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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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新章 第六話 聴く者を、誰が監査するのか

第六話 聴く者を、誰が監査するのか


吾輩は、腸内細菌7号である。


便宜上だ、名前はまだ無い。


もっとも、名前がないことについて、最近は以前ほど不自由を感じなくなった。番号で呼ばれることにも慣れたし、番号で呼ばれるたびに返事をする自分にも慣れた。


人間というものは、慣れることにかけては、なかなかの才能を持っているらしい。


いや、吾輩は人間ではなかった。


腸内細菌である。


少なくとも、今のところは。


その朝、吾輩の机に一通の封書が置かれていた。


差出人は、人民監査院。


封筒の表には、几帳面な文字で、こう記されていた。


「記録の正確性及び中立性に関する聴取のお知らせ」


正確性。


中立性。


どちらも、吾輩がこのところ大切にしようと努めている言葉である。


しかし、わざわざ監査院から呼び出されるとなると、大切にしているものほど、急に心もとなくなる。


吾輩は封筒を裏返した。


裏返したところで、呼び出しが取り消されるわけではなかった。


念のため、もう一度表に返した。


やはり、人民監査院である。


「記録した者も、記録されることがあるのか」


吾輩は独り言をいった。


机の上の記録帳は、何も答えなかった。


記録帳は、質問には答えない。ただし、質問したという事実なら、書き残すことができる。


それが記録帳の長所であり、場合によっては、たいへんな短所でもあった。


     *


人民監査院は、中央行政区の北側にあった。


入口には、「人民のための監査」と書かれた看板が掲げられている。


看板の下には、小さな注意書きがあった。


「監査対象者は、受付で番号をお申し出ください」


人民のために働く機関に入るには、まず番号を申し出なければならない。


吾輩は7号と答えた。


受付係は帳簿をめくり、吾輩の番号を確認した。


「本日は、記録者としての7号さんですね」


「ほかにも、吾輩があるのですか」


「いえ。記録者としてのあなたを、記録上そう分類しているという意味です」


受付係は、少しも悪びれなかった。


吾輩は、それ以上尋ねなかった。


質問を重ねれば、正しい答えが得られるとは限らない。ときには、質問が増えるだけで、答えのほうは一歩も動かないのである。


案内された部屋には、監査官が二名いた。


一人は年配の細菌で、もう一人は若い細菌だった。机の上には、吾輩が第五話に相当する会議で作成した記録が置かれていた。


夜勤人民の食堂利用時間についての会議である。


吾輩は、その記録を思い出した。


夜勤の若い人民が話したこと。


吾輩が、その話を短くまとめたこと。


そして、まとめた言葉が本人の伝えたかったこととは違っていたと、後から気づいたこと。


「7号さん」


年配の監査官がいった。


「あなたは、会議の発言を要約する際、発言者の意図をどこまで確認しましたか」


「可能な限り、確認したつもりです」


「可能な限り、とは?」


吾輩は口を閉じた。


監査官は、責めるような顔をしていなかった。ただ、吾輩の言葉の中に、どこまで確かなものがあるのかを調べているようだった。


「本人の発言を聞き、要約を示し、訂正があれば記録に反映しました」


「訂正がなかった場合は、意図が正しく伝わったと判断しましたか」


「……以前は、そう考えていたかもしれません」


「現在は?」


「訂正がなかったことと、正しく伝わったことは、同じではないと考えています」


若い監査官が、帳簿に何かを書き込んだ。


その筆先が、吾輩には妙に気になった。


吾輩の答えが、また別の言葉に要約されていく。


その言葉は、吾輩の知らないところで、吾輩の考えとして保管されるのだろうか。


そう思うと、落ち着かなかった。


「もう一つ、伺います」


年配の監査官が続けた。


「あなたは、発言者がうまく言葉にできなかった場合、その意味を補って記録したことがありますか」


「あります」


吾輩は正直に答えた。


「発言が途中で途切れた場合や、表現が曖昧な場合には、前後の文脈から意味を推測することがありました」


「その推測は、誰のものでしょう」


「発言者の意図を理解するためのものです」


「それは目的ですね。では、推測そのものは、誰のものでしょう」


吾輩は黙った。


監査官は、急いで答えを求めなかった。


しばらくして、吾輩は答えた。


「吾輩のものです」


「そうです」


監査官はうなずいた。


「あなたの推測が正しい場合もあるでしょう。しかし、推測を発言者の意図として記録してしまえば、あなたの考えと、相手の考えとの区別がつかなくなります」


その言葉は、吾輩が第五話で気づいたことと、よく似ていた。


似ているからこそ、耳が痛かった。


自分で発見したと思っていたことを、他人から改めて指摘されると、発見した喜びまで少し割り引かれるような気がする。


吾輩は、そういう自分の狭量さも記録しておきたいと思った。


しかし、記録帳はここにはなかった。


「では、吾輩は、どう記録すればよいのでしょう」


「分からないことを、分からないまま記録することです」


年配の監査官は答えた。


「確認できていないことは、確認できていないと記す。推測したことは、推測だと明記する。相手が答えなかった場合、回答を拒んだのか、答えられなかったのか、それとも答える必要を感じなかったのか。こちらで勝手に一つに決めないことです」


