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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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新章 第七話 全員を代表しない会議

第七話 全員を代表しない会議


吾輩は、腸内細菌7号である。


便宜上だ、名前はまだ無い。


ただし、最近、名前を覚えておきたい細菌が一匹できた。


ラブレ菌のレイコさんである。


これは、記録しておくほどのことではない。


そう思ったので、吾輩は記録しなかった。


記録しなかったという事実も、また記録しなかった。


このようなことをいちいち記録していたら、記録帳がいくらあっても足りない。統計局に相談すれば、記録の簡素化を勧められるに違いない。


しかし、記録を簡素化した結果、何が残るのかという問題について、統計局は必ずしも答えてくれない。


吾輩は、その問題を考えるのをやめた。


やめたはずなのに、レイコさんのことが頭に浮かんだ。


どうも、吾輩の頭には、廃止したはずの会議が勝手に再開するという、困った仕組みがあるらしい。


     *


中央行政区では、人民議会の特別会議が開かれることになった。


議題は、腸内壁地区の生活環境改善について。


腸内壁地区は、長いあいだ行政の地図の端に追いやられてきた地域である。統計局の報告書には存在する。予算書にも項目はある。議会の議事録にも、たまに名前が登場する。


ところが、そこに暮らす人民の声となると、途端に少なくなる。


声が少ないのか。


聞く機会が少ないのか。


記録される機会が少ないのか。


この三つは、似ているようで、ずいぶん違う。


今回の会議では、その違いを整理することになった。


吾輩は議会事務局から、発言記録の補助を依頼された。


「七号さんには、各代表者の発言を中立的に記録していただきたい」


事務局の担当者は、そういった。


「中立的に、ですか」


「はい。特定の立場に偏らず、各人民の意見を公平に記録してください」


「承知しました」


吾輩は答えた。


中立。


公平。


正確。


近ごろ、吾輩の周囲には、立派な言葉がよく集まる。


立派な言葉は、掲示板に貼るとよく映える。だが、実際の会議に持ち込むと、誰かの椅子の下に落ちてしまうことがある。


吾輩は、それを拾う役目なのかもしれない。


もっとも、拾った言葉を誰のものとして記録すべきかについては、まだ自信がなかった。


     *


議会の会議場には、各地区の代表者が集まっていた。


中央行政区の代表。


発酵小路の代表。


蠕動交通局の代表。


そして、腸内壁地区の代表。


代表者というものは、便利な制度である。


人民全員が会議場に集まることはできない。だから、誰かが代わりに出席し、意見を伝える。


ところが、代表者が一匹いるからといって、その背後にいる人民が全員、同じことを考えているわけではない。


これは考えれば当たり前のことだが、議会の書類では、ときどき忘れられる。


会議が始まると、議長は議題を読み上げた。


「本日の議題は、腸内壁地区における生活環境の改善、交通の利便性向上、及び行政サービスの公平な提供についてであります」


議長は一度、咳払いをした。


「なお、本会議は、人民全体の利益を代表する立場から、建設的な議論を行うものとします」


吾輩は、その言葉を記録した。


人民全体の利益。


ずいぶん大きな言葉である。


大きな言葉は、会議場の天井に届く。


しかし、天井に届いた言葉が、床に座っている一匹の人民に届くとは限らない。


最初に発言したのは、中央行政区の代表だった。


「腸内壁地区の改善は、共和国全体の安定に資するものであります。したがって、地区間の公平性を確保しつつ、効率的な予算配分を行う必要があります」


次に、発酵小路の代表が発言した。


「わが地区も、施設の老朽化という問題を抱えております。腸内壁地区への配分を増やす場合、ほかの地区との均衡を慎重に考慮すべきです」


どちらも、もっともな意見である。


どちらも、自分の地区の事情を考えている。


そして、どちらも、共和国全体のことを考えていると述べていた。


吾輩は、記録帳に書いた。


「各代表者は、地区の事情を踏まえつつ、共和国全体の利益について意見を述べた」


なかなか整った文章である。


吾輩は少し満足した。


そのとき、腸内壁地区の代表が手を挙げた。


「一つ、申し上げたいことがあります」


議長がうなずいた。


「どうぞ」


代表は、机の上に置かれた資料を見た。


「先ほどから、わが地区の改善が共和国全体にとって有益かどうかという話が続いております。しかし、わが地区の人民にとっては、今日の帰り道が安全かどうかという問題なのです」


