しているわけではない。


 そのあたりも含めて、吾輩はなかなか曖昧な存在なのである。


     *


 検査結果を知らされた翌朝、吾輩はいつもの場所にいた。


 いつもの場所にいる、というのは、なかなか重要なことだ。


 世の中には、名前を失う者がいる。


 肩書きを失う者がいる。


 昨日まで所属していた組織から、今日になって突然、あなたはそちらの人間ではありません、と告げられる者もいる。


 しかし、場所というものは、案外、昨日のまま残っている。


 吾輩がそこにいたからといって、吾輩が何者であるかという問題に答えが出るわけではない。


 ただ、そこにいた。


 それだけである。


「七号さん」


 声をかけたのは、レビ子さんだった。


 彼女はラブレ菌である。


 この共和国で暮らす、正真正銘の細菌の一員だ。


 少なくとも、現在までに確認されている記録の上では。


「おはようございます」


「おはようございます」


 吾輩は返事をした。


 そして、少し迷ったあとで、尋ねた。


「レビ子さん。吾輩は、何に見えますか」


「七号さんに見えます」


「それは、検査結果を知る前からですか」


「ええ」


「知ったあとでも?」


「ええ」


 レビ子さんは、首をかしげた。


「何か、変わりましたか」


 吾輩は答えられなかった。


 変わったのである。


 少なくとも、吾輩の頭の中では、たいへんな変化が起きていた。


 しかし、レビ子さんの目には、吾輩は昨日と同じ七号に見えるらしい。


 これは、彼女が検査結果を軽視しているということではない。


 彼女は記録を否定していない。


 ただ、記録だけで相手のすべてがわかるとは考えていないのである。


「検査結果は、間違いではないと思います」


 吾輩は言った。


「そうかもしれませんね」


「吾輩は、細菌ではない」


「そう書いてあるのですね」


「では、吾輩は、ここにいてよいのでしょうか」


 その問いを口にしたとき、吾輩はようやく、自分が何を恐れていたのかを知った。


 吾輩は、正体がわからなくなったことだけを恐れていたのではない。


 正体がわかったために、今までいた場所から追い出されるのではないか。


 今まで話してきた仲間たちと、同じ言葉を交わす資格を失うのではないか。


 今まで考えてきたことが、すべて資格のない者の独り言になってしまうのではないか。


 それを恐れていたのだ。


 レビ子さんは、しばらく黙っていた。


「七号さん」


「はい」


「私は、七号さんが細菌かどうかを決められません」


「はい」


「でも、七号さんが今まで考えてきたことまで、検査結果が消してしまうとは思いません」


 吾輩は、彼女の顔を見た。


「考えてきたこと、ですか」


「はい。間違っていたことも、迷ったことも、誰かの話を聞いたことも。細菌でなければ、なかったことになるのでしょうか」


 吾輩は、返事をしなかった。


 返事ができなかったのである。


 吾輩は、自分が何者であるかを知ろうとしていた。


 しかし、いつの間にか、自分が何者であるかという答えによって、自分の過去まで決めようとしていたらしい。


 過去は、そんなに便利なものではない。


 正体が変わったからといって、昨日の失敗が消えるわけではない。


 昨日の親切が、今日になって無効になるわけでもない。


 それならば、吾輩は、何を失ったのだろう。


 吾輩はまだ、その答えを持っていなかった。


     *


 問題は、吾輩の心の中だけにとどまらなかった。


 共和国というものは、個人の悩みに対して、たいへん熱心に書類を用意する。


 個人が「自分は何者なのだろう」と悩んでいるとき、共和国は「あなたの分類は何ですか」と尋ねる。


 個人が「ここにいてよいのでしょうか」と尋ねると、共和国は「所属を証明する書類を提出してください」と答える。


 個人が「その書類を持っていないのです」と答えると、共和国は「書類がない場合は、受付できません」と答える。


 まことに見事な応答である。


 質問と回答が、互いに一歩も譲らない。


 ただし、質問した者だけが、その場に取り残される。


 吾輩の正体が明らかになったことで、共和国の制度にも、ひとつの問題が生じた。


 この共和国は、腸内細菌たちによって成り立っている。


 少なくとも、そのように説明されてきた。


 では、細菌ではない者は、共和国の一員ではないのだろうか。


 細菌ではない者は、会議に参加してはいけないのだろうか。


 意見を述べることも、記録を読むことも、制度の不備を指摘することも、許されないのだろうか。


 それとも、共和国は、細菌以外の者の存在を想定していなかっただけなのだろうか。


 想定していなかったことと、存在してはならないことは、同じではない。


 だが、制度というものは、ときどき、この二つを同じものとして扱う。


 悪意があるからではない。


