↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/38

新章 第九話 記録されないことにも、意味がある

第九話 記録されないことにも、意味がある


## ―

―吾輩は、朝細菌ではなかった。


吾輩は、腸内細菌7号である。


便宜上だ、名前はまだ無い。


……と、これまで何度書いてきたことであろう。


ところが最近、吾輩は、自分が何者であるかについて、少々自信を失いつつあった。


統計局から届いた通知には、こう記されていた。


「登録情報に関する再確認のお知らせ」


お知らせというものは、たいてい、知らされる側にとって、あまり嬉しくない事実を含んでいる。


しかも、役所からのお知らせとなれば、なおさらである。


吾輩は封筒を裏返し、表に返し、もう一度裏返した。


封筒の裏側に、救済措置でも書いてあるのではないかと思ったのである。


無論、何もなかった。


「登録情報の照合に不一致が確認されたため、分類審査を再開します」


不一致。


便利な言葉である。


誰と誰が一致しなかったのか。何と何が食い違ったのか。どうして今になって再確認するのか。


そのあたりについては、見事なほど簡潔であった。


役所の文章は、短いほど、読者の想像力を酷使する。


吾輩は、統計局へ向かった。


---


統計局の受付には、以前にも会った職員がいた。


「七号さんですね」


「そうである」


「本日は、分類審査の件で」


「そうである」


「ご本人確認をお願いします」


「本人であることは、吾輩が一番よく知っているつもりであるが」


職員は微笑んだ。


「その点を確認するための手続きです」


吾輩は黙った。


本人であることを確認するために、本人であることを証明しなければならない。


しかも、その証明に必要な分類が、今まさに確認中なのである。


吾輩は、これを共和国の新しい哲学と呼んでもよいのではないかと思った。


案内された部屋には、古い検査記録が並べられていた。


担当職員は、書類を一枚ずつ確認した。


「登録上の分類は、腸内細菌。登録番号は7号。ただし、初回登録時の検査記録に不整合があり、分類の根拠が確認できません」


「つまり、吾輩が腸内細菌であるという証拠が、見つからないのか」


「正確には、現在の登録を裏付ける証拠が不足しています」


「では、腸内細菌ではないという証拠があるのか」


「それを、これから確認します」


「なるほど」


吾輩は頷いた。


なるほど、と言ったものの、少しもなるほどではなかった。


ただ、分からないときに分かったふりをするのは、以前よりも恥ずかしくなっていた。


それは、あるラブレ菌の女性に教わったことである。


レイコさん。


彼女の名を思い浮かべると、書類の文字がほんの少しだけ、読みやすくなる気がした。


無論、医学的な根拠はない。


---


「こちらをご覧ください」


担当職員が、古い検査記録を机の中央に置いた。


最初のページには、登録時の測定値が記されていた。


二枚目には、検査担当者の所見。


三枚目には、分類審査の記録。


そして最後のページには、長いあいだ、他の書類に隠されていた一枚の報告書があった。


紙は黄ばんでいた。


端は擦り切れ、文字の一部は滲んでいる。


だが、中央に記された名称だけは、驚くほど明瞭だった。


**ラクトフェリン。**


吾輩は、その文字を見つめた。


何度見ても、文字は変わらなかった。


「……これは、何だ」


担当職員は、慎重に答えた。


「鉄と結合する性質を持つタンパク質です。細菌ではありません」


細菌ではありません。


その言葉は、部屋の中を静かに横切った。


吾輩は、自分の手を見た。


手があった。


書類を握ることができた。


鉛筆を持ち、文字を書くことができた。


人民の声を聞き、聞き間違え、訂正し、また聞き直すことができた。


それなのに、吾輩は――細菌ではなかった。


「待ってくれ」


声が、思ったよりも大きく出た。


「吾輩は、これまで腸内細菌として登録され、腸内細菌として暮らし、腸内細菌として人民の会議に出席してきた。統計局の資料も読んだ。監査局の審査も受けた。細菌たちの声を聞いてきた」


