新章 第六話 聴く者を、誰が監査するのか
第六話 聴く者を、誰が監査するのか
吾輩は、腸内細菌7号である。
便宜上だ、名前はまだ無い。
もっとも、名前がないことについて、最近は以前ほど不自由を感じなくなった。番号で呼ばれることにも慣れたし、番号で呼ばれるたびに返事をする自分にも慣れた。
人間というものは、慣れることにかけては、なかなかの才能を持っているらしい。
いや、吾輩は人間ではなかった。
腸内細菌である。
少なくとも、今のところは。
その朝、吾輩の机に一通の封書が置かれていた。
差出人は、人民監査院。
封筒の表には、几帳面な文字で、こう記されていた。
「記録の正確性及び中立性に関する聴取のお知らせ」
正確性。
中立性。
どちらも、吾輩がこのところ大切にしようと努めている言葉である。
しかし、わざわざ監査院から呼び出されるとなると、大切にしているものほど、急に心もとなくなる。
吾輩は封筒を裏返した。
裏返したところで、呼び出しが取り消されるわけではなかった。
念のため、もう一度表に返した。
やはり、人民監査院である。
「記録した者も、記録されることがあるのか」
吾輩は独り言をいった。
机の上の記録帳は、何も答えなかった。
記録帳は、質問には答えない。ただし、質問したという事実なら、書き残すことができる。
それが記録帳の長所であり、場合によっては、たいへんな短所でもあった。
*
人民監査院は、中央行政区の北側にあった。
入口には、「人民のための監査」と書かれた看板が掲げられている。
看板の下には、小さな注意書きがあった。
「監査対象者は、受付で番号をお申し出ください」
人民のために働く機関に入るには、まず番号を申し出なければならない。
吾輩は7号と答えた。
受付係は帳簿をめくり、吾輩の番号を確認した。
「本日は、記録者としての7号さんですね」
「ほかにも、吾輩があるのですか」
「いえ。記録者としてのあなたを、記録上そう分類しているという意味です」
受付係は、少しも悪びれなかった。
吾輩は、それ以上尋ねなかった。
質問を重ねれば、正しい答えが得られるとは限らない。ときには、質問が増えるだけで、答えのほうは一歩も動かないのである。
案内された部屋には、監査官が二名いた。
一人は年配の細菌で、もう一人は若い細菌だった。机の上には、吾輩が第五話に相当する会議で作成した記録が置かれていた。
夜勤人民の食堂利用時間についての会議である。
吾輩は、その記録を思い出した。
夜勤の若い人民が話したこと。
吾輩が、その話を短くまとめたこと。
そして、まとめた言葉が本人の伝えたかったこととは違っていたと、後から気づいたこと。
「7号さん」
年配の監査官がいった。
「あなたは、会議の発言を要約する際、発言者の意図をどこまで確認しましたか」
「可能な限り、確認したつもりです」
「可能な限り、とは?」
吾輩は口を閉じた。
監査官は、責めるような顔をしていなかった。ただ、吾輩の言葉の中に、どこまで確かなものがあるのかを調べているようだった。
「本人の発言を聞き、要約を示し、訂正があれば記録に反映しました」
「訂正がなかった場合は、意図が正しく伝わったと判断しましたか」
「……以前は、そう考えていたかもしれません」
「現在は?」
「訂正がなかったことと、正しく伝わったことは、同じではないと考えています」
若い監査官が、帳簿に何かを書き込んだ。
その筆先が、吾輩には妙に気になった。
吾輩の答えが、また別の言葉に要約されていく。
その言葉は、吾輩の知らないところで、吾輩の考えとして保管されるのだろうか。
そう思うと、落ち着かなかった。
「もう一つ、伺います」
年配の監査官が続けた。
「あなたは、発言者がうまく言葉にできなかった場合、その意味を補って記録したことがありますか」
「あります」
吾輩は正直に答えた。
「発言が途中で途切れた場合や、表現が曖昧な場合には、前後の文脈から意味を推測することがありました」
「その推測は、誰のものでしょう」