会議場が静かになった。


「交通の便が悪く、夜間には道が見えにくい。病気になったとき、必要な施設まで行くのにも時間がかかる。行政サービスを公平に提供するといわれても、申請する場所までたどり着けない人民もいます」


代表は、資料を閉じた。


「共和国全体の利益を否定するつもりはありません。ただ、その全体の中に、わが地区の今日が含まれているのか。それを確かめたいのです」


吾輩は、筆を止めた。


代表の発言は、先ほどまでの意見と矛盾しているのだろうか。


共和国全体の利益と、地区の今日。


両方を大切にすることはできるはずである。


しかし、会議では、どちらか一方を先に考えると、もう一方が後回しになることがある。


そして、後回しになったものは、いつの間にか、緊急性のないものとして扱われる。


議長は、うなずいた。


「貴重なご意見です。では、今後の課題として整理させていただきます」


吾輩は、その言葉を記録した。


今後の課題。


行政が、まだ答えを出せないときに使う、便利な箱である。


入れた問題が消えるわけではない。


ただし、箱に入れたことで、しばらく目の前から見えなくなる。


吾輩は、自分の記録帳を見た。


そこには、腸内壁地区の代表が何を求めていたのかよりも、会議がどのように進行したかが、きれいに並んでいた。


吾輩は、書き足した。


「代表者は、地区の生活上の具体的な困難について、早期の対応を求めた」


それで十分だろうか。


分からなかった。


     *


休憩時間になった。


代表者たちは、それぞれの仲間と話し始めた。議会事務局の職員は、次の議題の資料を配っている。


吾輩は、記録帳を閉じた。


すると、会議場の入口近くに、見覚えのある姿を見つけた。


レイコさんだった。


彼女は、地域の意見聴取に関する資料を抱えて、事務局の職員と話していた。


吾輩は、少し驚いた。


いや、驚く理由はない。


彼女は前に、地域の意見聴取に関する書類を届けに来たと話していた。今回の会議に関係していても、何ら不思議ではない。


不思議ではないのに、吾輩は背筋を伸ばした。


服装を確かめた。


記録帳の角をそろえた。


それから、なぜ自分がそのようなことをしているのか、考えた。


考えた結果、特に有意義な結論は得られなかった。


吾輩は、彼女のほうへ歩いていった。


「レイコさん」


呼びかけると、彼女は振り返った。


「あら、七号さん」


その一言を聞いただけで、吾輩は妙に安心した。


自分の番号を覚えてもらっていたことが、うれしかったのである。


これは、社会生活を営むうえで、相互認識が重要だということだろう。


吾輩は、そのように解釈した。


「今日は、こちらのお仕事ですか」


「はい。住民の意見を整理した資料を、議会事務局に届けに来たんです」


「なるほど」


吾輩は、何か気の利いたことを言おうとした。


しかし、気の利いたことというものは、言おうとすると出てこない。


「会議は、いかがですか?」


レイコさんが尋ねた。


「各代表者が、共和国全体の利益について、活発に意見を述べています」


「そうですか」


彼女は、会議場の中を見た。


「では、今日、腸内壁地区で困っている人民の話は、もう聞けたんでしょうか」


吾輩は、言葉に詰まった。


「代表者から、具体的な事情について発言がありました」


「その代表者の方は、地区の人民全員の気持ちを知っているんでしょうか」


「それは……」


吾輩は、会議場を振り返った。


「全員の気持ちを、完全に知ることは難しいと思います」


「そうですよね」


レイコさんは、うなずいた。


「代表するというのは、全員と同じ気持ちになることではないんでしょうね」


吾輩は、彼女を見た。


「では、代表するとは、何でしょうか」


尋ねてから、吾輩は自分が本当に答えを知りたがっていることに気づいた。


レイコさんは、すぐには答えなかった。


「代わりに話すことはできても、代わりに生きることはできませんから」


彼女は、静かにいった。


「代表者が、みんなの話を伝えることはできる。でも、代表者が話したことだけで、みんなの気持ちが決まるわけではないと思います」


吾輩は、記録帳を開きかけた。


だが、やめた。


今の言葉を記録することはできる。


しかし、記録すれば、それはレイコさんの考えとして残る。