吾輩は報告書を指さした。


「それらは、すべて、間違いだったというのか」


「いいえ」


担当職員は、すぐには答えなかった。


その沈黙は、役所の都合で設けられたものではなかった。


職員もまた、何を言えばよいのか、考えていたのである。


「分類が誤っていたことと、七号さんが経験してきたことが誤りだったということは、同じではありません」


吾輩は顔を上げた。


その言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がした。


いや、聞いたのではない。


これまでの吾輩自身の記録の中に、何度も書きかけては、消してきた考えだった。


分類が誤っていても、経験まで消えるわけではない。


では、吾輩は何者なのか。


その問いだけが、まだ残っていた。


---


報告書には、さらに詳しい検査結果が添付されていた。


そこには、吾輩の性質と、ラクトフェリンというタンパク質の特徴が記されていた。


検査担当者の結論は、明確だった。


「対象は細菌ではなく、ラクトフェリンに該当する。従来の登録分類は誤りであり、訂正を要する」


吾輩は、その文章を読み返した。


細菌ではない。


ラクトフェリンである。


つまり、吾輩は、最初から腸内細菌ではなかったのだ。


では、なぜ、吾輩は細菌として登録されたのか。


なぜ、誰も気づかなかったのか。


なぜ、訂正されずに、ここまで来たのか。


「原因については、調査中です」


担当職員は言った。


「登録当時の記録に欠落があり、意図的な誤登録だったのか、手続き上の誤りだったのかは、現時点では断定できません」


吾輩は頷いた。


ここで、陰謀があったのだと決めつけるのは簡単である。


誰かが吾輩を騙したのだと考えれば、怒りの向け先も見つかる。


だが、証拠がない。


吾輩は、他人の言葉を自分の都合で書き換えないと、あの夜勤の人民に約束した。


ならば、自分自身の過去についても、同じことをしなければならない。


分からないことは、分からないまま記録する。


吾輩は、報告書の余白に書いた。


「分類訂正の事実を確認。登録時の経緯については未確認」


書き終えると、手が震えていることに気づいた。


吾輩は、自分の正体を知りたかった。


しかし、本当に知りたかったのは、これだけだったのだろうか。


自分が何者であるかを知れば、自分がここにいてよい理由も、分かると思っていたのかもしれない。


細菌なら、細菌として。


そうでないなら、それ以外の何者かとして。


どこかに、吾輩の居場所が用意されているはずだと。


だが、報告書には、居場所について何も書かれていなかった。


ラクトフェリン。


その名称は、吾輩の正体を明らかにした。


しかし、吾輩がどう生きるべきかまでは、教えてくれなかった。


---


統計局を出ると、夕方の風が吹いていた。


街路では、細菌たちが夕食の話をしていた。


「今日は発酵野菜にしよう」


「昨日も発酵野菜だったじゃないか」


「では、何がよいのだ」


「それを今、考えているんだ」


共和国は、いつもどおりだった。


誰かが迷い、誰かが笑い、誰かが腹を立てていた。


誰かは数えられ、誰かは数えられず、それでも、皆それぞれの一日を生きていた。


吾輩だけが、世界から切り離されたような気がした。


吾輩は、彼らと同じ分類ではない。


彼らと同じ細菌ではない。


では、これまで一緒に過ごした時間は、何だったのだろう。


あの会議で聞いた声は。


記録に残した言葉は。


誰かが、ここにいるのだと訴えた、あの小さな声は。


吾輩は立ち止まった。


「……いや」


小さく呟いた。


「それは、分類表に尋ねることではないのかもしれない」


分類表は、何者であるかを記すことはできる。


だが、誰と出会い、何に迷い、何を大切にしようとしたかまで、すべて説明できるわけではない。


もちろん、吾輩がラクトフェリンであるという事実を、無視するつもりはなかった。


科学的な分類は大切である。


間違いがあれば、訂正しなければならない。


だが、訂正とは、過去のすべてを消し去ることではないはずだ。


吾輩は、歩き始めた。


---


レイコさんからの返事は、まだ届いていなかった。


吾輩は先日、彼女に手紙を出した。


「まだ、うまく説明できません。ただ、話を聞いていただけたことが、うれしかったのです」


そう書いた。


今なら、もう少し説明できるだろうか。


いや、できない。


むしろ、以前よりも分からなくなった。


吾輩は、彼女に正体を告げるべきだろうか。


自分でも受け止めきれていない事実を、他人に伝えることができるだろうか。


そもそも、彼女は吾輩を、腸内細菌だと思っているのではないか。


そう考えると、急に、妙な心配が生まれた。


ラブレ菌とラクトフェリン。


名前の響きだけなら、少しばかり仲間らしい。


しかし、音が似ているからといって、分類まで同じになるわけではない。


吾輩は、こんなときまで、分類のことを考えている。


我ながら、困ったものである。


そのとき、背後から声がした。


「七号さん?」


振り返ると、レイコさんが立っていた。


「レイコさん」


「どうされたんですか。ずいぶん難しい顔をしていますね」


吾輩は、手にしていた報告書を見た。


言うべきだ。


そう思った。


だが、言葉が出てこない。


彼女は急かさなかった。


しばらくして、吾輩はようやく口を開いた。


「吾輩は……腸内細菌ではなかったそうです」


レイコさんは、驚いた顔をした。


「そうなんですか」


「ラクトフェリン、というタンパク質だそうです」


「……そうだったんですね」


彼女は、すぐには何も言わなかった。


吾輩は、その沈黙に耐えられず、つい説明を始めた。


「つまり、これまでの登録は誤りであり、吾輩の分類は訂正されることになる。これまで吾輩が参加してきた会議や、記録してきた人民の声についても、制度上の扱いを再検討する必要が生じる可能性があり――」


