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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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新章 第八話 ブリリアンカットのダイヤモンド - 人民の総意は、まだ決まっていない

第八話 ブリリアンカットのダイヤモンド-人民の総意は、まだ決まっていない


 吾輩は、腸内細菌7号である。


 便宜上だ、名前はまだ無い。


 しかし、名前のない吾輩にも、近ごろ一つ、困ったことが生じている。


 朝、目が覚める。


 すると、レイコさんのことを思い出す。


 顔を洗う。


 レイコさんの言葉を思い出す。


 朝食を食べる。


 昨日、彼女が何を食べていたかを思い出そうとする。


 思い出そうとしても、そこまでは記録していない。


 吾輩は記録係である。記録していない事柄について、記憶を頼りに推測を行うことは、職務上、好ましくない。


 したがって、彼女が何を食べていたかについては、調査継続とする。


 ただし、彼女が食堂で吾輩に向かって微笑んだことについては、記録がないにもかかわらず、妙に鮮明である。


 この現象について、吾輩はまだ適切な分類名を発見していない。


 いや、そもそも、分類しようとすること自体が間違いなのかもしれない。


 そう考えているうちに、朝食は冷めた。


 吾輩は冷めた粥をすすった。


 人民の食生活を改善することは、共和国の重要政策である。


 まずは自分の食事を改善すべきであった。


     *


 その日の午前、人民議会の中央行政区庁舎において、臨時政策会議が開かれた。


 議題は、腸壁地区の生活環境改善に関する今後の方針について。


 前回の会議では、各地区の代表が意見を述べ、吾輩は議事録を作成した。


 その結果、議会は「改善に向けて、引き続き検討を進める」ことを確認した。


 確認したのである。


 改善することを決めたのではない。


 改善に向けて、何を、いつまでに、どの程度行うかを決めたのでもない。


 検討を進めることを確認したのである。


 共和国の行政には、この種の確認が少なくない。


 確認された事項は、確認されたという事実によって、一定の達成感を生む。


 達成感は、時として達成そのものよりも、早く到着する。


 今回の会議は、その確認を一歩進めるためのものであった。


 会議室の壁には、大きな標語が掲げられていた。


 ――人民の声を、人民のために。


 その下には、会議資料が整然と並べられていた。


 表紙には、太い文字でこう記されていた。


 **「人民の総意に関する中間報告」**


 吾輩は、その表紙を見て、わずかに眉を寄せた。


 人民の総意。


 その言葉を、吾輩は以前よりも慎重に扱うようになっていた。


 総意とは、何であろうか。


 全員が同じ意見を持つことか。


 多くの者が賛成することか。


 反対する者がいても、最終的に決定されたことを、皆の意見と呼ぶことか。


 あるいは、皆の意見を聞いたという手続きを経た後で、行政が採用した意見のことか。


 吾輩は、まだ答えを持っていなかった。


 もっとも、答えを持っていないこと自体は、恥ずべきことではない。


 問題は、答えを持っていない者が、答えを持っているように振る舞うことである。


 そして行政の世界では、答えを持っていないことを正直に報告するためにも、相応の書式が必要であった。


     *


「それでは、中間報告をお願いします」


 議長の言葉を受け、統計局の担当官が立ち上がった。


「腸壁地区の生活環境に関する聞き取り調査の結果、現状の改善を求める意見が多数確認されました。一方、予算配分、交通整備、食堂の営業時間などについては、地区によって優先順位に差が見られます」


 担当官は、資料を一枚めくった。


「なお、調査に対する回答を得られなかった人民も一定数存在します」


 議長が尋ねた。


「その方々については、どのように扱っているのですか」


「回答が得られなかったものとして、集計上は別項目に分類しております」


「なるほど」


 議長は満足そうにうなずいた。


「それでは、回答を得られなかった人民を除いた結果が、人民の総意ということですね」


 会議室の空気が、わずかに動いた。


 統計局の担当官は、口を開きかけて閉じた。


 回答が得られなかった者を除いた結果は、回答を得られた者の結果である。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 しかし、その説明をするには、議長の言葉を訂正しなければならない。


