新章 第十話 名前のない資格
第十話 名前のない資格
吾輩は、腸内細菌7号である。
――いや。
この書き出しには、少々問題が生じた。
吾輩は、腸内細菌ではない。
検査記録によれば、吾輩の正体はラクトフェリン。細菌ではなく、タンパク質の一種であるという。
記録は正確なのだろう。
正確なのだろうが、正確であることと、愉快であることは、どうやら別の問題らしい。
吾輩は、長らく自分を腸内細菌だと思っていた。仲間たちと暮らし、会議に耳を傾け、ときには意見を述べ、時には間違え、時には間違えたことを認めるという、なかなか忙しい日々を送ってきた。
それが、ある日突然、
「あなたは、細菌ではありません」
と言われたのである。
生まれてこのかた、自分の所属を疑ったことのない者にとって、これはなかなか大きな出来事である。
もっとも、吾輩は生まれてこのかたの記憶を、すべて保有しているわけではない。
そのあたりも含めて、吾輩はなかなか曖昧な存在なのである。
*
検査結果を知らされた翌朝、吾輩はいつもの場所にいた。
いつもの場所にいる、というのは、なかなか重要なことだ。
世の中には、名前を失う者がいる。
肩書きを失う者がいる。
昨日まで所属していた組織から、今日になって突然、あなたはそちらの人間ではありません、と告げられる者もいる。
しかし、場所というものは、案外、昨日のまま残っている。
吾輩がそこにいたからといって、吾輩が何者であるかという問題に答えが出るわけではない。
ただ、そこにいた。
それだけである。
「七号さん」
声をかけたのは、レビ子さんだった。
彼女はラブレ菌である。
この共和国で暮らす、正真正銘の細菌の一員だ。
少なくとも、現在までに確認されている記録の上では。
「おはようございます」
「おはようございます」
吾輩は返事をした。
そして、少し迷ったあとで、尋ねた。
「レビ子さん。吾輩は、何に見えますか」
「七号さんに見えます」
「それは、検査結果を知る前からですか」
「ええ」
「知ったあとでも?」
「ええ」
レビ子さんは、首をかしげた。
「何か、変わりましたか」
吾輩は答えられなかった。
変わったのである。
少なくとも、吾輩の頭の中では、たいへんな変化が起きていた。
しかし、レビ子さんの目には、吾輩は昨日と同じ七号に見えるらしい。
これは、彼女が検査結果を軽視しているということではない。
彼女は記録を否定していない。
ただ、記録だけで相手のすべてがわかるとは考えていないのである。
「検査結果は、間違いではないと思います」
吾輩は言った。
「そうかもしれませんね」
「吾輩は、細菌ではない」
「そう書いてあるのですね」
「では、吾輩は、ここにいてよいのでしょうか」
その問いを口にしたとき、吾輩はようやく、自分が何を恐れていたのかを知った。
吾輩は、正体がわからなくなったことだけを恐れていたのではない。
正体がわかったために、今までいた場所から追い出されるのではないか。
今まで話してきた仲間たちと、同じ言葉を交わす資格を失うのではないか。
今まで考えてきたことが、すべて資格のない者の独り言になってしまうのではないか。
それを恐れていたのだ。
レビ子さんは、しばらく黙っていた。
「七号さん」
「はい」
「私は、七号さんが細菌かどうかを決められません」
「はい」
「でも、七号さんが今まで考えてきたことまで、検査結果が消してしまうとは思いません」
吾輩は、彼女の顔を見た。
「考えてきたこと、ですか」
「はい。間違っていたことも、迷ったことも、誰かの話を聞いたことも。細菌でなければ、なかったことになるのでしょうか」
吾輩は、返事をしなかった。
返事ができなかったのである。
吾輩は、自分が何者であるかを知ろうとしていた。
しかし、いつの間にか、自分が何者であるかという答えによって、自分の過去まで決めようとしていたらしい。
過去は、そんなに便利なものではない。
正体が変わったからといって、昨日の失敗が消えるわけではない。
昨日の親切が、今日になって無効になるわけでもない。
それならば、吾輩は、何を失ったのだろう。
吾輩はまだ、その答えを持っていなかった。
*
問題は、吾輩の心の中だけにとどまらなかった。
共和国というものは、個人の悩みに対して、たいへん熱心に書類を用意する。
個人が「自分は何者なのだろう」と悩んでいるとき、共和国は「あなたの分類は何ですか」と尋ねる。
個人が「ここにいてよいのでしょうか」と尋ねると、共和国は「所属を証明する書類を提出してください」と答える。
個人が「その書類を持っていないのです」と答えると、共和国は「書類がない場合は、受付できません」と答える。
まことに見事な応答である。
質問と回答が、互いに一歩も譲らない。
ただし、質問した者だけが、その場に取り残される。
吾輩の正体が明らかになったことで、共和国の制度にも、ひとつの問題が生じた。
この共和国は、腸内細菌たちによって成り立っている。
少なくとも、そのように説明されてきた。