「しかし、それでは記録が不完全になりませんか」


「不完全な事実を、完全な記録に見せかけるよりはよいでしょう」


吾輩は、返す言葉を失った。


記録を作る者は、空白を嫌う。


空白があれば埋めたくなる。曖昧な言葉があれば整えたくなる。ばらばらの意見があれば、共通点を見つけて、一つの結論にまとめたくなる。


そうすれば、記録は読みやすくなる。


上司にも説明しやすくなる。


会議も、予定どおり終わる。


そして、もしかすると、そこから誰かの声が消える。


吾輩は、自分が正確な記録を作ろうとしていたのか、それとも、正確に見える記録を作ろうとしていたのか、分からなくなった。


その二つは、ずいぶん似ている。


似ているものほど、間違えやすい。


     *


監査は、思いのほか長引いた。


最後に、若い監査官が別の書類を取り出した。


「7号さん。もう一点、登録情報について確認があります」


吾輩は顔を上げた。


「登録情報?」


「あなたの分類と、過去の検査記録との照合についてです。一部、番号の対応が一致していません」


「番号の入力間違いでしょうか」


「その可能性もあります。転記の際の誤りか、過去の記録の整理上の問題か、あるいは別の原因か。現時点では判断できません」


「では、吾輩の登録そのものに問題があるということでしょうか」


「そこまでは申し上げられません。確認が終わるまでは、分類の根拠を確定事項として扱わないことになりました」


吾輩は、机の上の書類を見つめた。


分類欄には、いつもどおりの文字があった。


「腸内細菌」


吾輩が自分を何者だと思っているか。


その問いに、これまで疑問を持ったことはなかった。


番号を与えられ、登録され、職務を与えられた。


腸内細菌として働いているのだから、腸内細菌である。


その程度のことは、疑う必要もないと思っていた。


しかし、監査官の言葉は、分類欄の文字を消しはしなかったが、その下に薄い紙を一枚挟んだような気がした。


「いつまでに、確認できるのでしょう」


「分かり次第、ご連絡します」


分かり次第。


役所では、便利な言葉である。


明日とも、来月とも、百年後ともいっていない。


吾輩は、その曖昧さに文句をいおうとした。


けれども、さきほど自分が受けた助言を思い出した。


分からないことは、分からないままにしておく。


なるほど、他人に向かっていうのは簡単だ。


自分の身に降りかかると、途端に難しくなる。


吾輩は書類を返し、監査院を後にした。


廊下の窓から、中央行政区の通りが見えた。


人民が歩いていた。


それぞれが何かを考え、何かを心配し、何かを楽しみにしているのだろう。


吾輩には、その一人ひとりの考えは分からなかった。


分からないからといって、何も考えていないことにはならない。


当たり前のことである。


当たり前のことほど、役所の書類には書きにくい。


     *


監査院を出たところで、吾輩は道に迷った。


入口で受け取った案内図には、出口までの道がきちんと記されていたはずである。


ところが、案内図を回してみると、北が南になり、東が西になった。


地図が間違っているのか、吾輩が間違っているのか。


こういう場合、役所は地図を正しいものとして扱い、利用者に現在地の再確認を求める傾向がある。


吾輩も現在地を再確認しようとしたが、現在地というものは、確認しようとすればするほど、現在地らしくなくなっていった。


「そちらは出口ではありませんよ」


背後から声がした。


振り返ると、一匹の細菌が立っていた。


吾輩と同じくらいの背丈で、落ち着いた顔をしていた。手には、書類の入った袋を持っている。


「では、どちらが出口でしょう」


吾輩が尋ねると、その細菌は、吾輩の案内図をのぞき込んだ。


「地図の上では、そこですね」


「地図の上では?」


「ええ。現実のほうが、地図に従ってくれるとは限りませんから」


吾輩は、思わず笑った。


本日初めての、自然な笑いだった。


「あなたは、監査院の方ですか」


「いいえ。私は、ラブレ菌です。レイコといいます」


レイコさんは、軽く頭を下げた。


「今日は、地域の意見聴取に関する書類を届けに来たんです。帰るところでした」


「意見聴取?」


「ええ。住民の声を集めて、今後の施策に反映するそうです」


「それは、よいことですね」


吾輩は、すぐにそう答えた。


答えてから、少しだけ後悔した。


よいことだと決めるのは、まだ早いのではないか。


レイコさんは、吾輩の顔を見た。


「そうですね。よいことだといいんですけど」


その言い方には、反対というほどの強さはなかった。


しかし、賛成とも違っていた。


吾輩は気になった。


「何か、問題があるのでしょうか」


「問題というより、気になることがあるんです」


「どんなことでしょう」


レイコさんは、書類袋を持ち直した。


「集めた声を、誰がまとめるのかということです」


吾輩は、黙った。


「住民が十匹いれば、十通りの話があるでしょう。でも、報告書に書けるのは、その全部とは限らない。似ている意見をまとめたり、少数の意見を別にしたり、重要そうなものを先に書いたりする」


