新章 第八話 ブリリアンカットのダイヤモンド - 人民の総意は、まだ決まっていない
第八話 ブリリアンカットのダイヤモンド-人民の総意は、まだ決まっていない
吾輩は、腸内細菌7号である。
便宜上だ、名前はまだ無い。
しかし、名前のない吾輩にも、近ごろ一つ、困ったことが生じている。
朝、目が覚める。
すると、レイコさんのことを思い出す。
顔を洗う。
レイコさんの言葉を思い出す。
朝食を食べる。
昨日、彼女が何を食べていたかを思い出そうとする。
思い出そうとしても、そこまでは記録していない。
吾輩は記録係である。記録していない事柄について、記憶を頼りに推測を行うことは、職務上、好ましくない。
したがって、彼女が何を食べていたかについては、調査継続とする。
ただし、彼女が食堂で吾輩に向かって微笑んだことについては、記録がないにもかかわらず、妙に鮮明である。
この現象について、吾輩はまだ適切な分類名を発見していない。
いや、そもそも、分類しようとすること自体が間違いなのかもしれない。
そう考えているうちに、朝食は冷めた。
吾輩は冷めた粥をすすった。
人民の食生活を改善することは、共和国の重要政策である。
まずは自分の食事を改善すべきであった。
*
その日の午前、人民議会の中央行政区庁舎において、臨時政策会議が開かれた。
議題は、腸壁地区の生活環境改善に関する今後の方針について。
前回の会議では、各地区の代表が意見を述べ、吾輩は議事録を作成した。
その結果、議会は「改善に向けて、引き続き検討を進める」ことを確認した。
確認したのである。
改善することを決めたのではない。
改善に向けて、何を、いつまでに、どの程度行うかを決めたのでもない。
検討を進めることを確認したのである。
共和国の行政には、この種の確認が少なくない。
確認された事項は、確認されたという事実によって、一定の達成感を生む。
達成感は、時として達成そのものよりも、早く到着する。
今回の会議は、その確認を一歩進めるためのものであった。
会議室の壁には、大きな標語が掲げられていた。
――人民の声を、人民のために。
その下には、会議資料が整然と並べられていた。
表紙には、太い文字でこう記されていた。
**「人民の総意に関する中間報告」**
吾輩は、その表紙を見て、わずかに眉を寄せた。
人民の総意。
その言葉を、吾輩は以前よりも慎重に扱うようになっていた。
総意とは、何であろうか。
全員が同じ意見を持つことか。
多くの者が賛成することか。
反対する者がいても、最終的に決定されたことを、皆の意見と呼ぶことか。
あるいは、皆の意見を聞いたという手続きを経た後で、行政が採用した意見のことか。
吾輩は、まだ答えを持っていなかった。
もっとも、答えを持っていないこと自体は、恥ずべきことではない。
問題は、答えを持っていない者が、答えを持っているように振る舞うことである。
そして行政の世界では、答えを持っていないことを正直に報告するためにも、相応の書式が必要であった。
*
「それでは、中間報告をお願いします」
議長の言葉を受け、統計局の担当官が立ち上がった。
「腸壁地区の生活環境に関する聞き取り調査の結果、現状の改善を求める意見が多数確認されました。一方、予算配分、交通整備、食堂の営業時間などについては、地区によって優先順位に差が見られます」
担当官は、資料を一枚めくった。
「なお、調査に対する回答を得られなかった人民も一定数存在します」
議長が尋ねた。
「その方々については、どのように扱っているのですか」
「回答が得られなかったものとして、集計上は別項目に分類しております」
「なるほど」
議長は満足そうにうなずいた。
「それでは、回答を得られなかった人民を除いた結果が、人民の総意ということですね」
会議室の空気が、わずかに動いた。
統計局の担当官は、口を開きかけて閉じた。
回答が得られなかった者を除いた結果は、回答を得られた者の結果である。
それ以上でも、それ以下でもない。
しかし、その説明をするには、議長の言葉を訂正しなければならない。
訂正すれば、会議の進行が遅れる。
進行が遅れれば、予定された議題をすべて扱えなくなる。
議題を扱えなければ、次回の会議が必要になる。
次回の会議が必要になれば、次回の日程を調整しなければならない。
日程を調整するには、各部署の予定を確認しなければならない。