「発言者の意図を理解するためのものです」
「それは目的ですね。では、推測そのものは、誰のものでしょう」
吾輩は黙った。
監査官は、急いで答えを求めなかった。
しばらくして、吾輩は答えた。
「吾輩のものです」
「そうです」
監査官はうなずいた。
「あなたの推測が正しい場合もあるでしょう。しかし、推測を発言者の意図として記録してしまえば、あなたの考えと、相手の考えとの区別がつかなくなります」
その言葉は、吾輩が第五話で気づいたことと、よく似ていた。
似ているからこそ、耳が痛かった。
自分で発見したと思っていたことを、他人から改めて指摘されると、発見した喜びまで少し割り引かれるような気がする。
吾輩は、そういう自分の狭量さも記録しておきたいと思った。
しかし、記録帳はここにはなかった。
「では、吾輩は、どう記録すればよいのでしょう」
「分からないことを、分からないまま記録することです」
年配の監査官は答えた。
「確認できていないことは、確認できていないと記す。推測したことは、推測だと明記する。相手が答えなかった場合、回答を拒んだのか、答えられなかったのか、それとも答える必要を感じなかったのか。こちらで勝手に一つに決めないことです」
「しかし、それでは記録が不完全になりませんか」
「不完全な事実を、完全な記録に見せかけるよりはよいでしょう」
吾輩は、返す言葉を失った。
記録を作る者は、空白を嫌う。
空白があれば埋めたくなる。曖昧な言葉があれば整えたくなる。ばらばらの意見があれば、共通点を見つけて、一つの結論にまとめたくなる。
そうすれば、記録は読みやすくなる。
上司にも説明しやすくなる。
会議も、予定どおり終わる。
そして、もしかすると、そこから誰かの声が消える。
吾輩は、自分が正確な記録を作ろうとしていたのか、それとも、正確に見える記録を作ろうとしていたのか、分からなくなった。
その二つは、ずいぶん似ている。
似ているものほど、間違えやすい。
*
監査は、思いのほか長引いた。
最後に、若い監査官が別の書類を取り出した。
「7号さん。もう一点、登録情報について確認があります」
吾輩は顔を上げた。
「登録情報?」
「あなたの分類と、過去の検査記録との照合についてです。一部、番号の対応が一致していません」
「番号の入力間違いでしょうか」
「その可能性もあります。転記の際の誤りか、過去の記録の整理上の問題か、あるいは別の原因か。現時点では判断できません」
「では、吾輩の登録そのものに問題があるということでしょうか」
「そこまでは申し上げられません。確認が終わるまでは、分類の根拠を確定事項として扱わないことになりました」
吾輩は、机の上の書類を見つめた。
分類欄には、いつもどおりの文字があった。
「腸内細菌」
吾輩が自分を何者だと思っているか。
その問いに、これまで疑問を持ったことはなかった。
番号を与えられ、登録され、職務を与えられた。
腸内細菌として働いているのだから、腸内細菌である。
その程度のことは、疑う必要もないと思っていた。
しかし、監査官の言葉は、分類欄の文字を消しはしなかったが、その下に薄い紙を一枚挟んだような気がした。
「いつまでに、確認できるのでしょう」
「分かり次第、ご連絡します」
分かり次第。
役所では、便利な言葉である。
明日とも、来月とも、百年後ともいっていない。
吾輩は、その曖昧さに文句をいおうとした。
けれども、さきほど自分が受けた助言を思い出した。
分からないことは、分からないままにしておく。
なるほど、他人に向かっていうのは簡単だ。
自分の身に降りかかると、途端に難しくなる。
吾輩は書類を返し、監査院を後にした。
廊下の窓から、中央行政区の通りが見えた。
人民が歩いていた。
それぞれが何かを考え、何かを心配し、何かを楽しみにしているのだろう。
吾輩には、その一人ひとりの考えは分からなかった。
分からないからといって、何も考えていないことにはならない。
当たり前のことである。