「確かに、そうしなければ、報告書が膨大になります」


「ええ。ですから、まとめること自体が悪いとは思っていません」


レイコさんは、そこで一度言葉を切った。


「ただ、まとめた人の考えが、いつの間にか、みんなの考えになってしまうことがあるでしょう?」


吾輩は、第五話の記録を思い出した。


夜勤の若い人民の声を、自分がまとめたときのこと。


吾輩は、あの人民の意見を理解したつもりだった。


そして、理解したつもりになったことを、後から本人に教えられた。


「……ありますね」


吾輩は答えた。


「私も、そういうことをしてしまうかもしれません」


「私もですよ」


レイコさんは、あっさりいった。


「自分の話だって、いつも正確にできるわけではありません。あとから、あれも言えばよかったとか、本当は別のことが気になっていたとか、いくらでも出てきますから」


吾輩は、少し驚いた。


監査院で聞いた話と、よく似ていた。


しかし、レイコさんの言葉には、監査官の説明にはなかったものがあった。


自分も間違えるという、気負いのない認め方である。


正しい人が間違いを指摘するのではない。


間違える者同士が、どうすれば少しでも間違いを減らせるかを考えている。


吾輩には、そのほうが、ずっと難しく、ずっと現実的に思えた。


「あなたは、ずいぶん考えていらっしゃるのですね」


吾輩がいうと、レイコさんは首をかしげた。


「考えているというより、前に困ったことがあるんです」


「どんなことで?」


「それは……」


彼女は少し考えた。


「うまく話せないことを、うまく話せたことにされたんです」


吾輩は息を止めた。


その言葉は、吾輩が以前、会議の記録で目にした言葉とよく似ていた。


「誰かに、そうされたのですか」


「ええ。でも、その人は、私を困らせようとしたわけではなかったんだと思います」


「善意だったのですね」


「たぶん」


レイコさんは、そこで笑った。


「善意だったかどうかは、本人に聞いてみないと分かりませんけどね」


吾輩は、またしても返す言葉を失った。


善意。


便利な言葉である。


善意だったといえば、間違いが少し軽くなる。


悪意はなかったといえば、傷ついた側も、それ以上は責めにくくなる。


しかし、善意でまとめられた言葉が、本人にとって苦しいものである場合、善意はどこまで役に立つのだろう。


吾輩は、自分の善意を弁護したくなった。


だが、弁護を始めれば、また相手の話を聞かなくなる気がした。


「……その人は、あなたに謝りましたか」


吾輩は尋ねた。


レイコさんは、少しだけ目を細めた。


「謝ってくれました」


「それで、よかったのですか」


「謝ってくれたことは、うれしかったですよ」


彼女は、ゆっくり答えた。


「でも、謝ってもらったからといって、私が困ったことまで、なかったことになるわけではないでしょう?」


吾輩は、うなずいた。


それは、簡単なことのようでいて、簡単ではなかった。


謝罪を受け入れれば、問題が終わったことにしたくなる。


仲直りをすれば、傷ついたことも忘れたことにしたくなる。


そうすれば、記録はきれいになる。


しかし、心の中の出来事は、記録の都合に合わせて消えてくれるとは限らない。


「あなたは、何をなさっている方なんですか?」


レイコさんが尋ねた。


「吾輩は、会議の記録を作る仕事をしています」