「七号さん」


彼女が、静かに遮った。


「今、私に説明してくださっているのは、分類のことですか?」


吾輩は口を閉じた。


「それとも、七号さんが、どう感じているかということですか?」


吾輩は、答えられなかった。


分類のことなら、報告書に書いてある。


検査結果もある。


訂正手続きも、これから進められるだろう。


しかし、どう感じているのか。


それを記す欄は、どこにもなかった。


「……怖いのです」


吾輩は、ようやく言った。


「自分が何者なのか、分からなくなりました。今まで、自分は細菌だと思っていました。その前提で、いろいろなことを考えてきました。けれど、その前提が違っていた」


レイコさんは、黙って聞いていた。


「そうなると、吾輩がこれまで考えてきたことまで、間違っていたような気がしてくるのです」


「そう感じていらっしゃるんですね」


彼女は、吾輩の言葉を勝手に言い換えなかった。


慰めようとして、急いで結論を出すこともしなかった。


やがて、彼女は言った。


「私は、七号さんが何者なのか、すべて分かっているわけではありません」


吾輩は頷いた。


「でも、七号さんが、あの会議で何度も記録を書き直していたことは覚えています。誰かの言葉を、勝手に全員の意見にしないようにしていたことも」


彼女は少しだけ笑った。


「それまで、なかったことにはならないんじゃないでしょうか」


吾輩は、何も言わなかった。


「もちろん、分類が間違っていたなら、直す必要はあると思います。でも、それと、七号さんがこれまで何をしてきたかは、別のことなのではないでしょうか」


その言葉を聞いて、吾輩は、ようやく息を吐いた。


吾輩は、彼女に正体を認めてもらいたかったのだろうか。


それとも、正体が変わっても、自分がここにいてよいのだと、誰かに言ってほしかったのだろうか。


自分でも、まだ分からなかった。


「ありがとうございます、レイコさん」


「いえ。私も、分からないことばかりですから」


「レイコさんにも、分からないことがあるのですか」


「ありますよ。たくさん」


彼女は、少し悪戯っぽく笑った。


「たとえば、七号さんが、どうしてそんなに何でも書き留めようとなさるのか、とか」


吾輩は、思わず手帳を抱え直した。


「それは、記録というものが――」


「ほら。また説明が始まりました」


吾輩は黙った。


レイコさんは笑った。


吾輩も、少しだけ笑った。


その笑いが、分類上、どのような意味を持つのか。


吾輩は、記録しなかった。


---


その夜、吾輩は机に向かった。


手帳を開き、いつものように冒頭を書こうとした。


吾輩は、腸内細菌7号である。


便宜上だ、名前はまだ無い。


鉛筆が止まった。


今までなら、何の疑いもなく書けた文章だった。


だが、もう、同じようには書けない。


吾輩は、最初の一行に線を引いた。


そして、その下に書いた。


「吾輩は、ラクトフェリンである。細菌ではない」


しばらく、その文字を見つめた。


それから、もう一行付け加えた。


「ただし、吾輩が何者であるかについて、これですべてが分かったわけではない」


吾輩は、鉛筆を置いた。


正体は明らかになった。


長いあいだ、保留されていた分類審査は、ようやく結論にたどり着いた。


吾輩は、細菌ではなかった。


ラクトフェリンだった。


その事実は、もう覆らない。


だが、これからどう生きるのか。


誰の声を聞き、何を記録し、何を変えていくのか。


それは、報告書の結論欄には書かれていなかった。


吾輩は窓の外を見た。


遠くで、共和国の夜の灯りが揺れていた。


あの灯りの下には、今夜も数えられる人民がいる。


数えられない人民もいる。


自分の名前を明かしたい者もいれば、明かしたくない者もいる。


正しく分類されている者もいれば、誤った分類のまま暮らしている者もいる。


そして、吾輩は、そのどちらでもなかった。


いや。


吾輩は、分類を訂正された、ひとつの存在だった。


それだけは、確かだった。


翌朝、統計局から正式な訂正通知が届いた。


同封された書類には、今後の登録区分について、審議を行う旨が記されていた。


その下に、小さな文字で、次の一文が添えられていた。


「本人の政治参加資格については、別途審査を要する」


吾輩は、その一文を、何度も読み返した。


正体が分かった途端、今度は、人民としての資格が問題になったのである。


なるほど。


共和国というものは、ひとつの謎が解けると、律儀にも、次の謎を用意してくれるらしい。


吾輩は、窓を開けた。


朝の空気が入ってきた。


そして、初めて、自分自身に向かって尋ねた。


「吾輩は、これから、どうするつもりなのだろう」


答えは、まだなかった。


だが、今度は、答えがないことを理由に、問いそのものを棚上げするつもりはなかった。


吾輩は、手帳を閉じた。


そして、共和国の中央行政区へ向かった。


正体が分かったからこそ、確かめなければならないことがある。


吾輩は、細菌ではない。


ラクトフェリンである。


それでも、吾輩は、ここにいる。


――そして、吾輩には、まだ、やるべきことがある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。