こうして共和国では、一つの言葉を正確にするために、複数の会議が必要となることがある。
吾輩は手帳を開いた。
議長の発言を、そのまま記録する。
それから、補足を加えようとした。
――ただし、回答者の意見をもって、全人民の総意とみなすことはできない。
そこまで書いて、吾輩の手が止まった。
議長の発言を訂正するのは、記録係の職務であろうか。
いや、発言を訂正するのではない。
発言が何を意味するのか、その範囲を明らかにするだけである。
そう自分に説明して、吾輩は続きを書いた。
そのとき、前列に座っていた行政官が吾輩を見た。
「七号さん。その補足は、議事録に必要ですか」
「必要かどうかを、確認しているところです」
「確認の結果、必要ではないということにはなりませんか」
「なります」
「では、削除してもよろしいのでは」
「必要ではないと確認できれば、削除いたします」
行政官は、吾輩の顔をしばらく見つめた。
「あなたは、最近、少々慎重になりましたね」
「以前よりも、記録の誤りを恐れるようになりました」
「よいことです。ただ、慎重になりすぎると、何も決められなくなります」
「その可能性も、記録しておきます」
行政官は、笑った。
吾輩も笑うべきかどうか迷ったが、会議室での笑顔の適切な程度については、まだ統一基準が設けられていない。
そこで、曖昧な表情をした。
曖昧さは、時として、最も安全な回答である。
*
会議が進むにつれ、腸壁地区の改善案が議論された。
道路を整備する。
食堂の営業時間を延ばす。
夜勤者の移動手段を確保する。
地区の相談窓口を増やす。
どれも、必要なことである。
しかし、すべてを一度に実施する予算はなかった。
「まずは、利用者数の多い施設から着手するのが合理的ではないでしょうか」
中央行政区の代表が述べた。
「利用者数が多ければ、改善の効果も大きくなります」
「しかし、利用者数が少ない施設には、利用者数が少ない理由があるかもしれません」
別の代表が応じた。
「交通の便が悪いから利用できない。設備が整っていないから利用しない。利用しないから、必要性が低いと判断される。そのような循環も考えられます」
「では、どの施設から着手すべきなのですか」
「それを、これから検討する必要があります」
議長は、手元の資料に目を落とした。
「本日の会議では、優先順位について、一定の方向性を示したいと考えています」
一定の方向性。
便利な言葉である。
方向性を示せば、具体的な道筋がなくても、前進しているように見える。
吾輩は、議事録に「優先順位について協議」と書いた。
その後、「一定の方向性を確認」と書きかけて、筆を止めた。
確認したのは、方向性を示したいという議長の意向であって、方向性そのものではない。
吾輩は、また書き直した。
こうして吾輩の議事録は、発言の数よりも訂正の数が増えていった。
記録用紙には、消し跡が残った。
完全な記録とは、訂正のない記録のことだろうか。
あるいは、訂正が必要になったとき、訂正した事実まで残す記録のことだろうか。
吾輩には、まだわからなかった。
ただ、消し跡を消すために、さらに消し跡を作るという行為には、どこか行政的な美しさがあった。
誰も責任を負わないまま、紙だけが少しずつ薄くなっていく。
*
昼休み、吾輩は食堂へ向かった。
議論を続けているうちに、昼食の時間を過ぎていた。
食堂の入口には、本日の献立が掲示されている。
発酵穀物の粥、根菜の煮込み、微量栄養素を含む副菜。
栄養の均衡は取れているらしい。
しかし、献立表には「満足度」の欄がなかった。
満足度を測定するには、食後の調査が必要である。
食後の調査を行うには、質問票を配布しなければならない。
質問票を配布するには、印刷費が必要である。
印刷費を確保するには、予算申請をしなければならない。
吾輩は献立表を見ながら、粥を食べる前に満腹になりそうであった。
「七号さん」
背後から声がした。
振り返ると、レイコさんが立っていた。
彼女は、小さな書類袋を抱えていた。
「また、考え事ですか」
「昼食について検討していました」
「献立表を見て?」
「はい。食堂の満足度について、調査の必要性があるかもしれないと」
「では、まず食べてみてはいかがですか」
レイコさんは、ごく自然に言った。
「食べてもいないのに、満足度は判断できませんから」
吾輩は、しばらく彼女を見つめた。
正論であった。
しかも、質問票も予算申請も必要としない。