では、細菌ではない者は、共和国の一員ではないのだろうか。
細菌ではない者は、会議に参加してはいけないのだろうか。
意見を述べることも、記録を読むことも、制度の不備を指摘することも、許されないのだろうか。
それとも、共和国は、細菌以外の者の存在を想定していなかっただけなのだろうか。
想定していなかったことと、存在してはならないことは、同じではない。
だが、制度というものは、ときどき、この二つを同じものとして扱う。
悪意があるからではない。
むしろ、誰も悪意を持っていないときのほうが、問題は見えにくいことがある。
規則どおりに仕事をする者がいる。
規則に従って判断する者がいる。
その判断を記録する者がいる。
そして、記録を確認して、すべての手続きが正しく行われたと結論する者がいる。
誰も嘘をついていない。
誰も規則を破っていない。
それでも、ひとつの問いだけが、答えを与えられずに残ることがある。
吾輩は、そこに立っていた。
答えのない問いを抱えたまま。
*
「七号は、どうしたいのだ」
そう尋ねた者がいた。
吾輩は、その問いを聞いて、少し驚いた。
どうしたいのか。
これまで吾輩は、何者であるのかを考えてきた。
何者であるのかがわかれば、どうすればよいのかも、自然にわかると思っていたのである。
しかし、どうやら順番は逆だったのかもしれない。
自分が何者であるかを完全に理解できる日など、来ないのかもしれない。
それでも、何をしたいかという問いには、今の自分なりに答えることができる。
「吾輩は……」
吾輩は、言葉を探した。
「吾輩は、この共和国のことを考え続けたいのです」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
大げさな答えである。
何かを改革するとか、制度を変えるとか、誰かを救うとか。
そういう立派な言葉ではない。
ただ、考え続けたい。
疑問を持ち続けたい。
わからないことを、わからないままにしておきたくない。
そして、わからないことがあるからといって、そこにいる誰かを、いないことにしたくない。
吾輩は、それを言いたかったのである。
「それは、細菌でなければできないことですか」
レビ子さんが尋ねた。
「いいえ」
「では、細菌でなければ、してはいけないことですか」
「……わかりません」
吾輩は正直に答えた。
「でも、してはいけないと決まったわけでもありません」
レビ子さんは、微笑んだ。
「それなら、考える余地がありますね」
考える余地。
吾輩は、その言葉を胸の中で繰り返した。
資格があるかどうか。
所属しているかどうか。
分類できるかどうか。
それらは、確かに大切な問題だ。
だが、答えが出るまで、すべての思考を停止しなければならないわけではない。
答えが出ないからこそ、考えなければならないこともある。
*
その日の終わり、吾輩は自分の記録を見直した。
そこには、吾輩がこれまでに考えたこと、発言したこと、間違えたこと、そして誰かに教えられたことが、いくつも残されていた。
記録は、吾輩のすべてではない。
記録に残らなかった考えもある。
言葉にできなかった迷いもある。
誰にも伝えられなかった気持ちもある。
それでも、記録は存在していた。
吾輩が細菌ではないという記録も。
吾輩が七号として過ごしてきた記録も。
両者は、互いを消し合ってはいなかった。
ただ、同じ欄に収めることが難しいだけだった。
吾輩は、記録の余白を見つめた。
余白は、空白である。
しかし、空白だからといって、そこに何も書けないわけではない。
まだ書かれていないことと、書いてはならないことは、同じではない。
吾輩は、そこに何かを書こうとはしなかった。
今は、まだ。
自分の正体がわかったからといって、すべての問いに答えが出たわけではない。
むしろ、問いは増えたのである。
それでも、ひとつだけ、以前よりはっきりしたことがあった。
吾輩は、細菌ではない。
その事実を、無理に否定するつもりはない。
だが、細菌ではないという事実だけで、吾輩の考えてきたことまで無効にするつもりもなかった。
吾輩は、まだ七号と呼ばれている。
その名が正式な名前なのか、仮の番号なのか、それとも単なる便宜上の呼称なのか。
その答えも、まだ出ていない。
しかし、名前が確定するまで、吾輩が考えることをやめる理由はない。
吾輩は、記録を閉じた。
明日になれば、また新しい問題が生じるだろう。
共和国は、吾輩のために制度を用意してくれるかもしれない。
あるいは、制度のほうが先に、吾輩をどこかの欄へ押し込もうとするかもしれない。
どちらになるかは、まだわからない。
わからないことを、わからないと言えるうちは、まだ考えることができる。
吾輩は、そう思った。
そして、いつもの場所に戻った。
吾輩は、細菌ではない。
それでも、ここにいる。
――さて。
この「ここにいる」という事実を、共和国の規則は、いったい何と分類するのであろうか。
吾輩は、その答えを、明日も考えることにした。