「それは、大変そうですね」


「そうでもありません。聞いたことを書くだけですから」


言ってから、吾輩は自分の言葉に引っかかった。


聞いたことを書くだけ。


先ほどまで、その「だけ」がどれほど大きな問題を含んでいるか、考えていたではないか。


レイコさんは、何も指摘しなかった。


ただ、少し笑っていった。


「そうですか。では、私の話も、いつか記録されるかもしれませんね」


「もし、その機会があれば、正確に記録するよう努めます」


「正確に、ですか」


「はい」


「それなら、私が何を言いたかったのか分からないときは、分からないと書いてくださいね」


「もちろんです」


吾輩は、即座に答えた。


レイコさんは、吾輩を見た。


「今のは、分かったんですか?」


吾輩は口を開きかけて、閉じた。


彼女は笑った。


声を立てて笑うのではなく、こちらが自分の失敗に気づくのを待っていたような笑い方だった。


吾輩も、つられて笑った。


なるほど。


分からないことを分からないと書くのは、難しい。


分からないと認める前に、分かったと答えてしまうからである。


吾輩は、今度こそ、案内図をたたんだ。


「レイコさん、出口までご一緒してもよろしいでしょうか」


「もちろんです。私も、そちらへ行きますから」


二匹は並んで歩き始めた。


途中、吾輩は、彼女に尋ねたいことがいくつもあるのに気づいた。


意見聴取のこと。


以前困ったという出来事のこと。


彼女が、どんな人民の声を聞いてきたのかということ。


だが、すべてを尋ねる必要はなかった。


話したいことがあれば、彼女は話すだろう。


話したくないことがあれば、今は話さないだろう。


その違いを、吾輩が勝手に決める必要はない。


出口の近くで、レイコさんは足を止めた。


「では、私はここで」


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。地図を見せていただいて、助かりました」


「地図が役に立ったのでしょうか」


「いいえ。地図が役に立たないことがあると、確認できましたから」


彼女はそういって、笑った。


吾輩は、もう一度笑った。


別れ際に、吾輩は彼女の名前を確かめるように呼んだ。


「レイコさん」


「はい?」


「また、お会いすることがあれば」


「そのときは、またお話ししましょう」


彼女はそう答え、通りの向こうへ歩いていった。


吾輩は、その後ろ姿をしばらく見送った。


何か大切なことを教わったような気がした。


しかし、何を教わったのかを、すぐに言葉にすることはできなかった。


そのことが、今日は少しだけ、うれしかった。


     *


帰庁すると、吾輩の机には、監査院から返却された記録帳が置かれていた。


表紙には、吾輩の番号が記されている。


7号。


その文字は、朝と何も変わっていない。


吾輩は記録帳を開き、今日の監査について書き始めた。


「人民監査院において、記録の正確性及び中立性について聴取を受けた」


そこまで書いて、筆を止めた。


吾輩は、今日、何を学んだのだろう。


記録の正確性について。


自分の推測を、相手の意図として扱わないこと。


中立性について。


自分の価値観が、記録に入り込んでいないかを疑うこと。


そして、監査について。


記録する者も、監査されなければならないこと。