当たり前のことほど、役所の書類には書きにくい。
*
監査院を出たところで、吾輩は道に迷った。
入口で受け取った案内図には、出口までの道がきちんと記されていたはずである。
ところが、案内図を回してみると、北が南になり、東が西になった。
地図が間違っているのか、吾輩が間違っているのか。
こういう場合、役所は地図を正しいものとして扱い、利用者に現在地の再確認を求める傾向がある。
吾輩も現在地を再確認しようとしたが、現在地というものは、確認しようとすればするほど、現在地らしくなくなっていった。
「そちらは出口ではありませんよ」
背後から声がした。
振り返ると、一匹の細菌が立っていた。
吾輩と同じくらいの背丈で、落ち着いた顔をしていた。手には、書類の入った袋を持っている。
「では、どちらが出口でしょう」
吾輩が尋ねると、その細菌は、吾輩の案内図をのぞき込んだ。
「地図の上では、そこですね」
「地図の上では?」
「ええ。現実のほうが、地図に従ってくれるとは限りませんから」
吾輩は、思わず笑った。
本日初めての、自然な笑いだった。
「あなたは、監査院の方ですか」
「いいえ。私は、ラブレ菌です。レイコといいます」
レイコさんは、軽く頭を下げた。
「今日は、地域の意見聴取に関する書類を届けに来たんです。帰るところでした」
「意見聴取?」
「ええ。住民の声を集めて、今後の施策に反映するそうです」
「それは、よいことですね」
吾輩は、すぐにそう答えた。
答えてから、少しだけ後悔した。
よいことだと決めるのは、まだ早いのではないか。
レイコさんは、吾輩の顔を見た。
「そうですね。よいことだといいんですけど」
その言い方には、反対というほどの強さはなかった。
しかし、賛成とも違っていた。
吾輩は気になった。
「何か、問題があるのでしょうか」
「問題というより、気になることがあるんです」
「どんなことでしょう」
レイコさんは、書類袋を持ち直した。
「集めた声を、誰がまとめるのかということです」
吾輩は、黙った。
「住民が十匹いれば、十通りの話があるでしょう。でも、報告書に書けるのは、その全部とは限らない。似ている意見をまとめたり、少数の意見を別にしたり、重要そうなものを先に書いたりする」
「確かに、そうしなければ、報告書が膨大になります」
「ええ。ですから、まとめること自体が悪いとは思っていません」
レイコさんは、そこで一度言葉を切った。
「ただ、まとめた人の考えが、いつの間にか、みんなの考えになってしまうことがあるでしょう?」
吾輩は、第五話の記録を思い出した。
夜勤の若い人民の声を、自分がまとめたときのこと。
吾輩は、あの人民の意見を理解したつもりだった。
そして、理解したつもりになったことを、後から本人に教えられた。
「……ありますね」
吾輩は答えた。
「私も、そういうことをしてしまうかもしれません」
「私もですよ」
レイコさんは、あっさりいった。
「自分の話だって、いつも正確にできるわけではありません。あとから、あれも言えばよかったとか、本当は別のことが気になっていたとか、いくらでも出てきますから」
吾輩は、少し驚いた。
監査院で聞いた話と、よく似ていた。
しかし、レイコさんの言葉には、監査官の説明にはなかったものがあった。
自分も間違えるという、気負いのない認め方である。
正しい人が間違いを指摘するのではない。
間違える者同士が、どうすれば少しでも間違いを減らせるかを考えている。
吾輩には、そのほうが、ずっと難しく、ずっと現実的に思えた。
「あなたは、ずいぶん考えていらっしゃるのですね」
吾輩がいうと、レイコさんは首をかしげた。
「考えているというより、前に困ったことがあるんです」
「どんなことで?」
「それは……」
彼女は少し考えた。
「うまく話せないことを、うまく話せたことにされたんです」
吾輩は息を止めた。
その言葉は、吾輩が以前、会議の記録で目にした言葉とよく似ていた。
「誰かに、そうされたのですか」