彼女の考えは、彼女自身のものだ。


吾輩が、都合よく議会の結論に使ってよいものではない。


「どうしました?」


レイコさんが尋ねた。


「いえ。今の言葉を、記録したくなったのです」


「記録してはいけないんですか?」


「いけないわけではありません。ただ、あなたが話したことを、吾輩がどう受け取ったかまで考えなければならないと思いました」


レイコさんは、少しだけ笑った。


「七号さんは、よく考えるんですね」


吾輩は、返事をしようとした。


ところが、その言葉が、妙にうれしかった。


よく考える。


それは、褒め言葉なのだろうか。


それとも、考えすぎだという意味だろうか。


吾輩は、彼女の表情を観察した。


しかし、表情だけから相手の意図を確定することはできない。


監査院で教わったばかりである。


「……考えすぎることも、あるようです」


吾輩は答えた。


「そうかもしれませんね」


レイコさんは、笑った。


「では、考えすぎて、お昼を食べるのを忘れないようにしてください」


そういって、彼女は事務局の職員に呼ばれた。


吾輩は、その背中を見送った。


お昼。


そういえば、吾輩はまだ食事をしていなかった。


議会の問題を考え、代表することの意味を考え、記録の正確性を考えているうちに、空腹という、まことに個人的な問題を忘れていたのである。


人民全体の利益を考える者も、一匹の腹までは代表できないらしい。


吾輩は、食堂へ向かった。


     *


食堂では、昼食の時間が終わりかけていた。


吾輩は残っていた料理を受け取り、窓際の席に座った。


食事をしながら、先ほどのレイコさんの言葉を思い返した。


代わりに話すことはできても、代わりに生きることはできない。


なるほど。


議会の代表者は、人民の声を伝えることができる。


だが、その声を聞いたからといって、人民の暮らしを自分のものとして知ることはできない。


吾輩も、同じである。


誰かの話を聞いて、記録する。


記録したものを読み返して、相手のことを理解したつもりになる。


しかし、吾輩は、その相手の一日を生きているわけではない。


夜勤の人民が、どんな気持ちで朝を迎えるのか。


腸内壁地区の人民が、どんな道を通って帰るのか。


議会で発言できなかった人民が、どんな言葉を飲み込んだのか。


吾輩には、分からないことが多い。


分からないことが多いからこそ、聞かなければならない。


しかし、聞けばすべて分かるというわけでもない。


吾輩は、箸を止めた。


考えれば考えるほど、簡単な結論が遠ざかっていく。


そのとき、隣の席の細菌が、吾輩を見ていった。


「七号さん、食べないんですか」


「食べています」


「いや、箸が止まっていますけど」


「考え事をしていたのです」


「食堂で考え事をすると、料理が冷めますよ」


その細菌は、そういって自分の食事に戻った。


まったく、そのとおりであった。


吾輩は、冷めた料理を口に運んだ。


政治とは何か。


代表とは何か。


記録とは何か。


それらの問題は、料理が冷めても待っていてくれる。


しかし、料理のほうは、吾輩が哲学を終えるまで待ってはくれない。


     *


午後の会議では、腸内壁地区の改善案について、いくつかの提案が出された。


交通経路の見直し。


夜間照明の設置。


行政窓口の利用時間の延長。


どれも、実現すれば役に立つだろう。


ただし、予算が必要である。


実施には調整が必要である。


他地区との均衡も考慮しなければならない。


議論は次第に細かくなり、最後には、事務局が作成した案を基礎として、次回までに検討を続けることになった。


議長がまとめた。


「本日の議論を踏まえ、腸内壁地区の生活環境改善については、各地区の意見を尊重しつつ、共和国全体の利益にかなう形で、引き続き検討することとします」


会議場のあちこちから、うなずく様子が見られた。


吾輩は、記録帳に書いた。


「各代表者は、改善の必要性を共有し、今後の検討を継続することに合意した」


書き終えてから、吾輩は筆を止めた。


本当に、必要性を共有していたのだろうか。


予算を優先したい者もいた。


他地区との均衡を気にする者もいた。


早急な改善を求める者もいた。


同じ提案に賛成していても、その理由は違うかもしれない。