 訂正すれば、会議の進行が遅れる。


 進行が遅れれば、予定された議題をすべて扱えなくなる。


 議題を扱えなければ、次回の会議が必要になる。


 次回の会議が必要になれば、次回の日程を調整しなければならない。


 日程を調整するには、各部署の予定を確認しなければならない。


 こうして共和国では、一つの言葉を正確にするために、複数の会議が必要となることがある。


 吾輩は手帳を開いた。


 議長の発言を、そのまま記録する。


 それから、補足を加えようとした。


 ――ただし、回答者の意見をもって、全人民の総意とみなすことはできない。


 そこまで書いて、吾輩の手が止まった。


 議長の発言を訂正するのは、記録係の職務であろうか。


 いや、発言を訂正するのではない。


 発言が何を意味するのか、その範囲を明らかにするだけである。


 そう自分に説明して、吾輩は続きを書いた。


 そのとき、前列に座っていた行政官が吾輩を見た。


「七号さん。その補足は、議事録に必要ですか」


「必要かどうかを、確認しているところです」


「確認の結果、必要ではないということにはなりませんか」


「なります」


「では、削除してもよろしいのでは」


「必要ではないと確認できれば、削除いたします」


 行政官は、吾輩の顔をしばらく見つめた。


「あなたは、最近、少々慎重になりましたね」


「以前よりも、記録の誤りを恐れるようになりました」


「よいことです。ただ、慎重になりすぎると、何も決められなくなります」


「その可能性も、記録しておきます」


 行政官は、笑った。


 吾輩も笑うべきかどうか迷ったが、会議室での笑顔の適切な程度については、まだ統一基準が設けられていない。


 そこで、曖昧な表情をした。


 曖昧さは、時として、最も安全な回答である。


     *


 会議が進むにつれ、腸壁地区の改善案が議論された。


 道路を整備する。


 食堂の営業時間を延ばす。


 夜勤者の移動手段を確保する。


 地区の相談窓口を増やす。


 どれも、必要なことである。


 しかし、すべてを一度に実施する予算はなかった。


「まずは、利用者数の多い施設から着手するのが合理的ではないでしょうか」


 中央行政区の代表が述べた。


「利用者数が多ければ、改善の効果も大きくなります」


「しかし、利用者数が少ない施設には、利用者数が少ない理由があるかもしれません」


 別の代表が応じた。


「交通の便が悪いから利用できない。設備が整っていないから利用しない。利用しないから、必要性が低いと判断される。そのような循環も考えられます」


「では、どの施設から着手すべきなのですか」


「それを、これから検討する必要があります」


 議長は、手元の資料に目を落とした。


「本日の会議では、優先順位について、一定の方向性を示したいと考えています」


 一定の方向性。


 便利な言葉である。


 方向性を示せば、具体的な道筋がなくても、前進しているように見える。


 吾輩は、議事録に「優先順位について協議」と書いた。


 その後、「一定の方向性を確認」と書きかけて、筆を止めた。


 確認したのは、方向性を示したいという議長の意向であって、方向性そのものではない。


 吾輩は、また書き直した。


 こうして吾輩の議事録は、発言の数よりも訂正の数が増えていった。


 記録用紙には、消し跡が残った。


 完全な記録とは、訂正のない記録のことだろうか。


 あるいは、訂正が必要になったとき、訂正した事実まで残す記録のことだろうか。


 吾輩には、まだわからなかった。


 ただ、消し跡を消すために、さらに消し跡を作るという行為には、どこか行政的な美しさがあった。


 誰も責任を負わないまま、紙だけが少しずつ薄くなっていく。


     *


 昼休み、吾輩は食堂へ向かった。


 議論を続けているうちに、昼食の時間を過ぎていた。


 食堂の入口には、本日の献立が掲示されている。


 発酵穀物の粥、根菜の煮込み、微量栄養素を含む副菜。


 栄養の均衡は取れているらしい。


 しかし、献立表には「満足度」の欄がなかった。


 満足度を測定するには、食後の調査が必要である。


 食後の調査を行うには、質問票を配布しなければならない。


 質問票を配布するには、印刷費が必要である。


 印刷費を確保するには、予算申請をしなければならない。


 吾輩は献立表を見ながら、粥を食べる前に満腹になりそうであった。


「七号さん」


 背後から声がした。


 振り返ると、レイコさんが立っていた。


 彼女は、小さな書類袋を抱えていた。


「また、考え事ですか」


「昼食について検討していました」


「献立表を見て?」


「はい。食堂の満足度について、調査の必要性があるかもしれないと」


「では、まず食べてみてはいかがですか」


 レイコさんは、ごく自然に言った。


「食べてもいないのに、満足度は判断できませんから」


 吾輩は、しばらく彼女を見つめた。


 正論であった。


 しかも、質問票も予算申請も必要としない。


 共和国の行政においては、きわめて珍しい種類の正論である。


「なるほど。実地調査ですね」


「普通に昼食を食べるだけです」


「それも、調査の一種です」


「七号さんは、何でも調査にしてしまうんですね」


 レイコさんは笑った。


 吾輩も笑った。


 今度は、曖昧な表情ではなかった。


 それに気づくまで、吾輩は少し時間を要した。


     *


 吾輩たちは、窓際の席に座った。


 レイコさんは、腸壁地区で行われた聞き取りの資料を届けに来たのだという。


「今日の会議では、どんな話が出たんですか」


「生活環境の改善についてです。予算が限られているので、何から着手するかを議論しています」


「そうですか」