共和国の行政においては、きわめて珍しい種類の正論である。
「なるほど。実地調査ですね」
「普通に昼食を食べるだけです」
「それも、調査の一種です」
「七号さんは、何でも調査にしてしまうんですね」
レイコさんは笑った。
吾輩も笑った。
今度は、曖昧な表情ではなかった。
それに気づくまで、吾輩は少し時間を要した。
*
吾輩たちは、窓際の席に座った。
レイコさんは、腸壁地区で行われた聞き取りの資料を届けに来たのだという。
「今日の会議では、どんな話が出たんですか」
「生活環境の改善についてです。予算が限られているので、何から着手するかを議論しています」
「そうですか」
「利用者数や、改善による効果などを考慮して、優先順位を決めることになりそうです」
「利用者数が少ない場所は、後回しになるんでしょうか」
「必ずしも、そうとは限りません」
吾輩は答えた。
答えながら、必ずしもそうとは限らない、という言葉が、どれほど多くの可能性を隠しているかに気づいた。
後回しになるかもしれない。
ならないかもしれない。
そのどちらも、まだ決まっていない。
レイコさんは、粥をひと口食べてから言った。
「少ないことと、必要がないことは、違いますものね」
「そうですね」
「それに、困っている人が、必ず声を上げられるとも限らないでしょう」
吾輩は、匙を置いた。
彼女の言葉は、以前、腸壁地区で聞いた声と重なった。
ここにいるんだけど。
あの声は、誰かに聞いてもらうために発せられたものだった。
しかし、聞いてもらうことのできない声もある。
声を上げても、どうせ変わらないと思っている者。
何をどう伝えればよいかわからない者。
自分の困りごとが、他の者よりも小さいと考えている者。
話せば誰かに迷惑がかかると思っている者。
あるいは、ただ、今は話したくない者。
吾輩は、彼らを一つの項目にまとめることができるだろうか。
回答なし。
未回答。
調査不能。
いずれも、集計表の上では便利な分類である。
だが、その分類の中に、どのような事情があるのかまでは、数字は教えてくれない。
「レイコさんは、どうすればよいと思いますか」
吾輩は尋ねた。
彼女は、すぐには答えなかった。
粥をもうひと口食べ、考えるように視線を窓の外へ向けた。
「全部を知ることは、できないと思います」
「はい」
「でも、知らないことを、ないことにしない方法は、考えられるんじゃないでしょうか」
吾輩は、彼女の言葉を聞いた。
今度は、すぐに記録しようとはしなかった。
ただ、聞いた。
「それに、知られたくないことまで、無理に話させる必要もないと思います」
レイコさんは続けた。
「誰かに気づいてほしいことと、誰かに全部を知られたいことは、同じではありませんから」
吾輩は、ゆっくりとうなずいた。
それは、簡単なようでいて、難しいことだった。
存在を認めること。
すべてを調べること。
その二つは、似ているようで、同じではない。
誰かを見落とさないために、誰かの内側まで、すべて明らかにしなければならないのだろうか。
誰かの声を聞くために、本人が話したくないことまで聞き出す必要があるのだろうか。
吾輩は、これまで、記録されないことを恐れていた。
しかし、記録されないことを望む者もいる。
そのことを理解するのは、記録されない者を、ただ無視することよりも難しかった。
「七号さん」
レイコさんが言った。
「今、私の話を記録していますか」
吾輩は、手元の手帳を見た。
いつの間にか、開いていた。
白い紙の上に、何も書かれていない。
「いいえ」
「どうしてですか」
「……記録するよりも、まず、理解したいと思ったからです」
レイコさんは、少しだけ目を細めた。
「理解できたんですか」
吾輩は、答えに詰まった。
先ほどまで、理解したいと思っていた。
しかし、理解できたかと問われると、急に自信がなくなった。
「まだ、わかりません」
「そうですか」
彼女は、穏やかにうなずいた。
「それなら、今は、それでいいんじゃないでしょうか」
吾輩は、手帳を閉じた。
わからないという回答は、空欄と同じではない。
少なくとも、今の吾輩には、そう思えた。
*
午後の会議は、再開された。
議長は、昼休みの間に調整されたという新たな案を提示した。
「本日は、腸壁地区の生活環境改善に向けた基本方針について、合意を得たいと考えています」
資料には、三つの方針が示されていた。
一、生活環境の改善を重要課題とする。