どれも、もっともである。


もっともなことを並べると、報告書は立派になる。


しかし、立派な報告書を書いたからといって、吾輩が今日、誰かの話を正しく聞けるようになったとは限らない。


吾輩は、最後に一文を書き加えた。


「なお、聴取者自身の理解についても、確認を要する」


少し堅苦しい気がした。


けれども、役所の記録としては、悪くない。


吾輩は筆を置いた。


そのとき、ふと、レイコさんの言葉を思い出した。


――私の話は、分からないときは、分からないと書いてくださいね。


吾輩は、今日出会ったばかりの彼女のことを、まだほとんど知らない。


彼女が何を大切にしているのかも、何に傷つくのかも、どんな未来を望んでいるのかも、知らない。


それなのに、彼女のことを「よく考える細菌」だとか、「率直な細菌」だとか、分類したくなる自分がいた。


人は、分からない相手に出会うと、まず分類したくなるものらしい。


分類すれば、少し安心する。


安心すれば、理解したような気になる。


理解したような気になれば、もう質問をしなくて済む。


吾輩は、記録帳に手を伸ばした。


そして、彼女について何かを書き残そうとした。


名前は、レイコ。


ラブレ菌。


その先に、何を書けばよいのか分からなかった。


吾輩は、結局、何も書かなかった。


それでよいのかどうかは、まだ分からない。


     *


夜、吾輩は、登録情報に関する書類をもう一度取り出した。


分類欄には、相変わらず「腸内細菌」と記されている。


過去の検査記録との照合については、余白に小さな付箋が貼られていた。


「確認中」


たった四文字である。


四文字で、吾輩のことが何も分からなくなるわけではない。


しかし、四文字で、吾輩のことがすべて分かっているわけでもない。


吾輩は、書類を元の場所に戻した。


その晩、夢を見た。


巨大な会議室に、無数の人民が座っていた。


吾輩は議長席に立ち、マイクを握っていた。


「人民の皆さん。本日は、皆さんの総意を発表いたします」


吾輩がそう告げると、会議室の全員がうなずいた。


吾輩は胸を張った。


ところが、最前列に座っていた一匹が、手を挙げた。


「すみません。まだ、何も話していません」


その隣の人民も、手を挙げた。


「私もです」


さらに、その隣も。


「こちらもです」


気がつくと、会議室の全員が手を挙げていた。


吾輩は慌てて議事録を開いた。


そこには、すでにこう書かれていた。


「人民の総意は、おおむね良好」


吾輩は、消しゴムを探した。


だが、どこにも見つからなかった。


目が覚めたとき、吾輩は自分の手を見ていた。


何かを握っているような気がしたのである。


手の中には、何もなかった。


ただ、指先に、見えないものの感触だけが残っていた。


吾輩は思った。


聴く者を、誰が監査するのか。


その問いに答える者は、まだいない。


監査院も、議会も、統計局も、吾輩自身も。


だが、答えがないからといって、問いを記録から消すわけにはいかない。


吾輩は記録帳を開いた。


そして、最後の一行に、こう記した。


「――まだ、確認できていない。」


それが、今日の吾輩に書ける、最も正確な記録だった。

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