「ええ。でも、その人は、私を困らせようとしたわけではなかったんだと思います」
「善意だったのですね」
「たぶん」
レイコさんは、そこで笑った。
「善意だったかどうかは、本人に聞いてみないと分かりませんけどね」
吾輩は、またしても返す言葉を失った。
善意。
便利な言葉である。
善意だったといえば、間違いが少し軽くなる。
悪意はなかったといえば、傷ついた側も、それ以上は責めにくくなる。
しかし、善意でまとめられた言葉が、本人にとって苦しいものである場合、善意はどこまで役に立つのだろう。
吾輩は、自分の善意を弁護したくなった。
だが、弁護を始めれば、また相手の話を聞かなくなる気がした。
「……その人は、あなたに謝りましたか」
吾輩は尋ねた。
レイコさんは、少しだけ目を細めた。
「謝ってくれました」
「それで、よかったのですか」
「謝ってくれたことは、うれしかったですよ」
彼女は、ゆっくり答えた。
「でも、謝ってもらったからといって、私が困ったことまで、なかったことになるわけではないでしょう?」
吾輩は、うなずいた。
それは、簡単なことのようでいて、簡単ではなかった。
謝罪を受け入れれば、問題が終わったことにしたくなる。
仲直りをすれば、傷ついたことも忘れたことにしたくなる。
そうすれば、記録はきれいになる。
しかし、心の中の出来事は、記録の都合に合わせて消えてくれるとは限らない。
「あなたは、何をなさっている方なんですか?」
レイコさんが尋ねた。
「吾輩は、会議の記録を作る仕事をしています」
「それは、大変そうですね」
「そうでもありません。聞いたことを書くだけですから」
言ってから、吾輩は自分の言葉に引っかかった。
聞いたことを書くだけ。
先ほどまで、その「だけ」がどれほど大きな問題を含んでいるか、考えていたではないか。
レイコさんは、何も指摘しなかった。
ただ、少し笑っていった。
「そうですか。では、私の話も、いつか記録されるかもしれませんね」
「もし、その機会があれば、正確に記録するよう努めます」
「正確に、ですか」
「はい」
「それなら、私が何を言いたかったのか分からないときは、分からないと書いてくださいね」
「もちろんです」
吾輩は、即座に答えた。
レイコさんは、吾輩を見た。
「今のは、分かったんですか?」
吾輩は口を開きかけて、閉じた。
彼女は笑った。
声を立てて笑うのではなく、こちらが自分の失敗に気づくのを待っていたような笑い方だった。
吾輩も、つられて笑った。
なるほど。
分からないことを分からないと書くのは、難しい。
分からないと認める前に、分かったと答えてしまうからである。
吾輩は、今度こそ、案内図をたたんだ。
「レイコさん、出口までご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。私も、そちらへ行きますから」
二匹は並んで歩き始めた。
途中、吾輩は、彼女に尋ねたいことがいくつもあるのに気づいた。
意見聴取のこと。
以前困ったという出来事のこと。
彼女が、どんな人民の声を聞いてきたのかということ。
だが、すべてを尋ねる必要はなかった。
話したいことがあれば、彼女は話すだろう。
話したくないことがあれば、今は話さないだろう。
その違いを、吾輩が勝手に決める必要はない。
出口の近くで、レイコさんは足を止めた。
「では、私はここで」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。地図を見せていただいて、助かりました」
「地図が役に立ったのでしょうか」
「いいえ。地図が役に立たないことがあると、確認できましたから」
彼女はそういって、笑った。
吾輩は、もう一度笑った。
別れ際に、吾輩は彼女の名前を確かめるように呼んだ。
「レイコさん」
「はい?」
「また、お会いすることがあれば」
「そのときは、またお話ししましょう」
彼女はそう答え、通りの向こうへ歩いていった。