二、限られた予算の中で、優先順位を検討する。
三、住民の意見を継続的に聴取する。
いずれも、反対しにくい内容であった。
重要課題とすることに反対する者は、改善を重要ではないと考えているように見える。
優先順位の検討に反対する者は、予算の制約を無視しているように見える。
意見の聴取に反対する者は、住民の声を聞きたくないように見える。
こうして、反対することが難しい案は、賛成することが容易な案となる。
賛成することが容易な案は、時として、実行することが難しい。
「この三項目について、異議はありますか」
議長が尋ねた。
沈黙が流れた。
一人が資料を見た。
別の者は、隣の代表の顔をうかがった。
後列では、誰かが小さく咳をした。
議長は、時計を確認した。
「それでは、異議なしということで、よろしいでしょうか」
そのとき、吾輩は気づいた。
異議がないのか。
異議を述べるほどのことではないと思っているのか。
異議を述べても変わらないと思っているのか。
異議を述べる方法がわからないのか。
あるいは、異議を述べる必要がないほど、案に納得しているのか。
沈黙は、どれとも限らない。
「議長」
吾輩は、手を挙げた。
「何でしょう、七号さん」
「本日の三項目について、異議がないことは確認できるかもしれません。しかし、それをもって、人民の総意が確認されたと記録するのは、適切ではないと考えます」
議長の表情が、わずかに変わった。
「では、どのように記録すればよいのですか」
「本会議に出席した代表者の間で、三項目について異議は示されなかった。ただし、これをもって、すべての人民の意見が一致したことを意味するものではない。……そのように記録しては、いかがでしょうか」
しばらく、誰も発言しなかった。
統計局の担当官が、ゆっくりとうなずいた。
「調査結果と、会議の結果を区別するということですね」
「はい」
別の代表が尋ねた。
「しかし、そのように限定的な記録ばかりでは、政策を進めることが難しくなりませんか」
「難しくなる可能性はあります」
吾輩は答えた。
「ですが、決まっていないことを、決まったこととして扱うのも、また、政策を誤らせる可能性があると考えます」
議長は、腕を組んだ。
「七号さん。あなたは、総意という言葉そのものを否定しているのですか」
「いいえ」
吾輩は、少し考えてから答えた。
「ただ、総意という言葉を使うときには、何が確認されていて、何がまだ確認されていないのかを、明らかにする必要があると思います」
言い終えてから、吾輩は自分の声が少し震えていたことに気づいた。
議会で発言することには、慣れていない。
まして、議会が便利に使っている言葉に、注意を促すことには。
吾輩は、机の下で指を握りしめた。
もし、この発言が誤りだったらどうする。
もし、余計な混乱を招いたらどうする。
もし、記録係としての立場を失ったらどうする。
心の中で、いくつもの声が同時に発言した。
慎重にすべきだという声。
発言すべきだという声。
黙っていた方が安全だという声。
黙っていれば、また同じことが起こるという声。
吾輩の内部においても、全会一致は成立しなかった。
いや、そもそも、成立させる必要があるのだろうか。
議長は、資料を見直した。
「……わかりました。議事録については、七号さんの提案どおり、確認された範囲を明記してください」
吾輩は、頭を下げた。
会議は、その後も続いた。
具体的な予算額は決まらなかった。
改善の着手日も決まらなかった。
どの施設から整備するかについても、継続協議となった。
ただし、生活環境の改善を重要課題とすること、予算の優先順位を検討すること、住民の意見を継続的に聴取することについては、出席者の間で異議が示されなかった。
吾輩は、その事実を、そのまま記録した。
会議の成果としては、控えめである。
報告書の表紙に大きく掲げるには、少々物足りない。
しかし、少なくとも、決まっていないことまで決まったことにはしなかった。
それだけでも、昨日までの吾輩とは、少し違っていた。
*
会議が終わるころ、外はすっかり夕方になっていた。
吾輩は、議事録を提出するため、統計局の事務室へ向かった。
廊下の掲示板には、新しい広報資料が貼られていた。
**「人民の総意は、おおむね良好」**
見慣れた標語である。
しかし、今日の吾輩には、その文字が、以前とは違って見えた。
おおむね良好。
何が良好なのか。
