新章 第九話 記録されないことにも、意味がある
第九話 記録されないことにも、意味がある
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―吾輩は、朝細菌ではなかった。
吾輩は、腸内細菌7号である。
便宜上だ、名前はまだ無い。
……と、これまで何度書いてきたことであろう。
ところが最近、吾輩は、自分が何者であるかについて、少々自信を失いつつあった。
統計局から届いた通知には、こう記されていた。
「登録情報に関する再確認のお知らせ」
お知らせというものは、たいてい、知らされる側にとって、あまり嬉しくない事実を含んでいる。
しかも、役所からのお知らせとなれば、なおさらである。
吾輩は封筒を裏返し、表に返し、もう一度裏返した。
封筒の裏側に、救済措置でも書いてあるのではないかと思ったのである。
無論、何もなかった。
「登録情報の照合に不一致が確認されたため、分類審査を再開します」
不一致。
便利な言葉である。
誰と誰が一致しなかったのか。何と何が食い違ったのか。どうして今になって再確認するのか。
そのあたりについては、見事なほど簡潔であった。
役所の文章は、短いほど、読者の想像力を酷使する。
吾輩は、統計局へ向かった。
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統計局の受付には、以前にも会った職員がいた。
「七号さんですね」
「そうである」
「本日は、分類審査の件で」
「そうである」
「ご本人確認をお願いします」
「本人であることは、吾輩が一番よく知っているつもりであるが」
職員は微笑んだ。
「その点を確認するための手続きです」
吾輩は黙った。
本人であることを確認するために、本人であることを証明しなければならない。
しかも、その証明に必要な分類が、今まさに確認中なのである。
吾輩は、これを共和国の新しい哲学と呼んでもよいのではないかと思った。
案内された部屋には、古い検査記録が並べられていた。
担当職員は、書類を一枚ずつ確認した。
「登録上の分類は、腸内細菌。登録番号は7号。ただし、初回登録時の検査記録に不整合があり、分類の根拠が確認できません」
「つまり、吾輩が腸内細菌であるという証拠が、見つからないのか」
「正確には、現在の登録を裏付ける証拠が不足しています」
「では、腸内細菌ではないという証拠があるのか」
「それを、これから確認します」
「なるほど」
吾輩は頷いた。
なるほど、と言ったものの、少しもなるほどではなかった。
ただ、分からないときに分かったふりをするのは、以前よりも恥ずかしくなっていた。
それは、あるラブレ菌の女性に教わったことである。
レイコさん。
彼女の名を思い浮かべると、書類の文字がほんの少しだけ、読みやすくなる気がした。
無論、医学的な根拠はない。
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「こちらをご覧ください」
担当職員が、古い検査記録を机の中央に置いた。
最初のページには、登録時の測定値が記されていた。
二枚目には、検査担当者の所見。
三枚目には、分類審査の記録。
そして最後のページには、長いあいだ、他の書類に隠されていた一枚の報告書があった。
紙は黄ばんでいた。
端は擦り切れ、文字の一部は滲んでいる。
だが、中央に記された名称だけは、驚くほど明瞭だった。
**ラクトフェリン。**
吾輩は、その文字を見つめた。
何度見ても、文字は変わらなかった。
「……これは、何だ」
担当職員は、慎重に答えた。
「鉄と結合する性質を持つタンパク質です。細菌ではありません」
細菌ではありません。
その言葉は、部屋の中を静かに横切った。
吾輩は、自分の手を見た。
手があった。
書類を握ることができた。
鉛筆を持ち、文字を書くことができた。
人民の声を聞き、聞き間違え、訂正し、また聞き直すことができた。
それなのに、吾輩は――細菌ではなかった。
「待ってくれ」
声が、思ったよりも大きく出た。
「吾輩は、これまで腸内細菌として登録され、腸内細菌として暮らし、腸内細菌として人民の会議に出席してきた。統計局の資料も読んだ。監査局の審査も受けた。細菌たちの声を聞いてきた」
吾輩は報告書を指さした。
「それらは、すべて、間違いだったというのか」
「いいえ」
担当職員は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、役所の都合で設けられたものではなかった。
職員もまた、何を言えばよいのか、考えていたのである。
「分類が誤っていたことと、七号さんが経験してきたことが誤りだったということは、同じではありません」
吾輩は顔を上げた。
その言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
いや、聞いたのではない。
これまでの吾輩自身の記録の中に、何度も書きかけては、消してきた考えだった。
分類が誤っていても、経験まで消えるわけではない。
では、吾輩は何者なのか。
その問いだけが、まだ残っていた。