吾輩は、その後ろ姿をしばらく見送った。
何か大切なことを教わったような気がした。
しかし、何を教わったのかを、すぐに言葉にすることはできなかった。
そのことが、今日は少しだけ、うれしかった。
*
帰庁すると、吾輩の机には、監査院から返却された記録帳が置かれていた。
表紙には、吾輩の番号が記されている。
7号。
その文字は、朝と何も変わっていない。
吾輩は記録帳を開き、今日の監査について書き始めた。
「人民監査院において、記録の正確性及び中立性について聴取を受けた」
そこまで書いて、筆を止めた。
吾輩は、今日、何を学んだのだろう。
記録の正確性について。
自分の推測を、相手の意図として扱わないこと。
中立性について。
自分の価値観が、記録に入り込んでいないかを疑うこと。
そして、監査について。
記録する者も、監査されなければならないこと。
どれも、もっともである。
もっともなことを並べると、報告書は立派になる。
しかし、立派な報告書を書いたからといって、吾輩が今日、誰かの話を正しく聞けるようになったとは限らない。
吾輩は、最後に一文を書き加えた。
「なお、聴取者自身の理解についても、確認を要する」
少し堅苦しい気がした。
けれども、役所の記録としては、悪くない。
吾輩は筆を置いた。
そのとき、ふと、レイコさんの言葉を思い出した。
――私の話は、分からないときは、分からないと書いてくださいね。
吾輩は、今日出会ったばかりの彼女のことを、まだほとんど知らない。
彼女が何を大切にしているのかも、何に傷つくのかも、どんな未来を望んでいるのかも、知らない。
それなのに、彼女のことを「よく考える細菌」だとか、「率直な細菌」だとか、分類したくなる自分がいた。
人は、分からない相手に出会うと、まず分類したくなるものらしい。
分類すれば、少し安心する。
安心すれば、理解したような気になる。
理解したような気になれば、もう質問をしなくて済む。
吾輩は、記録帳に手を伸ばした。
そして、彼女について何かを書き残そうとした。
名前は、レイコ。
ラブレ菌。
その先に、何を書けばよいのか分からなかった。
吾輩は、結局、何も書かなかった。
それでよいのかどうかは、まだ分からない。
*
夜、吾輩は、登録情報に関する書類をもう一度取り出した。
分類欄には、相変わらず「腸内細菌」と記されている。
過去の検査記録との照合については、余白に小さな付箋が貼られていた。
「確認中」
たった四文字である。
四文字で、吾輩のことが何も分からなくなるわけではない。
しかし、四文字で、吾輩のことがすべて分かっているわけでもない。
吾輩は、書類を元の場所に戻した。
その晩、夢を見た。
巨大な会議室に、無数の人民が座っていた。
吾輩は議長席に立ち、マイクを握っていた。
「人民の皆さん。本日は、皆さんの総意を発表いたします」
吾輩がそう告げると、会議室の全員がうなずいた。
吾輩は胸を張った。
ところが、最前列に座っていた一匹が、手を挙げた。
「すみません。まだ、何も話していません」
その隣の人民も、手を挙げた。
「私もです」
さらに、その隣も。
「こちらもです」
気がつくと、会議室の全員が手を挙げていた。
吾輩は慌てて議事録を開いた。
そこには、すでにこう書かれていた。
「人民の総意は、おおむね良好」
吾輩は、消しゴムを探した。
だが、どこにも見つからなかった。
目が覚めたとき、吾輩は自分の手を見ていた。
何かを握っているような気がしたのである。
手の中には、何もなかった。
ただ、指先に、見えないものの感触だけが残っていた。
吾輩は思った。
聴く者を、誰が監査するのか。
その問いに答える者は、まだいない。
監査院も、議会も、統計局も、吾輩自身も。
だが、答えがないからといって、問いを記録から消すわけにはいかない。
吾輩は記録帳を開いた。
そして、最後の一行に、こう記した。
「――まだ、確認できていない。」
それが、今日の吾輩に書ける、最も正確な記録だった。