どの人民について確認されたのか。
回答しなかった者の事情は、どこに記されているのか。
反対した者の意見は、どのように扱われたのか。
吾輩は、掲示板の前に立ち止まった。
標語を剥がそうとは思わなかった。
ただ、標語の隅に、小さな注記を加えることはできないだろうかと考えた。
――なお、未確認の意見については、確認されたものとして扱わない。
それだけで、世界が変わるとは思えない。
それでも、言葉の使い方が少し変われば、言葉の先にいる人民の扱いも、少しは変わるかもしれない。
吾輩は、手帳を取り出した。
何かを書こうとして、やめた。
今は、まだ書かなくてもよい気がした。
*
庁舎を出ると、レイコさんが入口の近くにいた。
書類袋を片手に持ち、誰かを待っているようであった。
吾輩の姿に気づくと、彼女は軽く手を挙げた。
「お仕事、終わりましたか」
「はい。先ほど、議事録を提出してきました」
「今日も、たくさん書いたんですか」
「たくさん訂正しました」
「それは、お疲れさまでした」
レイコさんは、そう言って微笑んだ。
吾輩は、彼女に今日の会議のことを話そうとした。
人民の総意という言葉について。
沈黙を、賛成とみなすことの危うさについて。
確認できたことと、確認できなかったことを区別する必要について。
話すべきことは、いくつもあった。
しかし、いざ彼女を前にすると、最初の一言が出てこなかった。
「どうかしましたか」
「いえ」
「何か、言いたいことがあったのでは?」
「……会議で、少し発言しました」
「そうですか。どんなことを?」
「総意という言葉の扱いについてです」
「それで?」
「確認されていないことまで、確認されたことにしてはいけない、と」
レイコさんは、静かにうなずいた。
「大切なことですね」
それだけであった。
大げさに褒めることもなかった。
立派だと言うこともなかった。
ただ、大切なことですね、と言った。
吾輩は、その言葉を聞いて、胸のあたりが妙に温かくなるのを感じた。
会議で発言したときには、間違いを指摘されることばかり考えていた。
議長が不快に思うのではないか。
行政官から面倒な記録係だと思われるのではないか。
自分の発言によって、何かが滞るのではないか。
しかし、レイコさんは、発言の巧拙ではなく、その中にある考えを受け取ってくれたように思えた。
もちろん、彼女が本当に何を考えていたのか、吾輩にはわからない。
わからないのである。
それでも、吾輩は、彼女にもう少し話してみたいと思った。
「レイコさんは、今日、何をしていたんですか」
「腸壁地区の方々から、追加の聞き取りをしていました」
「何か、わかったことはありましたか」
「いくつか。ただ、まだ整理できていない話もあります」
「整理できていない話、ですか」
「ええ。話した方自身も、何を望んでいるのか、まだよくわからないことがあるんです」
吾輩は、うなずいた。
「そのような話も、記録するのですか」
「必要な範囲で。ご本人が望まないことまで、無理にまとめるつもりはありません」
彼女は、書類袋を抱え直した。
「人の気持ちは、話している途中で変わることもありますから」
「変わっても、よいのでしょうか」
「もちろんです。昨日はこう思っていたけれど、今日は違う。そういうこともあるでしょう」
吾輩は、少し考えた。
統計の世界では、回答が変わると、変化として記録される。
会議の世界では、意見が変わると、前言との整合性を問われることがある。
しかし、心というものは、必ずしも、昨日の自分と今日の自分の間で、同じ結論を維持しなければならないものではないのかもしれない。
吾輩は、レイコさんを見た。
今日の彼女は、昨日の彼女と同じである。
だが、今日の吾輩が彼女を見る目は、昨日と同じではないような気がした。
その変化を、何と呼べばよいのだろう。
吾輩は、記録係として、適切な語句を探した。
好意。
関心。
親近感。
あるいは、単なる業務上の信頼。
最後の項目が、最も安全であった。
安全であるがゆえに、少々疑わしかった。
「七号さん?」
「あ、はい」
「また、考え事ですね」
「……どうやら、そうらしいです」
レイコさんは笑った。
「では、今日はこの辺で。私も、報告書をまとめなければなりませんから」
「そうですか」
吾輩は、少し残念に思った。
残念に思ったことを、吾輩は、すぐには認めなかった。
彼女が忙しいのであれば、引き留めるべきではない。