合意したのは、改善案そのものではなく、検討を続けることだった。


吾輩は、先ほどの文章を二重線で消した。


そして、書き直した。


「各代表者は、生活環境改善の必要性を認めた。具体的な施策、予算配分及び実施時期については、引き続き検討することとなった」


これなら、少しは正確だろう。


少なくとも、全員が同じ考えだったとは書いていない。


吾輩は、記録帳を閉じた。


完璧な記録ではない。


だが、完璧な記録であると主張するよりは、いくらかましだと思った。


     *


会議が終わると、議会事務局の職員が吾輩のところへ来た。


「七号さん、本日の記録を確認させてください」


吾輩は、記録帳を渡した。


職員は、しばらく目を通したあと、ある箇所で手を止めた。


「ここですが、少し表現が慎重すぎませんか」


「どの箇所でしょう」


「『具体的な施策、予算配分及び実施時期については、引き続き検討することとなった』という部分です。もう少し簡潔に、『改善について合意した』としてもよいのでは」


「しかし、合意したのは、検討を続けることです」


「ええ。ですが、報告書としては、そのほうが読みやすいのです」


読みやすい。


吾輩は、その言葉を聞いて、第五話のことを思い出した。


発言を簡潔にまとめる。


読みやすく整える。


重要な部分を抜き出す。


それらは、記録を作るために必要な作業である。


しかし、読みやすくすることで、意味が変わってしまう場合もある。


「申し訳ありませんが、吾輩は、このまま記録したいと思います」


職員は、少し困った顔をした。


「それでは、報告書の結論が弱く見えませんか」


「結論が弱いのではなく、まだ決まっていないのだと思います」


言ってから、吾輩は自分の口調が、少しばかり立派すぎたことに気づいた。


何しろ、吾輩は、まだ一匹の記録係である。


議会を動かす権限などない。


その吾輩が、まるで真実の番人であるかのように振る舞えば、それもまた別の問題を生むだろう。


「ただし、吾輩の記録が正しいかどうかは、確認していただいて構いません。必要であれば、発言者にも確認しましょう」


吾輩は、言葉を付け加えた。


職員は、しばらく考えていた。


やがて、小さくうなずいた。


「分かりました。発言者への確認を含めて、再検討します」


それで、話は終わった。


吾輩は、胸をなで下ろした。


正しいことを言ったからといって、すぐに問題が解決するわけではない。


正しいことを言ったつもりでも、自分が間違っている可能性は残る。


吾輩は、監査院で教わったことを、少しだけ実践できたような気がした。


ただし、気がしただけである。


     *


庁舎を出ると、夕方になっていた。


吾輩は、帰り道を歩きながら、今日の出来事を整理した。


議会では、全員を代表することの難しさを考えた。


記録では、合意と未決定を区別した。


事務局の職員には、自分の判断を押しつけないように気をつけた。


どれも、職務に関することである。


そして、レイコさんに会った。


これは、職務に関することだろうか。


彼女は、議会に資料を届けに来ていた。


吾輩は、会議の休憩時間に話をした。


彼女の意見は、吾輩の考えを深めるのに役立った。


したがって、本日の面会は、業務上、有意義であった。


吾輩は、そこまで考えた。


そこで、足が止まった。


何をしているのだ、吾輩は。


一匹の細菌と話をしたことを、なぜここまで詳しく検討しなければならないのか。


しかも、相手はラブレ菌のレイコさんである。


吾輩は、まだ彼女について何も知らない。


好きな食べ物も。


嫌いなものも。


どんなときに怒るのかも。


どんなときに笑うのかも。


知らないことばかりである。


知らないのだから、知りたいと思うのは自然なことだ。


吾輩は、そう結論づけた。


そして、結論づけた直後に、もう一つの疑問が浮かんだ。


なぜ、知りたいのだろう。


この疑問については、いったん保留することにした。


吾輩は、まだ仕事が残っている。


明日も、記録を作らなければならない。


人民の声を聴き、できる限り正確に書き留める。


自分の推測を、相手の意図と混同しない。


沈黙を、賛成と決めつけない。


それらは、重要な仕事である。


それなのに、吾輩の頭には、レイコさんの笑顔が浮かんでいた。