「利用者数や、改善による効果などを考慮して、優先順位を決めることになりそうです」


「利用者数が少ない場所は、後回しになるんでしょうか」


「必ずしも、そうとは限りません」


 吾輩は答えた。


 答えながら、必ずしもそうとは限らない、という言葉が、どれほど多くの可能性を隠しているかに気づいた。


 後回しになるかもしれない。


 ならないかもしれない。


 そのどちらも、まだ決まっていない。


 レイコさんは、粥をひと口食べてから言った。


「少ないことと、必要がないことは、違いますものね」


「そうですね」


「それに、困っている人が、必ず声を上げられるとも限らないでしょう」


 吾輩は、匙を置いた。


 彼女の言葉は、以前、腸壁地区で聞いた声と重なった。


 ここにいるんだけど。


 あの声は、誰かに聞いてもらうために発せられたものだった。


 しかし、聞いてもらうことのできない声もある。


 声を上げても、どうせ変わらないと思っている者。


 何をどう伝えればよいかわからない者。


 自分の困りごとが、他の者よりも小さいと考えている者。


 話せば誰かに迷惑がかかると思っている者。


 あるいは、ただ、今は話したくない者。


 吾輩は、彼らを一つの項目にまとめることができるだろうか。


 回答なし。


 未回答。


 調査不能。


 いずれも、集計表の上では便利な分類である。


 だが、その分類の中に、どのような事情があるのかまでは、数字は教えてくれない。


「レイコさんは、どうすればよいと思いますか」


 吾輩は尋ねた。


 彼女は、すぐには答えなかった。


 粥をもうひと口食べ、考えるように視線を窓の外へ向けた。


「全部を知ることは、できないと思います」


「はい」


「でも、知らないことを、ないことにしない方法は、考えられるんじゃないでしょうか」


 吾輩は、彼女の言葉を聞いた。


 今度は、すぐに記録しようとはしなかった。


 ただ、聞いた。


「それに、知られたくないことまで、無理に話させる必要もないと思います」


 レイコさんは続けた。


「誰かに気づいてほしいことと、誰かに全部を知られたいことは、同じではありませんから」


 吾輩は、ゆっくりとうなずいた。


 それは、簡単なようでいて、難しいことだった。


 存在を認めること。


 すべてを調べること。


 その二つは、似ているようで、同じではない。


 誰かを見落とさないために、誰かの内側まで、すべて明らかにしなければならないのだろうか。


 誰かの声を聞くために、本人が話したくないことまで聞き出す必要があるのだろうか。


 吾輩は、これまで、記録されないことを恐れていた。


 しかし、記録されないことを望む者もいる。


 そのことを理解するのは、記録されない者を、ただ無視することよりも難しかった。


「七号さん」


 レイコさんが言った。


「今、私の話を記録していますか」


 吾輩は、手元の手帳を見た。


 いつの間にか、開いていた。


 白い紙の上に、何も書かれていない。


「いいえ」


「どうしてですか」


「……記録するよりも、まず、理解したいと思ったからです」


 レイコさんは、少しだけ目を細めた。


「理解できたんですか」


 吾輩は、答えに詰まった。


 先ほどまで、理解したいと思っていた。


 しかし、理解できたかと問われると、急に自信がなくなった。


「まだ、わかりません」


「そうですか」


 彼女は、穏やかにうなずいた。


「それなら、今は、それでいいんじゃないでしょうか」


 吾輩は、手帳を閉じた。


 わからないという回答は、空欄と同じではない。


 少なくとも、今の吾輩には、そう思えた。


     *


 午後の会議は、再開された。


 議長は、昼休みの間に調整されたという新たな案を提示した。


「本日は、腸壁地区の生活環境改善に向けた基本方針について、合意を得たいと考えています」


 資料には、三つの方針が示されていた。


 一、生活環境の改善を重要課題とする。


 二、限られた予算の中で、優先順位を検討する。


 三、住民の意見を継続的に聴取する。


 いずれも、反対しにくい内容であった。


 重要課題とすることに反対する者は、改善を重要ではないと考えているように見える。


 優先順位の検討に反対する者は、予算の制約を無視しているように見える。


 意見の聴取に反対する者は、住民の声を聞きたくないように見える。


 こうして、反対することが難しい案は、賛成することが容易な案となる。


 賛成することが容易な案は、時として、実行することが難しい。


「この三項目について、異議はありますか」


 議長が尋ねた。


 沈黙が流れた。


 一人が資料を見た。


 別の者は、隣の代表の顔をうかがった。


 後列では、誰かが小さく咳をした。


 議長は、時計を確認した。


「それでは、異議なしということで、よろしいでしょうか」


 そのとき、吾輩は気づいた。


 異議がないのか。


 異議を述べるほどのことではないと思っているのか。


 異議を述べても変わらないと思っているのか。


 異議を述べる方法がわからないのか。


 あるいは、異議を述べる必要がないほど、案に納得しているのか。


 沈黙は、どれとも限らない。


「議長」


 吾輩は、手を挙げた。


「何でしょう、七号さん」


「本日の三項目について、異議がないことは確認できるかもしれません。しかし、それをもって、人民の総意が確認されたと記録するのは、適切ではないと考えます」


 議長の表情が、わずかに変わった。


「では、どのように記録すればよいのですか」


「本会議に出席した代表者の間で、三項目について異議は示されなかった。ただし、これをもって、すべての人民の意見が一致したことを意味するものではない。……そのように記録しては、いかがでしょうか」