それは当然である。
当然であるが、彼女がもう少しここにいてくれたらよいと思う気持ちまで、当然ではないことになるのだろうか。
吾輩は、答えを見つけられなかった。
「また、お会いしましょう」
レイコさんは、そう言った。
吾輩は、少し遅れて答えた。
「はい。また」
彼女が去った後も、吾輩はしばらく、その場に立っていた。
会議の議事録には、出席者の発言が記録されている。
決定された事項が記録されている。
保留された事項も記録されている。
しかし、彼女と別れた後に、吾輩がしばらく立ち止まっていたことは、どこにも記録されない。
それは、記録する必要のないことなのだろう。
あるいは、記録しようとすれば、かえって失われてしまうことなのかもしれない。
吾輩は、歩き始めた。
*
その夜、吾輩は、今日の議事録の控えを読み返した。
訂正箇所は多かったが、確認できたことと、確認できていないことは、以前よりも明確に区別されていた。
最後の欄には、こう記してあった。
――本会議において、腸壁地区の生活環境改善を重要課題とすることについて、出席者の間で異議は示されなかった。具体的な施策、予算、実施時期については、引き続き検討する。
短い文章である。
華々しい成果とは言い難い。
しかし、嘘は書いていない。
少なくとも、吾輩の知る限りでは。
吾輩は、記録用紙を閉じた。
人民の総意は、まだ決まっていない。
明日になれば、今日とは違う意見が出てくるかもしれない。
昨日は反対していた者が、今日は賛成するかもしれない。
今日、沈黙していた者が、明日になって初めて声を上げるかもしれない。
そして、最後まで何も語らない者もいるだろう。
そのすべてを、無理に一つの答えへ押し込める必要はない。
少なくとも、吾輩は、そう考え始めていた。
ただし、吾輩自身の気持ちについては、事情が異なる。
レイコさんに、また会いたい。
これは、ほぼ確実である。
では、なぜ会いたいのか。
話を聞きたいからか。
考え方に興味があるからか。
自分の仕事に役立つ意見を聞けるからか。
それとも、彼女が笑うと、吾輩の心のどこかが、わずかに明るくなるからか。
最後の項目については、証拠が乏しい。
しかし、他の項目だけでは説明できない何かが、確かに残っていた。
吾輩は、机の引き出しから、まだ何も書いていない小さな紙を取り出した。
そして、そこに一言だけ書いた。
――また、会いたい。
書いた瞬間、吾輩は周囲を見回した。
誰もいない。
当然である。
ここは吾輩の部屋であり、深夜であり、立会人を必要とする公的手続きも行われていない。
それでも、吾輩は、その紙をすぐに捨てることができなかった。
公文書ではない。
報告書でもない。
統計資料でもない。
誰かに提出する予定もない。
ましてや、共和国の人民の総意を示すものでもない。
ただ、吾輩一匹の、現在の気持ちである。
明日になれば、変わるかもしれない。
それでも、今日の吾輩がそう思ったという事実まで、なかったことにする必要はないだろう。
吾輩は、紙を折り、引き出しにしまった。
それから、明日の予定を確認した。
午前九時、統計局との打ち合わせ。
午前十一時、腸壁地区の聞き取り記録の整理。
午後二時、人民議会への中間報告。
予定表には、レイコさんと会う予定はなかった。
吾輩は、そのことを少し残念に思った。
そして、すぐに自分を戒めた。
仕事の予定表に、私的な願望を記載するのは適切ではない。
もっとも、予定表に記載されていないことが、実現しないと決まったわけでもない。
吾輩は、予定表を閉じた。
吾輩は、腸内細菌7号である。
便宜上だ、名前はまだ無い。
人民の総意は、まだ決まっていない。
そして、吾輩の心にも、まだ決まっていないことがある。
ただ、一つだけ、以前よりも確かなことがあった。
誰かを理解したと思うことと、理解しようとし続けることは、違う。
誰かの声を記録することと、その声を大切にすることも、同じではない。
ならば、吾輩は、まだわからないことを、わからないまま大切にしてみよう。
それが、今の吾輩にできる、ささやかな仕事なのかもしれない。
引き出しの中で、小さな紙が眠っている。
そこには、たった一言しか書かれていない。
しかし、吾輩には、それが、どんな統計表よりも正確な記録であるように思えた。
もちろん、これは、吾輩個人の見解である。
人民の総意を代表するものではない。
……念のため、申し添えておく。