吾輩は、歩く速度を少し速めた。


早く帰れば、この問題について考える時間が増える。


そう考えたのだが、よく考えると、それは何の解決にもなっていなかった。


     *


その夜、吾輩は記録帳を開いた。


本日の議会記録は、すでに整理してある。


残るのは、監査院から指摘された登録情報の確認であった。


吾輩は、書類を机の上に並べた。


分類欄には、「腸内細菌」と記されている。


過去の検査記録との照合については、まだ回答がなかった。


吾輩は、番号を一つずつ確認した。


似ている番号。


一致しない番号。


古い記録。


転記された記録。


どこかで間違いが生じたのかもしれない。


あるいは、吾輩が見落としているだけなのかもしれない。


今のところ、結論は出せなかった。


吾輩は書類をそろえ、封筒に戻した。


自分のことについても、分からないことがある。


その事実は、思っていたほど愉快ではなかった。


だが、分からないからといって、すぐに答えを作るわけにはいかない。


吾輩は、封筒の表に「確認中」と書いた。


その文字を見て、ふと、レイコさんのことを思い出した。


彼女は、自分の話をうまく言葉にできなかったことがあると話していた。


吾輩は、彼女のことを理解したつもりになってはいないだろうか。


彼女の言葉を、吾輩に都合のよい教訓にしてしまってはいないだろうか。


彼女は、ただ自分の経験を話しただけかもしれない。


吾輩に何かを教えようとしたわけではないかもしれない。


その可能性を考えると、彼女の言葉は、以前よりも大切に思えた。


彼女の言葉を、吾輩の物語のためだけに使ってはいけない。


彼女には、彼女の人生がある。


吾輩が知らないところで、彼女は働き、食事をし、悩み、笑っているのだろう。


吾輩が知っているのは、そのほんの一部分である。


それで十分だとは思わない。


しかし、それだけで、彼女のすべてを知ったように振る舞うこともできない。


吾輩は、記録帳を閉じた。


     *


翌朝、吾輩は出勤前に、食堂の前を通った。


掲示板には、各地区の食堂利用時間が貼り出されている。


吾輩は、そこにレイコさんがいるのではないかと、ほんの少しだけ期待した。


もちろん、彼女が毎朝ここを通るという根拠はない。


彼女の勤務時間も知らない。


食堂を利用するかどうかも知らない。


つまり、期待するための資料が不足している。


吾輩は、掲示板を見た。


何も変わったことはなかった。


食堂の扉を開けると、職員が朝食の準備をしていた。


レイコさんはいなかった。


吾輩は、なぜか少し残念に思った。


残念に思ったことについては、記録しないことにした。


そのとき、食堂の職員が声をかけてきた。


「七号さん、今日は早いですね」


「ええ。少し、用事がありまして」


「何かお探しですか」


吾輩は、答えに困った。


探していたのは、食堂の利用時間でも、議会の資料でもない。


かといって、レイコさんを探していたと答えるのも、何だか不自然である。


「いえ、特に何も」


吾輩は答えた。


職員は、首をかしげた。


「そうですか」


吾輩は、朝食を受け取った。


食事をしながら、昨日の議会のことを考えた。


全員を代表するとは、どういうことか。


人民の声を聴くとは、どういうことか。


そして、一匹の細菌が、別の一匹のことを知りたいと思うのは、どういうことか。


最後の問いは、議会の議題には含まれていなかった。


議事録にも載っていない。


しかし、吾輩の中では、まだ審議が続いていた。


議長は吾輩である。


反対者も吾輩である。


そして、結論を先延ばしにしているのも、吾輩である。


まことに、民主的な会議だった。


ただし、参加者が一匹しかいない。


吾輩は朝食を食べ終え、席を立った。


今日も、仕事が始まる。


人民の総意は、まだ決まっていない。


吾輩の気持ちも、まだ決まっていない。


しかし、決まっていないことを、決まったことにしない。


少なくとも、仕事の上では、そう努めようと思う。


吾輩は、腸内細菌7号である。


便宜上だ、名前はまだ無い。


そして、どうやら吾輩には、まだ名前のない感情もあるらしい。

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