 むしろ、誰も悪意を持っていないときのほうが、問題は見えにくいことがある。


 規則どおりに仕事をする者がいる。


 規則に従って判断する者がいる。


 その判断を記録する者がいる。


 そして、記録を確認して、すべての手続きが正しく行われたと結論する者がいる。


 誰も嘘をついていない。


 誰も規則を破っていない。


 それでも、ひとつの問いだけが、答えを与えられずに残ることがある。


 吾輩は、そこに立っていた。


 答えのない問いを抱えたまま。


     *


「七号は、どうしたいのだ」


 そう尋ねた者がいた。


 吾輩は、その問いを聞いて、少し驚いた。


 どうしたいのか。


 これまで吾輩は、何者であるのかを考えてきた。


 何者であるのかがわかれば、どうすればよいのかも、自然にわかると思っていたのである。


 しかし、どうやら順番は逆だったのかもしれない。


 自分が何者であるかを完全に理解できる日など、来ないのかもしれない。


 それでも、何をしたいかという問いには、今の自分なりに答えることができる。


「吾輩は……」


 吾輩は、言葉を探した。


「吾輩は、この共和国のことを考え続けたいのです」


 口にしてから、少し恥ずかしくなった。


 大げさな答えである。


 何かを改革するとか、制度を変えるとか、誰かを救うとか。


 そういう立派な言葉ではない。


 ただ、考え続けたい。


 疑問を持ち続けたい。


 わからないことを、わからないままにしておきたくない。


 そして、わからないことがあるからといって、そこにいる誰かを、いないことにしたくない。


 吾輩は、それを言いたかったのである。


「それは、細菌でなければできないことですか」


 レビ子さんが尋ねた。


「いいえ」


「では、細菌でなければ、してはいけないことですか」


「……わかりません」


 吾輩は正直に答えた。


「でも、してはいけないと決まったわけでもありません」


 レビ子さんは、微笑んだ。


「それなら、考える余地がありますね」


 考える余地。


 吾輩は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 資格があるかどうか。


 所属しているかどうか。


 分類できるかどうか。


 それらは、確かに大切な問題だ。


 だが、答えが出るまで、すべての思考を停止しなければならないわけではない。


 答えが出ないからこそ、考えなければならないこともある。


     *


 その日の終わり、吾輩は自分の記録を見直した。


 そこには、吾輩がこれまでに考えたこと、発言したこと、間違えたこと、そして誰かに教えられたことが、いくつも残されていた。


 記録は、吾輩のすべてではない。


 記録に残らなかった考えもある。


 言葉にできなかった迷いもある。


 誰にも伝えられなかった気持ちもある。


 それでも、記録は存在していた。


 吾輩が細菌ではないという記録も。


 吾輩が七号として過ごしてきた記録も。


 両者は、互いを消し合ってはいなかった。


 ただ、同じ欄に収めることが難しいだけだった。


 吾輩は、記録の余白を見つめた。


 余白は、空白である。


 しかし、空白だからといって、そこに何も書けないわけではない。


 まだ書かれていないことと、書いてはならないことは、同じではない。


 吾輩は、そこに何かを書こうとはしなかった。


 今は、まだ。


 自分の正体がわかったからといって、すべての問いに答えが出たわけではない。


 むしろ、問いは増えたのである。


 それでも、ひとつだけ、以前よりはっきりしたことがあった。


 吾輩は、細菌ではない。


 その事実を、無理に否定するつもりはない。


 だが、細菌ではないという事実だけで、吾輩の考えてきたことまで無効にするつもりもなかった。


 吾輩は、まだ七号と呼ばれている。


 その名が正式な名前なのか、仮の番号なのか、それとも単なる便宜上の呼称なのか。


 その答えも、まだ出ていない。


 しかし、名前が確定するまで、吾輩が考えることをやめる理由はない。


 吾輩は、記録を閉じた。


 明日になれば、また新しい問題が生じるだろう。


 共和国は、吾輩のために制度を用意してくれるかもしれない。


 あるいは、制度のほうが先に、吾輩をどこかの欄へ押し込もうとするかもしれない。


 どちらになるかは、まだわからない。


 わからないことを、わからないと言えるうちは、まだ考えることができる。


 吾輩は、そう思った。


 そして、いつもの場所に戻った。


 吾輩は、細菌ではない。


 それでも、ここにいる。


 ――さて。


 この「ここにいる」という事実を、共和国の規則は、いったい何と分類するのであろうか。


 吾輩は、その答えを、明日も考えることにした。

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