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報告書には、さらに詳しい検査結果が添付されていた。
そこには、吾輩の性質と、ラクトフェリンというタンパク質の特徴が記されていた。
検査担当者の結論は、明確だった。
「対象は細菌ではなく、ラクトフェリンに該当する。従来の登録分類は誤りであり、訂正を要する」
吾輩は、その文章を読み返した。
細菌ではない。
ラクトフェリンである。
つまり、吾輩は、最初から腸内細菌ではなかったのだ。
では、なぜ、吾輩は細菌として登録されたのか。
なぜ、誰も気づかなかったのか。
なぜ、訂正されずに、ここまで来たのか。
「原因については、調査中です」
担当職員は言った。
「登録当時の記録に欠落があり、意図的な誤登録だったのか、手続き上の誤りだったのかは、現時点では断定できません」
吾輩は頷いた。
ここで、陰謀があったのだと決めつけるのは簡単である。
誰かが吾輩を騙したのだと考えれば、怒りの向け先も見つかる。
だが、証拠がない。
吾輩は、他人の言葉を自分の都合で書き換えないと、あの夜勤の人民に約束した。
ならば、自分自身の過去についても、同じことをしなければならない。
分からないことは、分からないまま記録する。
吾輩は、報告書の余白に書いた。
「分類訂正の事実を確認。登録時の経緯については未確認」
書き終えると、手が震えていることに気づいた。
吾輩は、自分の正体を知りたかった。
しかし、本当に知りたかったのは、これだけだったのだろうか。
自分が何者であるかを知れば、自分がここにいてよい理由も、分かると思っていたのかもしれない。
細菌なら、細菌として。
そうでないなら、それ以外の何者かとして。
どこかに、吾輩の居場所が用意されているはずだと。
だが、報告書には、居場所について何も書かれていなかった。
ラクトフェリン。
その名称は、吾輩の正体を明らかにした。
しかし、吾輩がどう生きるべきかまでは、教えてくれなかった。
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統計局を出ると、夕方の風が吹いていた。
街路では、細菌たちが夕食の話をしていた。
「今日は発酵野菜にしよう」
「昨日も発酵野菜だったじゃないか」
「では、何がよいのだ」
「それを今、考えているんだ」
共和国は、いつもどおりだった。
誰かが迷い、誰かが笑い、誰かが腹を立てていた。
誰かは数えられ、誰かは数えられず、それでも、皆それぞれの一日を生きていた。
吾輩だけが、世界から切り離されたような気がした。
吾輩は、彼らと同じ分類ではない。
彼らと同じ細菌ではない。
では、これまで一緒に過ごした時間は、何だったのだろう。
あの会議で聞いた声は。
記録に残した言葉は。
誰かが、ここにいるのだと訴えた、あの小さな声は。
吾輩は立ち止まった。
「……いや」
小さく呟いた。
「それは、分類表に尋ねることではないのかもしれない」
分類表は、何者であるかを記すことはできる。
だが、誰と出会い、何に迷い、何を大切にしようとしたかまで、すべて説明できるわけではない。
もちろん、吾輩がラクトフェリンであるという事実を、無視するつもりはなかった。
科学的な分類は大切である。
間違いがあれば、訂正しなければならない。
だが、訂正とは、過去のすべてを消し去ることではないはずだ。
吾輩は、歩き始めた。
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レイコさんからの返事は、まだ届いていなかった。
吾輩は先日、彼女に手紙を出した。
「まだ、うまく説明できません。ただ、話を聞いていただけたことが、うれしかったのです」
そう書いた。
今なら、もう少し説明できるだろうか。
いや、できない。
むしろ、以前よりも分からなくなった。
吾輩は、彼女に正体を告げるべきだろうか。
自分でも受け止めきれていない事実を、他人に伝えることができるだろうか。
そもそも、彼女は吾輩を、腸内細菌だと思っているのではないか。
そう考えると、急に、妙な心配が生まれた。
ラブレ菌とラクトフェリン。
名前の響きだけなら、少しばかり仲間らしい。
しかし、音が似ているからといって、分類まで同じになるわけではない。
吾輩は、こんなときまで、分類のことを考えている。
我ながら、困ったものである。
そのとき、背後から声がした。
「七号さん?」
振り返ると、レイコさんが立っていた。
「レイコさん」
「どうされたんですか。ずいぶん難しい顔をしていますね」
吾輩は、手にしていた報告書を見た。
言うべきだ。
そう思った。
だが、言葉が出てこない。
彼女は急かさなかった。
しばらくして、吾輩はようやく口を開いた。
「吾輩は……腸内細菌ではなかったそうです」
レイコさんは、驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「ラクトフェリン、というタンパク質だそうです」
「……そうだったんですね」
彼女は、すぐには何も言わなかった。
吾輩は、その沈黙に耐えられず、つい説明を始めた。