 しばらく、誰も発言しなかった。


 統計局の担当官が、ゆっくりとうなずいた。


「調査結果と、会議の結果を区別するということですね」


「はい」


 別の代表が尋ねた。


「しかし、そのように限定的な記録ばかりでは、政策を進めることが難しくなりませんか」


「難しくなる可能性はあります」


 吾輩は答えた。


「ですが、決まっていないことを、決まったこととして扱うのも、また、政策を誤らせる可能性があると考えます」


 議長は、腕を組んだ。


「七号さん。あなたは、総意という言葉そのものを否定しているのですか」


「いいえ」


 吾輩は、少し考えてから答えた。


「ただ、総意という言葉を使うときには、何が確認されていて、何がまだ確認されていないのかを、明らかにする必要があると思います」


 言い終えてから、吾輩は自分の声が少し震えていたことに気づいた。


 議会で発言することには、慣れていない。


 まして、議会が便利に使っている言葉に、注意を促すことには。


 吾輩は、机の下で指を握りしめた。


 もし、この発言が誤りだったらどうする。


 もし、余計な混乱を招いたらどうする。


 もし、記録係としての立場を失ったらどうする。


 心の中で、いくつもの声が同時に発言した。


 慎重にすべきだという声。


 発言すべきだという声。


 黙っていた方が安全だという声。


 黙っていれば、また同じことが起こるという声。


 吾輩の内部においても、全会一致は成立しなかった。


 いや、そもそも、成立させる必要があるのだろうか。


 議長は、資料を見直した。


「……わかりました。議事録については、七号さんの提案どおり、確認された範囲を明記してください」


 吾輩は、頭を下げた。


 会議は、その後も続いた。


 具体的な予算額は決まらなかった。


 改善の着手日も決まらなかった。


 どの施設から整備するかについても、継続協議となった。


 ただし、生活環境の改善を重要課題とすること、予算の優先順位を検討すること、住民の意見を継続的に聴取することについては、出席者の間で異議が示されなかった。


 吾輩は、その事実を、そのまま記録した。


 会議の成果としては、控えめである。


 報告書の表紙に大きく掲げるには、少々物足りない。


 しかし、少なくとも、決まっていないことまで決まったことにはしなかった。


 それだけでも、昨日までの吾輩とは、少し違っていた。


     *


 会議が終わるころ、外はすっかり夕方になっていた。


 吾輩は、議事録を提出するため、統計局の事務室へ向かった。


 廊下の掲示板には、新しい広報資料が貼られていた。


 **「人民の総意は、おおむね良好」**


 見慣れた標語である。


 しかし、今日の吾輩には、その文字が、以前とは違って見えた。


 おおむね良好。


 何が良好なのか。


 どの人民について確認されたのか。


 回答しなかった者の事情は、どこに記されているのか。


 反対した者の意見は、どのように扱われたのか。


 吾輩は、掲示板の前に立ち止まった。


 標語を剥がそうとは思わなかった。


 ただ、標語の隅に、小さな注記を加えることはできないだろうかと考えた。


 ――なお、未確認の意見については、確認されたものとして扱わない。


 それだけで、世界が変わるとは思えない。


 それでも、言葉の使い方が少し変われば、言葉の先にいる人民の扱いも、少しは変わるかもしれない。


 吾輩は、手帳を取り出した。


 何かを書こうとして、やめた。


 今は、まだ書かなくてもよい気がした。


     *


 庁舎を出ると、レイコさんが入口の近くにいた。


 書類袋を片手に持ち、誰かを待っているようであった。


 吾輩の姿に気づくと、彼女は軽く手を挙げた。


「お仕事、終わりましたか」


「はい。先ほど、議事録を提出してきました」


「今日も、たくさん書いたんですか」


「たくさん訂正しました」


「それは、お疲れさまでした」


 レイコさんは、そう言って微笑んだ。


 吾輩は、彼女に今日の会議のことを話そうとした。


 人民の総意という言葉について。


 沈黙を、賛成とみなすことの危うさについて。


 確認できたことと、確認できなかったことを区別する必要について。


 話すべきことは、いくつもあった。


 しかし、いざ彼女を前にすると、最初の一言が出てこなかった。


「どうかしましたか」


「いえ」


「何か、言いたいことがあったのでは?」


「……会議で、少し発言しました」


「そうですか。どんなことを?」


「総意という言葉の扱いについてです」


「それで?」


「確認されていないことまで、確認されたことにしてはいけない、と」


 レイコさんは、静かにうなずいた。


「大切なことですね」


 それだけであった。


 大げさに褒めることもなかった。


 立派だと言うこともなかった。


 ただ、大切なことですね、と言った。


 吾輩は、その言葉を聞いて、胸のあたりが妙に温かくなるのを感じた。


 会議で発言したときには、間違いを指摘されることばかり考えていた。


 議長が不快に思うのではないか。


 行政官から面倒な記録係だと思われるのではないか。


 自分の発言によって、何かが滞るのではないか。


 しかし、レイコさんは、発言の巧拙ではなく、その中にある考えを受け取ってくれたように思えた。


 もちろん、彼女が本当に何を考えていたのか、吾輩にはわからない。


 わからないのである。


 それでも、吾輩は、彼女にもう少し話してみたいと思った。


「レイコさんは、今日、何をしていたんですか」


「腸壁地区の方々から、追加の聞き取りをしていました」


「何か、わかったことはありましたか」


「いくつか。ただ、まだ整理できていない話もあります」


「整理できていない話、ですか」


「ええ。話した方自身も、何を望んでいるのか、まだよくわからないことがあるんです」


 吾輩は、うなずいた。


「そのような話も、記録するのですか」


「必要な範囲で。ご本人が望まないことまで、無理にまとめるつもりはありません」


 彼女は、書類袋を抱え直した。


「人の気持ちは、話している途中で変わることもありますから」


「変わっても、よいのでしょうか」


「もちろんです。昨日はこう思っていたけれど、今日は違う。そういうこともあるでしょう」


 吾輩は、少し考えた。


 統計の世界では、回答が変わると、変化として記録される。


 会議の世界では、意見が変わると、前言との整合性を問われることがある。


 しかし、心というものは、必ずしも、昨日の自分と今日の自分の間で、同じ結論を維持しなければならないものではないのかもしれない。


 吾輩は、レイコさんを見た。


 今日の彼女は、昨日の彼女と同じである。


 だが、今日の吾輩が彼女を見る目は、昨日と同じではないような気がした。


 その変化を、何と呼べばよいのだろう。


 吾輩は、記録係として、適切な語句を探した。


 好意。


 関心。


 親近感。


 あるいは、単なる業務上の信頼。


 最後の項目が、最も安全であった。


 安全であるがゆえに、少々疑わしかった。


「七号さん?」


「あ、はい」


「また、考え事ですね」


「……どうやら、そうらしいです」


 レイコさんは笑った。


「では、今日はこの辺で。私も、報告書をまとめなければなりませんから」


「そうですか」


 吾輩は、少し残念に思った。


 残念に思ったことを、吾輩は、すぐには認めなかった。


 彼女が忙しいのであれば、引き留めるべきではない。


 それは当然である。


 当然であるが、彼女がもう少しここにいてくれたらよいと思う気持ちまで、当然ではないことになるのだろうか。


 吾輩は、答えを見つけられなかった。


「また、お会いしましょう」


 レイコさんは、そう言った。


 吾輩は、少し遅れて答えた。


「はい。また」


 彼女が去った後も、吾輩はしばらく、その場に立っていた。


 会議の議事録には、出席者の発言が記録されている。


 決定された事項が記録されている。


 保留された事項も記録されている。


 しかし、彼女と別れた後に、吾輩がしばらく立ち止まっていたことは、どこにも記録されない。


 それは、記録する必要のないことなのだろう。