「つまり、これまでの登録は誤りであり、吾輩の分類は訂正されることになる。これまで吾輩が参加してきた会議や、記録してきた人民の声についても、制度上の扱いを再検討する必要が生じる可能性があり――」
「七号さん」
彼女が、静かに遮った。
「今、私に説明してくださっているのは、分類のことですか?」
吾輩は口を閉じた。
「それとも、七号さんが、どう感じているかということですか?」
吾輩は、答えられなかった。
分類のことなら、報告書に書いてある。
検査結果もある。
訂正手続きも、これから進められるだろう。
しかし、どう感じているのか。
それを記す欄は、どこにもなかった。
「……怖いのです」
吾輩は、ようやく言った。
「自分が何者なのか、分からなくなりました。今まで、自分は細菌だと思っていました。その前提で、いろいろなことを考えてきました。けれど、その前提が違っていた」
レイコさんは、黙って聞いていた。
「そうなると、吾輩がこれまで考えてきたことまで、間違っていたような気がしてくるのです」
「そう感じていらっしゃるんですね」
彼女は、吾輩の言葉を勝手に言い換えなかった。
慰めようとして、急いで結論を出すこともしなかった。
やがて、彼女は言った。
「私は、七号さんが何者なのか、すべて分かっているわけではありません」
吾輩は頷いた。
「でも、七号さんが、あの会議で何度も記録を書き直していたことは覚えています。誰かの言葉を、勝手に全員の意見にしないようにしていたことも」
彼女は少しだけ笑った。
「それまで、なかったことにはならないんじゃないでしょうか」
吾輩は、何も言わなかった。
「もちろん、分類が間違っていたなら、直す必要はあると思います。でも、それと、七号さんがこれまで何をしてきたかは、別のことなのではないでしょうか」
その言葉を聞いて、吾輩は、ようやく息を吐いた。
吾輩は、彼女に正体を認めてもらいたかったのだろうか。
それとも、正体が変わっても、自分がここにいてよいのだと、誰かに言ってほしかったのだろうか。
自分でも、まだ分からなかった。
「ありがとうございます、レイコさん」
「いえ。私も、分からないことばかりですから」
「レイコさんにも、分からないことがあるのですか」
「ありますよ。たくさん」
彼女は、少し悪戯っぽく笑った。
「たとえば、七号さんが、どうしてそんなに何でも書き留めようとなさるのか、とか」
吾輩は、思わず手帳を抱え直した。
「それは、記録というものが――」
「ほら。また説明が始まりました」
吾輩は黙った。
レイコさんは笑った。
吾輩も、少しだけ笑った。
その笑いが、分類上、どのような意味を持つのか。
吾輩は、記録しなかった。
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その夜、吾輩は机に向かった。
手帳を開き、いつものように冒頭を書こうとした。
吾輩は、腸内細菌7号である。
便宜上だ、名前はまだ無い。
鉛筆が止まった。
今までなら、何の疑いもなく書けた文章だった。
だが、もう、同じようには書けない。
吾輩は、最初の一行に線を引いた。
そして、その下に書いた。
「吾輩は、ラクトフェリンである。細菌ではない」
しばらく、その文字を見つめた。
それから、もう一行付け加えた。
「ただし、吾輩が何者であるかについて、これですべてが分かったわけではない」
吾輩は、鉛筆を置いた。
正体は明らかになった。
長いあいだ、保留されていた分類審査は、ようやく結論にたどり着いた。
吾輩は、細菌ではなかった。
ラクトフェリンだった。
その事実は、もう覆らない。
だが、これからどう生きるのか。
誰の声を聞き、何を記録し、何を変えていくのか。
それは、報告書の結論欄には書かれていなかった。
吾輩は窓の外を見た。
遠くで、共和国の夜の灯りが揺れていた。
あの灯りの下には、今夜も数えられる人民がいる。
数えられない人民もいる。
自分の名前を明かしたい者もいれば、明かしたくない者もいる。
正しく分類されている者もいれば、誤った分類のまま暮らしている者もいる。
そして、吾輩は、そのどちらでもなかった。
いや。
吾輩は、分類を訂正された、ひとつの存在だった。
それだけは、確かだった。
翌朝、統計局から正式な訂正通知が届いた。
同封された書類には、今後の登録区分について、審議を行う旨が記されていた。
その下に、小さな文字で、次の一文が添えられていた。
「本人の政治参加資格については、別途審査を要する」
吾輩は、その一文を、何度も読み返した。
正体が分かった途端、今度は、人民としての資格が問題になったのである。
なるほど。
共和国というものは、ひとつの謎が解けると、律儀にも、次の謎を用意してくれるらしい。
吾輩は、窓を開けた。
朝の空気が入ってきた。
そして、初めて、自分自身に向かって尋ねた。
「吾輩は、これから、どうするつもりなのだろう」
答えは、まだなかった。
だが、今度は、答えがないことを理由に、問いそのものを棚上げするつもりはなかった。
吾輩は、手帳を閉じた。
そして、共和国の中央行政区へ向かった。
正体が分かったからこそ、確かめなければならないことがある。
吾輩は、細菌ではない。
ラクトフェリンである。
それでも、吾輩は、ここにいる。
――そして、吾輩には、まだ、やるべきことがある。