 あるいは、記録しようとすれば、かえって失われてしまうことなのかもしれない。


 吾輩は、歩き始めた。


     *


 その夜、吾輩は、今日の議事録の控えを読み返した。


 訂正箇所は多かったが、確認できたことと、確認できていないことは、以前よりも明確に区別されていた。


 最後の欄には、こう記してあった。


 ――本会議において、腸壁地区の生活環境改善を重要課題とすることについて、出席者の間で異議は示されなかった。具体的な施策、予算、実施時期については、引き続き検討する。


 短い文章である。


 華々しい成果とは言い難い。


 しかし、嘘は書いていない。


 少なくとも、吾輩の知る限りでは。


 吾輩は、記録用紙を閉じた。


 人民の総意は、まだ決まっていない。


 明日になれば、今日とは違う意見が出てくるかもしれない。


 昨日は反対していた者が、今日は賛成するかもしれない。


 今日、沈黙していた者が、明日になって初めて声を上げるかもしれない。


 そして、最後まで何も語らない者もいるだろう。


 そのすべてを、無理に一つの答えへ押し込める必要はない。


 少なくとも、吾輩は、そう考え始めていた。


 ただし、吾輩自身の気持ちについては、事情が異なる。


 レイコさんに、また会いたい。


 これは、ほぼ確実である。


 では、なぜ会いたいのか。


 話を聞きたいからか。


 考え方に興味があるからか。


 自分の仕事に役立つ意見を聞けるからか。


 それとも、彼女が笑うと、吾輩の心のどこかが、わずかに明るくなるからか。


 最後の項目については、証拠が乏しい。


 しかし、他の項目だけでは説明できない何かが、確かに残っていた。


 吾輩は、机の引き出しから、まだ何も書いていない小さな紙を取り出した。


 そして、そこに一言だけ書いた。


 ――また、会いたい。


 書いた瞬間、吾輩は周囲を見回した。


 誰もいない。


 当然である。


 ここは吾輩の部屋であり、深夜であり、立会人を必要とする公的手続きも行われていない。


 それでも、吾輩は、その紙をすぐに捨てることができなかった。


 公文書ではない。


 報告書でもない。


 統計資料でもない。


 誰かに提出する予定もない。


 ましてや、共和国の人民の総意を示すものでもない。


 ただ、吾輩一匹の、現在の気持ちである。


 明日になれば、変わるかもしれない。


 それでも、今日の吾輩がそう思ったという事実まで、なかったことにする必要はないだろう。


 吾輩は、紙を折り、引き出しにしまった。


 それから、明日の予定を確認した。


 午前九時、統計局との打ち合わせ。


 午前十一時、腸壁地区の聞き取り記録の整理。


 午後二時、人民議会への中間報告。


 予定表には、レイコさんと会う予定はなかった。


 吾輩は、そのことを少し残念に思った。


 そして、すぐに自分を戒めた。


 仕事の予定表に、私的な願望を記載するのは適切ではない。


 もっとも、予定表に記載されていないことが、実現しないと決まったわけでもない。


 吾輩は、予定表を閉じた。


 吾輩は、腸内細菌7号である。


 便宜上だ、名前はまだ無い。


 人民の総意は、まだ決まっていない。


 そして、吾輩の心にも、まだ決まっていないことがある。


 ただ、一つだけ、以前よりも確かなことがあった。


 誰かを理解したと思うことと、理解しようとし続けることは、違う。


 誰かの声を記録することと、その声を大切にすることも、同じではない。


 ならば、吾輩は、まだわからないことを、わからないまま大切にしてみよう。


 それが、今の吾輩にできる、ささやかな仕事なのかもしれない。


 引き出しの中で、小さな紙が眠っている。


 そこには、たった一言しか書かれていない。


 しかし、吾輩には、それが、どんな統計表よりも正確な記録であるように思えた。


 もちろん、これは、吾輩個人の見解である。


 人民の総意を代表するものではない。


 ……念のため、申し添えておく。


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